第16話カフェオレとコーヒー

柚稀と話して半年が経ち、僕らはまた会うようになった。最近では、週末に僕の家で食事をする事もある。作るのは僕だ。彼女はお世辞にも料理ができる方ではない。初めて僕の家のキッチンに立った時、油を引かずにフライパンに卵を流し込んだ事には驚いた。おかげでフライパンの底にはいまだに焦げ目が残ってる。僕の方は、「だてに一人暮らししていない」と思ってもらえるほどにはこなせるくらいの腕はある。それを彼女が知って以降、僕が作って彼女が片付けるという形に落ち着いた。人には得手不得手があるから今の形に不満はない。それに僕は、料理をするのはどちらかというと好きな方だけど片付けや掃除は面倒な方だ。

「ねぇ。」

「うっん?」

テレビ(の方)を見ながら考え事をしていたせいで、突然背後から聞こえた声に変な声が出た。

「お皿ちょうだい。」

いつの間にかキッチンに移動していた柚は、僕の方に右手を出していた。

「あ、ありがとう。」

食べ終わった皿を渡すと、柚稀は「うん」と言ってはにかんだ。

あれから半年。あの日僕らはこれまで話さないようにしてきたことをたくさん話した。出会ってからの十年の事を何日もかけて話した。そして今日、僕はこの六年隠していた事を君に話したい……。

「柚稀。」

「何?」

「それが終わったらちょっといい?」

「何。」

そう言って彼女は眉間にしわを寄せた。

「何その顔。」

「だって…。まぁいいわ。ちょっと待ってね。」

昼に食べたパスタの皿を二枚、フォークを二本洗い終わった彼女が、カフェオレとブラックコーヒーを入れたカップをもって僕の前に腰かけた。

「話があるんだ。」

僕はさっき部屋から持ってきた青いノートをテーブルの下で握りしめた。

「それって裕のこと?」

「どうしてわかったの?」

「だってあなた、何か改まった話をするとき、決まって私のこと『柚稀』って呼ぶでしょ。」

「そうだっけ。」

「そうよ。」

「そっか…。」

いつも話の入り口を作ってくれる君に、僕は敵う日なんて来るんだろうか。

「そう。裕のことなんだけど。君にまだ話していない事があって。」

「何。」

「あいつの、裕の、病気のこと。」

目の前の君が、ガツンと殴られたように顔をしかめた。

「知ってたの…。」

「偶然知ったんだ。」

「いつ。」

「二人で裕の実家に行った日。」

「どこで。」

「あいつの、裕の部屋で。」

「一人で部屋に残ってた時?」

「うん。」

「でも、あの時部屋には鞄と写真しか…。」

「ノートがあったんだ。」

「ノート?」

「うん。あのファミレスで、僕がカフェオレを溢したことがあっただろう。」

「うん…。トイレ事件ね。懐かしい…。」

彼女の眉が優しく下がった。

「あの日の裕の態度がずっと気になってたんだ。」

「態度?」

「そう。僕が裕の鞄の中を見た時、あいつそれを嫌がったんだ。カフェオレが染み込むのも気にせずに…。そして、僕から鞄を取り上げた。」

「もしかして、その中に?」

「うん。その中にノートが入ってたんだ。カフェオレが染みついた。」

「中には何が?」

「……記憶だよ。」

「記…億…?」

優しく下がった眉毛の間に険しい皺が寄る。

「記憶障害だったんだ。それだけじゃないと思うよ。でも、裕が一番戦ってたのはそれだったんだと思う。あいつ、僕らのことが…、柚のことが大好きだったから…。」

「そんな…。何それ…。」

険しい皺は一層深くなる。覚悟はしている。僕だってずっと知りたかったんだ。彼女がずっと知りたがっていた気持ちは痛すぎるくらい理解している。でも、こんなにも時間がかかってしまったんだ。どんな罵声を浴びせられるのか。でも、言えなかったんだ。君にだけは。

「記憶、障害…」

彼女はゆっくりと自分の記憶と照らし合わせるようにそう呟くと、ふっと短い「ため息」をついた。でも、実際はため息なんかじゃなく、これからまくし立てて何かを言う準備のような、気合を入れるような、そんなものだった。そして、大きく丸い瞳を一層強くして僕を見た。

「何なのよあいつは。最後の最後まで‼男ってそんなに格好つけたいもの?ちょっと顔がいいからって調子乗ってたのよ!自分が死ぬ寸前なのに何のプライドが邪魔するわけ?そもそもプライドって何よ。『誇り』?何を誇ってるわけ?そんなものは『誇り』じゃなくて『埃』よ!本当に邪魔なものだわ!」

