第7話 神出鬼没な猫

 ざあざあと強い雨は、風の勢いに煽られ激しく窓を叩いていた。

 梅雨だから、といえばそうなのかもしれないが、こうも連日雨が続けばどうにも気分が参ってくる。休日の今日はホットカフェオレでも入れて、のんびり読書をしようと思っていたが、雨の様子が気になってしまってあんまり集中できそうにない。天気痛でつきつきと米神付近が痛むのも原因だった。体を温めて、リラックスしようと試みているが、どうにも、そう思えば思うほど体が緊張しているようで、うまくいかない。

 昼食は温かいうどんにした。野菜室に残っていた長ネギと、冷凍してあった鶏もものこま切れ肉、同じく冷凍してあった白菜とほうれん草を見つけたので、適当に放り込んで全部煮込んでしまった。生姜のすりおろしを入れたら良いかな、と思ったが、生憎生姜がなかったので、チューブのすりおろし生姜で我慢する。チューブだって生姜は生姜だ、投入すればふわりと香りよく、すっと鼻に通る感じが好ましい。

 別に寒いわけではなかったし(なにせただの雨ではなくて、梅雨の雨だ。じめじめとした湿気はむしろ熱が篭ったように感じる)冷房だってつけていたが、それとこれとは別の話だ。元より真夏日にラーメンだの鍋だのを好んで食べる方なので、単なる嗜好もあるとは思う。

 出来たばかりのうどんをふうふう言いながら啜る。雨は変わらず激しく窓を打ち付けて、部屋中の音が雨音に支配されてしまったように思えた。仕方なく、普段あまり見ないテレビなんかをつけたりして、音を紛らわせようと試みるがうまくいかない。

(ああやだやだ)

 こういう日は大抵なにをやってもうまくいかない。休日で良かった、と独りごちながら鶏肉を口の中に放り込んで、こういう日はあいつが出てくるんだよなあ、と考えた。

 神出鬼没な猫は、文字通り神出鬼没だ。何かにつけて猫を飼う妄想をしているが、そいつは私の意識に関係ないところでひょっこり現れるので、何か無意識的なものと関係しているのかもしれない。ちょっと体調が悪いとか、うまくいかずに落ち込んでいるとか。自覚していないそういう変化に反応して、ふわりとやってくるのだ。

「やあやあご主人、美味しそうなうどんだね」

 ほら、やってきた。

 大きな体躯の猫は真っ黒で艶やかな毛並みで、両手足付近の毛だけふわふわの白い色になっている。マズルのあたりも同様に白い毛が生えていて、緑みがかった瞳は理知的な色をしていた。

 神出鬼没なその猫は、どうしてかいつもふわりと浮いている。宙に浮いてだらんと過ごす様子は、不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫に近いと思う。というよりは、この場合、チェシャ猫の影響を受けている、のかもしれないが。

「君にはあげないよ、ねこ」

 ニンマリ笑いながら話しかけてくる猫を尻目に、うどんの続きを啜り始める。猫は丼の正面でふわふわ浮くと、うどんに触れるか触れないか、というところまで前足を伸ばして見せる。こちらをからかっているだけで、特に興味がないのは知っていた。この猫は猫というより何かそういう生き物だった。

(いや、まあ、私の妄想の中の話なので、生きてもいないけども)

「ご主人、そういう野暮なことを考えるのはいかがなものかな」

 猫はすぐさまむっと顔を顰めると、ふわふわ浮かんで私の顔の目の前に落ち着いた。「何か疲れているね」と、鼻さきをチョンとつつかれる。

 疲れているか、どうかと聞かれれば、あまり自覚はしていない。忙しかったのは本当だけれど、かといってそこまで疲れているわけでもないのだ。

(本当に疲れてたら、今日だって起きれなかったし)

 そういう時はなにも出来ずに寝て過ごしてしまう。今日は朝から起きているので、なんだかんだと動けている方だろう。

「雨の日は嫌いかね」

 猫がふいと視線を外して、窓の方を向く。ざあざあ降り続けている雨に「まあね」と答えた。好きか嫌いかでいえば、あまり好きなものではない。

 晴れた日の方が好きだ。洗濯物はよく乾くし、足元は汚れないし。日差しが強すぎると、日焼けが気になってしまうけれど。

「なに、雨だってそんなに悪いものじゃない」

 言いながら猫はひょいと体を起こした。宙に浮かんだままなので、バランスよく仁王立ちのポーズ。そのまま何かを持つように右前足を前に出せば、いつの間にか、小さな傘が握られていた。

