第2話春の告白、そして夏。


 そして、僕らは明日、大学生になる。僕と裕は、柚と同じ国立大学の文学部へ進学した。彼女が進学した時から、僕らの進学先は自然と決まっていた。今思えば、二人の関係をこのまま見守る事に何の抵抗もなかったのが少し不思議だけど、例え抵抗があったとしても、僕は三人でいる事を選んだだろう。


 高校までの入学式と違って、大学の入学式は想像していたよりも緩かった。出欠確認なんてものはないし、座席も自由だ。学長の挨拶が終わり、生徒代表の挨拶が始まる。大きなホールの後ろの方の席に座っている僕達には、生徒代表の顔なんてもちろん見えない。声を聞いて、賢そうな女の子だと認識するのが精一杯だ。何となくプログラムを見ると、次は校歌斉唱と書いてある。新入生しかいない入学式でなぜ校歌斉唱があるんだろう。恐らくは、誰も歌えない。

 そんなことを思っていると、司会の「校歌斉唱」というアナウンスと一緒に「アカペラサークル」とプリントされた衣装を纏った男女数人がステージに上がった。そして、何故か校歌をアカペラで歌い始めた。何ともシュールな絵図らだった。隣の裕はとっくに夢の中だし、隣の知らない子は、あまりにシュールなこの状況を尋常じゃないくらいのスピードでSNSに呟いている。

 一時間ほどで式が終わり、会場を出ると、入り口の「入学式」と書かれた看板が一枚から数十枚に増えていた。僕は、ここに来ている人のほとんどの目的は記念写だということに気が付いた。

「せっかくだから撮るか。」

大半の男子がリクルートスーツを身に纏う中、暗い茶色のスーツを着た裕はやけに楽しそうだ。こいつは高校三年間で驚くほど身長が伸び、一七五センチの僕とは六センチも差ができていた。顔だちも男らしくなった。

「あー!いた!」

数十枚あっても列ができている看板の最後尾についた時、心地よく、馴染みのある声が聞こえた。

「なんで二人とも出ないのよ。」

怒った柚の顔を見て、僕らは式中、スマホの電源を落としていたのを思いだした。

「ごめん!電源切りっぱなしだったわ。げっ。凄い数の不在着信。こえーよ柚。」

電源を入れたスマホの画面には、二十件ほどの不在着信があった。

「確かに。これは怖い。」

「だって!絶対、写真一緒に取りたかったんだもん!」

「お前は入学じゃないだろ。」

「いいじゃない。細かい事は!」

「細かくはないだろ・・・。」

付き合ってもうすぐ三年が経つ二人は、もう誰がどう見てもカップルだった。二人には、二人でしか作れない雰囲気があった。それはひどく柔らかく、怖いくらい温かかった。その柔らかさと温かさを近くで見ている僕は、この二人はこのまま結婚するんだろうなと自然に思っていた。

「進んでるよ。」

まだ何か言いたそうな裕の言葉を遮るように二人の背中を押すと、柚は僕が押すよりも少し先へ進んだ。そして、大学へ入って短く、明るくなった髪を揺らしながら振り向いた。

「二人とも、入学おめでとう!」

その笑顔は、汚れのない「柚」のようだった。僕らは顔を見合わせ、愛しい人に微笑んだ。

「ありがとう。」

 写真を撮り終わった後、僕らは「安定」のファミレスに向かった。窓際の席に案内され、この三年一度も変わっていないメニューを広げる。ウェイターが注文を聞きに来て、僕と柚はいつも通り、カフェオレとブラックコーヒーを注文した。でも、裕だけはレモンスカッシュではなくオレンジジュースを頼んだ。

