第6話 気まぐれな猫

 仕事終わりの時間になると、自宅周辺は街灯があるとはいえ幾らか暗い道になる。住宅街なので、夜八時を過ぎればもう随分と静かだし、人通りも少なくなる。たまの残業で九時近い帰宅になると、静まり返った夜道にどこか世界から切り離されたような感覚に陥った。

 繁忙期のない業務だが、ちょうど担当しているプロジェクトが追い込み時期に入っており、普段滅多にしない残業もちらほらと増えている。疲れきった私は、ぽつぽつと頼りない街灯に照らされるだけの夜道をふらふら歩いていて、今日の夕飯は何にしようかなあと、冷蔵庫事情に思いを馳せていた。普段なら冷凍しておいた作り置きで済ませてしまうが、忙しい日々に作り置きもお手軽な冷凍食品も食べ尽くしてしまっていて、すぐに食べれるものがほとんど残っていなかったように思う。辛うじて鮭の切り身が一切れ冷凍したままだったか、野菜も食べたいが、玉ねぎくらいしか残っていなかった気がする。

 疲れた体は空腹だけれど、今から調理するのも面倒くさい。カップラーメンもなかったんだよなあ、と、冷蔵庫事情を思えば何とはなしに足取りも重くなる。そんな時だった。

 なおん、と低く唸るような声が聞こえて、思わず立ち止まる。自宅マンションまではもう数メートルもない。街灯の向こうに入り口が見えていた。

(なに?)

 夜道で聞くには少しばかり不安感を煽る声だ。思わず止めてしまった足のまま、そろりと周囲を見回した。なんとなく、体が臨戦態勢に入り身構えてしまっているのは、仕方ないことだろう。

「なおん」

 もう一度、存外大きな声で鳴く。二回目ならば少しばかり落ち着いて聞き取れた。どうも、人の声じゃなさそうだ。

(と、いうより、いつも聞いているような)

 聞いている、のは生の声ではなくて動画などの音声で、だ。動物の鳴き声に近いそれ、もっというと、猫の声によく似ていた。

 もう一度、目を凝らして周囲を見回した。マンションの向かいに建つ民家の駐車場付近に、何か黒い物体がいる、ように見える。車が駐車されているので、街灯の明かりがそこまで届いていないのだ。車の後輪付近の影に収まるように、猫がいた。

(お、)

一瞬、野良かな、と考えるが、整えられた毛並みに飼われている猫っぽさを感じてそろりと一歩、近づいた。私と猫の間はまだ距離があって、このくらいの距離ならくしゃみも、鼻水も出ないだろう。何よりここは外で、空気が篭ることはないし。

 夜の中で、猫の瞳が煌々と光って見える。暗いので全体像はぼんやりとしか確認できない。猫の目線に合わせるように思わずしゃがみ込んでから、ほう、とゆっくり息を吐いた。

(野良猫っていうか、時折やってくる猫もいいよなあ)

 飼うのは理想だが、そういう気まぐれな関係も憧れる。実物の猫(と言い切ってしまえるほど、はっきりとも見えていなかったけれど)を眺めながら、今日の猫は時折ベランダにやってくる、気まぐれな猫にしようと思いついた。

 私の部屋は五階建マンションの二階にあるが、周辺の民家の塀を伝って猫が通りかかることが稀にある。通りかかるのはいつも決まって同じ猫で、脱走猫のお決まりの散歩コースなのだと思われる。濃い灰色の毛をした猫は、成猫にしても大きなサイズでのしのし歩くが、不思議と太っているという感じはしなくて、貫禄がある、ように見えるのだ。首には赤茶色の首輪が付いているので、誰かの飼い猫なのは間違いないだろう。

 猫が通るベランダは、ちょうどリビングに面したベランダで、休日一人で動画を見ながらのんびりしていると、不意に通りかかって休憩していくことがある。灰色の猫はどっしりとベランダに座り込むと、物言いたげな顔をしてガラス越しの私を見つめるのだが、生憎とくしゃみ・鼻水のせいでベランダを開けることができない。私もまた、ガラス越しにじっと猫を見つめて、猫が目を逸らさないのをいいことに、たまにパシャリと写真を撮ったりする。

 数分も休憩すれば、猫はのそりと起き上がり、散歩の続きを再開する。のしのし歩いてすぐに姿は見えなくなってしまうが、寂しく思う必要はない。

 猫が通りかかった日は、帰り道でも同じ道を通るので、数時間待っていれば今度は逆側からやってくるのが見えるのである。いい具合の時間でやってくるから、猫が来るまでの時間で少し読書に切り替えて、猫がきたらベランダのガラス戸に張り付いて、と、私は一日猫充ができるという算段だ。

 猫はなにも話さないし、じっと私を見るだけ。たまにやってきてもすぐに通り過ぎてしまって、立ち止まりもしてくれないことがあるが。

 それでも生の猫が座り込んで休憩するのは、この部屋のベランダを居心地の良い場所と定めてくれたような気がして、少しばかり照れ臭い。ペット禁止のマンションなので、なんのお構いも出来ないのが残念だけれど。

(まあ、無闇に生き物に餌を与えてはいけないしなあ)

 ふう、と息を吐いて思考を戻した。

 今が休日の日中で、家のリビングでまったりしている時間なら構わないのだけれど。生憎と人通りの少ない道の真ん中で、他人様の車、を眺めているように見えるのは変質者と疑われても文句が言えない。

 猫がいる、と思しきあたりで、猫がくあ、と口を開けたようだった。そろそろ九時を超えただろう、猫も眠いのかもしれない、と立ち上がる。

「またね」

 夜の静かな時間なので。

 響かないように囁けば、猫が同じようにひっそりしたこえで「なぁん」と鳴いた。よくよく耳を済ませれば、僅かに猫が動き出した音がする。

 唯一はっきり見えていた瞳がふいと見えなくなってしまうと、目の前の猫が本当にいたのかどうかも曖昧になってしまった。私は一度体を伸ばして深呼吸をすると、さて、と気合を入れ直す。

「夕飯は、ねこまんまでもいいかな」

 冷凍庫の鮭を焼いて、ご飯は鰹節と醤油で混ぜる。味噌汁が残ってたら味噌汁にお米を突っ込んでも良かったが、そもそもここ数日味噌汁だって作れていない。

 今日は手抜きのご飯で済ませて、明日は久しぶりに味噌汁を作ろう、と決める。なんだか先ほどの猫に「ちょっとは休みなさいよ」と言われた気がした。

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