第13話 刺繍の猫
(やってしまった……)
ざあざあと流れる水を眺めながら、私ははあ、と深いため息を吐いた。
ここ数日、なんとなく寝つきが悪くて、日中の怠さと眠気がとれないでいた。集中できていなかった、と言えばそれは「言い訳」でしかないのだが、そのせいで普段やらないようなミスをしてしまった。
幸い、ダブルチェックをしていた先輩が処理確定を行う前に私のミスに気づき、事なきをえてはいるのだが。その時に一言、「最近集中できてないんじゃない?」と指摘されてしまったのだ。
(うう……しょうがないとはいえ……)
別段、それが叱られていたというわけではなく。先輩の口ぶりは優しく、「体調も悪そうだし」と言葉が続いたところから見ても、こちらを心配していってくれた言葉、だと思う。
けれども、ミスをしてしまった事実と、先輩にフォローしてもらった事実がなんとなく体にのしかかって来て、休憩してきな、の言葉に甘えて化粧室に駆け込んだ。
子供の頃からの癖があって、落ち込んだり、失敗が続いたり、兎に角何かよくないことが続いた時に、冷水でじゃばじゃばと手を洗ってしまう。冬でも夏でも関係なく冷たい水で洗うのがポイントで、なんとなく、清められた気持ちがするというか、悪いものが流れ落ちたような気分になれるのだ。
冷水に両手を晒すとキンと冷たく、今の時期では少し寒い。ぶるり、と震えそうになる体を抑えて、石鹸も使ってしっかりと手を洗った。
(早く寝るようにしてるんだけどなあ、やっぱなんか疲れてんのかな……)
体調不良の原因が寝つきの悪さにあることは気づいていたが、どうして寝つきが悪くなったのか、その原因がわからないでいる。
きちんと泡を落としきったのを確認して、水を止めた。先ほどまでざあざあ音が響いていたので、急に静かになったように錯覚する。
鏡を覗き込めば、自分でも「うわぁ」と引くほどひどい顔色をしていた。目の下の隈は隠せていないし、全体的に青白い。顔色を誤魔化すようにメイクしたはずだが、普段からガッツリする方ではないので、メイクしてなお顔色の悪さが際立っていた。
(こりゃ、先輩も体調悪そうって言うわ)
納得して思わず苦笑する。苦笑した自分の顔が幽霊のように見えて、すぐに口元は引き攣った。
(寝つきが悪くっても、例えば猫がいたらなあ)
それでふと、考える。猫がいたら、猫を構っている内に自然と眠気が来そうな気がするし、そも、あまり落ち込まないでいられそう。
考えても仕方ないか、家に猫はいないのだし。と、濡れたままだった手を拭くため、ハンカチに手を伸ばした。
ところで、私は自他ともに認める猫好きなので、普段使う物のうち、どれか一つは猫の柄が入るようにしている。
好きなものを見ると癒されるし元気が出る。最近は忙しくて意識していなかったが、比例して猫グッズも多いので、何気なく手に取る物が猫柄の比率はとても高かった。
今日のハンカチは白地に葉っぱの模様で、端の方に可愛らしい猫のキャラクターが刺繍されていた。明るい茶色の猫で、ふっくらとした顔をしている。糸目なので笑っているように見えて、顔の周囲には花が散らばっていた。どこで買ったかは覚えていないが、あまり使った記憶がないので、比較的新しく出したハンカチだろう。
(あ)
その、猫の刺繍が、ぱかりと口を開けたように見えた。
思わず、鏡の中の自分を見る。変わりなく、幽霊のように青白い顔色の私がいるばかりだ。もう一度手元のハンカチを見る。猫の刺繍は今度は、にやにやと面白そうに顔を崩して、顔、全体が小刻みに揺れているようだった。
(笑ってる……)
だというのに、何故だか私は、それが当然の事のように受け入れられた。ハンカチの刺繍の猫が口を開けて、震えながら笑っている。うん、別に不思議なことではない。