「珍しい。オレンジジュース嫌いじゃない。酸っぱいからって私が飲んでるときはすごく嫌そうな顔するのに。」

嫌な予感がした。


 裕は昔からオレンジジュースが嫌いだった。でも、何か話したいときだけは決まってオレンジジュースを飲むんだ。そしてその話は、決まって悪い話だった。

 小学四年の頃、裕が飼っていた犬が死んだ。事故だった。夏休み中に起きてしまったその不幸を、僕の家まで話に来た裕は、大きなリュックからぬるくなったオレンジジュースを出して飲んだ。中学三年の時、利き腕を骨折して、少年野球の最後の大会に出られなくなった裕は、レギュラーを外された。そして、その日僕の家に来た時も、裕はスポーツバッグからオレンジジュースを出して飲んだ。

「何があった。」

深刻な僕の低い声に、柚の方がびくっと小さく震えた。そして、不安そうな声で、僕と裕の顔を交互に見た。

「え、何?何かあったの?」

僕は、裕から視線を外す事ができなかった。裕は、僕をじっと見た後、彼女を見つめて困ったように眉を下げた。その顔は、裕がこれまでオレンジジュースを飲んだ時のそれと同じだった。

 息の詰まりそうな沈黙が続いた時、ウェイターがやってきて、注文したものを順番に机の上に置いた。オレンジジュースは最後におかれた。

 僕と柚は、裕の前におかれた見慣れないオレンジジュースを時限爆弾を見るように見ていた。いつも明るい裕が、この異様な沈黙に何も言わない事が、これから話されるであろう事の大きさを余計と感じさせた。

「俺、病気みたいなんだ。」

人は、何も考えられなくなった時に「頭が真っ白になる」という言葉をよく使う。だけど僕は、そんな風には思えなかったし、これから先、今の状況を思い出してもそんな風には言わないだろう。そうだな、心臓を掴まれて、背中よりもっと後ろの暗い所へ引っ張られたような、そんな感じだった。言葉が出てこない。聞きたい事は山ほどあるはずなのに、僕は言葉を忘れてしまったように何も言えなかった。まだ、どんな病気なのか聞いてすらない。耳だけで聞けば、まるで他人の話でもしているかのような裕の声。でも、きちんと裕の顔を見て、心で聴いていた僕らには、それが裕のせめてもの気遣いだという事が痛いくらいに分かった。

 そして、その気遣いが、病気が重いという事の表れだという事が分からない程、僕ら三人の仲は浅くはなかった。

「突然でごめん。去年の十二月にはわかってたんだけどさ、なかなか、言い出せなくて。せっかく新しい生活が始まるっていうのにこんな事、本当は言いたくなかったんだけどさ。」

謝る裕の顔は、すごく穏やかだった。

「ごめんな。」

もう一度謝る裕を見て、僕は思いっきり殴られたような気分になった。

「謝るな。お前が悪いわけじゃないだろ。ちょっと混乱して、言葉が出なかっただけだ。悪い。」

「そうよ!謝らないで。私達がしんみりしちゃったせいね!別に謝るようなことじゃないもの…」

柚の瞳には、うっすらと涙が光っていた。

「でも、言うのが遅くなっちゃったからさ。」

この四ヶ月、裕は一人で病気の事を抱えて、考えていた。そして、隠さず、僕らに話す事を選んでくれた。逆に言えば、それだけ伝えるべきか悩む病気だという事だ。多少なりともサインはあったはずだ。いくら受験に忙しかったからって、親友のそれに気づかないなんて、僕は自分が情けなくて仕方なかった。

「遅くなんてない。話してくれてありがとう。四ヶ月も気づけなくてごめん。」

強い瞳で裕を見る柚の目に涙はない。きっと僕と同じ事を考えているんだろうなと、なんとなくわかった。

「そこで『気づいてあげられなくて』って言わないところが好きだよ。でもやっぱり、謝るのは俺の方だ。」

「おい。怒るぞ。どんな病気かは分からないけど、お前は四ヶ月間、悩んで、考えて、それで僕らに話してくれた。むしろ四ヶ月で話してくれたことが嬉しいよ。」

どれだけ勇気のいる事だったか、想像もできない。

「いや、遅いんだ。」

「お前な…」

「死んじゃうんだってさ。俺。」

時限爆弾のように見えていたオレンジジュースの中の氷が、「カラン」と音を立てて崩れた。僕らには聞かなくちゃいけない事が山ほどあった。どんな病気なのか、どんな治療をしているのか、普段の生活に支障はないのか。でも、突然親友の口から出た言葉は、全てを忘れるには十分過ぎる一言だった。

