【12】
沙有里さんと花梨さんは、毎朝、授業が始まる前の時間を部室で過ごしていて、家から近い花梨さんは、だいたいいつも7時頃に部室に現れる。あの批評会の翌朝、花梨さんが部室のドアを開けると、部屋の奥のソファーに蹲っている佐倉さんを見つけた。
驚いて駆け寄ると、ソファーの近くの床や、丸テーブルに赤い絵の具のようなものが飛び散っているのが見える。魂の抜けたような、
花梨さんが狼狽しているところに、沙有里さんもやってきて、沙有里さんに呼ばれた仲澤が、佐倉さんを連れて保健室へと向かう。
私と松山がこの話を聞かされたのは、その日の放課後で、昼休みに仲澤と沙有里さんで部室を掃除したらしいのだけど、どうしても落とせなかった微かな血痕が、却ってその場で何が起こったかを生々しく連想させて、その連想はさらに、ちょうど3年前の、こんなふうに降り続いていた大雨が弱まって、足元の悪かったあの日の記憶に接続されていった。
沙有里さんに事情を聞かされて私は、そのまま国語科講師室に向かった。木曜放課後のこの時間、学校に残ってる国語の講師は仲澤だけだった。
「どうしたの?」
仲澤は、タブレットから目を離して、こちらを向いて聞く。相変わらず、喪服を思わせる黒づくめの装いは、 なんとも奇妙な存在感を醸している。
教科書や仕事に使う書類は全て電子化してタブレットに入れているからか、仲澤の机の上は驚くほど物がない。ペン立てとメモ帳、ウェットティッシュのケース、そして、なぜか妙に古いキッチンタイマーが置かれている。
「文芸部を辞めます」
単刀直入に告げる。もう、終わりにしなければいけないという気がする。仲澤はそれには答えず、私を椅子に座らせて、自分は部屋にあった電気ケトルでお湯を沸かし始めた。
「これ以上私のせいでトラブルが起こるのは嫌です」
「陽奈さんのことなら、あなたは悪くない」
仲澤がティーバッグの紅茶を淹れて、私に勧める。私は、受け取っただけで飲む気にはなれなかった。
「悪いか悪くないかじゃなくて、空気が良くなるか悪くなるかの問題です」
仲澤は苦笑して、自分の分の紅茶に口をつける。
「夏海さんがいなくなれば、陽奈さんは花梨さんあたりを攻撃し始めるだけだよ。あなたがいなくなっても何も良いことはないな」
「佐倉さんのことだけじゃないんです。私、やっぱり文章書くの無理です」
私の中の、私の知らない場所から、不意に言葉が流れ出してきたようだった。仲澤は、カップを置いて、黙ってこちらを見据える。
「文芸部の人たちは、私が思ってたよりもずっと真剣でした。沙有里さんも花梨さんも、松山も。佐倉さんだって、あんなことをするくらいに本気だっていうことですよね。私には、そこまでできません」
「どうして?『或る女』の評論、悪くはなかったと思うけど。沙有里さんが言ってるのは、あなたならもっと書けるってことだよ」
「でも、全部、嘘なんです」
仲澤は黙って、じっと私を見据える。
「私、中2のときに姉を亡くしたんです」
なぜ今この話をする必要があるのか、自分でもよくわからない。
「…知ってるよ。萌花さんが高1のとき、私が国語教えてたから」
それまで堰き止められていた何かを抑えられなくなった。萌花が、自分の忘れ物を届けようとして死んだこと、萌花が死んだのに、少しも悲しくならなかったこと、心の奥底で、萌花を妬んでいたのかも知れないこと、そんなことを仲澤に話して何になるだろうと思ったけど、止まらなかった。
私が一気に話すのを、仲澤は黙って聞いていた。話し終えても、しばらくの間私を黙って見つめていた。
「…気付いてないんだね」
仲澤が呟くように言う。
「何をですか」
仲澤は、「おいで」と言って私の手を引いて、私を講師室の手洗い場に連れてきた。そこの鏡の前に、私を立たせる。
「よく見て」
見て、と言われても、毎日見慣れてる顔があるだけだ。長らく切ってない髪の毛は、ろくに手入れもしてないせいでボサボサになってる。
「…まだわからない?」
仲澤の声は、いつになく切実だった。
「あの、さっきから何なんですか?」
私は流石に苛々して、振り向こうとしたけど、仲澤は私の両肩をがっしりと抑える。
「夏海さん、今のあなた、萌花さんにそっくりなの」
一瞬、何を言ってるのかわからなかった。でも、もう一度鏡を見て、私は言葉を失う。
「夏海さんの中学校の先生に、あなたが当時どんな子だったか聞いてみたよ。中学の先生の覚えてる夏海さんは、今の夏海さんとは全然違った。あまりクラスで友達を作ろうとしないのも、図書館にこもって本を読んだり勉強したりしてるのも、そもそも嶺雲にきたのも、あなた自身がどう思ってたかはわからないけど、私には、あなたがお姉さんを真似ようとしているようにしか思えない」
伸び放題になってる髪、昔の私だったらまず選ばなかったであろう分厚くて縁の太くて、ダサい眼鏡。部活を辞めて、あまり友達とも遊ばなくなって、だから見た目を気にしなくなってこうなった。そう思っていた。でもこれは、確かに昔、私が馬鹿にしていた萌花の特徴そのものではなかったか。
「多分ね、あなたは、悲しんでないんじゃないんだよ。お姉さんを取り戻そうとしてるんだよ。ずっと、萌花さんにしがみついている」
私は、萌花のことを思い出していた。車に跳ね飛ばされる瞬間のことではなく、病院に運ばれたときのことでもなく、葬儀場に飾られていた遺影でもなく、小さい頃、一緒に遊んだときのこと、小学校に一緒に登校していたときのこと、「なっちゃん」と私を呼ぶ声を、思い出していた。
萌花は、死んでなかった。こんなところで、こんなみっともない姿で、いつまでも死ねないままだった。
あの日以来、蓄積されてきた記憶の意味が、一瞬で書き換えられてしまった。
「お姉さんのこと、大事に思ってたんだよね。好きとか、嫌いとか、仲が良いとか悪いとか、そういうのを超えてしまうくらいに」
私は泣いていた。萌花は、もういない。もういないから、ここにいる。私がその事実を理解するために、3年という時間が必要だった。3年分の涙を流し切るのに、どれくらいの時間がかかったかわからないけど、仲澤は黙って、私のそばにいてくれた。
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