バーで一杯

雑踏、話し声、車のクラクション、アスファルトを滑る落ち葉。

際限なく生まれる音は、空っぽな冬の乾いた空気に消えてゆく。

「今日は酒でも飲んで帰ろうか……」

片側3車線に面したビル街の通りを一人歩く雪村俊樹(ゆきむらとしき)の呟きも、誰かに届く前に消えていった。

もとより隣には、聞かせる相手がいない。

 ちらほらと街灯がともる。駅に向かう途中も行き交う笑い声が苛む。

「嫌に寒いと思えば雪が降ってきやがった……。飲むにしても長居は出来ないな」

雪村は毛羽立つ上着の袖を握った。


ひとつ横道に入れば喧騒はすっと消えた。

道が片側1車線になり、人も車もまばらだ。

飲食店がビルの一階に身を寄せて、後はマンションや塗装が剥がれたアパートが並んでいる。

 雪村は財布の中身を確認した。

金欠に成りやすい月末で、予定に無かった何処かで一杯の金があるのか怪しかった。

街に出てきたのは家で一人で過ごすのが無性に寂しくなって、特定の誰かとではなく漠然と人との繋がりが欲しくなったから。

若い時にもっと努力をしていれば今頃、家庭を設けていたかも。

 白髪混じりの頭を掻いて、また後悔をあやふやにした。

酒だ。表のきらびやかで騒々しい店は俺には合わない。

静かな店が良い。カウンター席に座ってマスターしか居ない狭くて暗い安心できる店。

 「積雪で電車が止まる前に帰るべきだ」

その模範的思考は、突発的に湧き上がった酒を飲む義務感への歯止めの役割を果たさなかった。


我先にと駅へ向かう人波に逆らって薄く雪が積もる裏道を歩いていると、雑居ビルから酔って上機嫌に鼻歌混じりのカップルと思われる二人組が出てきた。何の歌を歌っているつもりか分からない。

眼鏡をかけた女の方が、こんな寒い日に上下黒のジャージなもんだから他人といえど風邪でもひかないか心配だ。

 日も完全に暮れて頼りない街灯に照らされる雑居ビルは黄土色の壁で、崩れてもおかしくない大きなひびが走っている。

 呑まれてしまいそうな真っ暗な雑居ビルの中、光が漏れていた。

カップルが出てきた店は、「喫茶店ティンカー」

喫茶店じゃないか。酒が飲める店ではなさそうだ。いや、他に明かりは無い。ならこの店か。

間違っていたら素直に帰ればいい。

この扉を開けずに帰る選択肢はない。

「いらっしゃいませ。」

落ち着いた男性の声がする。

この店は当たりだ。

ダークウッドの家具が落ち着いた雰囲気を醸し出している。赤い間接照明がフランス人形達を照らしている。

「あっ、いらっしゃーい!!」

奥から若い女の声がした。


「ねえねえねえ、おじさんはこのお店どうやって知ったの?」

無口なマスターと二人きりで飲めるとおもったが、店の薄暗さでもう一人の客の存在に気が付かなかった。

まだ酒も頼んでいない。くりくりと真ん丸な目にいっぱいの好奇心でしつこく話し掛けてくる。

「通りを歩いていたらカップルが出てきたんだよ。」

「あぁ!カップルのお客さんね!いやぁ、お幸せそうな事で!」

適当にあしらおうと素っ気なくしても、会話の端をみつけてぐいぐい迫ってくる。

マスターはというと何も言わずにグラスを拭いてばかり。

「おじさんはなんで寂しそうな顔をしてるの?」

不意に心中を突かれた。

何でと言わてみれば、確かになんで寂しいのか自分でも理解できていない。

「じゃあ私と探しにいこうよ!きっと幸せになれるよ!」

「探すって、何を?」

「笑顔の種だよ!」

女はバン!と両手で机を叩いて立ち上がった。

「ほら!先ずはこのお人形さん達!」

フランス人形をテーブル席に向かい合う形で置いた。

「みてみて!二人ともなんだか悲しい顔してる。きっとお腹が空いているんだよ。それなら食べ物をあげよう!」

女が1つ手を叩くと、テーブルの真ん中にふかふかなパンケーキが現れた。

「ほら!二人とも笑顔になった!」

確かに人形の表情がさっきまでと比べて明るい。

「さっ!次いこっか!」

腕を掴んだまま扉を勢いよく開けて外に飛び出した。

マスターは表情の1つも変えずに止めようともしない。

「ねぇおじさん、あれを見て!ビルにお日様を遮られて花がしおれているよ!」

指さした先の小さなピンク色の花は、頭をもたげていた。

「じゃあビルを木に変えちゃおう!あのビルもあのビルも!ほら、周りが森になって花も幸せそうだよ!」

手を2つ叩くとビル街は森になった。

女は翔る。黄色いコートを茶色のスカートをひるがえして。

「なんでみんな暗い顔をしているの?そっか!今夜はお月様が見えないからだね!じゃあ雲さんにはちょっと空を譲ってもらおう!」

手を3つ手を叩くと厚い雲は綿菓子となって木々を飾る。

さながらクリスマスツリーだ。

「今日はクリスマスだよ!みんなで笑おうよ!」

街の人々は女に惜しみない拍手を贈った。

「なんで君はみんなを幸せにするんだい?」

「だって私はみんなを笑顔をする為に生まれてきたの!ほら、おじさんも悲しい顔をしているより笑顔の方が素敵よ!」

彼女と出会ってから寒さを感じなかったのは、心から暖かくなったんだ。

久しぶりに顔の力が抜けた。


「よく眠れましたか?」

目が覚めたのはよく冷えるアパートではない。

暖かな喫茶店ティンカーのカウンター席だった。

「気持ち良さそうに寝ていらしたもので。」

マスターの顔を見ながら店に入ってからを思い出す。

他に客はいなくて、酒を一杯だけ飲んだ。

なんて酒だったかな?

「お客様がお飲みになったのはこちらです。」

マスターがカウンターに置いた黒い一升瓶には、夏の青空の下で胸いっぱいの向日葵を抱える女のイラストが描かれている。

「向日葵から分離した酵母で造られた日本酒です。ちょっと珍しいですね。」

クールといえば聞こえは良い。そんなマスターが初めてはにかんだ。

「気になさらずゆっくりしていって下さい。うちはお客様の幸せを願う店ですから。」

腕時計は2時を指している。終電はとっくにない。マスターの好意に甘えて始発までここで過ごそう。

「あぁっ!珍しい!この店にお客さんがいる!ティンカーさん!残業で帰れないから今日もここに泊めて!あっ!お客さんが飲んでいるの私の実家で造ってるお酒!このラベルのモデルって私なんですよぉ!良かったらお近づきの印に私ともう一杯どうですか?」





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る