アリス・イン・ザ・金閣炎上
和田島イサキ
アリス・イン・ザ・金閣炎上
もし私が男に生まれてさえいれば、こんなに葛藤することもなかったのにと思う。
やってしまうことにした。次に彼女が私の前、無防備な姿を晒した暁には。
もとよりそのつもりでいたのだけれど、でもいざそのときが来てみるとなかなか体が動かないのが女の不便なところだ。テストステロンが足りない。狩猟本能と征服欲も。こたつの隣、あどけない寝顔を晒すこの小さな天使を、その寄せてくる過分なまでの信頼を、でもたかが
知り合っておおよそ二年弱、彼女はいつも寝てばかりいる。実はそういう難病なのと伏し目がちに言われて、それを信じたあの頃の私は本当にピュアだったと思う。まあ仕方ない、実際世間知らずの田舎娘ではあった。小中高と山奥のミッション系女子校に育って、そこで特殊な人間関係の泥沼に首まで浸かって、そして「このままだと何か大事なものを踏み外したまま大人になる気がする」と、命からがら都会の有名大学に逃げ込んだ矢先の出会いだった。
彼女、ヒンチクリフ・アリスはそれはもう途轍もない美人で、あっこれならOKです人生踏み外してもと素直に思える程度には傾城傾国していて、特にその金の
「すごいね黒岩さん。あのヒンチクリフさんによくもまあ、あんなことを」
入学して最初の一ヶ月、何度そう声をかけられたことか。衝撃の大惨事はあっという間に学内中の知るところとなって、でも具体的に何をどうしちゃったのかは絶対に言わない。いまだに思い出すたび「ああーッうんこうんこうんこ」ってなるくらいの生き恥、でも当のアリスは全然気にした様子がないというか、なんなら若干喜んでるっぽくも見えるのがまあ救いといえば救いか。
とまれ、そんなハイインパクトな出会いのおかげもあってか、私たちはほどなくひとつになった。
もとい、とっても仲良しさんになった。例えば私が学内にひとりでいると、会う人会う人「あれっ、今日はヒンチさんどしたの? 死んだ?」とか言ってくるくらいには親しくなった。なりすぎだと思う。どうやら傍目にはもう完全に
たまたまキャンパスが同じってだけで学部は別々、住んでるところだって結構遠い。地元が違えば普段の行動範囲だってバラバラ、共通しているのはせいぜい所属サークルくらいのものだ。茶道部。別に興味があったわけでもないのだけれど、でもアリスがふにゃふにゃした顔で「ひとりじゃヤダー」って言うから仕方なく入った。失敗だった。というか、最初はちゃんと反対したのだ。
お茶はやめとけと、だってその
「——ホワッツ? オーワタシアナタ何言ッテルカワカッッ
脇腹を押さえてその場に悶え転がる、その姿を見下ろしながら私は思ったのだった。じゃあいいや、やってやろう、と。どちらかといえば控え目な、これまでただ私の後をふにゃふにゃついてくるばかりだったこのたんぽぽの綿毛みたいな女の、でも初めて自分から強く言い出した望みだ。是非もなし、他でもないあなたの頼みであればと、私は彼女の道行きに連れ添う覚悟を決めた。その結果がこの有様だ。少なくとも今年度に入ってからというもの、私たちはまともにお稽古をした記憶がない。
まあ仕様のない面もあるとは思う。元々が結構な過疎サークル、先輩たちが卒業なり退学なりであらかた去っていった今、部員はわたしたちふたりを残すのみだ。結果どうなるかは推して知るべしというもの、部活と称して日々和室を占有、お菓子をつまみながら雑談や趣味に興じて、そのうちに片一方がすやすや寝こけてしまう。特にすることもなく取り残された夕暮れの和室、安心しきった寝顔を間近に眇める私の、その胸の
なんで男に生まれ損ねたの私、と、繰り返し自問してきたこの一年。
大学二年の年度末、具体的には二月の末ごろ。アリスに遅れること約十ヶ月、ようやく
気づいてしまった。汚いから、ではまったく理由にならない。こんなぐちゃぐちゃに散らかりきった魔窟の如きワンルームでも、私の心の中ほどには汚れていないのだから。
膨れ上がる衝動は別にいい。多くの人間に自ずと備わるはずのものを、でも勝手に汚いと断罪してなお許されてしまう、そんな無敵の季節はとうに過ぎた。少女の頃ならいざ知らず、いまや私は
夜遅く、ふたりきりの密室を作ったのはアリス自身で、まして彼女の方から勧めてきたお酒だ。この状況、私の側に取るべき責任は生じ得ないのではないか——。
そんな打算が夜遅く、そろそろ日付も変わろうかって時間に、まだしっかり働いてる時点で駄目だと思う。酔えてない。少なくとも自分の中のドロドロした情欲、それを後先考えずぶち撒けるほどには。ああこんなものか、というがっかり感、期待を裏切られたことへの失望があって、つまり私はこのとき初めて知った。大人のつく嘘、そのあまりの情けなさを。