じっと見つめ返した私に気が付いて、刺繍の猫はもう一度大きく口を開けると、「ご主人!」と大きな声を出した。
少し甲高い、少年のような声だ。実際耳で聞いてみても、私にはまったく不思議なことではないように思えた。刺繍の猫は「人差し指がまだ濡れてるにゃ!」と指摘してくる。
それで、言われた通り人差し指を見た。右と左、どちらかわからなかったので両方見ると、確かに右手の指の腹がまだ少し濡れている。せっかちな性格なのもあって、濡れた手を拭くのを大雑把にしがちなのだ。
「ちゃんと拭けたにゃ」
よしよし、と、拭きなおした指を見て猫が満足気に言う。私はやっぱり驚くでもなく、刺繍の猫を見つめながら、「どうして急に喋ったの」とそんな呑気なことを聞いた。幸い、昼休憩も過ぎた時間で、化粧室には私以外の誰もいない。
「ご主人がまた、あの“せかせか”したところに戻りそうだったから、止めにゃきゃと思ったにゃ」
猫ははきはきと目的を告げる。
せかせか、とは、きっと事務所の事だろう。
体調不良は寝つきの悪さが原因だと思われたが、仕事のミス、自体は体調不良だけじゃなくて、単に業務が忙しかったから、と言うのもある。先月何年も勤めていた先輩社員が産休に入ってしまって、ずっと人手が足りていないのだ。猫の手でも借りたいくらい。
「ご主人、戻らにゃいにゃ?」
刺繍の猫は、笑った顔をへんなりと落ち込ませて、糸目のまま私の事を見つめた。糸目なので視線がどこを向いてるかはわからないが、とにかく、正面の顔で縫い付けられているので、正面を見ているのだろう。猫の正面には私がいるので、結果、猫は私を見ている。ということにしておく。
ふむ、と、私も考えた。
自分でも引くぐらいの顔色の悪さで、既にミスを犯した状態で、メンタルは、まあ、リセットできるとしても。
(かえって気を使わせてしまうし、足手まといかも)
考えると、一層体が怠くなったようだった。肩が重い。刺繍の猫がもう一度、「ご主人」と詰め寄るように呼んだ。
「……分かったよ、帰るよ」
観念した私は、肩を竦めて猫に笑んだ。視界の端に移った鏡の中では、顔色の悪い幽霊がにやついただけだったので、傍から見たら大変気持ちの悪い笑みだったかと思うが。
「やったにゃ!」
猫は満足そうに声を上げると、それから、満面の笑みを浮かべてぴたりと止まってしまった。
私はそれを見届けて、ハンカチをポケットの中に戻す。
自席に戻るついでに上司の元に寄って、体調不良での早退を申し出る。どちらかといえば、私の顔を見るなり早退を申し出る前に「さっさと帰れ!」と怒られたくらいだ。それで、業務を放り出す申し訳なさもほどほどに、早退させてもらえることになった。
(……ところで)
自宅へ向かう電車は平日の昼過ぎなので随分空いていた。
座れるのは良いことだ。重たい体をシートに埋めて、今更な思考を働かせる。
(普通、ハンカチの刺繍は喋らないよなあ……)
昔からよく猫を飼う妄想をしてはいたけれど。あれほどはっきりと現実に“出てきた”のは初めての事だった。
(それだけ疲れてたってことか……)
同時に、日常的に行っていた、「猫を飼う妄想」をここのところすっかりしていなかったことに気づく。
(あー、もしかしたら、猫妄想が足りなくてストレス溜まってたんかも……)
もしそれが本当ならば、やはり猫は偉大だ。実物じゃなくても、妄想だけで少なくとも私の事を救ってるのだから。
「……ま、結局妄想だけど」
家にたどり着いたなら、温かい紅茶を入れてゆっくり体を休めながら、久しぶりに猫の妄想をしようと決める。
今日の猫は、ハンカチに住む、刺繍された糸目の猫だ。
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