「死ぬ?お前が?冗談だろ?」

話の順序のなってないこいつの事だ。何かの間違いかもしれない。

「まぁ、そう思うよな。残念なことにホントなの。あぁ、直ぐってわけじゃねーよ?あと八か月はあるし。」

「何が。」

「ドラマとかで言う余命ってやつだな、十二月の時点で一年だって言われた。」

小学校から一緒で、お互いよりもお互いのことを知っているような奴が、初めて意味のわからない事を言っている。なんの冗談だ。あと八ヶ月で死ぬ?嘘に決まってる。

「なんの冗談だ。」

嘘に決まってるんだ。また話す順番を間違えてるだけだろう?頼むから冗談だって言ってくれ。僕は、少ない望みを何とか現実にしたくて、目で必死に訴えた。声には出せなかった。堪えているものが落ちてしまいそうだったから。

「ごめんな。」

何かが崩れる音がした。分かっていた。オレンジジュースを飲む時、裕は嘘をつかない。なんで、こいつはこんなに笑ってられるんだ。僕の斜め前で、柚はわけもわからず溢れてくる涙を必死に堪えていた。肩が震えていたから、きっと泣かないように手を力いっぱい握りしめていたんだと思う。

「本当は、こんな日に言いたくなかったんだけどさ。大学生になったわけだし?心機一転ってことでさ。」

わざと明るく言っている姿が、痛々しく、腹立たしくもあった。

「心機一転って…笑えないよ。」

絞り出すように呟いた柚の肩は、さっきよりも細かく震えていた。

「だって、私は入学生じゃないのよ?どうしてくれるのよ。」

「細かい事はいいだろ?」

眉を上げておどける裕を見て、僕らの頭に、さっき写真を撮る前の会話が浮かんだ。

「…仕返しされちゃった。」

涙を堪えながら必死に作られた笑顔は、あまりに眩しくて、僕は思わず目を逸らした。

「柚…」

裕が彼女を呼ぶのと、彼女が席を立ったのは、ほとんど同時だった。

「ごめんなさい。連絡する。」

一口も口を付けられなかったブラックコーヒーが、彼女が立ちあがった衝撃で少しだけソーサーにこぼれた。

 ソーサーにこぼれたブラックコーヒーを見て、僕はカフェオレに砂糖を入れてもない事に気が付いた。冷めきったカフェオレにスティックシュガーを二本入れ、かき混ぜると、ほんの少し溶け切らなかった砂糖がカップの底でざらざらと音を立てた。それは、僕の心みたいに思えた。

 柚が席を立ってから、僕らは二人して黙り込んだままだ。何も話さない方がいい気さえしていた。ただ、僕には聞かなくちゃならない事があった。

「遅いって…」

「え?」

僕が話しかけると、裕は背もたれに背中を付けたまま、目線だけを僕に向けた。

「遅いって、どういう事なんだ。あと、…時間がないからか。」

「八ヶ月で死ぬからか」と続きかけた言葉を飲み込んだせいで、変な日本語になった。裕はきっと気づいてるだろう。

「四ヶ月あったらさ、お前らと何できたかなって思ってさ…俺さ、やりたい事いっぱいあるんだよ。でもさ、やっぱりその時隣にいてほしいなって思うのはお前らだからさ。四ヶ月前に話せてたら、その時から今まで俺のやりたいって言った事絶対なんでも一緒にやってくれたじゃん?大してやりたくないことでもさ、お前ら優しいからさ。」