全然だ。飲んでみて、実際にその場と状況を経験してみてわかった。お酒の力って、酔った勢いって、言うほどじゃない。もしこんな冷静な頭で例えば「酔ってるから大目に見て」みたいな、そういうことを言っていたのだとしたら普通にクズだと思う。
恥ずかしい。晴れて大人の仲間入りを果たした自分が、今日からは彼らと同じ陣営なのだという事実が。アリスはよく平気でやれてんなって思う。彼女はちょいちょいお酒を飲んで、なのに普段は子供みたいにふにゃふにゃ笑って、これは神経が図太いのかそれとも私より十ヶ月先行しているが故の余裕か、いずれにせよ今日のこの惨状はすべて彼女の言葉を信じた結果だ。
以前、アリスに聞いたことがある。大人って、一体どういうものをいうんだろうね、と。
彼女の答えは明瞭だった。平素なら「えっ、ええぇ〜っ?」とふにゃふにゃ頬を染めていたであろうところ、でも滅多に見ないシャキッとした顔で、
「違うよ
とかなんとか、そのひとことで全部済ませようとした。今からおよそ半年前、彼女の買い物に付き合う約束をしていた夏の日のことだ。
いつも寝てばかりの私の天使は、もちろん待ち合わせの朝だろうとお構いなしに天使で、だからその結果として生じた一時間の遅刻。それをこいつは「意図的な
そのつもりで迎えた今日この日、私が初めて大人になる夜。
密室にお酒、眠る獲物に一回分の権利。
眠る子羊の前にひとり、夜に取り残された生まれ損ないの獣。
あるいは、ただ単純になり損ねたのだろうか。子供から大人へのクラスチェンジ、
「それでは聞いてください。『いま私の親指の腹があまりにも痛い』」
とかなんとか、本来ハッピーバースデイの歌がくるはずのところ、謎のオリジナルソングが始まったときには本当どうしようかと思った。ごめんねライターの使い方も理解できないゴリラでと伏し目がちに歌って、でももうゴリラ星に帰らなきゃと突然宇宙規模のストーリーになって、そこまでやった以上は素直にお星様になれば済んだはずのところ、
「なので今日は玲ちゃん二歳のお誕生日ということで」
なんて、どうして実害の部分だけこっちに押し付けるんだろう。冗談じゃなかった。許さんぞ貴様と私は怒って、だって一緒のお酒を楽しみにしてたのゴリラの方じゃんかと泣いて、そして彼女の遺したライターを手に立ち上がったところででも無駄だった。足りない。そもそもの蝋燭の本数が。何
「四年生さんかな? えらいねー、アリスお姉ちゃんって呼んでごらん? さん、はいっ」
「ゴリラおねえちゃーん」
飛びつく私をよしよしと抱きとめるゴリラは、でもただ優しいだけの森の賢人ではなかった。それは強く逞しく、なによりこれで意外と目ざといところがあって、だから時折ポロリと言わんでいいことを言っては、無意味に私をどきりとさせる。
——迂闊だった。いや、別に隠したい過去ってわけでもないのだけれど、でも今となっては完全にいらない設定なのだ。
「よく指痛くなんないね。玲ちゃん、昔たばことか吸ってた?」
いや全然。そう即答して、その即答ぶりが答えだった。へまこいた。ここは「え、なんで?」くらいが自然な回答、とぼけるにしてもせめて「は? 客のたばこにつける方だが?」くらいがギリギリのラインで、それを
——吸ってない。吸ってはないけど、使ってはいた。たまに火をつけてそのままぼんやり眺めて、言うなればそれはおまじないのようなものだ。
ほほう男かね、と粘っこく目を細める酔いどれ天使。今度こそ「だったらよかったんだけどね」と自然に返して、その二秒後にやっと「ん? 何がどう男」と気づく。いやどうもこうもなく男、と酔っ払いは答える。吸いもしないたばこだなんて面白アイテム、完全に昔の男を引きずる思春期少女の拗らせ仕草じゃないですか奥さん、と、そのトレードマークのふにゃふにゃ笑顔がみるみるネチョネチョ糸引き始めて、ああ私もこいつくらいわかりやすく酔えたらなあ——なんて、内心にうっすら嫉妬したのはでも永遠の秘密だ。
普段つとめてそっち系の話題を避けてきたアリスが、でもここまでストレートに男とか言うのは珍しい。この分だともう長くないなという予想の通り、それから五分と待たず彼女は落ちた。手を伸ばせば届く距離、ぐったり投げ出されたままの
男かね、という彼女の洞察。あながち間違いでもないな、と今にして思う。
男だった。私の、ではなく、私が、誰かの。なり損ないにせよ紛い物にせよ、でもそうあるべしと定めたのは紛れもない事実。
少女の頃、あの狭くいびつな鳥籠の中で、少女たちが私のどこに魅力を感じたのかは知らない。知りようもないうえであえて
あまり嬉しくないのは事実だけれど、でも文句を言えた身の上でもなかった。あの特異な閉鎖環境、独特の息苦しさを知る身としては、ただ「いいよ」と頷く以外にない。似た属性の集団による共同生活というのは面白いもので、個と群の区別をわざと曖昧にするところがある。自らそうありたいと望んだことと、場が私にそうあるべしと定めたものの、その境界が
