水族館のチケット

 それは夕食時に部屋の住人ではない綾音がいることが、すっかり日常風景の一部になった五月末のことだった。


「はい、麗奈。これあげるよ」


 夕食の後、エリカと一緒に食器洗い終えて一休みしていたところ、不意に綾音が何かを麗奈に手渡してきた。


 いったい何なのかと思い、渡されたものの正体を確認してみる。渡されたものの正体は、とある水族館のチケットだった。


「綾姉、これは?」


「水族館のチケットだけど?」


「いや、それは見れば分かるよ。そうじゃなくて、私が訊きたいのは、どうして私にこのチケットをくれるのかってこと」


 何の脈絡もなくいきなり渡されても、麗奈としては反応に困る。


「元々は恋人と行こうと思って入手したんだけど……まあ麗奈も知っての通り、少し前に別れちゃってさ。今日まで持ってることも忘れてたんだけど、私はこのチケットを使う気にはなれないから、どうせなら誰かにあげようと思って」


「それで私に?」


「そう。麗奈、水族館は別に嫌いってわけじゃないよね?」


「まあ、嫌いではないけど……」


 かといって特別好きというわけでもない。なので好きか嫌いかと訊かれても、普通と答える程度の興味しかない。


 確か麗奈が最後に水族館に行ったのは、小学生の頃だ。両親と一緒に見た、イルカのショーに感動したことを覚えている。


「チケットは二枚あるから、エリカちゃんと二人で行ってきたら? エリカちゃんも水族館、興味あるよね?」


 綾音は、隣でお茶を飲んでいたエリカに話を振る。


 話かけられたエリカは使っていたマグカップをちゃぶ台に置くと、口を動かす。


「水族館ですか……私、水族館には行ったことがないのですが、どんな場所なんですか?」


「え。早乙女さん、水族館に行ったことないの?」


「はい、一度もありません。魚がたくさんいることは知ってますが、それ以外に具体的なことは何も知らないです」


 水族館に行ったことがない。ありえない話ではないが、かなり稀だろう。普通、誰でも幼い時に一度は行く場所だ。


「へえ、エリカちゃん水族館行ったことないんだ。ならせっかくの機会だし、行ってみたら? 色々な魚が見れて楽しいよ」


「…………」


「時間帯によっては、イルカとかペンギンのショーが見れたりもするよ。このチケットの遊園地は、二つのショーが目玉らしいから、きっと凄いよ?」


「イルカとペンギンのショー……」


 綾音の追加情報に、ピクリとエリカの端正な眉が動く。どうやら興味があるみたいだ。


 エリカは以前猫が好きだと言ってたが、この感じからすると猫だけではなく動物全般が好きなのかもしれない。


「イルカとペンギンのショーは、席によっては間近で見れるから迫力もあって凄いよ? エリカちゃんもきっと楽しめるよ」


 ピクリピクリと綾音が話す度に、エリカの眉が微かに動く。けれど一向に自分から行きたいとは口にしない。


 もしかしたら、タダでチケットをもらうのが悪いと思って遠慮しているのかもしれない。くれると言っているのだからもらえばいいのに、エリカらしくて苦笑してしまう。


「早乙女さん、次の週末って空いてる?」


「次の週末ですか? 特に予定は入ってませんけど……」


「そっか、なら良かった。ねえ早乙女さん、もし良かったらなんだけど、次の週末一緒に水族館に行かない? 私、綾姉の話を聞いてたら久し振りに水族館に行きたくなっちゃった」


 もちろん嘘だ。別に麗奈はそこまで水族館に心惹かれてはいない。行ったら楽しそうではあるが、それだけで行こうという気にはなれない。


 ただ、エリカが行きたそうにしているから、背中を押してあげているだけだ。


「水族館に一人でっていうのは寂しいから、一緒に行ってくれる人がいると嬉しいかな。もちろん、早乙女さんが忙しいっていうのなら諦めるけど」


「私は週末は忙しくはありませんが……相川さんはいいんですか、私と二人で水族館なんて。チケットは二枚しかないのですから、仲のいいご友人と一緒に行った方が私と行くよりも楽しめるんじゃ……」


