イマジナリーねこ
佐古間
第1話 長靴を履いた猫
ポツポツと降り始めた雨は、瞬きをする間にざんざか降りへと変わっていって、急に立ち込めた雨の匂いに顔を顰めた。そういえば梅雨になったのだった、と窓の向こうを眺めながら思い出す。それで、今日の猫は二足歩行の猫だ、と決めた。
二足歩行の猫は長靴を履いている。
生憎とかの有名な「長靴を履いた猫」をきちんと読んだ記憶がなく、一体どんな話だったか正確なところがわからないが、確か頭の良い猫が、主人のために色々と画策する話だったように思う。
私の猫は長靴を履いている。そして、本日うっかり折り畳み傘を忘れた主人のために、電車を乗り継ぎとことこ歩いて、会社まで傘を届けてくれる。折り畳み傘では到底凌ぎきれないくらいの雨だから、もちろん持ってくるのは長傘だ。猫は猫で自分用の子供傘を差していて、鮮やかなオレンジ色の傘は猫が持つと少し大きい。不安定な二足歩行なものだから、人間の子供が歩くときより大きく横にゆらゆら揺れる。その揺れに合わせて、傘からひょっこりはみ出た尻尾がゆらゆら、ゆらゆら揺れるので、後ろ姿が大変かわいいのだ。尻尾は雨の滴がぽたりと落ちると、その度びっくり毛を逆立てる。なるべく傘の外に出ないようにと引っ込めているのに、歩いているとどうしても気が抜けてはみ出てしまうから、一定間隔でゆらゆら、びっくりを繰り返している。そんなところも大変かわいい。
さて猫は、会社のロビーで丁寧に濡れた傘を拭き取ると、受付でまず私の名前を出して連絡をくれる。私は只今会議の真っ最中なので、代わりに出るのは同僚だ。猫は同僚に、「急な雨で家が大変なのです!」と訴えて、訴えを聞いた同僚は驚いて上司に代わる。
猫の話を聞いた上司は慌てて会議室にやってきて、「君のところの猫が来て、家が大変だと騒いでいるが、様子を見に一度家に帰りなさい」と指示を出す。会議の参加者たちも話を聞いて、「清水さん、もう帰った方がいいよ」と後押ししてくれる。それなら、とお言葉に甘えて早退させてもらうことにした。
ロビーに降りれば猫が慌てた様子で傘を寄越して、「ご主人様、大変なのです」と私を引っ張り外に出る。状況のわからない私は連れて行かれるまま外に出て、ようやく猫に「一体全体、家がどうなってしまったの?」と問うた。猫は「とにかく大変なのです」とそれだけ言うと、私の腕を引っ張り引っ張り駅へと向かう。
引っ張られてしまっても、猫の歩調と私の歩調は随分差があるので、もちろん私は猫の歩調に合わせて歩幅をぐんと狭めて歩く。私の手首を引っ張る猫の手は、爪が隠され肉球がふにふにと柔らかい。優しく包むように掴んでくれているけれど、しっかりと力強い手に癒されながら、ざんざか降りの雨の中、二人で駅を目指した。
ホームにまで辿り着くと、猫はようやく一息ついて、「靴が濡れてしまいましたね」と私の足元を見て言った。確かに、長靴の猫と違って私のハイヒールはすっかり濡れてしまっている。実際、ストッキングもぐっしょり濡れて、侵食した雨水で靴の中は大変気持ち悪いことになっていたが、まあ、気にしない。私が「大丈夫だよ」と返事をすると、猫は申し訳なさそうに耳を畳んだ。
「ねこ、家が大変なのはわかったけど、実際どのくらい大変なの?」
電車が来るのを待ちながら、少しでも状況を把握しようと猫に聞く。生憎と乗り換え駅は快速電車が止まらない駅で、だから次の電車が来るまで少し時間があった。猫は忙しなく電光掲示板の様子を確認しながら、「もう大変、大変なのです」と同じことを繰り返した。
「まあ、行けばわかるんだろうけどさ」
結局ちっともわからないので、私は諦めて息を吐いた。猫がせっかく傘を持ってきてくれても、何せざんざか降りだったので、どうしたって肩や背中が濡れている。ホームに吹き込む風は冷たく、ふるりと震えていると猫が心配そうに私を見上げた。