「遅いってそういう意味か…」

「時間もったいねーじゃん。」

そうか…。

「裕…」

そうか、四ヶ月。たった四ヶ月でお前は自分の死を受け入れたのか。たった一人で、悩んで、多分たくさん泣いたんだろう。それでもやりたい事をやろうと、前を向こうと思ったのか。なんだよ。なんなんだよ。いつもそうだ。くそっ…。

「なんで、そんなにカッコいいんだよ。」

僕は涙を堪えるのに必死だった。でも、裕は笑っていた。それを見て、僕は余計に泣きそうになった。

「なんで笑ってんだよ。」

「だって、俺が泣いたらお前も泣くだろ。」

泣かないよ。と言いたかったのに、本当に涙が出てきそうで、言えなかった。

裕は、オレンジジュースに刺さっていたストローをゆっくり抜いて、直接グラスに口を付けた。それから、ゆっくり噛み締めるように誰かを想っていた。

 「誰か」なんて聞かなくてもわかる。裕は、愛しい人を想っていた。

「柚は、…知ってたのか。」

「知らなかったよ。」

「そうか。」

裕なりに考えて、僕ら二人に同時に伝えたんだろう。そして、柚もその事は分かっているはずだ。ただ、心の整理がつかないだけだ。連絡すると言い残したのは、今の彼女が言えた精一杯の言葉だったんだろう。「一人で考えたい。そういう事だと思う。」と言う裕の瞳は、彼女の全てを分かっているような気がした。

「おばさん達には?」

僕たちに今まで黙っていた裕だ。両親にも言っていないかもしれない。

「気づいてる…かもしれない。」

「やっぱり話してないのか。気づいてるって?」

「俺さ、家で過ごす時間って今まで大切とか思ってなかったんだよ。いつも飯食ってもすぐ部屋いっちまっててたし。でも、あと一年って言われてから、大事にしなきゃなって思ったんだよ。だから、いつもよりちょっと家族との時間も大切にしてみたんだ。」

「そしたら?」

「『何かあったんだろうけど気長に待つわ』だってさ。」

「すごいな。」

「あぁ、本当すごいよ。一生勝てねぇなって思ったもんな。」

「おばさん、仕事忙しいのか。」

裕の両親は共働きで、小さい頃から留守が多かった。それでも、必ず裕を優先する両親を、こいつは誇りに思っていたし、感謝もしていた。そして、だからこそ、中学に上がってから裕は、両親の仕事の邪魔だけはしたくないと言っていた。

