【1】
その日、前日から続いていた大雨はかなり弱まっていて、傘をさすほどではないけれど、多少なりとも身体に降りかかる水滴が少し鬱陶しくて、水捌けの悪いアスファルトの道路は、滑りやすくなっていた。私には、大会が近いという緊張感も高揚感も希薄で、かと言って日曜日に練習があることについての強い不満があるわけでもなく、ただぼんやりとした苛立ちと、バレー部の重い荷物とを抱えてバス停に向かっていた。
バス停に着いて、荷物を地面に置く。ジャージの右ポケットに違和感を覚える。
定期券が無い。
地面に置いた重い荷物を再び持ち上げて、家に引き返そうとしたところで、交差点の向こう側から萌花が近づいてくるのに気づいた。私と目の合った萌花は、右手に私の定期券を持っていたのを見せるように手を振っている。ちょうどそのとき、バスが近づいてきた。萌花が急いでこちらに来て、彼女から定期を受け取ることができれば、このバスに乗れる。私は合図を送るように、萌花の名前を呼んで、手を振り返した。萌花もその意味を察してくれたみたいで、駆け足で信号の無い交差点を渡ろうとした、次の瞬間、左側の死角から、大型のトラックが飛び出してきた。
萌花が轢かれるところは、見えなかった。バス停に並んでいた人たちがざわめき出して、誰かが警察と救急車を呼んでくれていた。気がついたときには私は両親と一緒に病院にいて、私の手には、いつの間にか、萌花が届けようとしてくれた定期券が握りしめられていた。いつ、どのようにしてそれを手に取ったのか、全く覚えてない。部活はどうしたらいいだろう。姉の死を医者に告げられたとき、私はそんなことを考えていた。母は、ベッドの前で泣き崩れていた。
葬儀会場の正面に飾られた遺影に映る萌花は、縁が太くてレンズの分厚い、野暮ったい眼鏡をかけて、不器用に笑っていた。萌花は、口角を上げて笑うのが下手だった。あまり活発に友達付き合いをする人ではなかったから笑う機会も少なかったのだろうか。2つ年上の姉は、私にちっとも似ていなかった。ボサボサになった髪を何ヶ月も切らずに平気でいる萌花と、バレーのために男子みたいに短く切り揃える私。医学部に行くのだと言って、毎日遅くまで塾の授業を受けて、授業が無い日も自習室で勉強している姉と、部活の疲れを言い訳にして授業中寝てばかりいる妹。
私たちは、仲の悪い姉妹ではなかった。試験勉強でわからないことがあったら、萌花に教えてもらっていた。私が練習から帰ってきて、そのままベッドに倒れ込むようにして寝てしまったときは、萌花が布団をかけてくれた。私が忘れ物をしたときは、よく萌花が私の教室まで持ってきてくれた。
「どうして
告別式を終えて帰宅した夜、母がどういうつもりでそう呟いたのかはわからない。ただ、少なくとも私には、母のその言葉は、死んだのが
私はそのとき、萌花の死をさほど悲しんでいない自分に気づいた。
私は病院でも、葬式のときも、その後も、一度も泣かなかった。母親がこんなにわんわん泣いていて、親戚達も泣いていて、集まってくれた、大して親しくもなかったはずの萌花のクラスメイトでさえあんなに悲しんでいたのに、妹の私は、姉の死を驚くほど平然と受け止めていた。
親が昔から、姉の方を可愛がっていたのは確かだ。少なくとも私はそう思っている。学校でも名の知られた秀才である姉が大事にされるのは当然といえば当然だ。もし私と萌花が崖から落ちそうになっていて、どちらか片方しか助けられないというような状況になれば、母は多分萌花を選んだだろう。それが人として、親として間違ってると、誰に非難できるだろう。だから私は姉を妬んでいたのだろうか。嫉妬のせいで、血を分けた姉の死を悲しむことすらできないほどに、私は冷酷な人間だったのだろうか。
何かドロドロとした、冷たいものが絡みつくような感覚に襲われる。どこかで聞いた、「サイコパス」という言葉が頭をよぎる。私の本性を知られることの恐怖が、萌花の死を悲しむ気持ちをますます覆い隠していくようだった。
ちゃんとしないと。
ちゃんとしてないと、誰かに私を見破られてしまうのではないか。そう思うと堪らなく怖かった。だから、萌花が死んでから、私はそれまで以上に人の顔色を伺うようになった。授業も真面目に聞くようになった。
ちゃんと、しないと。
部活は辞めた。学校が終わると図書館に籠るようになった。小説でも読めば少しは人の心がわかるのではないか、そんなことを考えたのがきっかけだった。
最初の頃の同情が収まると、以前よりも人付き合いのぎこちなくなった私は、それまで仲良くしていた友達からも距離を取られるようになってしまったけれど、そんなことは少しも気にならなかった。
私は、私の正体を誰にも知られてはならない。それが私の全てで、他のことはどうでもよくなった。
私は中学を卒業するまで、そんなふうに過ごしていた。髪が伸びてきたけど、バレーをやめたのだからもうそんなに頻繁に切らなくても良いのだし、毎朝コンタクトをつける煩わしさからも解放された。身に付けるものは、見た目よりも実用性で選ぶようになった。
私は、あれ以来一度も泣いていない。
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