下着

 アルバイトの件をエリカと話してから、約一週間の時が経過した。


 結論から言うと、スーパーのアルバイトに麗奈は採用された。基本週に三日のペースでシフトを組むことになった。


 アルバイトは来週からスタートだ。今日は土曜日なので、つまり明後日からだ。


 麗奈は過去に日雇いのアルバイトならしたことはあるが、スーパーでのアルバイトは初めてのことなので、実は麗奈は少し緊張している。


 もう少しすればゴールデンウィーク期間に突入するので、きっとスーパーも忙しくなる。麗奈は苦労するだろう。


 現在の時刻は午前六時。すでに太陽が昇り始めていることが、カーテンの隙間から差し込む光で容易に察せられる。


 本日は土曜日、つまりは休日だ。学校は休みなので、早起きする必要はない。惰眠を貪っても怒られることはない。


 しかしそれでも、エリカは朝早くに目を覚ました。彼女が朝早くに起きるのは習慣なので、休日だろうと関係ない。


 エリカは目を覚ますと、軽く伸びをしてからベッドを抜け出そうとする。


「おはよう、早乙女さん」


 しかし抜け出そうとしたところで、同じベッドで眠っていた同居人の麗奈が、朝の挨拶をした。


 麗奈が起きていたことが予想外だったのか、エリカは目を丸くする。


「相川さん? ……起こしてしまいましたか。申し訳ありません」


「ううん、大丈夫だよ。私もちょっと前から起きてたから」


 エリカと暮らすようになって、すでに二週間が経過している。おかげで麗奈は、すっかり早起きが習慣化した。最近は早起きも苦ではなくなっている。


 もちろん早起きするのは、それだけが理由ではない。エリカの手伝いをするというのもある。年下の女の子が朝早くから家事に勤しんでいるのに、何もせずグースカ寝ているというのは心苦しいものがある。


