アリス・イン・ザ・金閣炎上

和田島イサキ

アリス・イン・ザ・金閣炎上

 もし私が男に生まれてさえいれば、こんなに葛藤することもなかったのにと思う。

 躊躇ためらいなくいけた。こういうとき、すなわち夜遅く私の部屋で眠りこける女友達を目の前にしたとき、迷わず本能に身を委ねてしまえるのが男というせいの強みだ。実際、幾度となく匂わせてきたことではあった。あなたといると「私が男だったらなあ」って思う瞬間がしばしばあるよ、と。返事はなかった。彼女はただいつものふにゃふにゃした笑顔で「えぇ〜?」と笑って、それははたして引いて﹅﹅﹅いるのかそれとも満更でもないのか、いずれにせよ私は思うのだった。じゃあいいや、やっちゃえ、と。

 やってしまうことにした。次に彼女が私の前、無防備な姿を晒した暁には。

 もとよりそのつもりでいたのだけれど、でもいざそのときが来てみるとなかなか体が動かないのが女の不便なところだ。テストステロンが足りない。狩猟本能と征服欲も。こたつの隣、あどけない寝顔を晒すこの小さな天使を、その寄せてくる過分なまでの信頼を、でもたかが一時いっときの衝動ですべてご破算にしてしまえる、そんな野の獣になれたらと願いつつ迎えた二十年目の人生。大人になったという実感はないけど、彼女はふにゃふにゃ笑って喜んでくれた。曰く、これで今日からはふたりで飲めるね、と。一足先に成人を迎えた彼女は今や立派なお酒好きで、でもそのわりには酔い潰れて寝るの早くない? なんて、そんなのは最初から予想できたことだ。

 知り合っておおよそ二年弱、彼女はいつも寝てばかりいる。実はそういう難病なのと伏し目がちに言われて、それを信じたあの頃の私は本当にピュアだったと思う。まあ仕方ない、実際世間知らずの田舎娘ではあった。小中高と山奥のミッション系女子校に育って、そこで特殊な人間関係の泥沼に首まで浸かって、そして「このままだと何か大事なものを踏み外したまま大人になる気がする」と、命からがら都会の有名大学に逃げ込んだ矢先の出会いだった。

 彼女、ヒンチクリフ・アリスはそれはもう途轍もない美人で、あっこれならOKです人生踏み外してもと素直に思える程度には傾城傾国していて、特にその金の御髪みぐしと白磁の肌が大変印象的なのだけれど、でも背丈の方は意外とそんなでもない。大体私と同じくらい、せいぜい平均よりやや上程度で、加えて周囲に明るさを振りまくその愛嬌もあってか、普通に天使か何かだと思われている。恐れ多くてそうおいそれとはお近づきになれない、いわゆる高嶺の花ポジションに当初はいたようなのだけれど、でもその大輪をある日突然根こそぎにした、空気の読めない殺人ブルドーザー女がどうやらこの私だった。

「すごいね黒岩さん。あのヒンチクリフさんによくもまあ、あんなことを」

 入学して最初の一ヶ月、何度そう声をかけられたことか。衝撃の大惨事はあっという間に学内中の知るところとなって、でも具体的に何をどうしちゃったのかは絶対に言わない。いまだに思い出すたび「ああーッうんこうんこうんこ」ってなるくらいの生き恥、でも当のアリスは全然気にした様子がないというか、なんなら若干喜んでるっぽくも見えるのがまあ救いといえば救いか。

 とまれ、そんなハイインパクトな出会いのおかげもあってか、私たちはほどなくひとつになった。

 もとい、とっても仲良しさんになった。例えば私が学内にひとりでいると、会う人会う人「あれっ、今日はヒンチさんどしたの? 死んだ?」とか言ってくるくらいには親しくなった。なりすぎだと思う。どうやら傍目にはもう完全にニコイチ﹅﹅﹅﹅みたいで、でも私としては正直「別に言うほど一緒でもなくない?」って思う。

 たまたまキャンパスが同じってだけで学部は別々、住んでるところだって結構遠い。地元が違えば普段の行動範囲だってバラバラ、共通しているのはせいぜい所属サークルくらいのものだ。茶道部。別に興味があったわけでもないのだけれど、でもアリスがふにゃふにゃした顔で「ひとりじゃヤダー」って言うから仕方なく入った。失敗だった。というか、最初はちゃんと反対したのだ。

