第9話隠していた事。

 裕の百箇日が終わった。彼の父親から「渡したいものがある」と連絡が来て、僕と柚は、裕がいなくなってから初めて裕の家を訪ねた。

「いらっしゃい。」

裕の母親が優しく迎えてくれた。その優しく明るい笑顔に、僕らは自然と裕を重ねてしまった。思わず目頭が熱くなる。僕は、隣で足が下がりそうな柚の背中を支えた。彼女は小さく頷き、裕の母親の後に続いてリビングに入る。リビングには、彼の父親もいた。父親は僕らを見て、「久しぶりだね。」と目を細めた。僕は、親子とは残酷なものだと思った。母親を見ても、父親を見ても、裕を思い出す。そして、この空間に裕がいないことを際立たせるんだ。

「二人とも何がいいかしら。コーヒーかカフェオレかオレンジジュースしかないんだけど。」

「オレンジジュース」というフレーズに、僕の中の「緊張」という名の糸が、ピンっと音を立てて張られた気がした。


「はい。」

コトンと置かれた二つのグラス。僕らは揃って、目の前に置かれたオレンジジュースを見た。

「ありがとうございます。」

そう言った柚の声は、少しだけ震えていた。

「改めて、」

裕の父親が、僕らの瞳を交互に見る。そして、

「すまなかった。」

僕らに深く頭を下げた。僕と柚は思わず顔を見合わせた。僕らは戸惑いを隠せなかった。

「君達には、たくさん迷惑をかけた。病気の事も何も話さないで…あいつと、話すことだって…」

そこまで話すと、彼は話せなくなってしまった。必死で、「何か」を堪えているんだ。

「本当に、ごめんなさい。」

隣でも頭を下げられた。

「やめてください!顔上げてください!そんな、謝るなんて、やめてください…」

柚の声は、震えていた。

「僕は…」

三人が、僕を見た。

「裕を許す事は、したくないです。」

柚が何か言いたそうな目で僕を見ていた。

「僕らの中で、あいつは永遠です。忘れたくない、大事な親友です。」

「親友」という言葉は、自分の口から言うとそれほど恥ずかしくないものだった。

「かっこつけて、自分の話を何もしなかった。馬鹿で、どうしようもない親友を、僕は一生許したくない、です。」

「裕を忘れたくないから」という言葉は、必要なかった。三人の瞳に、また涙が溢れた。

「『許せない』じゃなくて、『許したくない』か。」

「はい。すみません。」

「いや、ありがとう。君は、本当に優しい言葉を使う子だね。」

僕の隣で、柚が優しく微笑んだ。


裕の部屋は何もかもがそのままだった。机には柚と裕の写真と、僕と裕の写真がある。二つの間が空いているから、この間にはきっと今は仏壇の傍にある「入学式」の写真が置かれてたんだろう。僕が彼の部屋に行きたいと言うと、おばさんは、「まだそのままなのよ」と少し恥ずかしそうに扉を開けた。半年前と何も変わっていない。裕と僕、そして柚との思い出が、ここには溢れてる。裕の机には、彼の「お気に入り」だったキャンパス地の鞄が置かれている。鞄の端には、薄茶色のシミが付いていた。

「これ、僕が溢しちゃったカフェオレだ。」

「あぁ、トイレ我慢してた時のね。」

「覚え方が独特だよ…。」

おばさんもびっくりしてるじゃないか。

「僕が我慢しなくちゃいけなくなったのは、柚のあの殺伐とした空気のせいだろ。」

「仕方ないじゃない。裕が急に旅行に行くなんて言うんだから。でも、トイレに行かせないほどじゃなかったわ。」

「ああいう空気は、本人には分からないものだよ。本当に、息をするのも怖かったんだ。」

「あらまぁ。確かにそうねぇ。柚ちゃん怒ると怖そうだもの。」

「おばさんまでー。」

僕らは三人で、笑い合った。

「中身を見てもいいですか?」

「ええ、もちろん。私は下にいるからゆっくりしてちょうだいね。」

「ありがとうございます。」

「あ、柚ちゃん。少しいいかしら。」

「あ、はい。」

おばさんと柚が部屋を出た後、僕は鞄の中を見た。鞄の中には、どこかで見たような青いノートがあった。ノートの表紙には、鞄と同じく薄茶色のシミがついている。これは、カフェオレだ。そうか、これは、あの時のノートだ。それは僕の記憶の中のものと一致した。僕がカフェオレを溢した時、裕は急いで鞄を取り上げた。その時、鞄の隙間からこのノートが見えたんだ。あの時は、カフェオレを拭く事に気を取られて何も感じなかったけど、今考えると、あの時の裕は何かおかしかったような気がする。普段の裕なら、あんな風に物を取り上げたりはしない。僕は、ゆっくりノートを開いた。そして一ページ目を見た時、僕はせっかく開いたノートを閉じてしまった。


