第9話 給仕をする猫

 そういえばさ、と同僚は話し始めた。

 連日の大雨と比べれば幾らか雨脚の弱い日だ。たまたま退社が一緒の時間になったので、駅までの道のりを共に歩いていた。普段一人で歩くことの多い道も、誰かと一緒だと少しばかり違って見える。道幅とか。二人分の傘が並ぶとどうしたって窮屈なので、私たちは縦になって歩きながら、同僚の話声は幾らか張り上げるような調子だった。

「なんですか?」

「清水さん、猫カフェとかは行かないの?」

 なんの脈略もない、訳ではなかった。

 会社を出たあたりからずっと、ゆるゆると仕事の話から始まって、同僚の飼う猫の話題に行き着いたばかりだ。猫カフェ、と思わず口中で繰り返して、同僚はちらりと伺うように振り向く。傘と傘が瞬間僅かにぶつかって、あ、ごめん、とは小さな謝罪だった。

「実は行ったことがないです」

「そうなの? ちょっと意外」

 正直に告白すれば、同僚は面白そうに眉尻を下げた。

「赤羽根さんは行ったことがあるんですか?」

 問い返せば、大袈裟に肩を竦めた同僚が「まさか!」と答えをくれる。そうだろうな、とは思ったが、やはり行ったことはないらしい。

「自分ちの猫で手一杯だし。飼い始める前も、猫カフェは行ったことがなかったかなあ」

 ちょっと興味はあるよね、と話しながら歩く。ポツポツ振りの雨はまだ当分止みそうにない。そうこうしている内に駅までたどり着いたので、路線の違う同僚とは改札前で別れた。

(猫カフェか〜)

 行ってみたいか、みたくないか、と問われれば、当然行ってみたい。ただ如何せん、猫を前にするとくしゃみと鼻水が止まらなくなってしまうので。どうにも行けないでいる。というより、猫カフェに行って大丈夫なのだったら、すでにリアル猫を飼っていると思う。

(あ、でも猫が給仕してくれるカフェはいいかも)

 ホームまで降りて電車を待つ間、そんなことを考える。猫の身長に合わせてテーブルはなく座敷タイプの店内で、柔らかいフカフカのクッションが至る所に置いてある。店員の猫は黒いベストを身につけて、器用にオーダーした品を運んでくれるのだ。

(いいなあ、猫カフェ……)

 今日は家の猫を飼うのをやめて、猫(が給仕をする)カフェに行くことにしよう、とはすぐに決めた。

 池袋にある猫カフェは、ビルの立ち並ぶ駅付近から少し離れ、比較的静かな住宅街に入るあたりにぽつんと建っている。素朴な雰囲気の一軒家で、木製の扉には「OPEN」と「CLOSE」のどちらかがかかっている。扉の前には黒板風の看板があって、そこにおすすめのメニューが描かれている。チョークの風合いが味わい深く、メニューのイラストも可愛らしい。今月のおすすめはマルゲリータで、とろりとチーズがたれたピザのイラストが食欲をそそる。

 店内に入るとまず店員猫がいらっしゃいませ、と近づいてくる。店員の猫は全部で六匹いて、ホールに三匹、厨房に三匹。内一匹が店主猫だ。ベストの胸元あたりにそれぞれ自分の名札をつけていて、オーダーする時は名前を呼ぶとにこにことやってきてくれる。

 店員猫に案内されて、窓際のふかふかクッションの席へ向かう。俗に人をダメにするとかなんとか言われているクッションで、巨大なそれに腰掛けると体が沈んでいくようだ。テーブルがない代わりに脚付トレーがクッションのそばに置いてあって、店員猫はそこにお冷やを置いてくれた。

 店員猫は、客対応の案内が終わると近くのクッションにちょこんと座り、次の仕事ができるまでまったりとしている。店員猫用のクッションは私の座るクッションよりも二回りくらい小さいもので、店員猫が丸まって眠るのにちょうど良さそうなサイズだ。たまに暇な店員猫がうとうとしている内に眠ってしまって、閉店まで起きなかった、なんてことが起こりそうだ、と小さく笑う。

 メニューは冊子がある訳ではなく、入り口側の壁一面が黒板風になっていて、そこに大きく描かれている。カフェメニューは普通の喫茶店とかと同じくらい、お食事系のメニューは月替りで、今月はイタリアンがメインの様子。月によっては和食だったり中華だったりするので、その度お店の雰囲気が少しずつ変わる。なんでも食べられるので、毎月通ったって飽きがこない。