 お茶はやめとけと、だってそのなり﹅﹅でお茶やお花の類はもう完全に留学生ですよと、っていうか現に今でさえちょいちょい英語で話しかけられてはガチ泣きで私に丸投げしてくるよねお前と、その私の忠告っていうか苦情にでもこの生粋の日本語ネイティブ、

「——ホワッツ? オーワタシアナタ何言ッテルカワカッッァいッ!」

 脇腹を押さえてその場に悶え転がる、その姿を見下ろしながら私は思ったのだった。じゃあいいや、やってやろう、と。どちらかといえば控え目な、これまでただ私の後をふにゃふにゃついてくるばかりだったこのたんぽぽの綿毛みたいな女の、でも初めて自分から強く言い出した望みだ。是非もなし、他でもないあなたの頼みであればと、私は彼女の道行きに連れ添う覚悟を決めた。その結果がこの有様だ。少なくとも今年度に入ってからというもの、私たちはまともにお稽古をした記憶がない。

 まあ仕様のない面もあるとは思う。元々が結構な過疎サークル、先輩たちが卒業なり退学なりであらかた去っていった今、部員はわたしたちふたりを残すのみだ。結果どうなるかは推して知るべしというもの、部活と称して日々和室を占有、お菓子をつまみながら雑談や趣味に興じて、そのうちに片一方がすやすや寝こけてしまう。特にすることもなく取り残された夕暮れの和室、安心しきった寝顔を間近に眇める私の、その胸のうちに湧き上がる未知の情動。この汚れひとつない無邪気の塊を、簡単にその身を預けてしまえる雛鳥の無垢を、でも特段の理由なく滅茶苦茶にけがしてしまいたくなる、このどこまでも粗野で根源的な人間の本能。

 なんで男に生まれ損ねたの私、と、繰り返し自問してきたこの一年。

 大学二年の年度末、具体的には二月の末ごろ。アリスに遅れること約十ヶ月、ようやく二十歳はたちの誕生日を迎えた私は、アリスたっての希望で彼女を自宅アパートに招くことになった。名目は当然お誕生会、それもお酒が入るから自宅が万全って理屈だ。考えたものだと思う。そうまで言われては断りようもなくて、つまり逆説、私はこれまで彼女を家にあげたことがない。何かにつけては人んちに来たがるこのお呼ばれ大好き女を、都度「ダメそんなとこ汚い」と拒み続けて、でもそれもいよいよ年貢の納め時かなと、そう腹を括ったのはまあ簡単な話。

 気づいてしまった。汚いから、ではまったく理由にならない。こんなぐちゃぐちゃに散らかりきった魔窟の如きワンルームでも、私の心の中ほどには汚れていないのだから。

 膨れ上がる衝動は別にいい。多くの人間に自ずと備わるはずのものを、でも勝手に汚いと断罪してなお許されてしまう、そんな無敵の季節はとうに過ぎた。少女の頃ならいざ知らず、いまや私は一端いっぱしの大人だ。少なくとも法律上の成年という意味ではそうで、だから汚いのは欲や熱情ではなく、いつしかそこにぶら下がるようになった薄っぺらい保身だ。

 夜遅く、ふたりきりの密室を作ったのはアリス自身で、まして彼女の方から勧めてきたお酒だ。この状況、私の側に取るべき責任は生じ得ないのではないか——。

 そんな打算が夜遅く、そろそろ日付も変わろうかって時間に、まだしっかり働いてる時点で駄目だと思う。酔えてない。少なくとも自分の中のドロドロした情欲、それを後先考えずぶち撒けるほどには。ああこんなものか、というがっかり感、期待を裏切られたことへの失望があって、つまり私はこのとき初めて知った。大人のつく嘘、そのあまりの情けなさを。

 全然だ。飲んでみて、実際にその場と状況を経験してみてわかった。お酒の力って、酔った勢いって、言うほどじゃない。もしこんな冷静な頭で例えば「酔ってるから大目に見て」みたいな、そういうことを言っていたのだとしたら普通にクズだと思う。

 恥ずかしい。晴れて大人の仲間入りを果たした自分が、今日からは彼らと同じ陣営なのだという事実が。アリスはよく平気でやれてんなって思う。彼女はちょいちょいお酒を飲んで、なのに普段は子供みたいにふにゃふにゃ笑って、これは神経が図太いのかそれとも私より十ヶ月先行しているが故の余裕か、いずれにせよ今日のこの惨状はすべて彼女の言葉を信じた結果だ。

