水族館へ

 アパートを出た麗奈たちは、一時間ほどかけて目的の水族館にたどり着いた。


 水族館はやはりと言うべきか、人が多かった。ついでに言わせてもらうと、大半が男女のカップルだ。麗奈たちみたいな女の子二人組は、あまり見られない。


 水族館は遊園地と並んでデートスポットとしては最適な場所だから、休日に人が多いのは仕方のないことだ。


 それにこの水族館はかなり広いため、人こそ多いが移動の妨げになることはない。


「これが水族館ですか。思っていたよりも広いところですね」


 水族館内に足を踏み入れたエリカは、興味深げに忙しなく見回す。


「ここはかなり規模の大きい水族館だからね。魚もたくさんいるから、全部見て回るのは大変かも」


「……そうなると、効率を重視していかないといけませんね」


 入館時にスタッフから受け取った、水族館内のマップが記載されたパンフレットに視線を落とす。彼女の表情は真剣そのものだ。


 そんなエリカの姿が微笑ましくて、麗奈はクスリと微笑む。


 それからエリカは数分ほどパンフレットとにらめっこをして効率よく水族館内を回る道順を決めた後、ようやく動き始める。


 水族館内は、工夫を凝らした展示方法や薄暗い空間内を淡く照らすライティングが幻想的で、見ていて心が踊るものだ。


 麗奈は当初水族館にそこまで興味があるわけではなかったが、見応えのある展示内容にいつの間にか水族館を存分に楽しんでいた。


 エリカはエリカで、瞳をキラキラと年相応の子供のように輝かせて水槽の中の魚たちに魅入っていた。


 二人は水族館の魚の観賞を楽しんでいたが、途中昼食時になったため、一旦見回るのは中断する。


 二人の昼食は、水族館内にあるレストランで済ませることにした。水族館内のレストランなだけあってメニューは魚料理がメインだった。


 ちなみにエリカはお弁当を作ると言っていたが、水族館内を動き回るのに弁当箱が邪魔であることを指摘すると、あっさりと納得してくれた。


「早乙女さん、午後はどうする予定なの?」


「とりあえず、まだ見れてないところを見て回ろうと思います。相川さんも、それでいいですか?」


「うん、私もそれでいいよ」


 店員に注文をし終えて、料理が来るのを待つまでの間にパンフレットをテーブルに広げて今後の予定を話し合う。


 パンフレットには水族館内のマップの他にも、オススメの飲食店や売店などが細かく記載されていた。


「あ、そうだ。ここに来られたのも綾姉のおかげなんだから、綾姉には売店でお土産買って帰らない?」


「そうですね。私たちが水族館に来れたのは琴浦さんのおかげですから、何か買って帰りましょう」


 エリカは麗奈の提案に同意を示す。


 そこから二人は綾音へのお土産に何がいいのかを話し合い始めた。


 しかし話の最中、麗奈の視界にふとパンフレットのイルカショーについて記載された部分が入ったところで、麗奈は話題を変える。


「……そういえば、午後二時からはイルカのショーもあるみたいだね。早乙女さん、興味あるなら――」


「はい、もちろん興味あります」


 エリカは淡々と、しかし食い気味で答えた。瞳も水族館を回っていた時に劣らず、キラキラと輝いている。この様子だけで、興味の有無を察するには十分だ。


 綾音が水族館について説明していた時も、エリカはイルカショーの話題には食い付いていた。きっと話を聞いた時から、楽しみにしていたのだろう。


「イルカショーは外せません。絶対に見ましょう」


 普段は遠慮がちなエリカではあるが、今日はこれまでにないくらいハッキリと自分の意見を口にしている。


 エリカが遊園地を楽しんでいることは、一目瞭然だ。一緒に来て良かったと、今のエリカを見ているとそう思える。


「そっか。なら午後はイルカショーも見に行かなくちゃね。……それにしても、早乙女さんは水族館に来てからずっと楽しそうだね」


「……いけませんか?」


「ううん、そんなことないよ。むしろ私は、ちょっと嬉しいかな」


「嬉しい……ですか?」


 エリカは麗奈の言葉がよく理解できないのか、不思議そうに首を傾げた。


「うん、嬉しいよ。私はこんなに楽しそうにしてる早乙女さん、初めて見たから」


 麗奈は、エリカと暮らし始めてからすでに一ヶ月を過ぎている。けれど麗奈は、エリカが今日ほど楽しそうにしているところを見たことがない。


「それにほら、チケットは綾姉からのもらいものだけど一応誘ったのは私だし。誘った人間としては、楽しんでもらえるのは嬉しいものだよ」


「……そういうものなんですか?」


「うん、そういうものだよ」


 誘ってつまらなそうにされるよりは、今のエリカみたいに存分に楽しんでくれた方が何倍も嬉しい。


「そうですか。なら誘ってくださった相川さんのためにも、全力で水族館を楽しみ尽くさなければいけませんね」






 昼食を取り終えて後は予定通り水族館内を見て回り、二時になると屋外エリアでイルカショーを観賞した。


「いやあ凄かったね、イルカショー」


「はい、とても凄かったです。イルカはとても賢いと聞きますが、あそこまで飼育員の方の指示に従うものなんですね。私、とても感動しました」


 イルカショーを見終えた後は、互いにイルカショーの感想を話し合いながら、水族館内を歩いていた。


 見応えのあるイルカショーに、麗奈はもちろんのエリカも饒舌でご満悦の様子だ。


「あれ、早乙女さん?」


 不意にエリカの名前を呼ぶ声が聞こえてきた。


 声のした方向に、二人は一緒に振り返る。するとそこには、一人の少女が立っていた。見たところ、エリカと同じくらいの年齢に見える。


「早乙女さん、知り合い?」


「……はい、一応クラスメイトです」


