【8】

 『或る女』の葉子は、私が予想していたよりもはるかに嫌な女だった。そして、哀れだった。強がっているけど、実際のところ小心で、自己肯定感に乏しくて、だから他人を見下し、強い男に依存することでしか自分を保てない。

 私は『或る女』の考察を書いてみようかと思った。葉子の「個性」がなぜ社会に受け入れられなかったのかを論じて、自分の個性に固執することの危険性を指摘する。有島武郎を素材にしていれば、文芸評論らしくはなるのではないか。

 土日を使って書き上げた原稿を、コンビニでプリントアウトして、月曜日に沙有里さんに提出する。思っていた以上に早く初稿が完成したのに、沙有里さんは驚いていた。これでお役目は果たせたと安心したのだけど、私の原稿を読む沙有里さんの面持ちは、必ずしも満足しているようではなかった。

 「もうちょっと、穏当な内容の方が良かったですか?」

 つまるところ、世間に疎まれるような個性はない方が良いという話をしているわけで、テーマの趣旨と合ってなかったのかも知れない。

 「そうじゃないよ。むしろ逆。夏海ちゃんのこれは…うーん…すごく穏当だと思う。どちらかと言えば悪い意味で」

 そうなんだろうか。自分らしくあることが良いことだという風潮に逆らってみたつもりなんだけど。

 「一般論の逆張りは、別なベクトルの一般論にしかならないよ。穏当っていうのはそういうこと」

 ではどうしろと言うのか。だいたい、私は好きでそんなものを書いていたのではない。反発する気持ちが顔に出てしまったのか、沙有里さんの表情が変わる。

 「…ごめん、私たちは無理にお願いした立場だもんね。書いてくれたものに文句言えた義理じゃないよね」

 松山にはあんなに厳しかった沙有里さんが、私にはあっさり譲るので、私は却って居心地が悪かった。

 「明後日批評会があるけど、いきなりそこに出すんじゃなくて、もう少し推敲してからにしようか。かなめちゃんにも見せておくよ」

 仲澤に見られるのはなんだか怖いけど、断るわけにもいかないだろう。私はその日は自分の書いたものを軽く読み直して幾つかの誤字をチェックして、あとは部室にある本をパラパラとめくって過ごしていた。


 一般論の逆張りは別なベクトルの一般論にしかならない。

 沙有里さんの言うことはもっともだけど、私は一般論以上のものを書けるのだろうか。書きたいと思ってるだろうか。本当に私の思うことをありのままに、赤裸々に書けば良いのだろうか。


 「どうして萌花あの子だったの?」


 不意に、母の言葉が蘇る。いけない。私は、私らしくあってはいけない。それだけは、許されない。


 ちゃんとしないと。


 私は、随分伸びてしまった前髪をかき分けて、湿度のせいで曇ったレンズを拭く。窓の外を見やると、夕方頃から降り始めた雨が、次第に勢いを増している。

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