 以前、アリスに聞いたことがある。大人って、一体どういうものをいうんだろうね、と。

 彼女の答えは明瞭だった。平素なら「えっ、ええぇ〜っ?」とふにゃふにゃ頬を染めていたであろうところ、でも滅多に見ないシャキッとした顔で、

「違うよれいちゃん。大人は嘘つきなのではなくて、ただ間違いをするだけなのです」

 とかなんとか、そのひとことで全部済ませようとした。今からおよそ半年前、彼女の買い物に付き合う約束をしていた夏の日のことだ。

 いつも寝てばかりの私の天使は、もちろん待ち合わせの朝だろうとお構いなしに天使で、だからその結果として生じた一時間の遅刻。それをこいつは「意図的な欺罔ぎもう行為でなく過失なのでセーフ」みたいなガバガバ理論で世の正道を捻じ曲げにかかって、そのとき私は思ったのだった。じゃあいいや、やっちゃおう、と。間違いなら仕方ない、やっちゃったものはもう気にしない、それが〝大人になる〟ということなのだから。半年後、私が彼女と同じく大人になるとき、私には間違いを起こす権利がある。彼女に対して、少なくともこの一回分は。こう見えて私は義理堅いたち﹅﹅で、例えば借りたものは必ず返すようにしている。

 そのつもりで迎えた今日この日、私が初めて大人になる夜。

 密室にお酒、眠る獲物に一回分の権利。一分いちぶの隙もない完璧な布陣は、でも所詮は素人の生兵法だった。傷つける勇気も、傷つく覚悟すらないのは薄々自覚していて、だからお酒さえあれば人生みんなハッピーと、そんな大人の言い訳を信じた結果がこれだ。

 眠る子羊の前にひとり、夜に取り残された生まれ損ないの獣。

 あるいは、ただ単純になり損ねたのだろうか。子供から大人へのクラスチェンジ、二十歳はたちの扉を開く魔法の儀式は、とても成功したとは言えそうにない。アリスが手ずから焼いてくれたお誕生日ケーキは、もちろん嬉しいけどふたりで六号サイズはどう見ても過分で、実際こいつ一体でこたつの上のスペースが完全に死んで、しかもお酒との相性が絶望的だった。そもあんまりバースデーケーキ然としてないのがもうおかしいというか、まず蝋燭のうちの二本に火をつけたところで彼女は力尽きたらしく、

「それでは聞いてください。『いま私の親指の腹があまりにも痛い』」

 とかなんとか、本来ハッピーバースデイの歌がくるはずのところ、謎のオリジナルソングが始まったときには本当どうしようかと思った。ごめんねライターの使い方も理解できないゴリラでと伏し目がちに歌って、でももうゴリラ星に帰らなきゃと突然宇宙規模のストーリーになって、そこまでやった以上は素直にお星様になれば済んだはずのところ、

「なので今日は玲ちゃん二歳のお誕生日ということで」

 なんて、どうして実害の部分だけこっちに押し付けるんだろう。冗談じゃなかった。許さんぞ貴様と私は怒って、だって一緒のお酒を楽しみにしてたのゴリラの方じゃんかと泣いて、そして彼女の遺したライターを手に立ち上がったところででも無駄だった。足りない。そもそもの蝋燭の本数が。何べん数えても十本しかない以上、どんなに頑張ったところで私は十歳児どまりだ。

「四年生さんかな? えらいねー、アリスお姉ちゃんって呼んでごらん? さん、はいっ」

「ゴリラおねえちゃーん」

 飛びつく私をよしよしと抱きとめるゴリラは、でもただ優しいだけの森の賢人ではなかった。それは強く逞しく、なによりこれで意外と目ざといところがあって、だから時折ポロリと言わんでいいことを言っては、無意味に私をどきりとさせる。

 ——迂闊だった。いや、別に隠したい過去ってわけでもないのだけれど、でも今となっては完全にいらない設定なのだ。

「よく指痛くなんないね。玲ちゃん、昔たばことか吸ってた?」

 いや全然。そう即答して、その即答ぶりが答えだった。へまこいた。ここは「え、なんで?」くらいが自然な回答、とぼけるにしてもせめて「は? 客のたばこにつける方だが?」くらいがギリギリのラインで、それを食い気味﹅﹅﹅﹅の「んんやッぜんぜーん!」はさすがに頑張りすぎだ。言い訳くさいし嘘くさい。いや厳密には嘘ではないのだけれど、でも質問の意図を思えば事実上の嘘だ。