 店員猫を呼ぶときは、トレーに置かれたベルを鳴らして名前を呼ぶのがいいらしい。チリチリ鳴らすと近くで丸まっていた猫がぴくりと耳を動かして、ダメ押しとばかりに「店員ねこさん、店員ねこさん」と呼んでやると、猫は満足そうに顔を上げてこちらに寄ってくるのだ。

「お客様、お決まりですかにゃ」

「おすすめのマルゲリータを一枚と、アイスカフェオレをひとつ」

 注文すれば、猫はふむふむ、と頷いた。ベストの内側からゴソゴソとメモ帳とインクを取り出すと、掌にちょんとインクをつけてメモ帳にペタンと押した。伝票代わりらしいが、それで果たして内容が読み取れるのかはわからない。

「少しお待ちくださいにゃ」

 猫がぺこりとお辞儀して、厨房の方へ入っていく。私はダメになるソファにくったり体を預けながら、ぼんやりと窓の向こうを眺めた。

「お客様」

 それから、十分だったか数十分だったか。とにかくうとうとと過ごしていると、不意に店員猫がやってきて、残念そうに耳を畳んだ。どうしたのかと視線で問えば、「マルゲリータですが」と言いづらそうに口を開いた。

「材料がなくなってしまって、今日はもうアラビアータだけなのにゃ」

 それから、おずおずと皿を差し出される。

 いいかにゃ、と首を傾げつつ、作ってしまっているのがなんとも面白くて、「いいですよ」と皿を受け取った。受け取った皿はトレーに置いて、猫はパッと笑みを浮かべた。

「ありがとにゃ! 飲み物もここに置いておくにゃ!」

 元気よく冷たいグラスも皿の隣にサッと置いた。満足げな猫はそのまま、一仕事終えた調子で自分のクッションに戻っていく。にこにこと私の方を向いて座りながら、私が食べ始めるのを待っているようだ。

(ふむ)

 注文したのはマルゲリータとアイスカフェオレだが、出てきたのはアラビアータと、ドリンクもよくみずともこれはアイスミルクだろう。コーヒーを入れ忘れている。

(まあ、そんなところがいいんだけども)

 それで、猫カフェなのだから、注文した品が注文通りに出てくる方がおかしいだろう、と思い直すことにした。実際料理は美味しいのだし、アイスミルクもとても美味しい。

 私が食べ始めると店員猫はくあ、とひとつ欠伸を漏らし、くるりと体を丸めてしまう。しばらく時間がかかるだろうから、一眠りでもしようという魂胆だろう。私は眠る店員猫をちらちらと観察しながら、なるべくゆっくり、ゆっくりアラビアータを口に運ぶ。

 店内を見渡せば、同じようにまったりと寛ぐ猫と、その猫を起こさぬようにゆっくりゆっくり食事をする人ばかりで、少しだけ面白く思ってしまう。この猫カフェはだからいつもまったりゆっくりとした時間が流れていて、それがとても、愛おしく感じるのだ。

(う〜ん、癒し)

 やはり良いなあ、猫カフェ。

 満足しながらミルクを飲んだ。



 ぎゅうぎゅう詰めにされた電車の中で、一人にこにことしているのはちょっと不気味だったかもしれない。

 退社直後の空腹状態で食べ物の妄想なんかしたから、余計にお腹が減ってしまった。気分がすっかりピザか、アラビアータの気分。パスタソースは何か残っていたっけ、と家の食料事情に思考は飛んだ。

 せめてくしゃみがなければ、思う存分猫カフェにも通ったような気がするのだが。逆をいえば、行ったことがないので妄想し放題、遊び放題、だ。

(そうだ、人をダメにするソファでも買おうかしら)

 ふと、思いつく。せめて気分だけでも味わうのは良いだろう。脚付トレーも一緒に買って、リビングの日当たりの良い場所で、だらだら過ごしながら食事とドリンクをトレーに乗せたりなんかして。

(うーん、絶対に、絶対に楽しい……)

 思い立ったが吉日。押し潰される電車の中で、周囲の人に「すみません」と心中謝りながらポケットからスマホを出した。人をダメにするソファ。検索。

 出てきたメーカーのショップページを眺めながら、ペット用ソファを見つけて考えること数秒。思わず一緒にカートへ突っ込んでしまったが、後悔はしないだろう。きっと。たぶん。虚しくならなければ。

(……黒猫ぬいぐるみの寝床にしよう)

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