第2話 一ノ宮ひかりのはじまり
放課後、一ノ宮ひかりはひと気のない校舎裏側の階段を上っていた。
上履きの乾いた足音が、白くがらんとした空間に響く。
肩までの髪を無造作に流したどこかぼんやりした面持ちの一年生。
しかし本人はいたって真剣に階段を上っていた。
四階の音楽室に教科書を忘れたせいだ。
校舎内は放課後になると部活や勉強で用事がある生徒以外ほとんど外へ出てしまう。
校舎の表側に広がるグラウンドから運動部員の掛け声がこだまして、他に聞こえるのは自分の足音くらい。
余計に校舎内はひっそりと感じられた。
一年生のひかりが普段使う階段ではない。どうにも他人の領域に無断で侵入して、何か悪いことをしているような気がして、そわそわする。
同時にそんな自分の気の小ささに密かに腹を立てた。
(入学から一月は経ってる。しっかりしないと)
眉毛をきりっと上げ直した気持ちになって三階の踊り場に差し掛かったとき、ふと風を感じて顔を上げた。
踊り場の窓が全開になっていた。
生徒が一人こちらに背を向けて立っている。
『窓枠に』
五月の風が入り込む開け放たれた窓の枠に上履きのままの足で仁王立ちになり、紺色のブレザーの裾をはためかす後ろ姿。
空が明るく背景となって切り抜いたように見えた。
(ここ3階!)
驚きが声になるより先にその背がどんと押された。
窓に寄せた椅子の上に別の生徒がいて、勢いよく両手で突き飛ばした。
ふわっとブレザーの背中が
「ひとごろし!?」
ぱっとこちらを向いた椅子の上の生徒は女子で、ひかりはその顔を知っていた。
それが誰で理由が何だとかはどうでも良かった。
人が死んでしまう!
反射的に体が動いていた。
ひかりは窓までの距離を一息に走り、落ちる生徒に飛びつこうとした。
「誰…うはわあ!?」
押しのけられたその子は素っ頓狂な悲鳴を上げたが、ひかりは構うことなく椅子を蹴って窓の外へ飛び出そうとした。
(届け!)
目一杯伸ばした指先が何かに触れて、必死に掴む。
同時に突き落とし犯人が、ひかりの胴をがしっと捕まえた。
椅子の上から落ちずギリギリの所で体勢を立て直したらしい。
「バカ! あんたが落ちるよ!」
「離せ、殺人犯!」
「え!? いや、違うんだって!」
甲高い声でその子は叫んだ。
ひかりの指先には落ちようとしている誰かの何かがぎりぎり引っかかっている。
指先が千切れそうな重み。
その重みが命の重みだとひかりは思った。
「死んじゃう!!」
泣きそうな声が出た。
身をよじってみたが、ふり離そうとするひかりを意外な力強さで押さえ込もうとしてくる。
「大丈夫だから! 離してあげて!」
逆だ。離したら落ちて死んじゃうじゃないか!