 ——吸ってない。吸ってはないけど、使ってはいた。たまに火をつけてそのままぼんやり眺めて、言うなればそれはおまじないのようなものだ。

 ほほう男かね、と粘っこく目を細める酔いどれ天使。今度こそ「だったらよかったんだけどね」と自然に返して、その二秒後にやっと「ん? 何がどう男」と気づく。いやどうもこうもなく男、と酔っ払いは答える。吸いもしないたばこだなんて面白アイテム、完全に昔の男を引きずる思春期少女の拗らせ仕草じゃないですか奥さん、と、そのトレードマークのふにゃふにゃ笑顔がみるみるネチョネチョ糸引き始めて、ああ私もこいつくらいわかりやすく酔えたらなあ——なんて、内心にうっすら嫉妬したのはでも永遠の秘密だ。

 普段つとめてそっち系の話題を避けてきたアリスが、でもここまでストレートに男とか言うのは珍しい。この分だともう長くないなという予想の通り、それから五分と待たず彼女は落ちた。手を伸ばせば届く距離、ぐったり投げ出されたままのなまめかしい肢体。湧き上がる衝動とは裏腹に、手足の先だけがすうっと冷えていくような感覚。

 男かね、という彼女の洞察。あながち間違いでもないな、と今にして思う。

 男だった。私の、ではなく、私が、誰かの。なり損ないにせよ紛い物にせよ、でもそうあるべしと定めたのは紛れもない事実。

 少女の頃、あの狭くいびつな鳥籠の中で、少女たちが私のどこに魅力を感じたのかは知らない。知りようもないうえであえて勘繰かんぐるのであれば、きっと魅力など何もなかったのだと思う。ただたまたま人より多少背が高くて、たまたま運動が得意でたまたま目つきが鋭く、そしてたまたま髪が短かった。それだけだ。それだけで他に余計なものがない、そこが都合がよかったのだろう。思春期の心に否応なく芽吹く情動、そのはけ口として自ら産んだ虚像を投影するのに。

 あまり嬉しくないのは事実だけれど、でも文句を言えた身の上でもなかった。あの特異な閉鎖環境、独特の息苦しさを知る身としては、ただ「いいよ」と頷く以外にない。似た属性の集団による共同生活というのは面白いもので、個と群の区別をわざと曖昧にするところがある。自らそうありたいと望んだことと、場が私にそうあるべしと定めたものの、その境界が容易たやすくあやふやになるのだ。

 もし少女が私に自由な大空を見るのであれば、それに付き合うくらいは先輩の甲斐性だと思う。実際、それはまったく簡単だった。もとより自ら積極的に作り上げた幻想、まして互いに通底した価値観や文化があるなら、あとはどう筋書きをなぞるかの話でしかない。要は茶番だ。放っておけば向こうで勝手に見たい夢を見て、だからもし大変な点があったとすれば、せいぜいその際限のなさくらいのものだ。

 子供の欲は底知れない。少女たちは私のすべてを搾り取ろうとして、でもなり損ないの身では満たしてやれるものがなかった。苦肉の策が、あのたばこだ。わざと服に染みつけた匂いが、身を寄せ合うたびに相手へと移る。汚され侵食されることの代替行為を、見ることも触れることも叶わぬ〝つながり〟という秘蹟を、私はこうして彼女たちに与えた。あるいはそこまで大袈裟なものではなくとも、単純に未成年の喫煙は違法行為だ。大人たちに知られては困る私の弱みを、ただの知人友人には決して見せることのない隙を、でも君にならとその掌にそっと握らせてやる。そんな安いような重いような作り物のドラマが、どんな通貨より力を持つ世界だった。

 あれから二年。

 外に出て、アリスという新たな友人を得て、いま振り返ればなんのことはない。

 読んで字のごとくの子供の遊び、とどのつまりはおままごと﹅﹅﹅﹅﹅だ。

 まだ翼を持たない雛鳥のための、安全安心な練習用の空。あまりにも都合のいい偽物の火遊び、爪と牙のない張りぼてのけだものだ。そんな役柄に、別に嫌気がさしたってわけじゃない。どれもそれなりに楽しく、またなかなかに美しい思い出ばかりで、それでもじっとりとした不安に絡め取られてしまうのはつまり、私もまたその雛鳥のうちの一羽でしかないってことだ。あれこれ知った風なことを言ってはいても、結局私はまだそれ﹅﹅を知らない。自分が紛い物であることはわかる、問題は正解を知らないことだ。

