第12話 マッサージする猫
長い長い梅雨が明け、強い日差しがここぞとばかりに纏わりついてくるようだ。
あまり汗をかかない体質なのだが、三十度をゆうに超える気温の中ではじわじわ、むんむん汗をかく。顎に落ちそうな滴をハンカチで抑えて、あっついいい、と唸るように呟いた。
営業職ではないはずなのに、取引先との打ち合わせだの別の事務所への視察だのと、月に何度か一日外を歩き回る日がやってくる。何もこんな日に外回りをしなくても良いのに、とは思うが、予定されていたものを外すわけにもいかない。し、外したところで、この猛暑はまだまだ続くだろう。なにせ梅雨明け直後。夏はこれからが本番だった。
(こんな日は休憩に入ったカフェでなんとかフラッペとか飲みたい……)
残る訪問先は一件だけ。打ち合わせが丁度夕方近い時間なので、開始まではまだ一時間ほど時間があった。かといって、事務所に戻れる時間ではないし、そのままどこかで休憩しようと決める。
目当ては冷たいドリンク、だが、生憎となんたらフラッペだのフラペチーノだのを売っている店はないようだった。適当に入店した喫茶店は、せいぜいクリームソーダがあるくらいで、愛想の良い店員にとりあえずクリームソーダを頼む。
(まあどうせ、フラッペもフラペチーノも飲みきれないんだけど……そもそも違いもよくわからん)
重い荷物を空いた椅子に置けば、ようやく人心地つける気がして肩の力が抜ける。随分気を張っていたらしい、体のあちこちが急に重くなったように感じた。
(久しぶりに歩き回ったから足がすごいやばい……)
たくさん歩くから、とスラックスを履いていたが、スカートじゃなくてよかったと心底思う。浮腫んでパンパンになっているのがよくわかった。座って邪魔にならない程度に体を伸ばすと、あちこちの関節がぱきぱき音を鳴らすし、足はだるく重さを訴えている。夕方近くの打ち合わせなので、終了次第直帰の許可をもらっていてよかったと思う。
(こういう日はあれだよねえ、マッサージに行きたいよねぇ)
クリームソーダがくる間。
伸ばしきった体を縮めて頬杖をつく。店内は人もまばらで落ち着いていた。少し薄暗い照明だったが、先ほどまでカンカン照りの空の下にいたので、このくらいの照明は丁度よく、少しばかり眠気を誘った。
(マッサージかあ)
それで、ふと考える。
例えば猫のふにふにの手でマッサージしてもらえたら、とてもとても幸せなんだろうなあ、なんて。
「ご主人、今日はどこかにゃ?」
固めのマッサージベッドにさっとタオルを敷きながら、ぱんぱん、と手を叩いた猫は上目遣いに私を見上げた。きっちりと整体師の制服を着込んだ猫は、キラキラと輝く瞳で私の頭の天辺から爪先までを観察しているようだ。へとへと疲れていた私は、とにかく足、足が辛い、と断りもなくベッドの上に寝転がる。
「足かにゃ」
足、足、と言いながらうつ伏せになると、猫はこつん、と足の付け根あたりを軽く叩いた。私が足を投げ出したママなので、ふむ、と言いたげにぱさりと上からタオルをかけられる。
「浮腫んでるにゃ」
知っていたことを言われる。そうでしょう、と身もせずに頷くと、猫は無言で優しく足を撫でつけた。
一度、二度、付け根から足首の方に向かって、両方の足を撫でられたかと思うと、右足に向き直った猫が軽めの力でとんとんと足を叩く。同じく付け根から爪先にかけて、足の裏まできっちりとだ。猫の柔らかい毛並みがふさふさ当たる感触がする。といっても、スラックスと、タオルに挟まれ直の感触ではなかったが。
柔らかく暖かな前足が私の足を軽く叩く。右足を終えると今度は左足。二、三度それを繰り返すと、今度はそうっと、ガラス細工に触る時のような慎重な手つきで、私の足を揉んでいく。
「お疲れだにゃ」
じっと黙り込んで、猫の肉球が私の足を挟んで揉み、柔らかくしていくのを感じていると、ふと猫がそう呟いた。お疲れだよ、と一言答えると、猫は不満そうにふみゃ、と息を漏らした。
