第14話 水をやる猫
さあさあと雨の音を聞いて、布団の中からのっそりと顔を出した。
卓上に置いた時計を見れば、そろそろ十一時になろうかという頃。すっかり寝すぎてしまったな、と思ったが、体は重いし頭がぼんやりしている。念のため体温計をわきにさして見たものの、すぐさま鳴り響いた体温計は至って平常であることを教えてくれた。
(低気圧ぅ~~)
こういう症状には覚えがあった。低気圧である。
あまり影響を受けない方だと思っていたが、年々気圧の変化で体調が変わるようになっている、気がする。とにかく体が眠りを求めていて、思考も上手く働かない。それでも、十一時、という時間は些か眠りすぎな気が強く、気力を振り絞ってカーテンに足を向けた。
足元に窓があるせいで、すっかりカーテンの開け閉めを足で行うのが常になってしまっている。起き上がるのは億劫だが、カーテンを開けて日光を浴びれば多少は頭も動き出す。結構理にかなっているのでは? とはひっそり思っていることだが、今のところ寝室を共にするような相手もいないし、できる予定もないので特に問題ないだろう。私が良いと思えば、誰に咎められることでもないのだし。
ただ、生憎と今日のような曇天は、カーテンを開けたところで目覚めの効果は得られそうになかった。足を動かしたので幾らか体を動かせる気になって、のっそりと上体を起こす。さあさあと響く雨の音の通り、窓の向こうは細い糸のような雨が遠慮なく地面に降り注いでいた。特別雨の日が嫌いなわけではなかったが、こうも体調が悪くなるなら嫌いになってしまいそう。はあ、と、ため息を吐きながら膝を抱えた。
(そういえば)
ふと、机側の窓を見た。
そちらは足も届かないので、カーテンはきっちり閉められたままである。片面からしか入り込まない、どんよりとした日光を受けて、僅かに明るくなった机上でオレンジ色の花が咲いている。小さなフラワーアレンジメントだ。先週訪れたマルシェで、なんとなく目について買ってきたものだった。
(水やりしないと)
思うが体は動かない。ベッドの上に縫い付けられたみたいだ、けれど、うっすら暗い室内で咲き誇るオレンジの花々は、どこか輝いているようにも見えた。
花が好きなわけではない。
そりゃあ、美しい花、可愛らしい花、綺麗な花を見たら好ましく思うし、愛でたいとも思うが、それを日常生活に取り入れようという気持ちはこれっぽっちも抱いたことがなかったし、想像もつかなかった。
そもそも“生き物”を扱うことに向いていない気がする。水やりを忘れてすぐにダメにしてしまいそうで、落胆したくないから、失敗したくないから、そういう物には手を出さないでいる。
だというのに、小さくともフラワーアレンジメントを購入したのは。
単に、花屋の店員に押し切られた、のが、正しい。
実際には私も興味深く話を聞いてしまったのだが。あてもなくふらふらと歩いていたマルシェで、端の方にある花屋でこのアレンジメントを見つけたのだ。厳密にいえば、店員がアレンジメントを作るのを見ていた。
見つからない内に立ち去れれば良かったのだが、うっかり店員と目が合ってしまった。
そうなるともう駄目だ、典型的な日本人の私は、すっかり店員に捕まってしまって、ああだこうだと話をしたのち、気が付いたらこのアレンジメントを買っていたのである。
(まあ、欲しくなかったかって言われたら、そういうわけじゃないけど)
とはいえ、納得せず購入したわけでもない。可愛らしく、「良いな」と目を引いたのは確かなのだ。ただ、普段はそこで通り過ぎるところを、その日はたまたま「購入を後押しする」誰かがいたというだけ。買ってしまったものは仕方ない、しっかり愛でてやろうじゃないか、と、意気込んで甲斐甲斐しく世話をしている。
もっとも、簡単な水やりくらいである。
そもそも綺麗に整えられたアレンジメントなわけだし、大きなものでもない。机上に置いておいて邪魔にならないサイズ。マグカップくらいの大きさだ。
水やりなんてしたことがない、と告げた私に、店員は「小さめの水差しお付けしておきますね」とおまけをしてくれた。店のロゴが入っていたので、ノベルティか何かだったのかもしれない。
長持ちさせる世話は簡単。花が挿してある吸水スポンジが枯れないように、定期的に水を足すだけ。頻度も三日に一度くらいでよいらしい。それから、枯れた花は容赦なく捨てること。
購入してからまだ一週間、なので、幸いアレンジメントは綺麗な状態を保ったままだ。鮮やかなオレンジ色の花が、様々な形で咲き誇っている。私はもう一度ため息を吐いた。
(あの水差し、小さいから、丁度猫が持ったらいい感じなんだけどな)