 際限を知らない少女の欲。どれだけ求めても満たされないのは私も同じで、だからただヤニくさいだけの子供騙しで満足してしまえる、そんな小さな花々では物足りなくなった。いくら愛でても、またどれだけ手折たおり引きむしろうとも、もはやこの渇きは到底うるおせそうにない。

 街に出よう。書を捨て、恋に生き、肉に牙を突き立てよう。その白磁の柔肌に、淡くきらめく蜂蜜色の髪に。われなり損ないなれどしかし野の獣なりやと、その野性の証明として。

 機は熟した。今宵、いよいよ時はきたれり。人から獣へ、子供から大人へ、紛い物の男から真の男へ。今いっとき、境界を飛び越えるにはまたとない好機。

 悩む必要はなかった。迷いであればなおのこと。もとより心にそう決めていたのに、でも出来損ないのからだは動かない。飾り物の牙はものの役に立たず、爪などもとより研いだこともなかった。しなやかに草原を駆ける脚は、だが獲物を追うためのものではなかったと今にして知る。もともと運動が得意で、特に徒競走では負け知らずだった私は、でも今の今まで気づかずにいた。先頭をゆくものにとって競争とは、追いつかれる前にゴールまで逃げ切ることだ。最初のリードを守ってさえいれば、ただ逃げ続けていればそれで済む。これまで誰かの背を追うどころか、敵対者の影さえ視界に収めたことのないものが、それで一端の獣を気取ろうなどと。おこがましく、また思い上がりにも程があった。

 やはり、足りない。アンドロステロンが、そして支配欲と闘争本能が。

 べて事もない世に事を起こす、私は金閣を焼かねばならぬ。そのために出てきた。そのためにあの山上の花園を捨て、そして天使に出会ったのだ。失敗だった。こんなことなら最初から出会わなければよかった、なんて、まさか出会い頭にあんな真似しといてそんなこと言えない。彼女には悪いことをした。そして今、これからもっと悪いことをする。後悔はない。躊躇ためらいはあれど、でもそれだけだ。だって一遍あんなことしちゃった以上、もう二回も三回も一緒だと思う。

 ——決めた。

 やる。こたつ布団をめくり上げ、そのままアリスの下半身、ワンピースの裾に手をかける。

 拝む。手を合わせて、そのあまりにも丸い尻を。広い骨盤と、そして存外に肉のダイナミズムにあふれたその太ももを。もはや余計なことは考えまい、ただ氷の心で機械的にこなす。そうだ今さえ良ければ後々どうなったっていいんだと、そんな我欲をたのみにしているうちはまだ獣にはなれない。目先の快不快で動くのではなく、ただなんとなく。ノリと勢い、損得勘定を丸ごとドブに捨てたところで動くのが男の本能というもので、いや世の男性諸君が本当にそういう哲学のもとに生きて死にゆくものかどうか、浅学の身ではまったく保証のしようもないのだけれど、でもわかる。これだけは言える。少なくとも、今の私にとってはこれで十分、それなりの手応えを感じる程度には〝男〟をやれている実感があると。

 これは私にとって過去との決別の儀式、あの甘えた日々に対する最低限のけじめ﹅﹅﹅だ。

 少女たちから望まれた、あまりにもリアリティのない初心者向けの〝男〟。嫌いじゃないけどさすがに出来過ぎというか、いやいや絶対こんなんじゃないよね現実のそれって、と、そんな焦燥感にも似た不安がこの胸のうち、堪えきれず溢れたが故のこの状況だ。外の大学に進んで、嘘みたいな美女を捕まえて仲良くなって、そのまま家に連れ込んでお酒で潰して、そして魅惑の桃尻に手を合わせるところまでは来た。にしても本当に凄味のある尻だ。むちむちと、実に男好きのする安産型の上手物じょうてもので、こうしてただ転がしておくだけでも部屋の中、せ返るような〝女〟が充満していくのがわかる。正直、知りたくなかったとも思う。家族同然に仲の良い女友達の、いつものふにゃふにゃした子供みたいな笑顔の裏、実は薄衣うすぎぬ一枚隔てた向こうにずっと根を張っていた、どうしようもないほどに濃密な〝セックス〟を。

