文体もまた擬態なのかもしれない

大学で天使に出会った私は、二十歳の誕生日にお酒の力を借りていよいよ彼女に関係を迫ろうとする。そこで意識されてしまうのは自分が男性ではないということだった。
という内容を回想を交えつつ、理性的な確かな筆致で綴られる一人称。
ときおり挿入される嫌味にならない程度の引用にニヤリとし、殺人ブルドーザー女のようなパワーワードじみた単語にクスリ、という具合にポップで饒舌な語りはすらすらと流れていく。
過去として語られる女子校での火遊びなんてのもいかにもで、一定のリアリティがある。
なのに、読み終わったときにまず自分が感じたのは「えっ?これで終わり」ってことだった。
というのも、あれだけ丁寧に内面を描写されてきたのに、タイトルにもなっている金閣炎上からあとがあまりにもあっさりとしていたから。
おい、肝心な部分がねーじゃねぇか。
本歌である『金閣寺』がそうだからと言ってしまえばそれまでなんだが、出会いの下りも濁されていたしどうなっているんだ。金返せ。ぶーぶー。
となって、作品ページを見返してみたらテーマが擬態となっている。
たしかに、事に及ぶに当たって役割として男であることが求められるのは擬態かもしれない。
金閣炎上の前後を比較すれば、天使だった彼女もある種擬態だったのかもしれない。
しかし、それだけなのだろうか。
読んでいる間つきまとっていたのは、一定のリアリティがありながらその言葉がどこか空虚さを孕んでいるということだった。
思えば、教養で殴るスノッブじみた圧も、理知的な語りも、一般的に男性的だとされているものではないか。
だからこそ、肝心な部分は語られなかったのではないか。
男性に擬態しようとした彼女は語るべき言葉を持たなかったのではないか。
プロメテウスの火は知恵、言葉は光。
その火によって生じた光が強ければ強いほど、陰は濃いものとなる。
肝心な部分は語られなかったが、語られなかったからこそ、それが確かにあったのだと思いを馳せたくなる。

みたいなことを考えたのは、それが百合だったから。
どんな形であれ百合はてぇてぇのだ。

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