「んー……」


 麗奈は上半身を起こして天井に腕を向け、グっと身体を身体を伸ばす。眠気が去り、身体の筋肉がほぐれていく感覚が心地いい。


 と、そこで不意にブチン! と何かが千切れる音が聞こえてきた。音の発生源は背中の辺りだ。


 次いで、麗奈は胸の辺りを締め付けるような感覚が消えていることに気付いた。


「まさか……」


 嫌な予感がして、慌てて着ているパジャマの内側に手を伸ばす。する重力に従って、ストンと何かが膝の上に落ちてきた。


 恐る恐るそれを手に取ってみて確認する。


 麗奈が手に取ったもの。それは白を基調としたシンプルなデザインの――ブラだった。麗奈が着けていたものだ。


 よくよく確認してみると、ホックの部分が壊れていた。先程の音は、ホックが壊れた時のものだったみたいだ。


 このブラは麗奈の記憶が正しければ、最近購入したものだ。決して高いものではなかったが、短い期間壊れてしまうほどの安物を買った覚えもない。


 だというのに、なぜ壊れたのか。麗奈は壊れたことよりも、その原因の方が気になった。


「ブラ、壊れてしまったんですか?」


「うん、そうみたい。買ってからまだそんなに経ってないんだけどなあ……どうして壊れちゃったんだろう?」


 原因を考えてみるが、見当もつかない。そもそも、ブラがいきなり壊れたこと自体が想定外だ。


「あの、少しいいですか?」


「ん? どうしたの、早乙女さん?」


「いえ、相川さんのブラが壊れた理由なんですけど……もしかして、サイズが合わなくなったんじゃないですか?」


「サイズが合わなくなった?」


「はい。その……相川さんの胸はとても大きいですから、そのブラを購入した時よりも成長したのではないかと思って……」


 少し言い淀みながらも、エリカはそう指摘した。


 成長。言われるまでは考えてすらなかった可能性だ。けれど、的外れな意見ではない。むしろ、麗奈はそれ以外に心当たりもなかった。


「……そういえばここ最近、胸の辺りがキツかったような気がする」


 胸の辺りがキツいのは気のせいだと思ってあまり気にしてはいなかったが、どうやらサイズが合わなくなったのが原因みたいだ。


「となると、新しいブラ買いに行くしかないかなあ……」


 まだブラの替えはあるが、サイズは先程壊れたものと同じだ。つまり、また壊れる可能性があるということだ。


 ブラを買うだけなら、麗奈の少ないお金でも何とかなる。幸い今日は休日なので、買いに行くにはいいタイミングだ。


 麗奈はどこで下着を買うのか、思案し始めた。






 ブラが壊れてから数時間後。午後になった現在、麗奈はアパート最寄りの駅から二十分ほどの場所にあるショッピングモールに来ていた。


 下着を買うだけなら近所の店でも事足りるが、品揃えがいい店があるという理由で、麗奈はこのショッピングモールを選んだ。


 休日なだけあって、ショッピングモール内は多くの人が見受けられる。


 人の多いショッピングモール内を軽く見回してから、隣に立つ同行者に視線を移す。


「わざわざ早乙女さんまで来なくても良かったんだよ? ここに用があるのは、私だけだったのに」


「気にしないでください。私も丁度新しい下着がほしかったので」


 エリカも麗奈と一緒にショッピングモールに来ていた。麗奈が午後はショッピングモールに行くと告げると、自分も付いて行くと言い出したのだ。


「それで、目的のランジェリーショップはどこですか? 私は行ったことがないので、教えてください」


「あ、そうだね。じゃあ案内するから、早乙女さんははぐれないように私に付いてきてね」


「はい」


 今日は人が多いから、万が一にもはぐれるわけにはいかない。一度はぐれてしまえば、合流にはかなりの時間を要してしまう。


 本当は手でも繋いだ方が確実にはぐれずに済むのだが、知り合って日の浅いエリカが相手だとどうしても気後れしてしまう。


 これが幼馴染の環奈なら、躊躇することはなかった。いや、麗奈とスキンシップを頻繁にスキンシップを取る彼女なら、嬉々として麗奈の手を取ったことだろう。


 はぐれないよう、時折エリカがちゃんと付いてきてるかを確認しつつ、目的のランジェリーショップに向かう。


「……ここが相川さんの言っていたお店ですか」


 ランジェリーショップ前までたどり着いたエリカは、開口一番にそう呟いた。


「結構大きい店でしょ? ここは品揃えがいいから、私いつも利用してるんだ」


「……確かにここは品揃えが良さそうですね」


 二人は店内に足を踏み入れる。ランジェリーショップというだけあって、当然ながら客は女性のみ。


 時折男性が店内にいることもあるが、大抵は彼女に連れられてやってきた彼氏だ。彼らは共通して居心地の悪そうな顔をしているから、見れば分かる。


 二人は、各々自分に合ったサイズの下着を探し始める。


 ちなみに麗奈はエリカとは異なりまっすぐ下着売り場には行かず、先に店員に採寸をしてもらった。採寸結果、麗奈のバストサイズは以前採寸した時より一つ上がってFになっていた。


 今朝ブラが壊れたのは、エリカが指摘した通り成長してサイズが合わなくなったからだった。


「どうしようかなあ……」


 麗奈は自分に合ったサイズの様々なブラの前で、悩んでいた。というのも、サイズはともかくとして、デザインの方が麗奈の好みに合うものがなかったのだ。


 麗奈クラスのサイズになると、可愛いものはあまりない。それは品揃えのいいこの店でも一緒だった。


「あの、相川さん。少しいいですか?」


 悩んでいると、横からエリカが声をかけてきた。


「あれ、早乙女さん? もしかしてもう選び終わったの? 早いね」


「いえ、それはまだです。……その、普段は近所のお店で適当に済ませていて、こういう大きなところは初めてで勝手が分からなくて。相川さん、下着探すのを手伝っていただけませんか?」