「それだけじゃないんだ。ただ、勇気がなかったってだけかも。」

「勇気か‥」

「お前らに言うのもめちゃくちゃ勇気いったんだぞ。俺が親に相談とかそういうのあんまりしないの知ってるだろ。」

そんな自分が珍しく言い出すことが、「余命宣告を受けた」になる。「そんな親不孝なこと言えるかよ。」そう言って裕は窓越しに空を仰いだ。

「でも、言わないわけにはいかないだろ。」

「その通り。…早めに言おうとは思ってるよ。」

「本当に早めにな。」

「わかってる。やっぱり心の準備っているしな。」

「息子が死ぬ前に…」とつぶやいた彼の言葉は聞こえないふりをした。

「聞いてもいいか。」

「いやだ。」

迷わず言った裕は、僕が何を聞くか分かってたんだと思う。

「なんの病気なんだ。」

「いやだって言ったろ。まぁいいや、でもそれだけは教えないって言ったらどうする?」

「え?」

「お前絶対調べるだろ。治療法とか、期間とか色々。」

「調べるよ、それぐらいさせてよ。それに柚だって…」

気になるに決まってる。立場は違っても、裕は僕らのかけがえのない人だ。どんな病気で、どんな治療をするのか。なぜ、あと八ヶ月しか生きられないのか。

「嫌だよ。これだけは嫌だ。調べて、俺より詳しくなっちゃって、お前が医者と喋りたいって言うのが目に見えてる。」

「それはそうかもしれないけど…」

「頼むよ…」

今まで笑ってたこいつが、初めて泣きそうになるから、僕はそれ以上、何も聞けなかった。

「それにさ、」

裕は、僕と話し始めてから初めて俯きながら話した。そして、心の中でずっと抱えていた「一番」の不安を話し出してくれた。

「あいつの事なんだけど。」

「うん。」

「どう思う。」

「どうって。」

「このまま俺が付き合っててもいいのかな。」

僕は、しっかり踏ん張っていたのに、後ろから突き飛ばされたような気持ちになった。裕がどうしてそんなことを言ったのかはわかってる。自分が死ぬからだ。

「もうすぐ死んでしまう自分が柚の時間を奪ってもいいのかな。」

僕はこれまで十九年間、こんな弱気な裕を見た事がなかった。あぁ、こいつは本当に覚悟を決めたんだ。なら…お前が弱気になるなら、僕が背中を支えてやる。押してやる。

「ダメなんて言うと思うか。」

「だよな。でもさ、これは俺の親友としてじゃなくて、あいつの友達として答えてほしいんだ。」

「どういうことだ。」

「俺の親友としての答えなら、聞かなくてもわかるよ。ありがとう。でも、あいつの友達としては?もうすぐ死んじゃうよ俺。そんな奴と付き合っててほしいかよ。」

「僕は今お前が馬鹿なのか、あほなのか、頭が悪いのかどれなのか迷ってるよ。」

「へ?…ってかそれ、全部意味同じだよ。」

裕は一瞬、顔を上げて「訳が分からない」という顔になって、でもすぐに突っ込んできた。弱気になんてなるな。なってくれるな。頼むから。

「答えは変わらないよ。いや、変えられないよ。僕はこの三年間、お前たちを一番近くで見てきた。お互いの事をどれだけ大切に思っているのかも知ってるつもりだよ。」

裕はまた俯いてしまった。

「お前が柚を想って身を引こうとするように、柚もお前のことを想ってるよ。」

「うん。分かってる。それでも…」

「『男のちんけなプライドに付き合ってられません。』」

「へ?」

裕はまた顔を上げた。

「柚が言いそうだろ…。大事な人が弱ってる時には傍にいたいもんだよ。たとえ相手が望まなくてもな。」

「柚もそうかな…」

また俯く裕。

「馬鹿であほで頭が悪い…全部だなお前は…」

「へ?」

顔を上げてまた間の抜けた声を出す裕。なんだかイライラしてきた。

「そのまま顔上げて聞いてろ。この馬鹿!当たり前だろ?なんでお前が分からないんだよ。それに、お前だって本当はあいつに傍にいてほしいくせに、変な意地はるなよ!好きな人の傍にいれないなんて、地獄だよ…きっと…」

多分、この日僕は人生で一番大きな声を出した。一番怒った。ポカンとした裕が、何回か瞬きして僕を見つめ直した。僕は、冷めきったカフェオレを飲み干して、のどを潤した。

「お前、そんなでかい声出るのな。」

「正直、僕も驚いてるよ。」

客が少なくて助かった。僕は、少ない客に軽く頭を下げて裕に向き直った。長い沈黙があった。そして、一つ大きな息を吐いて、裕は口を開いた。

「怖いんだ。」

「怖い?」

「あいつを置いて死ぬのが。傍にいてほしい。でも、きっと沢山無理させちまう。あいつは俺の前で泣けないと思う。そんで、我慢して、我慢して、俺が死んだ時、何かがプツンと切れちまうんじゃないかって。それが怖いんだ。」

言葉が出なかった。裕は、僕が思っているよりずっと、柚を愛してる。僕は急に恥ずかしくなった。そして、心の端の端で芽生えそうになった黒いものを、体の中から押し出すように、ワイシャツのボタンを二つはずした。