「ご主人様、大丈夫ですか?」
私の猫は、雨の日に私の体調が良くないことを知っているのだ。猫がぎゅっと私の手を掴むので、それだけで安らいだ気持ちになった私は「大丈夫だよ」と笑みを浮かべた。やがて各駅停車の電車がやってきて、私と猫はゆっくり乗り込む。
平日の昼間の時間なら、電車の中は空いている。流石に暖房は入っていないが、整えられた空調は寒くもなくちょうど良い温度。電車が進み始めると、猫がぽそりと「ご主人様」と私を呼んだ。
「どうしたの、ねこ」
下を見れば、私の肘の位置くらいにある猫の頭が心なしかしょんぼりしている。本当にどうしたのかとその頭を撫でてやれば、猫は小さな声で話を続けた。
「ご主人様、ごめんなさい。本当は、家は何も大変ではないのです」
「どういうこと?」
「ねこが、ご主人様のことが心配になってしまっただけなのです。ご主人様の部屋に、傘が置いてありましたので」
私の猫は本当に賢い猫だ。忘れていった折り畳み傘を見て心配になって、思わず私を連れ帰ってしまったらしい。
「いいよ、ねこ。どこかで雨漏りしてたことにして、今日はもうお休みしちゃおう」
私がそう言って笑いかけると、猫はぱっと顔を上げて髭をぴくりとひくつかせた。ほんとうですか、と嬉しそうに問われたので、本当だよ、と答えてやる。どの道今日の会議にはもう戻れない。今頃は終わっているだろう。
「嬉しいです、ご主人様」
猫がふにふにの肉球で私の膝をぽんと叩く。私も嬉しくなって、「今日は暖かいスープを作ろう」と猫に言えば、猫は心得たように「お魚も入れましょう」と頷いた。
ところで、ざんざか降りのはずの雨がいつの間にか勢力を弱めていた。右耳から左耳へと通り抜けていた声が、急に明確な意味を伴い思考の中に紛れ込んでくる。清水さん、と声をかけられてしまえば、私は「はい」と返事をするしかないのだ。
「清水さんはどう思いますか? A案だとコストは抑えられますが……」
進行役のチームリーダーが私を見て意見を求める。雨の音はすうっと遠くへ消えていった。私は手元の資料を確認しながら、そうですね……と文脈を繋ぎ合わせる。
会議室の扉が開く気配はない。当然だ、雨はもう弱まっているし、あと数分もすればからりと止んでしまうだろう。そう言えば朝の天気予報も、夜にかけて雨、みたいな予報ではなかった。今日の予報が曇りだったので、折り畳み傘を部屋に置いてきたのだ。
そしてついでに、猫は二足歩行で長靴なんか履いていない。どころか、私は猫を飼っていない。猫がいないので、この退屈な会議を抜け出すことも、会社を早退することもできやしない。
「B案の方がいいと思います。最終的に目標とするラインに到達させるのに、A案だとかえって時間もコストもかかると思いますので……」
考えをまとめるフリをして、聞いていなかった内容を確認しながら意見を述べた。チームリーダーがなるほど、と頷きながら聞いている。
私の口は勝手にそれらしいことを話しているが、私はまた夢想する。猫が迎えに来なかったとしても、家に帰れば二足歩行の猫はいるし、私に向かって「今日は急な大雨でびっくりしました。洗濯物を慌てて取り込んだんですよ」と褒めてアピールをしてくるのだ。
「……なので、リスクの度合いを鑑みてもB案で進めるのが無難ではないかと」
私の口が勝手に話をまとめてくれた。リーダーが「ありがとう」と頷いて、案をまとめる方向に移行した。窓の向こうはすっかり日の光がさしている。分厚い雲はどこかに流れていったらしい。ああ早く家に帰って、二足歩行の猫をぎゅっと抱きしめ褒めてやりたいな、と、そんなことを考えた。
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