かげの唄
垣内玲
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私立嶺雲高等学校 文芸部発行『北麓』第22号
評論『黒服とヴァイオリン』 まえがき
エジソンが学校に行かなかったのは彼の個性の現れです。けれども、エジソンでない人が学校に行かないのを個性と呼ぶ人はあまりいません。それならば、凡人である私たちは、個性的であろうとするよりも社会に順応することを考えて生きていた方が賢明であるように思われます。
この評論の最初の主人公は、大正時代の日本で発表された小説のヒロインです。その人は、新しい時代にふさわしい感性を備えた、新しい女性でした。そして、その新しい個性(文学史風に言えば「近代的自我」)ゆえに旧弊な世間の反感を買い、破滅に追いやられます。
私は当初、彼女の破滅に至るまでの経緯を追うことで、自我なるものへの執着がいかに人を不幸にするかを論じるつもりでした。
でも、よく考えてみると、世の中には現に、自分を貫いて生きる人間がそれなりにいるんです。
この評論の二人目の主人公が、まさにそんな女性です。彼女の物語は、19世紀のイギリスが舞台です。クェーカー教徒のような黒服に身を包み、ことあるごとに不美人であると言われ続けるその人は、最後の最後まで自分の意志を貫いて幸せを掴みます。彼女の個性は、抑圧されながらも最終的には社会に受け入れられていきます。多いか少ないかは別として、そういう物語はある。ならば、そのような生き方を可能にさせる何かについて考えることはできるし、意味のあることのように思います。
この二人の違いはどこにあったのでしょうか。ヴィクトリア朝の大英帝国は、自立した女性に対する理解が進んでいたのでしょうか。だとすれば、なぜ豊かな才能に恵まれた作家が、性別を偽って「カラー・ベル」なる男性の名で作品を世に問わねばならなかったのでしょうか。
一方、大正時代といえば、女性解放運動の華やかなりし時代です。文壇においても、明治以来、樋口一葉や与謝野晶子が女性作家としての確固たる地位を築いています。二人のヒロインの個性が社会に受容された原因を、二つ社会の成熟度合いの差に求めるのは無理があるように思います。むしろ、二人の女性の個性のあり方が大きく違っていたと見るべきではないでしょうか。
「個性」とか「自分らしさ」というようなものの根拠は自分自身の内側にあるものだと私たちは思い込んでしまっています。けれども、私たちの個性は、私たち自身の内側にあるものではなく、外側から与えられるものなのではないか。そういうことを、論じることができればと思っています。
文芸部2年 進藤夏海
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