「そんなことはないと思うよ? 私は早乙女さんと一緒なら、水族館を楽しめると思ってるから誘ってるわけだし」


 これは嘘じゃない。麗奈は一緒に行っても楽しめないような人を誘うほど、寛容ではない。だから、エリカとなら水族館を楽しめると本心で言っているのだ。


「それに今まで早乙女さんと遊んだことってないし、この機会に親睦を深めるのもいいんじゃないかな?」


 これも本心だ。以前一度だけエリカと出かけたことはあるが、あれは下着を購入するため。しかも目的のものを購入した後は、即帰宅した。二人だけで遊びに出かけたことは、一度もない。


 初めて会った頃と比べると二人は打ち解けているが、麗奈はまだ少し距離があるように感じている。麗奈は最近、その距離感が少し気になり始めていた。


 せっかく同棲しているのだから、エリカとはもっと仲良くなりたい。水族館へ二人で遊びに行くのは、エリカとの距離を縮めるための第一歩になるはずだ。


「……そういうことでしたら、相川さんのお誘い、喜んで受けさせていただきます」


「ありがとう、早乙女さん。それにしても早乙女さんと水族館かあ……今から楽しみだね」


「はい。私も水族館は初めて行くので、とても楽しみです」


 楽しみと言いつつも感情が表情に出ることはなかったが、代わりにエリカの声音はいつもより弾んでいた。






 水族館の約束をしてから数日後。週末の土曜日となった本日。約束していた通り、麗奈はエリカと水族館に出かける準備をしていた。


 麗奈は現在、外に出るために洗面所で着替えている。普段は居間で着替えているが、エリカも同じタイミングで着替えるとなると居間は少しばかり手狭だ。なので、麗奈だけ洗面所に移動してきたのだ。


 今日のために麗奈が選んだのは、淡いピンクのワイドパンツと紺色のデニムジャケットが目を引くコーデだ。


 今はまだ五月の中旬ということもあり、外は少し肌寒い。デニムジャケットを着るには、丁度いい気候だ。


 一緒に遊びに行くということで、麗奈は普段より服装に少しだけ気合いを入れていた。エリカと二人で初めて遊びに行くということで、麗奈は少しハシャいでいる。


「……よし」


 洗面所にある鏡で自分の姿を確認し終えた後は、エリカのいる居間に戻る。


「早乙女さん、私は着替え終わったよ。そっちはどう――」


 そこで、麗奈の言葉は途切れた。彼女の視線の先には一人の少女――エリカが立っていた。彼女も着替えを終えていたようで、洗面所に行く前とは違う服に身を包んでいる。


 今のエリカは、青のトップスと白のロングスカート。シンプルかつ清楚さを感じさせる組み合わせだ。


 地味というほどではないが、特別目に付くような服装ではない。けれどそれが逆にエリカの美貌を際立たせる結果となっていた。


 元々日本人離れした整った容姿が、より美しく見える。今のエリカを見れば、きっと誰もが麗奈のように見惚れてしまうだろう。断言できる。


「相川さん? 何だか様子がおかしいようですが、どうかしましたか?」


「う、ううん、何でもないよ……」


 声をかけられ一瞬ビクリとしたが、麗奈は動揺を悟られないよう努めて冷静に応じる。


 相手は年下の、しかも女の子だ。いくら綺麗だったからといって、同性に見惚れてしまうなんてどうかしている。


「それならいいですが……」


「そ、そんなことより、早乙女さんの方は準備は終わった?」


「はい、すでに全ての準備は整っています。あとは部屋を出るだけです」


「そっか、ならそろそろ出よっか? 開館まではまだ時間があるけど、水族館は結構遠いし」


「そうですね。私もそれがいいと思います」


 現在の時間は水族館の開館予定時刻よりは大分前だが、水族館まではかなり遠く電車を使って三十分以上かかる。早めに出ておいた方がいい。


 麗奈とエリカは、余裕を持って外に出ることに決めた。


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