第4話 茶色い毛並みの子猫

 月曜日というのはどうしてこんなに憂鬱なのだろう。

 それも、朝から大粒の雨が降り注いでいるなら尚更だ。電車は遅れるし、通勤のせいで服も靴も濡れてしまうし、持ち帰っていたノートパソコンは容赦なく肩に食い込んでくる。第一傘が邪魔なのだ、といって、傘を差さずに歩けるような降り方ではないのだから、邪魔でも持ち歩かなければならないのだけれど。

 月曜日の電車は他の曜日よりも一層混んでいる気がする。どの職種も、とりあえず週始めくらいは早くに出勤しましょうと、そういうことなのかもしれない。パソコンを庇いながらなんとか乗り込んだ電車は、人の多さとこの雨の湿度でむわりと熱気に満ちていて、もうどうにも居た堪れない気持ちになる。少し寝坊したせいで、うっかり朝食を摂り損ねたせいもあるだろう。

(ダメだ、憂鬱だ)

 すでに引き返して家に帰りたい。何か帰れる理由でもあればいいのに。

 なんて、社会人としてあるまじきことを考えながら、ふと思いつく。とてもとても癒されたいから、今日の猫はころころ可愛い、茶色い毛並みの子猫にしよう、と。

 といっても、あんまり小さな頃の猫だといまいち妄想が追いつかない。成猫だってあまり接する機会がないのに、子猫なんて尚更接したことがないからだ。こんなことなら猫飼いの知り合いに写真だけでも見せてもらえばよかったと、少しばかり後悔する。最も、わざわざ知り合いに頼まなくたって、普段見る猫動画で意識的に子猫を探せば良いだけだけれど。

(つい、見てる間は“かわいい〜!”で終わっちゃうんだよなあ……)

 気を取り直して、猫について考える。

 子猫だけれど、目は青色から本来の色に変わったくらいの年を想像する。いくらか体もしっかりしているはずで、好奇心旺盛に遊びまわる時期だろう。私の猫はきれいなミルクティみたいな毛色をしていて、瞳の色も同じ薄めのブラウンだ。ぱっちり大きな瞳が愛らしくて、鼻筋のところとお腹の毛が白くなっている。鼻筋の白い毛のおかげで、しゅっと輪郭がスマートに見え、美人な猫だ。

 何にでも興味を示す私の猫は、とりわけ、キーボードのタイプ音と、マウスのクリック音が好きらしい。持ち帰った仕事を部屋のデスクで行っていると、音につられてひょっこりとやってくる。興味深げに私の腕を通り越し、画面に鼻先をくっつけて、カタカタ音を鳴らしてキーボードの上を散歩する。私がじっと止まっていると、そのままころんと横になって、腕にじゃれつくようにしがみつくのだ。

 子猫がそうしてキーボードの上から退いてくれないので、私はいつも腕を持ち上げ猫を抱えてしまおうとする。けれども猫は、私のそんな動きが面白いらしく、掴んでいた前足を離したり、また掴もうとしてみたり、パンチしたりで忙しない。そのくせ体はどっしりキーボードの上にあるのだから、全く仕事ができなくなってしまう。

 仕方なく(本当に仕方なく)私は作業をやめる。キーボードからマウスへ手を動かして、ぱちりぱちりと画面を閉じていると、今度はそちらか、と言わんばかりに猫の体が起き上がった。俊敏な動きで体を起こして、マウスを動かす私の手を追いかけるように、ぽん、ぽんぽん、と前足で叩いてくれる。

「わかったわかった」

 全てのファイルを閉じてパソコンをシャットダウンして、さあこれで存分遊んでやれるぞ、と手を自由にすれば、猫の興味は私の手じゃなくマウスの方に。

 前足でマウスを押しては、カチカチクリック音を出している。完全におもちゃと思われたようだ、とはすぐに知れて、手持ち無沙汰になった私は少しばかり面白くない。

 面白くないので、今度はキーボードをカタカタと叩いてみる。もちろんシャットダウン後のキーボードなので、叩いたってなんの文字も打たれない。適当にリズムをとるように、指が触れた箇所を叩いていると、猫の興味はすぐにこちらにやってきた。再び、なんだなんだとキーボードのほうに移動をすると、カタカタ音を鳴らして歩き始めた。私の腕も上下するから、猫は顔だけでじっと私の右手を見ている。