「ううう〜、嫌だ!」
力を込めていたせいで動物の唸り声のような声を上げたその時、突然すぽんと軽い手応えがしてバランスが崩れたひかりは、反動で椅子の上で大きくのけぞった。
両手をばたつかせて何とか耐えようとするものの、不安定な椅子の上に乗って暴れたせいで二人とも階段の踊り場に勢い良くひっくり返った。
校舎の上から下まで響き渡るような凄まじい音を立てて椅子が倒れる。
ひかりは思い切り腰を打って痛いやら悲しいやらで、わけがわからなくなりそうだったが、必死で身体を転がしてなんとか壁に背をつけて座り込んだ。
身体より、誰か死んでしまったと思うと喉の奥がぎゅっと掴まれたように苦しくて痛い。荒い息をつくたび涙が出た。
それでも、落とされた人はまだ息があるかもしれないと思うと身体が動いた。
必死で身体をずり動かしながら、ひかりは後ろ手で壁をさぐった。
こんな時、通報しようにも端末は教室にある。
痛みが引いたら壁を支えにして立ち上がり、まずこの場から逃げる。それから下へ回って助けに行くか誰かを呼ばなければ。
(でも)
床で仰向けになって倒れ、唸っているのは小柄な女子だった。
どこか酷く打っていたらどうしようと心配になった。このまま立ち去って取り返しのつかない事になったら。
声を掛けるべきかの
「…もしかして」
ベリーショートの髪型、一度聞いたら忘れられない特徴的な声は。
「3組の響あまね?」
「そーだよ、痛ぁ…思いっきり背中打った…」
入学してから一月と少ししか経っていなくても、忘れられない存在感を放つ声の響あまねは、早々と放送部に居場所を定めてこの大清水中の誰もが知る存在となった。
明るくて元気。
人を傷つけるような噂は聞こえてきていない。
そんな彼女が、どうして。
響あまねは顔をしかめてうめきながらその場に身を起こし、座り込んだ。
手を後頭部や腰に当てて痛そうにしているが、大したことは無さそうだった。3階から人を突き落としたのだから少し痛いくらいは同情の余地はない。
標的をひかりに変えて襲いかかってくる様子もない。……でも油断は禁物。
息を詰めて見守っていると彼女は顔をあげ、ひかりをじっと見た。
「で、一ノ宮か」
「……」
「窓から飛んだ人、無事だから安心してよ」
しかめた顔であまねはひかりの手元を指した。
見るとひかりの片手は誰かの上履きの片方をしっかり握っていた。自覚が無かったので驚いてまじまじと見る。
さっき突然バランスが崩れたのは、掴んでいた靴が脱げたからだったのか。
かかとの縫い目の部分に、小さく几帳面な文字で名前が記されている。
『春原トオル(すのはらとおる)』
ソールの色はえんじなので二年生だ。知らない名前だった。
「無事なんて、なんで言い切れる?」
「じゃあ窓の下見てよ。何もないから」
響あまねはよろよろと立ち上がり、目線で窓を示した。
(今度は僕を後ろから押す…?)
思わず警戒の眼差しになってしまったのだろう、あまねは苦笑しながらうなずいて数歩分窓から遠ざかってみせた。
(そんなことはしないよ。……ってコトね)
壁に背を預けるようにして、あまねを警戒しつつひかりはかに歩きで窓まで行き、下を覗いた。
ふわっと植物の香りを含んだ風がひかりの肩まである髪を乱していった。
(いない)
真下は黒々とした地面があるきりだった。
校舎の裏側はあまり日が届かない。
まばらな椎の木と、今日のようによく晴れていてさえ湿気のぬけない、裏庭とも呼べないほど狭い空間が横たわっている。踏み固められていない端の方にしょぼしょぼと春の雑草が生えているだけで、見える限りどこにも誰も倒れていなかった。
「ね、いないでしょ」
後ろであまねが言った。
「うん」
ひかりは窓枠から身を乗り出した。
見える範囲の道の先や、校舎の影に誰かいるかも知れないと目線をさまよわせたが、誰もいない。
見上げると夕日の差し始めた空ばかり綺麗だった。
では、今見たものは何だった? 跳び降りて視界に入らない場所まで凄い勢いで走って行ったか、空へ消えたか…まさか!
ひかりはあまねを振り返った。
同級生の女子は階下へ続く階段のへり近くに居て、顔の上半分に建物の落とす影が降りてまるで目元を覆うマスクをつけたように見える。その暗がりからじっと見返してきた。
「消えたわけ、知ってるんだ?」
あまねは否定も肯定もしなかった。
「その上履きさ」
「え?」
「持ってきてよ。春原が戻った時に無いと可哀想だから」
悪戯っぽい笑みを浮かべて左手をちょいちょい、と招くように動かした。
手首に鮮やかな紫色の髪ゴムがはめてあって、唐突に彼女に似合う色だなと思う。
「見られちゃったし、部室で話そっか。放送部」
一歩ついて行きかけてひかりは足を止めた。
人を窓から突き落とすような秘密は、とても怖いような気がする。
ひかりの恐れを察したように、階段を降りかけていたあまねは肩越しにニヤリと笑った。リスみたいな愛敬のある顔が小悪魔のよう。
「聞く勇気があれば、だけどさ」
「……行く」
勇気なんてない、という言い訳は飲み込んだ。
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