 そう教えてくれたエリカではあるが、その表情は水族館を楽しんでいた時とは打って変わり、暗いものへと変化していた。


 クラスメイトだからといって、仲がいいとは限らない。エリカの態度から察するに、二人の関係は良好とは言えなさそうだ。


「やっぱり早乙女さんだ。こんなところで会うなんて、奇遇だね」


「そうですね。私も驚きました」


 エリカは淡々と答える。普段通りのエリカの態度だ。仲が悪いのではないかと勘繰っていた麗奈は、首を傾げる。


「いやいや、私の方が驚いたよ。だって早乙女さんって友達とかあんまりいないから、こういう場所とは縁がないと思ってたし」


「…………!?」


 失礼にもほどがある物言い。驚愕したのは言われたエリカではなく、側で聞いていた麗奈の方だった。


 しかもエリカの方は表情一つ動かすことなく、涼しい顔で話を聞いている。腹を立てた様子は微塵もない。


 どうして何も言い返さないのかと困惑していると、エリカのクラスメイトは麗奈に視線を移す。


「ところでお姉さんは、早乙女さんとはどういう関係なんですか? 私や早乙女さんより年上に見えますけど、親戚とかじゃないですよね? 早乙女さんとはあまり似てないし」


「私? 私は……早乙女さんと同じアパートの住人だよ」


 突然話を振られたことに一瞬戸惑いつつも、簡潔に答える。質問の意図は不明だが、答えない理由はない。


「へえ、早乙女さんと同じアパートの……」


 エリカのクラスメイトの値踏みするような視線に晒される。あまり気持ちのいいものではないが、エリカのクラスメイトは遠慮することなくジロジロ見てくる。


 やがて不快な視線がやんだかと思えば、エリカのクラスメイトは再び口を開く。


「お姉さんって、今付き合ってる人とか好きな人っていますか? もしいるのなら、お姉さんも早乙女さんとの付き合いは気を付けた方がいいですよ? 早乙女さんと一緒にいると、全部取られちゃいますから」


「…………」


 悪びれる様子もなく吐かれた言葉に、プチンと、麗奈の中で何かが切れた。


 エリカの迷惑になるだろうからと耐えていたが、もう限界だ。目の前の少女とは、もう一秒たりとも口を利いていたくない。


「余計な忠告をどうもありがとう。……行こう、早乙女さん」


 冷めた声音でそれだけ告げた後、麗奈はエリカの手を掴んでその場を逃げるようにして去った。


 エリカの手を引いて、素早い足取りで水族館内を進む。途中人目を引いたが、今の麗奈はそんなものは気にしない。


「あ、相川さん? どうしたんですか? 何をそんなに怒っているんですか?」


 麗奈に引っ張られるようにして歩くエリカから、動揺する声がした。きっと彼女は、なぜ麗奈がこんなことをしているのか理解できていないんだろう。


 そこで麗奈はようやく足を止めると、手を離してエリカの方に振り向く。


「何を怒ってるって……さっきあの娘は早乙女さんに酷いことを言ったんだよ? むしろ早乙女さんは、平気なの?」


「別にあの程度、大したことではありませんから。いちいち気にしてたら、キリがありません」


 そう言えるエリカはきっと、精神面では先程のクラスメイトや麗奈よりもずっと大人なんだろう。けれど麗奈は、我慢できなかった。


「……私は嫌だよ。早乙女さんが悪く言われるなんて、許せない」


 エリカのことを悪く言われた時、腹立たしい思いと共になぜか麗奈の胸が痛んだ。


 そしてその痛みに気が付いた時には、身体が勝手に動いていた。いつの間にかエリカの手を取り、ここまで来ていた。


 麗奈は二人の事情とか関係とか、詳しいことは何も知らない。それでもエリカが悪く言われることだけは、耐えられなかった。


 エリカは麗奈の言葉に軽い驚きの表情をすると、ゆっくりと確認するように唇を動かす。


「もしかして……私のために怒ってくれていたんですか?」


「そうだよ。早乙女さんが悪く言われるのが平気でも、私は辛いよ。早乙女さんのことを悪く言われて、平気でなんていられない」


「…………!」


 エリカが大きく目を見開く。しかし次の瞬間には、弱々しく俯いてしまった。


「そう……だったんですか。それはその……ごめんなさい。相川さんにそんな想いをさせているとは、考えもしませんでした」


「あ、いや別に責めたいわけじゃないよ? ……私はただ、早乙女さんのことを悪く言われるのが許せなかっただけだし……もしさっきの娘のことで困ってるのなら、私も力になるよ?」


「いいえ、その必要はありません」


 麗奈の申し出をエリカはキッパリと断った。


 まさかこの期に及んで遠慮しているのかという懸念が麗奈の中に生まれたが、その懸念は杞憂に終わる。


「だって……私の代わりに、相川さんが怒ってくれました。私はそれだけで十分です」


 そう言うエリカの顔に浮かぶのは、今日一番の魅力的な笑みだった。それを見ただけで、麗奈は毒気を抜かれてしまう。


 綺麗な人の笑顔というのは、みんなこんなものなのだろうかというバカな考えが麗奈の脳裏をよぎる。


「……早乙女さんって、何かズルいよね」


「あの、それはどういう意味ですか?」


 エリカは麗奈の言葉に、理解できないと言わんばかりに首を捻った。


「分からないならいいよ。それより、邪魔が入っちゃったけど水族館まだ見て回ってないところあるよね?」


「そういえば、そうでした。すぐにまだ見て回ってないところを回りましょう。時間は有限です」


 再び歩き出すエリカ。


 そんな彼女の姿を微笑ましく思いながら、麗奈も彼女の横に並んで歩き始めるのだった。


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