第8話 邪魔してくる猫

 こぽこぽと電子ケトルの中でお湯が沸騰していた。

 暑くじめじめした日が続いているというのに、ホットコーヒーを求めてお湯を沸かしてしまうのはほとんど癖のようなものだ。あるいは、自宅で仕事をする際のルーティンと言ってもよいかもしれなかった。

 ホットコーヒーは好きだが、特にこだわりがあるわけではない。味の違いがわかるわけでもないし、適当に「美味しい」と思ったいれ方でいれている。粉にこだわりがあるわけでもないので、近頃飲んでいるのは友人から土産でもらったコナコーヒーだった。なにも考えずに適当にドリップしたって香りよく美味しいコーヒーができるので、粉自体はとてもよいものなのだろうと思っている。

 家で仕事をする時、寝室のデスクでパソコンを開くのはなんとなく乗り気になれず、いつもダイニングテーブルに作業環境を持ち込んで仕事をしていた。ちょっとの作業くらいなら部屋で行うこともあるが、テレワーク日みたいな、がっつり終日仕事をしなければならない時は尚更だ。キッチンに近いので、飲み物やお菓子なども用意しやすい。自室と違う環境なので、仕事をするスイッチが入る気がする。

 電子ケトルのスイッチが切れるのと同時に、ドリッパーにセットしたフィルタに適当な分量の粉コーヒーを入れた。ゆっくりお湯を回し入れると、とぽとぽと静かにコーヒーが落ちていく。瞬間、ふわりと漂うコーヒーの香りが好きだった。どこか癒される香りだ、自宅で仕事、という憂鬱な単語も、コーヒーの香りをじっくり楽しめるなら途端に良いもののように思えてくる。

(そういえば)

 それで、ふと思い出す。

 以前同僚が、自宅でテレワークをする際必ずコーヒーを入れて飲んでいたところ、飼っている猫がパソコン周りにやってくるようになってしまい、どうにも仕事に集中できなくなってしまい困っていると言っていた。

 コーヒーの匂いにつられたわけではないと思うが、普段しない香りが飼い主の部屋から漂ってきたら、興味本位で向かってしまうものなのかもしれない。結果、その匂いがする時は必ず飼い主がいるのだ、と覚えれば、なにをしなくても寄ってきてしまうものかもしれない。

(いいなあ、猫に邪魔されたい)

 同僚は困った顔で笑いながら、でも愛おしそうに猫の写真を見せてくれた。「カフェインは悪いから、飲まないように気をつけなきゃいけないし、今は違う飲み物にしてるけどね」と続いた言葉に、その時は大変だねと返したのだが。

(そうだ、今日は邪魔してくる猫にしよう)

 ふと思いつく。今日の猫は、コーヒーを入れると即座に私のところにやってきて、仕事なんてするなよと言わんばかりに邪魔をしてくる猫にしよう、と。

 今日の猫は白い毛を持つ長毛種の猫だ。右耳と両手足に濃い灰色の模様が入って、グレーの瞳は透き通っている。大柄の体格でどっしりしていて、体格の通りあまり活発に動く方ではない。

 私がいると、猫はいつもそろそろ私の傍に寄ってきて、のんびり座ってうとうとしている。撫でて、や抱っこして、とせがまれることもままあるが、基本的には大人しいので、私も好きなように撫でたりしている。

 さて、ダイニングテーブルの上でパソコンを開いて、マウスの近くにコーヒーを入れたマグカップを置くと、猫はのそのそやってくる。

 出勤時間は朝の九時、普段ならのんびりうとうとしている時間だけれど、私がそうして仕事の準備を整えると、ちょっと目を離した好きに近くにやってくるのである。

「あっまたこんなところに」

 今日の猫は、ダイニングチェアの上で丸まり優雅に尻尾を揺らしていた。じっと、ふわふわの顔で私を見上げている。物言いたげな視線を受けるが、生憎とその椅子は今から私が座る椅子だ。

「ちょっとどいてね」

 待っていても猫は絶対降りないので、仕方なく私は猫を抱え上げた。

 一人暮らしなので、ダイニングチェアは来客用と合わせて二脚しか存在しない。それも一脚は向かいにあるので、私は猫を床に下ろそうとした。すると猫は嫌がるように身をよじり、すとん、とテーブルの上に飛び乗ってしまう。