「ふふふ」

 それで、ぱっと腕を上げたり、下げたり。猫の意識がこちらにあるのを確認しながら、急に動かし反応をみる。腕の動きに合わせて猫の顔がぱっと上を向き、下を向き。もう一度カタカタ音を鳴らしてやって、今度はさっと背中に隠した。じっと、猫が私の腕を探っている。

「こっちこっち」

 それから、ぱっと隠した腕を見せる。瞬間、ぴょん、と猫が飛んだ。上に向けた掌目掛けて、前足でぱしんと捕まえようとする姿が可愛らしい。ふわふわの茶色い毛並みが柔らかそうで、そのまま動こうとする猫を抱えて撫でつけた。猫は目当ての腕を捕まえたので、そのまましがみついて口を開ける。甘噛みするように、あぐあぐと口を動かしている。

 私が反対の手で頭やら背中やらを撫でるのも構わず、腕に夢中な猫は楽しそうだ。猫が楽しそうなので私も楽しい。ついでに、こんなになってしまったならもう仕事どころではないなあ、なんて。シャットダウンまでしているのだから、とうの昔に仕事をする気は失せているのだけれど。

 腕にじゃれつく子猫を抱えて、おもちゃ箱から猫じゃらしを引っ張り出す。目の前でぴょんぴょん跳ねるように動かしてやれば、猫の瞳が次第に猫じゃらしへと移っていった。腕を掴んでいた前足の力が緩み、猫の体制が猫じゃらしを追いかけるものへと変わっていく。何度か右へ左へ揺らした後で、じりじり焦らして遠くへ放る。瞬間、すごい速さで子猫が猫じゃらしの元へ駆けていった。弾丸みたいだなあ、と思ったが、飛んで行った猫じゃらしをくわえてじゃれる姿は天使のように可愛らしく、私の心臓を撃ち抜いたので、まあ間違ってないなと認識をした。



 なんて、猫がいたら在宅ワークも楽しいし、癒されるのに、週明けの月曜日は出勤日だし、猫はいない。

 新たに乗り込んできた乗客に押しつぶされそうになりながら、私はよくみる動画サイトをタップした。せめてどこかの誰かの猫を見て癒されたい。ちょっとでもいいので「猫を飼ってる気分」を味わいたい。

 表示されるサムネイルで、ちょうど、妄想したばかりの子猫に似たような猫を発見する。私の猫は存在したのだ! とは、飼い主さんに怒られそうなことを思いながら動画を開いた。動く猫は癒し以外の何者でもない。

 実際問題、飼えるものなら飼いたいなあ、とは思うのだ。知り合いの猫飼いにも、写真や動画をもらう度に「いい加減飼えばいいのに」と呆れた調子で言われている。

 ただどうにも、体質的に猫を前にするとくしゃみと鼻水が止まらなくなってしまって、まともな生活を送れそうにない。悲しいのでアレルギーとは公言していないが。

 猫がいるだけでそうなのだから、当然もふもふに触るなどもってのほかだ。撫でつけられる毛並みの気持ち良さそうなことといったら。丁度、動画の中、私の猫によく似た猫が、ゴロンとお腹を見せて撫でまわされている。気持ち良さそうに目を細めているのを見ているだけで、気持ち的にはお腹いっぱいだけれど、触れるものならそりゃ触りたいに決まっている。

(いいなあ、猫)

 いいなあ、と心中で呟きつつも。

 妄想の中の茶色の子猫が、ごろごろ喉を鳴らして私に擦り寄ってきたようだった。もう遊ばないの? と問われた気がして、一瞬和む。

 ただまあ、妄想の中で飼う分には、家に限らずいつだってどこだって遊んでしまえるから、それはそれで私には合っている、かも、知れない。

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