「僕は、二人は結婚するだろうなって思ってたんだ。勝手に。」

「そうしたかったよ。」

「卒業して、就職して、お互い『もういいか』とかなんとか言って、何のムードもないプロポーズしてさ。子供ができて、誰よりも幸せになっていくと思ってたよ。」

「何のムードもないは余計だよ…でも、俺も思ってた。」

「今も思ってる。」

「え?」

「生きろ。」

「無理なんだ。」

裕は一瞬驚いた顔をして、それから優しく、痛く、微笑んだ。それでも僕は、強く、強く、言った。

「無茶なこと言ってるよ。でも、生きろ。例え未来が変わらなくても、心だけは殺しちゃだめだ。生きたいと思ってるその気持ちを…、あいつを、柚を大事にしてるその気持ちを、殺してやるな。生きろよ。」

芽生えかけた黒い気持ちは、もう姿を消していた。

「お前…。…っ。いや…。かっこいいよ。お前はいつも俺にかっこいいって言ってくれるけど、俺に言わせりゃ、お前の方がよっぽどかっこいいよ。」

裕は、何かを言いかけた。でもそれを飲み込んで、僕をかっこいいなんて言ったんだ。

 かっこいいもんか。僕は、一瞬だけ思ってしまったんだ。これを機に二人がうまく行かなくなるんじゃないかって。でも、僕も覚悟は決めた。支えよう。この二人を。僕が愛した、「人達を」…。


 裕の余命宣告から半年以上経った七月、僕らは相変わらず一緒にいた。

「あーーーー!もう、嫌っ!!」

「仕方ないだろ。頑張れよ。」

「せっかく二人も受験勉強終わって、三人そろった初めての夏休みが目の前なのに…楽しい大学生活なのに…なんで勉強?なんでテスト?大学は人生の夏休みじゃないんですかーーー!」

「うるさい。俺たちよりテストもレポートも多いんだから真面目にやれよ。二年目の癖に、慣れてないのかよ。」

「はぁーー?やってもやっても終わらないんです!!慣れるかこんなもん。だいたい、なんで裕たちはそんなに少ないのよ。」

「僕らの学科はフィールドワークが多かったから、成績評価はそのレポートと後は平常点評価なんだ。」

「そんなのずるい。」

「ずるいってゆわれてもね。」

「私なんか、ほとんどテストで成績つくやつだし、だからって授業でないとテスト出来ないし、その上持ち込み許可物なしなんて。不公平よ!!」

「未来の弁護士、学部の不平等を訴えるの図だな。」

「裕!またバカにして、それに私、弁護士にはならないわ。」

「まぁ本来、勉強は僕らの本分だからね。」

「こういう時にまで正論言わないでよー。意地悪なのは一人で十分。」

「それ誰のことだよ。」

「さあね。」

彼女はどちらかというと勉強が苦手だ。一度は弁護士になりたいと法学部を目指したが、入学後のガイダンスで聞いた司法試験までの道のりに心が折れ、弁護士になるのを早々に諦めたらしい。

「俺は、やっぱり弁護士になってほしいよ。」

「弁護士目指してる私の苦労も見ずに死んじゃう人に言われたくないです。」

「すぐそういうこと言う。」

べーっと舌を出しておどける彼女の頭を裕がコツンと叩くと、いつも彼女は世界で一番幸せそうな顔をする。

 「このまま自分と付き合っていていいのか」という裕の不安。柚の答えは僕が想像した通りだった。彼らは、死を二人で受け入れることにしたように思えた。それからというもの、「先に死ぬ人に言われたくない。」は彼女の必殺技だ。僕は裕の親友として、裕の病気を正面から受け止める彼女を尊敬したし、心から感謝した。


 そして、彼女のその想いと、僕の覚悟は、彼女への想いにさらに何重にも鍵をかけた。そして、深く心の底に落ちていった。

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