「あ、こら」

 とはいえ、猫も物があることはよくよく理解しているようで。

 器用に物のないあたりに着地をしたので少しだけ安堵する。そのまま、そこでまた丸くなってしまったので、もういいか、と諦めた。

 猫はそれで、私が仕事をするのをしばらくじっと見守っていてくれる。大人しい猫なので、キーボードの音にも、マウスの音にも反応することはあまりない。私はコーヒーにだけ注意を払って、チャットツールから飛んでくる仕事の要件を確認したり、作業に没頭していった。

 私の猫が動くのはお腹が減った時か、構って欲しい時か、眠たい時くらいだ。

 仕事を始めて一時間もすると、テーブルの上で丸まっていることに飽きたのか、はたまた、私の視線が一向にパソコンから離れないことを理解したのか。猫がのそりと起き上がる。

 猫が起き上がったのを視界の端で見とめて、私は慌ててマグカップを反対側に避けた。匂いくらいなら構わないが、カフェインのあるコーヒーは猫によくない。猫は私の手の動きには構わずに、ゆったりした足取りでパソコン近くまでやってくると、じっとこちらを見上げて「なぉん」と鳴いた。

「な、なに?」

 やはり物言いたげな視線だ。グレーの瞳がじっと私を見つめるので、思わず作業の手を止めた私はまじまじ猫を見返した。猫はテーブルについた私の腕を跨いで進み、両腕の間に収まるように座ると、その場でくるりと丸まった。絶妙に、スペースキーを押している。

 作成中のメールの文面が、突然大量のスペースに見舞われ慌ててメール画面を閉じる。少し前の状態で下書き保存されているので、まあ、とりあえずは問題ないだろう。慌てた私が猫に向き直ると、猫は満足そうな声でもう一度。

「なぁん」

「なあん、じゃなくてね、」

 ごろごろ喉を鳴らす様子を私はよくよく知っていた。かまってほしい時の顔をしている。私はちらりとチャットツールを見て、新規のメッセージがないことを確認してから猫の頭を優しく撫でた。

「もう」

 ふわふわの毛は、長いこともあって撫でると指が沈むようだ。ゆっくり撫でつけていくと、細く柔らかい毛がすぐに抜けおち指に絡んでくる。一度撫でると止められないこともわかっていて、でも猫の「かまって」顔に心底弱い私だった。

「ああ、もう、まあいっか!」

 猫が満足するまで撫でてやらねば、きっと移動してくれないだろう。撫で回すと満足して、猫はまた違う位置に移ってくれるに違いない。それが私の膝の上か、パソコンの隣か、椅子の下かはわからないが。

(まあでも家で仕事だとねこで癒されるし。上司の小言も聞き流せるし)

 かえって仕事が捗るのでは、とは現実逃避かもしれないけれど。思う存分撫でられている、猫は気持ち良さげに目を細めていた。



「まあ、実際赤羽根さんは在宅中の当たりが柔らかくなってるしなあ。あながち間違いじゃないかも」

 猫と一緒に仕事、存外効果はあるかもしれない。構いすぎないよう、飼い主の自制心がきちんとあれば、の話だが。

 わきわきと手は猫を撫でたい欲求に駆られていたが、生憎両腕の間に猫は寝転んでなどおらず、私は気休め程度においた黒猫のぬいぐるみをぽふりと撫でた。生きていてもいなくても、もふもふが人に与える癒しエネルギーは強大なのだ。

 第一、猫の妄想をすることにだって意味はある。嫌なことがあっても、猫を思い浮かべればすぐに気持ちが切り替わるのだし。猫がいたらどんな生活か、妄想しているうちに仕事が終わっていることも多い。その点、私の場合は在宅だろうが出社だろうがあまり効率は変わらないかもしれなかった。

「ああ〜でも私だって一度は猫に邪魔されちゃって! とか言いたい!」

 言いたい〜! と、叫べるのも自宅ならではだろう。

 地団駄を踏みながらぽちりと送信ボタンを押した。無意味なスペースが大量発生しなかったメールは、正しく取引先へと送信された。

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