「こんなにお疲れなら、休んでしまうのがいいにゃ。そうにゃ、それがいいにゃ」
何故だかぷりぷり怒った調子で、けれども猫の手は優しく柔く揉むばかりだ。足を揉むのも、付け根から爪先の方へ。ぷにぷにと弾力のある肉球が、優しい手つきでもしっかり揉んでくれて気持ちが良い。一瞬足つぼマットなどのぼこぼこした突起がよぎったが、あれよりももっとソフトで優しい感触。猫も私の足を痛めないよう、優しく優しく揉んでいく。
「大体こんにゃになるまで動くなんて、ご主人は猫になるべきにゃ」
文句を言いながら、右足をすっかり揉みおえた猫は左足へと前足を移した。終わったばかりの右足はぽかぽか熱を持ったようで、不思議とだるさが消えている。左足を揉みながら、猫はまだまだ言い足りなげな様子でにゃう、と鳴いた。
きっと今、くりくりの瞳をじっと足に向けながら、ぴくぴく髭を動かし耳がちょっぴり揺れているんだろう、と思えば少しばかり面白かった。猫は「人間てのは全くわからない生き物にゃ」と文句を続けているが、結局のところ心配してくれているらしい。
「ふふ」
耐えきれずに笑みを零すと、前足の動きがぴたりと止まって猫が「にゃ!」と非難の声をあげた。何がおかしいのか、と言いたいらしい、私はようやく顔を上げて足の方を覗き見た。上半身を少し起こして振り向くのは、ちょっと背中も伸びて気持ちのいい体勢だった。ただずっと保てる姿勢ではないだろう。
猫がむっすりした顔で、「ご主人は猫ににゃるべきにゃ」ともう一度言う。私はくすくす笑いながら、「猫になったらご主人じゃなくなるね」とからかってみる。
それで、猫はショックを受けたように「にゃんと!」と声をあげた。猫になればいい、なればいい、と言っていたが、イコール、主人ではなくなるという発想がなかったらしい。
それは嫌にゃ、と、途端に猫の瞳が潤み出した。
マッサージはもう続けてくれないらしい。放って置かれた左足が少しだけまだ浮腫んでいる気がしたが、猫が「嫌にゃ〜!」と叫んで私の足に引っ付いたので、まあいいか、と思ってしまう。
足の上に乗り上げた猫はそのままひっしとしがみ付いて、「ご主人はご主人にゃ!」と叫ぶ。猫にしては珍しく、素直で感情豊かな様子にとうとう口を開けて笑った。
「重たいよ、ねこ」
「猫にならないって言ってくれたら降りるにゃ」
そもそも猫になるなど一言も言ってはいないが。
そろそろ体を起こしたままなのが辛くなってきたなあ、と思いながら、私は肩を竦めて「ならないよ、ならないってば」と言い切った。そろりと猫の顔が上がる。
「……ほんとかにゃ?」
疑り深いなあ、と思うと同時に、体を支える腕に限界がきてぱたりと倒れる。猫の重みは結局足から動かなかった。
(なんて、結局マッサージしてくれなくても絶対可愛いし癒されるしそれだけで十分だよなあ)
とん、と置かれたクリームソーダはしゅわしゅわと小気味よい音を立てている。きれいに乗った半球のアイスクリームをスプーンで掬えば、ミルクの濃厚な味が疲れた脳を癒してくれたようだった。
アイスクリームの上にちょこんと乗ったさくらんぼが可愛らしい。昔ながらのクリームソーダ、といった様相で、なんだかそれだけで嬉しくなる。
打ち合わせの時間まで、残り四十分ほど。移動もあるのでのんびりできるのは三十分くらいだ。
ぱくりと容赦なくさくらんぼを口に入れ、一緒にアイスも放り込む。スプーンを加えたまま、グラスに触れて冷たくなった掌でそっと脹脛を揉んだ。
(あとちょっと!)
糖分と冷たいものを補充して、体を休めて踏ん張ろう。
それで、家に着いたらちょっとお高い入浴剤で癒されよう、と心に決めた。
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