第3話 ジェントルマンな猫
なんとなく寝苦しさを感じて目を開ける。室内は暗闇に包まれたままだ。枕元のスマートフォンにタッチすれば、パッと灯った眩しい光が目に痛い。時刻は深夜の三時をすぎた頃だった。
昨日、疲れ切って早めに寝たのが良くなかったのか。長く寝ても苦じゃない方だと思っていたが、最近の忙しさにすっかり睡眠時間が固定されてしまったらしい。思いの外ぱっちり覚めた目は、もうどうにも眠れそうになく、はあと一つため息を吐く。
のっそり起きてカーテンを少しばかり開けてみる。隙間から覗く外の景色はやっぱり暗く、近隣住民も皆寝静まっているようだ。
(そりゃそうか)
さて、朝までの時間をどう潰そうか。それとも、日中眠くなることを回避するために、どうにかもう一度眠るべきか。布団の上であぐらをかいて、うーむと悩むうちに、とりあえず今日の猫はジェントルマンな猫にしよう、と心に決めた。
ジェントルマンな猫は、ぴっしりとしたスーツを着込んで、中折れ帽を頭に乗せて、ステッキを使い器用に二足歩行する。おしゃべりだけれどジェントルマンなので、いつだって私を気にかけてくれるし、とても優しい、良い猫だ。
さて、猫は私の起床に気がつくと、起きてしまったのかいと小さな声で問いかける。深夜三時だというのに、猫はもうスーツを綺麗に着こなして、トレードマークの中折れ帽もステッキも忘れない。デスクの上にちょこんと座って、起き上がった私に「まだ起きるには早い時間だよ」と教えてくれる。
「わかってるけど、目が覚めちゃって。眠れそうにないや」
ぼんやりと答える私の声は、目が覚めちゃって、という割にはまだ眠そうな響きをしている。猫はくすりと優しく笑って、仕方がないな、とデスクの上から飛び降りた。
二足歩行でも猫は猫、なので、猫の着地は軽やかだ。猫はベッドの上にやってくると、少しだけ開けたままのカーテンをからりと全部開けてしまう。驚いた私にニコリと笑みを向けながら、「見てごらんよ」と空を示した。
深夜三時なら、まだ空は黒々として、ちらりちらりと星が見える。住宅街なので周辺の明かりは街灯くらいだ、言われて空を見上げた私は、「結構星が見えるね」と思わず呟く。
猫は「そうだろう」と満足そうに言うと、窓を開けてもいいかい、と問うた。頷いて了承すれば、猫の小さな手が窓の鍵に触れた。
器用にステッキを使うとはいえ、やっぱり猫は猫なので。肉球のついたふにふにの手では、鍵がうまく下がらない。私は失礼にならないように、そっと手を貸してやって、窓の鍵をかちゃりと開けた。つかえの取れた窓がするりと横に滑っていく。急に外の空気が入り込んで、梅雨時期特有の、少し湿っぽい匂いが今はどこか気持ちよかった。
「涼しい」
日中の暑さと比べて、陽の光がないだけで夜は随分過ごしやすい。湿っぽい風がふわりと部屋に吹き込むが、私たちは構わず窓の外を見上げた。ガラス一枚無くなっただけで、ぐんと空が近づいたように思う。
「この辺でも、見ようと思えば結構星が見えるのさ。たまにはこんな夜もいいだろう」
それから、猫は「得をしたな」とくすりと笑った。
ぽつり、ぽつりとその程度の星数だけれど、私の部屋の小さな窓でも十分空が大きく見える。霞んだ様子はないので、少なくとも朝は雲もない晴れた空になりそうだった。
ぼんやりと空を見つめる私に、猫は何も言わずにそろりとベッドを降りていった。視界の端で部屋を出ていくのが見えたので、やっぱり眠りに行ってしまったかな、とそんなことを思う。ジェントルマンでも猫は猫、なので、自分のペースが一番なのだ。
猫が空を見ろと言ったようなものなので、もう少し付き合って欲しかった気もするが。まあいいか、と、今度は窓の下を眺めてみる。
