第8話『赤い魔術師』


 だから今日は家から出たくなかったんだ。

 と、少女は胸の内で叫んだ。

 夕刻、薄闇の街。

 見返る小さい人の顔を縁取るように白い月光が差していた。

 半身だけ光を浴びて瞬きもしないその瞳には、紗をかけたように紅い輝きが宿っている。


 まっすぐに切りそろえた黒髪が顔の輪郭に沿って流れ、顎のラインで収まっている。

 ボブカットの頭にはつばが大きく広がった黒い帽子を被って、首から下は漆黒のマントを巻き付けていて服装はわからない。

 車通りの多い道から脇へ入った静かな住宅街、通い慣れた家への道のはずだった。

 両側の背の高い建物に挟まれた谷間の道路上、白く照らされたアスファルトの上に交差点を表すラインが存在を主張する。

 その十字路の真ん中にぽつんと、現実を否定するかのように小さな姿は立ち尽くしていた。

 小学5年生である少女より小柄にみえる。

 季節外れの仮装魔女なんかではない。

 そうだったらどんなに良かったか。


(赤い魔術師!)

 反射的に逃げようとした少女は足がもつれて尻餅をついた。

 取り落とした鞄からバサバサとノートや小物が散って、立ち上がろうともがく少女の手や膝を滑らせる。

「ごめんなさい! ゆるして…ゆるして!」

 悲鳴は恐怖のせいでささやくような音量にしかならない。

「足と手とどっちがいい?」

 低く問う声。

 悠々と歩く足音がして、気がつけば『赤い魔術師』が目の前で立ち止まって少女を見下ろしていた。


「い、いや」

 恐怖に震える腕でやっと体を支えて赤い魔術師を見上げた。

 少女がそこに見たのは、あまりに無慈悲ななんの感情も読み取れない双眸だった。


 赤い魔術師が『復讐』にやってくる。


 最近小学校で噂になっていた。

 そして、少女には心あたりがあった。


 ひと月ほど前のこと。

 どこの学校でもあるように、クラスでちょっと目立たない、いつも少し汚い格好をした子がいた。何人かで無視して普段からあまり関わらないでいたのが、その日は何がきっかけだったか、汚い、臭いと囃した覚えがある。

 でもその一度だけだ。

 その時は泣きながらやめてと言っていたその子が滑稽でつい調子に乗ってしまった。

 さすがに酷かったと気付いて……でも謝ってもいない。


 赤い魔術師は後悔のとりたてにやってくる。バレないように隠している後ろめたい過去を掘り起こして、思い知らせるために来る。


(こんな目に遭うほどのこと!?)

 赤い魔術師はどうするんだっけ…何をされるんだっけ。

 足や手を、どうされるんだっけ。

 あんなに噂になっているのに、どうしてもぼやけて思い出せない。


「選んで良いって言ってるのに」

「やだよ、やめて! もう何も言わないで!」

 どうして誰も来ないのか。

 結構な大声を上げているのに。

 夜の路地には誰もくる気配がない。

 世界に二人しかいないかのよう。


「あなたはやめてって言う人の願いを聞かなかったじゃないか。選べるだけ幸運なんだよ。相手が獣だったらもうあなたの腕も足も、首もないかもしれない」

 腕、足、首。と体の一部について言及する度に赤い魔術師は恐怖に震える少女のそれに目をやった。

 視線はまるで焼けつく熱線か氷の刃のように、具体的な想像をもたらした。


「だって、だって! ゆなもダイも同じことしてたのに!」


「ゆな? ダイ?」

 ふいと赤い魔術師の目線が宙を眺めた。そして

「他にもいたんだね、次は決まりだ」

 少女は息を吸い込んだ。

 笛のような音がしたが、悲鳴にならなかった。ただ心の中で絶叫する。


 だれか、たすけて。


「ちっ」

 舌打ちが聞こえて目の前の赤が消えた。


「走れ!」

 少女の背後から走り抜けて来た男が横を駆け抜けて十字路の先へ消えてゆく。

 目の前にいたはずの赤い魔術師がいない。

 少女は反射的に動いた。

 手足をとにかく動かして起き上がり男とは逆の方へ走り出す。


(早く! 逃げなきゃ!)

 そして、ゆなとダイに知らせないといけない。

 赤い魔術師に狙われていることを。

 何度もつまずきそうになりながらあちこち何かにぶつかり、それでも少女の姿はその路地から消えていった。

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