第6話 兄の責任

「お兄ちゃん、あのね」


 玄関を出ようとして、笙野つばさは遠慮がちな呼びかけに振り向いた。

 学校から帰って予習のために図書館に行こうとしていたところで、背中のグレーのバックパックにはテキストと筆記用具だけが入っている。

 古風な玄関はダイニングキッチンに直結していて、突然ドアを開けた誰かが食卓の住人と目を合わせないで済むための気遣いは、背の高い靴入れだけだった。

 靴入れの斜め向かい側にある、居間とキッチンを区切るふすまが少しだけ開いて歳の離れた妹がおずおずとこちらを見ていた。


「ん? どした?」

 と聞き返すと、意を決したように一歩つばさの方へ踏み出した。

 笙野はづきは小学2年で、つばさとは7歳差だ。


 よく動物に例えると何か?というような話題では狼だの熊だのの物騒な猛獣を挙げられるつばさと違って、はづきは華奢で目が大きく、動作もちょこちょことしているせいかひよこや子猫を持ってこられる。

 妹と話すとき、つばさはいつも己との体格の差を思い知る。

 ーさぞかし威圧的に見えるのではないかー

 それで話す時はかがむか片膝をつく。

 片膝をついて視線を合わせると、妹はためらいがちに切り出した。


「犬、飼ってもいい?」


(きた!)

 つばさは驚いたが、想定していなかったための驚きではなかった。

 子供は動物を飼いたがるものだから、両親もつばさも『いずれ聞かれるだろう』と考えて答えを用意してあったので、

(俺に役目が来たか!)というどちらかと言えば責任重大さに対して身構えたほうの衝撃だ。

 有り体に言ってしまえばNO、という答えをうまく伝える。その役回りはなかなか荷が重い。


 つばさは狭い集合住宅の我が家を妹ごしに眺めやった。

 両親とつばさ、はづき。

 3LDKに四人暮らしで精一杯の広さで、そこに犬が幸せになれるスペースはとうてい見出せない。

「急だな、誰か友達に子犬をもらう約束でもしたのか?」

「ううん、そうじゃないけど……飼えたら良いなって…」

 つばさは誠意を込めてはづきの目を見詰めた。

「うち、集合住宅。…ってわかるか」

 はづきは曖昧にうなずく。

 名前や形態は理解できているものの、犬とどう結びつくのかわからないという風だ。


「うちは犬が幸せに暮らすにはちょっと狭いんだ。だからもし犬を飼いたかったら、母さんと父さんに引越しも含めて考えて貰わなきゃならない」

 今の法律では、犬や猫を飼うのは免許制だ。ちゃんと知識があって、無理なく飼える環境であることを証明しなくてはならない。

 そして今の住居はその条件を満たしていなかった。

 そこでつばさと両親ははづきから動物を飼いたいと言われたらすぐに『ダメ』と言うのではなく、飼えない理由と命に対する責任について一緒に考える時間を作ろう、という結論を出していた。


 はづきは落胆した風だった。

「いいの、聞いてみただけだし」

「父さんたちに相談するなら俺も味方するからな」

 はづきは小さくうなずいた。


「あ、あと」

「ん?」

「力がある子に、正しい使い方を考えてもらうにはどうしたらいい?」


 その質問は今度こそつばさを驚かせた。

 変な質問だ。

 思わず答えに詰まっていると、はづきは慌てたように後を続けた。

「お兄ちゃん強いし、だから、なんていうか強いけど、うまく力を生かせない子の気持ちがわかるかなって」

「おまえに暴力を振るう奴がいるのか!?」

「ちがうよ、そうじゃなくて…」

 はづきは困った顔で黙り込んでしまった。


「困ってることがあるんだな?」

 はづきは華奢な首の上の、アンバランスにさえ見える頭をこくんと頷かせた。

「俺に打ち明けるのは難しい?」

 さらに迷い迷い、申し訳なさそうにうなずく。

「わかった。それだけでも相談してくれて良かった。後で言えそうだなと思ったらいつでも言ってくれ。俺にでもいいし、父さん母さんにでもいい。それまで」

 つばさはすいと立ち上がり、バックパックを背負い直した。


「俺は勝手にはづきの困っていることを探して助ける。間違っていたら止めてくれ。それでいいか?

 まずはづきの学校から調べるけど、それは合ってる?」

 小さな妹はつばさを見上げ、眉をハの字にして何か言葉にならないものを食いしばっているような顔をした。


「…うん、ごめんね、お兄ちゃん」

『力の使い方を知らない子』が、はづき自身に持て余した力を振るっているわけではなさそうだ。


 はづきの知る誰かが他の誰かに暴力を振るっていて、はづきは止めたいが止める方法がわからないのかもしれない。

 とつばさは見当をつけた。

(いじめか? どちらにしても学校は何か知ってるはずだ) 

 つばさは軽く手を振ってドアのノブに触れた。

「じゃ、いってきます」

「いってらっしゃい」

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