もし少女が私に自由な大空を見るのであれば、それに付き合うくらいは先輩の甲斐性だと思う。実際、それはまったく簡単だった。もとより自ら積極的に作り上げた幻想、まして互いに通底した価値観や文化があるなら、あとはどう筋書きをなぞるかの話でしかない。要は茶番だ。放っておけば向こうで勝手に見たい夢を見て、だからもし大変な点があったとすれば、せいぜいその際限のなさくらいのものだ。
子供の欲は底知れない。少女たちは私のすべてを搾り取ろうとして、でもなり損ないの身では満たしてやれるものがなかった。苦肉の策が、あのたばこだ。わざと服に染みつけた匂いが、身を寄せ合うたびに相手へと移る。汚され侵食されることの代替行為を、見ることも触れることも叶わぬ〝つながり〟という秘蹟を、私はこうして彼女たちに与えた。あるいはそこまで大袈裟なものではなくとも、単純に未成年の喫煙は違法行為だ。大人たちに知られては困る私の弱みを、ただの知人友人には決して見せることのない隙を、でも君にならとその掌にそっと握らせてやる。そんな安いような重いような作り物のドラマが、どんな通貨より力を持つ世界だった。
あれから二年。
外に出て、アリスという新たな友人を得て、いま振り返ればなんのことはない。
読んで字のごとくの子供の遊び、とどのつまりは
まだ翼を持たない雛鳥のための、安全安心な練習用の空。あまりにも都合のいい偽物の火遊び、爪と牙のない張りぼての
際限を知らない少女の欲。どれだけ求めても満たされないのは私も同じで、だからただヤニくさいだけの子供騙しで満足してしまえる、そんな小さな花々では物足りなくなった。いくら愛でても、またどれだけ
街に出よう。書を捨て、恋に生き、肉に牙を突き立てよう。その白磁の柔肌に、淡く
機は熟した。今宵、いよいよ時は
悩む必要はなかった。迷いであればなおのこと。もとより心にそう決めていたのに、でも出来損ないの
やはり、足りない。アンドロステロンが、そして支配欲と闘争本能が。
——決めた。
やる。こたつ布団をめくり上げ、そのままアリスの下半身、ワンピースの裾に手をかける。
拝む。手を合わせて、そのあまりにも丸い尻を。広い骨盤と、そして存外に肉のダイナミズムに
これは私にとって過去との決別の儀式、あの甘えた日々に対する最低限の
少女たちから望まれた、あまりにもリアリティのない初心者向けの〝男〟。嫌いじゃないけどさすがに出来過ぎというか、いやいや絶対こんなんじゃないよね現実の
私は何をしているんだろう? 考えまいとしていた最悪の疑問が、魔尻への
——
そうだった。彼女のそれは天然だ。上が金色夜叉なんだから下だってゴールデンボンバーしてるに決まっていて、実際かなりの女々しさだった。真冬にもかかわらず手入れの行き届いた白磁の庭は、中央の丘にわずかな稲穂を残すのみで、しかも元々がそこまで肥沃な大地でもないのか、どこか芽生えの息吹を感じさせるふんわりボンバーだった。
手を伸ばし、そのしなやかな柔らかさを指に感じた瞬間、私の中で何かが結実した。
世界からあらゆる音が消えて、明鏡止水の境地に私は至った。これだ、という実感が確かにあって、だからその先はほとんど無意識のこと。
——私は、金閣を焼かねばならぬ。
火を灯さん。いざ金の
そこに隠毛があるから。
あと、なんかライターもあったから。だから燃やして、そしてその瞬間アリスは夢から醒めた。まあ当然のこと、だって自分のデリケートゾーンが突然発火したら熱い。「ン
「人のまんげでキャンドルサービスをするな」
若干本気で怒ってるっぽいアリスの、そのあまりにも早く正確な状況認識。えっなんで起きた瞬間にもう下の毛燃やされたってわかるのと、その反応がどうやら〝最後の一葉〟だった。いつも寝てばかりの私の天使は、もちろんお誕生会の夜こそこれ見よがしに天使で、でもいつから本当に寝ていると錯覚していた? 一度剥がれた化けの皮はもう元には戻らず、もはや小細工は不要と判断した狸寝入りの天使の、その感情豊かだったはずの瞳がスッと色味を失う。賽は投げられた。明鏡止水の境地の境地、音のない世界に天使のラッパが響く。私は震える。見慣れたはずの女友達の、でも今まで一度も見たことのないその表情に。それは待つことに
諦めることにした。何をかは秘密だ。実際、そこまでダイレクトな肉欲の宴にはならなかったのだけど、でも精神的には十分お腹いっぱいになった。金閣は燃えた。金閣を
〈アリス・イン・ザ・金閣炎上 了〉
アリス・イン・ザ・金閣炎上 和田島イサキ @wdzm
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