 エリカは麗奈に助けを求めた。


 本人としてはとても困っているのだろうが、麗奈は普段お世話になっているエリカが自分を頼ってくれたことがとても嬉しかった。


「いいよ。じゃあ一緒に下着を探そっか」


 一緒に探すだけなら別に何も難しいことはないので、笑顔で了承する。


 麗奈は自分の下着探しは一旦中断して、エリカに合うサイズの下着が陳列された棚に移動する。


 下着選びを手伝う上で参考とするために、麗奈はエリカに色々と訊ねつつ下着選びを続ける。


「……相川さんは胸が大きくて羨ましいです。私は正直、あまり発育は良くないので……」


 ふとエリカがそんな呟きを漏らした。


 エリカはお世辞にも発育がいいとは言えない胸に、手を当てる。どうやらエリカは少し胸にコンプレックスがあるみたいだ。


 そんなエリカの姿が微笑ましくて、麗奈は笑みが溢れてしまう。


「胸が大きくてもいいことばかりじゃないよ? 肩は凝るし、下着も可愛いデザインのはないし。それに早乙女さんはまだ中学生なんだし、まだこれからだよ」


「本当ですか?」


「うん、本当だよ。私が保証してあげる」


 麗奈だって胸が成長し始めたのは、エリカぐらいの頃だった。成長には個人差があるということだ。


「それにしても、早乙女さんもそんなこと気にするんだね。ちょっと意外」


「それはまあ……私も女の子ですから」


 白い頬を朱色に染めて、か細い声で答えた。


「そ、そんなことより、私の下着選びの続きをしましょう」


「あ、そうだね」


 麗奈は気を取り直して、エリカの下着選びを続けた。


 数分ほど話し合った結果、エリカは自分に合った数枚の下着を手に試着室に入った。


 麗奈は試着室の正面に配置された、背もたれのない椅子に座りエリカを待つ。


 しかし一分としない内に、試着室と外とを仕切るカーテンの向こうから真っ白な手が伸びてきた。エリカの手だ。


 いったいどうしたのかと思っていると、エリカの細腕がチョイチョイと手招きをしてきた。まるで麗奈に、試着室に入ってこいと言ってるようだ。


 疑問に思いながらも、麗奈は一言「入るよ」と断ってから、試着室内に足を踏み入れた。


 するとそこには、あられもない姿のエリカが立っていた。


 今のエリカは、普段は服の下にある肢体が下着の部分を除き、露わになっている。試着室にいるのだからおかしい格好ではない。


 けれど、恥ずかしいものは恥ずかしいわけで、麗奈としては目のやり場に困る。とても困る。


 エリカも似たようなもので、麗奈を呼んだ側なのに麗奈の視線を受けて自分の身体を隠すように抱いて背を向けた。


「あの、申し訳ないんですが、ホック止めるのを手伝ってもらえませんか? 私では上手く止められなくて……」


「あ、うん……」


 エリカに声をかけられたことではっとして頷くと、麗奈は背を向けたエリカの側に寄り、ホックを止めてあげる。


 この時、なぜか少しだけイケナイ気分になってしまったのは、麗奈だけの秘密だ。


「こ、これでいい?」


「はい、ありがとうございます。……ホックの付いたタイプは初めて着けましたが、悪くないですね」


「そっか。なら良かった」


 そこからエリカは更に何着か試着をして、自分に合ったものを選んでいった。


 そして全て試着を終えて試着室を出た後は、お試しで一枚だけ買うことに決めたのだが……。


「相川さんはどの下着がお好みですか?」


 なぜか麗奈に意見を求めてきた。


「え、私が選んでいいの?」


「はい。いいんです」


「…………?」


 エリカの発言の意図を読めなかった麗奈だが、エリカには何か考えがあるのだろうと思い、特に何も言わないことにした。


「なら……私はこっちの水色がいいかな。水色好きだし」


 数種類のブラの中から、水色のものを指差した。エリカに似合うかどうかではなく、完全に自分の好みで選んでいる。


「これですか。相川さんは水色が好きなんですか?」


「うん、水色って昔から好きなんだ。私」


 その証拠に、麗奈の私物には水色のものが多い。筆記用具類やマグカップなんかは、大半が水色で揃えられている。


「そうですか、相川さんは水色が好きなんですね。……覚えておきます」


「ん? 早乙女さん、今何か言った?」


「いいえ、何も。では私は、相川さんが選んでくださったこの下着を購入してきますね」


「え、それでいいの? もっとよく考えてから選んだ方がいいんじゃ……」


「いいえ、これがいいんです」


 強い意志のこもった言葉と共に、エリカは大事そうに麗奈の選んだ下着を胸元に抱きかかえる。麗奈が選んだものを気に入ったのは目に見えて分かる。


 これ以上言うのは野暮というもの。麗奈はそれ以上余計なことは何も言わず、会計に向かうエリカを見送った。


 エリカが自分の分を購入し終えた後は、麗奈も手早く自分の買い物を済ませて、二人で仲良く帰路についた。

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