ぼんやりと夢想する。膝に額をくっつけると、今まさに想像していた猫が、ぴょん、と顔を出したようだった。
猫は机上のフラワーアレンジメントに水やりをするのを、すっかり自分の使命だと思い込んでいる。
時計の針が二本とも真上を向いたころ合いに、昼食を作り出す私の足元に寄って来て、「ご主人! ご主人!」と声をかけるのだ。
「何? ねこ」
何の用事か私はとうに知っているが、必死に私の足にしがみついて、くるくると回り出す猫の様子が可愛らしくて、いつも知らぬふりをする。猫はひくひくと髭を揺らすと、「お水!」と声を上げた。
今日の猫は真っ白い毛並みのスリムな猫だ。毛は短く、額のあたりに明るい茶色の毛が混ざって模様になっている。室内灯では茶色だが、太陽光を当てるとオレンジにも見える明るい茶色で、猫はこの模様が気に入っているようだった。
その猫は、普段なら水を嫌って水場には近寄らないのに、あのアレンジメントが来てからすっかり怖がらなくなっていた。それでも自分で水を触る気にはなれないのか、時間になると「お水!」と言って、私に水やりの準備をしろ、とせがむのだ。
「はいはい、今入れるよ」
「早くしにゃいと、お花さん、喉がカラカラにゃ」
うろうろと四足歩行で歩き回りながら、猫が私を焦らそうとする。私は花屋から貰った小さな水差しの蓋を開けると、丁寧に、丁度良い分量まで水を入れてやった。しっかり蓋を閉めると、いつの間にシンクまで上がったのか、猫がひょい、と前足を差し出してくる。
水差しもまた、マグカップくらいの大きさで、猫が抱えても大きすぎないし丁度良い。二足歩行に変えた猫が、抱えたまま歩いても引きずらない大きさだ。水の重さがあるので、机の上まで運んであげようかと私はいつも聞くのだが、猫は「自分で運ぶ!」と頑として譲らない。最も、机の下までたどり着いたら、上に持ち上げるのは私の役目だったが。
「ご主人! はやくはやく!」
猫はまた私を急かして、机の上に乗せてくれ、と主張する。私は苦笑を浮かべながら、猫の柔らかい体を抱え込んだ。
机上のフラワーアレンジメントは、オレンジ色の可愛らしい花を幾つも咲かせたまま、猫の水やりを待っているようだった。机に降り立った猫は、大事に大事に抱えた水差しをちょいと斜めに傾けて、口の先がスポンジに行くように調整をした。
それで、ぽふん、ぽふん、と。
全身で抱え込むように、ボトルを押して水を流す。猫がぐっとボトルを抱え込むたび、水差しの口からぴゅうぴゅうと細い水が流れていった。今日も調子よく水をやれているようだ。
「今日水を上げたから、明日はなしね」
うっすら顔を赤くして――厳密にはよくわからなかったが、気持ち的には赤らんで見えた――花を見つめる猫に、思わず忠告する。ぽふん、ぽふん、とボトルを押し続ける猫は、どこか上の空の様子で「わかってるにゃ」と頷いた。
「……ねえ、どうしてそんなにこの花が好きなの?」
それで、聞いてみる。猫はぱっと私を見ると、花に負けないほどキラキラとした笑みを浮かべて、「お花さん、ねこと同じ色だからにゃ!」と主張した。
同じ色、と、言われてまじまじと猫の顔を見る。
全身白い毛で包まれた猫だが、額だけは明るい茶色。日に当たるとオレンジにも見える。
(ああ、なるほど)
それが、花と同じだと主張したいらしい。納得しかけた私を制して、猫はもうひとつ、理由を言った。
「それでにゃ、だからにゃ、お花さんが元気だと、ご主人も元気にゃ! だってこれは、太陽の色だから!」
ぱっと、視界が明るくなった気がして顔を上げた。
先ほど私に満面の笑みを浮かべたはずの猫は、もうどこにもいない。ただ急に明るくなり始めた室内が、雨が上がったことを教えてくれた。
思わず机上のフラワーアレンジメントを見る。オレンジの花は変わらず美しく咲き誇っていて、私はふっと体の力が抜けるのを感じた。
(……昨日はあげてないから、今日はお水をあげなきゃ)
なるほど、良いものかもしれない、と、思う。花がある生活について。
猫が自信満々に告げたように、オレンジの花は太陽の光を受けて一層輝きを増したようだった。思えば、薄暗い室内でも花だけは輝いて見えた、気がする。
「まあ、こういう休日もいっか」
そろそろ時計が十一時も半分まで過ぎている。いい加減起きようか、と体を起こした。
そりゃ、花も猫もいる生活の方が彩り豊かに違いないだろうけれど。少なくともこの花は、妄想でもなんでもなく、私を癒してくれそうだった。
イマジナリーねこ 佐古間 @sakomakoma
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