 神出鬼没な猫なので、猫の身の回りのものも神出鬼没に現れる。

「お気に入りの傘を差せるし、長靴で水溜りに突っ込んだって怒られない。クリーニング店は雨の日割引をしてくれるし、何より」

 猫がペラペラと言葉を続けた。どれもこれも、猫そのものには関係のない話だ。

「温かいうどんが美味しい。そうだろう、ご主人?」

 傘をひょいと持ち上げて、恭しくお辞儀をして見せる猫に私は肩を竦めて見せた。それは、その通りだけど。

「でも、頭はつきつき痛むし、出かけるのは億劫になってしまうし。洗濯物は乾かないし、電車はいつもより混むでしょう」

 言い返せば、顔をあげた猫は私の真似をするように肩を竦めて見せた。「そりゃそうさ!」と思い切りよく笑われて、私はむっと顔を顰める。

 自分の妄想ながら、この猫は自由自在に動くので。思いもよらないことを言う。最も、それが楽しくもあるのだけれど。

「ご主人はいつも基本的なことを見落とす」

「基本的なこと?」

 どたん、と倒れ込むように体を後ろに倒した猫はそのままふわふわ浮かびながらだらりと太々しく寝転んだ。人間みたいに肩肘を立てて頭を支えて、横向きに直る様子は猫というより別の何かだ。実家の母がよくこの体勢で過ごしていたな、と思い出し、それから自分もよくやる姿勢だ、とすぐに思い至った。だらだら寝転がりながら本を読んだりお菓子を食べたり、動画を見るのが楽しい。

「物事にはなににおいても、良い面と悪い面があるのさ」

 猫はそれから、くあり、と大きく欠伸をした。ちなみに、寝転んだ時点で傘はいつの間にか消えてしまった。

「例えば晴れの日だって、やたらと暑くてねっちゅうしょうとやらにかかる危険があるし、眩しいし、日やけをしてしまいそうだし、そのために日傘を差したり日焼け止めを塗ったりしなきゃいけない。ご主人、そういうの、面倒くさがるだろ?」

「そりゃ……」

「でも、晴れた日に飲むアイスミルクは格別に美味しいし、確かにお洗濯もカラカラに乾く。歩きやすいし走りやすいから、お散歩も運動もし放題だ。ご主人、だらだらするのも好きだけど、動き回るのも好きだろ?」

「まあ……」

 猫の言葉に曖昧に頷く。うどんが伸びてしまうな、と思って、残りの面をゆるく啜った。猫はちらりと丼を見下ろしたが、気にするでもなく「だからそういうことさ」と続けた。

「嫌だなあと思っていれば嫌なことばかり思いつく。でもその反面、そいつにだって良いことがあるのさ。

 ご主人は最近お疲れ気味で、だから余計に悪い方にばかり目が向いている。昔は雨だって、そんなに毛嫌いしていなかったろうに」

 猫の言い分は最もなように思えて、私は思わず押しだまる。猫はのんびりした様子で髭を撫で付けると、「ちゃんと息を吐いてみればいいのさ」とのんびりした調子で言った。

「ちゃんと息、ねえ」

「雨の匂いだって悪くないぞ」

 猫はそう言いながらもう一度、くありと大きく欠伸する。私はのんびり食べていたうどんをいつの間にか食べ終えていて、ふむ、と箸を置いた。

「ねこはさ……」

 それで、ぱっと顔を上げる。先程まで猫がいたところにもう猫の姿はなくなっていて、ざあざあと、思い出したように雨の音が響き渡る。はっとして部屋の中を見回すが、いつも通りの自分の部屋だ。猫の気配も感じない。

(本当に神出鬼没だな……)

 けれどしっかりうどんは食べ終えていて、お腹も満足している。つきつきしていた米神はいつの間にか痛みが和らいでいて、ぐ、と体を伸ばして見せた。

「まあ、雨なら雨らしく、だらだらのんびりできるしなあ」

 息を吐いてみればいいのさ、と、猫の言葉を思い出す。そのままふう、と大きく深呼吸すれば、なんとなく感じていた体の重さが、すっと軽くなった気がした。

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