なんてことはない、いつも見ている道路だが、こうしてまじまじと観察することはあまりない。向かいのアパートの駐輪場に、いつの間にか子供用の自転車が増えていたり。あんまり遠くの方は暗くて視認できないが、アパートの隣の民家がまた植木鉢を増やしたようで、にょっきりと背の高い花があるようだった。
あの花なんの花だろうか、まだ咲いているようには見えないが、咲いたら大きな花になりそう。少しばかり身を乗り出したところだった。
「ご主人、あんまり身を乗り出しては危ないよ」
ふと声をかけられて後ろを向く。いつの間に戻ってきたのか、猫がマグカップを二つ、器用に持って立っていた。
自慢のステッキは、マグカップを持つのに邪魔にならないよう、うまく脇に挟んでいる。私よりもよほど猫の方が危ないと、慌ててカップを二つとも受け取れば、猫は「すまない、助かった」と礼を言った。
「どうしたの、これ」
温かいマグカップの中身は、ホットミルクのようだった。電気をつけ忘れたままなので、なんとなくの明暗の差でミルクだと判断する。猫が落ち着いたのを見て一つを返すと、「なに、眠れない夜はホットミルクと決まっているのさ」と猫は言った。
「ありがとう」
先ほど部屋を出ていったのは、飽きたのではなくミルクを作るためだったらしい。猫は猫だからな、と思い込んだ自分を恥じて、お礼は少し申し訳なさが滲んだ。
猫は「気にすることはない」と言いながら、受け取ったマグカップにちょっぴり口をつけた。舌で舐めるくらいの傾きだ。そういえば、猫は猫舌だから、きっとまだ飲める温度ではないのだろうと気がつく。私の持つマグカップはちょうど飲みやすい温度だったので、私に合わせて持ってきてくれたに違いなかった。
「いただきます」
「うん、召し上がれ」
遠慮なく口をつけると、ほんのりとミルクに混じって何か甘い香りがする。
口に含んだミルクは、匂いに違わず甘味があった。覚えのある甘みに首を傾げて、「はちみつ?」と問いかける。猫はにやりと笑うと「甘いだろう」と得意げだ。
「暑い季節だが、風に当たったし、あんまり体を冷やすのも良くない。きっと飲んだら、眠たくなるよ」
猫が優しい声で言うので、ゆっくり、ゆっくりミルクを飲んだ。窓から吹き込む夜風が気持ち良い。マグカップの中が空になるまで、私と猫は無言で空を見上げていた。
最後の一口を飲み干して、猫がからりと窓を閉める。やっぱり鍵を閉めるのに苦労して、代わりにそっとかけ直してやった。向き直った猫は、私が布団の中に戻るのを待っている。
「ちゃんと眠れるかな」
「眠れるさ」
時間を確認しようと思ったが、なんだかせっかく穏やかな気持ちが邪魔されてしまう気がして、確認せずに横たわる。風を入れたからか、いくらか布団の汗も飛んだようで。
「おやすみ、ご主人。良い夢を」
猫が優しく私の頭に手をおいた。撫でてくれているらしい。ふにふにの手がいったりきたりするうちに、私はゆっくり瞼を閉じて――
「まあ、眠れないんだけどさ」
ぐ、と体を伸ばしてため息をひとつ。開け放った窓からそよそよと夜風が吹き込んでいる。私も猫にならってホットミルクでも作ってみるかと思ったが、どうにもそんな気分になれない。なにせゆっくり話を聞いてくれる猫はいないし、一人で飲むホットミルクはなんとも味気なさそうだ。
「そういや、星の数を数えてみるとかもあったなあ」
それで眠くなるなら御の字だが、と窓ににじり寄る。見上げた空にひとつ、ふたつ、と星を数えていけば、確かに眠気が来そうではあった。ちょっとだけ、起きていても良いかなあ、とも思ったが。
ゆっくり星を数えながら、スマートフォンを確認する。まだまだ夜は長そうで、やっぱりミルク、温めようかな、なんて。
優柔不断を振り切るように、みっつ、よっつ。星の数は尽きないから、数えるうちに朝が来たら、冷たいミルクを飲むことにしよう、と決めた。
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