 私は何をしているんだろう? 考えまいとしていた最悪の疑問が、魔尻へのおそれのおかげで強く意識されてしまう。なんだろうこの状況、本当なんなんだろうこの可愛らしい下着。こんな凶悪な臀部に穿かせていい代物ではなくて、だから決断に時間は必要なかった。剥ぐ。教育に悪いという意味ではたばこの比じゃない、これは何より先に没収されるべきものだ。眠る尻主アリスを仰向けた後、両手でタイツごと引き摺り下ろす。大変だ。なんかいきなり大変なことになった。いま私の眼前に広がるそれは、本当なら最初から覚悟も期待もしていたはずの光景。

 ——の者、青き衣を纏いて金色こんじきの野に降り立つべし。

 そうだった。彼女のそれは天然だ。上が金色夜叉なんだから下だってゴールデンボンバーしてるに決まっていて、実際かなりの女々しさだった。真冬にもかかわらず手入れの行き届いた白磁の庭は、中央の丘にわずかな稲穂を残すのみで、しかも元々がそこまで肥沃な大地でもないのか、どこか芽生えの息吹を感じさせるふんわりボンバーだった。

 手を伸ばし、そのしなやかな柔らかさを指に感じた瞬間、私の中で何かが結実した。

 世界からあらゆる音が消えて、明鏡止水の境地に私は至った。これだ、という実感が確かにあって、だからその先はほとんど無意識のこと。からだが、はらが、肉が動く。遺伝子に刻まれた生命いのちの本能が、知るはずのない正解を導き出す。黄金こがねの丘に左手を添えて、右手には彼女の遺したプロメテウスの火。理屈でなく、まして理由などなおのこと。状況がここまで整ったなら、人間・黒岩玲のいま成すべきはひとつ。

 ——私は、金閣を焼かねばならぬ。

 火を灯さん。いざ金の瑞穂みずほそよぐその豊葦原とよあしはらに、救世主降り立つべき磔刑の丘に。親指ひとつ、いとも容易く放たれた終末の火の矢は、それを自ら成した今なお理解できない。我々は、男は何故なにゆえ、酔い潰れた友の隠毛に火をつけるのか? 部屋に漂う、タンパク質の焦げるあの独特の匂い。突如開催された汚い花火、真の男のキャンプファイヤーは、でも元来動機を問うべきものではないのだ。

 そこに隠毛があるから。

 あと、なんかライターもあったから。だから燃やして、そしてその瞬間アリスは夢から醒めた。まあ当然のこと、だって自分のデリケートゾーンが突然発火したら熱い。「ンッヂャァッ!」と弾けるみたいに飛び起きる、あくまでそれが自然な反応で、だから私は、正直、存外に悩んだ。

「人のまんげでキャンドルサービスをするな」

 若干本気で怒ってるっぽいアリスの、そのあまりにも早く正確な状況認識。えっなんで起きた瞬間にもう下の毛燃やされたってわかるのと、その反応がどうやら〝最後の一葉〟だった。いつも寝てばかりの私の天使は、もちろんお誕生会の夜こそこれ見よがしに天使で、でもいつから本当に寝ていると錯覚していた? 一度剥がれた化けの皮はもう元には戻らず、もはや小細工は不要と判断した狸寝入りの天使の、その感情豊かだったはずの瞳がスッと色味を失う。賽は投げられた。明鏡止水の境地の境地、音のない世界に天使のラッパが響く。私は震える。見慣れたはずの女友達の、でも今まで一度も見たことのないその表情に。それは待つことにんだゴリラの顔か、それとも牙を隠すことをやめた肉食獣の目か、いずれにせよ私は思い知るのだった。もうだめだ、犯される、と。

 諦めることにした。何をかは秘密だ。実際、そこまでダイレクトな肉欲の宴にはならなかったのだけど、でも精神的には十分お腹いっぱいになった。金閣は燃えた。金閣をすのは怒るくせに、でもそれ以外の行為なら黙って受け入れてたっぽい、そんな不思議の国の友達を持てて私は幸せなのだと思う。大事にしたい。お酒にはこれからも付き合ってあげようと思う。部屋にあげるかどうかは悩みどころだけれど、なんか掃除してくれるっぽいからたぶん断れない気がする。とまれ、私たちはこうしてひとつになった。なりすぎだと思う。もし私が男に生まれてさえいれば、ここまで周りくどい話にはならなかったのだけれど。




〈アリス・イン・ザ・金閣炎上 了〉

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