『聞いてもいいか。』

『いやだ。』

『なんの病気なんだ。』

『いやだって言ったろ。まぁいいや、でもそれだけは教えないって言ったらどうする?』


頭に、「あの日」の会話が浮かんだ。僕は、手にある青いノートをもう一度、ゆっくりと開いた。裕は、カフェオレが染み込む事を心配したんじゃない。このノートを見られないようにしたんだ。

「記憶…障害…」


声に出すと、思い出の中のあいつの笑顔が音を立てていなくなってしまいそうだった。


僕らにだけは、病名を言わなかった裕。「あの日」怯えるように鞄を取ったった裕。見舞いに来るなと言い続けた裕。そして、段々と少なくなった連絡。僕の頭の中で、全てが一瞬で一つに繋がった。記憶障害が伴う病気はいくつかある。そのくらいは僕も知ってる。でも、裕がそんな病気だとは夢にも思わなかった。

ノートの中には、裕の日記があった。病気が発覚してからの事を事細かに書き記してある。「入学式」の事も、両親に打ち明けた事も。真ん中あたりには、僕と柚の事が書いてあった。僕との出会い、あの小学生の頃の出来事が書いてある。そうか。裕は、記憶を遡って書いていたんだ。忘れないように、自分の言葉で。僕は裕があの時の事をずっと覚えていたんだと思ってた。二人で地図に印をつけたあの頃のことを。でも違った。思い出してくれたんだ。僕の事を忘れないためにここに記す時、僕らの出会いを。そして、忘れたくないと思ってくれたんだ。記憶が薄れる恐怖の中で、思い出してくれたんだ。心が、今度こそ本当に潰れてしまいそうだ。


日記なんてものじゃない。これは裕の記憶だ。


 柚との出会いのところは本当に長かった。あまりに長くて全部は読めない。そして何となく、読んじゃいけない気がした。この部分は特に、何度も開かれた跡がくっきりと付いている。それだけで、これを読んで、裕がその度に柚に恋をしていたことがわかった。そんな記憶を見ちゃいけない。僕だけは、「見ちゃいけない」んだ。

 ノートはまた机の上の鞄にしまった。まだ、気が付かないままでいよう。そう思った。僕はまだ、裕がいない季節に慣れることで精一杯だから。


下に降りると、おばさんと柚が話していた。

「あの子は、柚ちゃんと過ごせて本当に幸せそうだったわ。ありがとう。」

「私も、本当に幸せでした。でも、まだ、忘れたくないんです。まだ、過去にしなくてもいいですか?」

「えぇ。ありがとう。でもね、『準備』をしましょう?」

「『準備』ですか?」

「そう。過去にする準備よ。私達が過去にしないと、あの子、向こうでゆっくりできないだろうから。」

「『準備』……。」

「あなたには、未来があるのよ。」

「ガチャリ」とわざと大きく音を立てて、僕はドアを開けた。

「ありがとうございました。」

「いいのよ。ゆっくりできたかしら。」

「はい。柚、そろそろ失礼しよう?」

「うん。」

「二人ともありがとう。」

玄関で見送ってくれたおばさんはそう言って僕らに優しく微笑んだ。

「おばさん。あのノート置いておいてもらえますか?」

おばさんは一瞬驚いた顔をしたけど、直ぐに、

「分かったわ。」

とまた笑った。僕らはもう一度お礼を言い、裕の家に背を向けた。

「ノートって?」

「小学校の時の思い出が書いてあるノートだよ。」

「へー。裕そんなの持ってたんだ。知らなかった。」

「僕もだよ。」

「あたしも見たいな。」

「そうだね。いつか、見に行こう。二人で。」

「うん。いつかね。」

おばさんたちは、「また来てね」とは言わなかった。それでいい。今はまだそれでいいんだ。いつか、僕らがちゃんと季節に慣れたら、彼を思い出に出来たら、また来よう。僕らは、おじさんに渡された裕の「想い」をそっと握りしめた。

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