勢いよく吐き出された罵声は、かつての恋人に対するものとは思えなかった。

「柚さん‥‥…?」

僕が彼女と出会って二度目の激怒だ。僕は急に、自分の家があのファミレスになった気分だった。彼女の怒った表情が、ファミレスで激怒した表情と重なったからだと思う。それと同時に、死んでしまっても、こんなに怒ってくれる人がいる裕がほんの少し羨ましくなった。

「なんで、」

怒りを吐き出し、すっきりした表情の君が僕を見た。

「え?」

「なんで今まで黙ってたの。」

「ごめん。」

「ごめんじゃわからない。」

強い瞳だ。あの頃と変わらない、僕と裕が大好きだった強い瞳。怒りを感じるけど、その中に確かに温かさのあるあの瞳だ。この瞳を「見るのは」何年ぶりだろう。ずっと逃げていた瞳の前で、僕は「あの日」の事を話した。言えなかった「あの日」の事を。


 あの日、柚と二人で裕の家に行った日、僕は一人残された裕の部屋で、あいつの「記憶」を見た。そこにはあいつの記憶の全てがあったし、それを読めば裕が僕らを、柚を愛している事は十分すぎるくらい分かった。

ただ、その記憶も途中で色をなくしていた。裕が倒れる前までは日記調だったそれは、病状や薬の名前の箇条書きになり、次第に全てがひらがなになっていった。漢字が書けなくなったんだ。昔、脳の病気はちょっとしたきっかけやストレスで悪化する事があると、テレビで見た記憶がある。その記憶が間違っていなければ、多分、空港で倒れたあの日以降、裕の病状は急激に悪化したんだろう。ひらがなで書かれた記憶は、日に日に力を無くしていった。そして、何日も空いたある日のページに書かれていたんだ。

ただ一言、「こわい」と。


「最初は死ぬのが怖いんだと思った。その日の日付は僕らが裕に会える十日くらい前だったから、徐々に自分の体に変化があったのかもしれないって…。」

彼女の瞳には、零れてしまいそうなほどに涙が浮かんでいる。

「でも、違ったんだよ。」

僕は、泣いちゃいけない。あれを見た僕は、泣かずに話さないといけない。

「これは僕の想像だけど、裕は記憶が、『思い出』が消えていくのが怖かったんだと思う。」

「どうしてそう思うの。」

「それは、」

「何?」

僕は迷った。でも、迷ったところで仕方がない。もう、時計は動き出したんだ。

「これ、見る勇気ある?」

そう言って僕は、ずっと握りしめていた「記憶」をゆっくりとテーブルの上に置いた。

「これって…」

「記憶だよ。」

「なんでここにあるの。」

「おばさんに貸してもらったんだ。」

「そう…。」

「見てみる?」

「……そうね。勝手にのぞき見するみたいで裕には悪いけど…」

そう少しおどけて言う彼女の手は、ほんの少し震えていた。


「記憶」を開けた柚は、一ページ一ページを涙を堪えながらめくっていく。そして、「こわい」と書かれたページを見つけると、その涙は一筋だけ頬をつたって落ちた。

「次のページ見て。」

彼女がページをめくると、そこには、「三六五」という数字と四つにおられた紙があった。

「開いてみて。」

彼女が四つに折られた紙をゆっくり開くと、そこには笑顔の僕等三人がいた。プリントアウトされたその写真には、肩を組む三人の姿。僕と柚が映っている傍には、僕らの名前が漢字で書いてある。

「これ…。」

「この漢字だけは忘れたくなかったんだと思う。」

その次のページには、僕の漢字と、「柚稀」という字が何十回と書かれていた。

「こんなに書いてあったら…怖いよ…」

そう言う彼女の頬を、涙がとめどなく伝っている。

「その数字。」

彼女が顔を上げる。

「最後から二番目のページなんだ。」

僕はそこから読んでない。読んじゃいけない。彼女がもう一度ノートに目を移し、最後から二番目のページを見た。

「うわああああああああああ」

こんなに大きな声でなく彼女を僕は始めて見た。何が書いているのか、僕は知らない。

ただそのページには、はっきりとした文字で書いてあったんだ。

「柚稀へ」と。


柚稀へ


もし、このノートを見つけてしまった時のためにこの手紙を書くよ。きっとお前は見つけられないだろうから、これを見つけるであろう「誰かさん」にもついでに書く。

ありがとう。俺の人生は、たった十八年だったけど二人のおかげでいい人生だった…。なんて、言わねーよ。みじけーよ。もっとしたい事のあったし、行きたいところもあった。

ハワイ行けなくてごめんな。誕生日、祝えなくてごめん。これから先も祝えそうにないみたいです(笑)。でもまぁ、俺の中では柚は一生十九歳だから、可愛くて若いままだからいいだろ! 俺も柚の中じゃずっと十八歳のイケメンのままだし! でも、ちゃんとちっちゃくしてくれよ?お前の事だから忘れてくれなんて言っても忘れないと思うし、正直、俺も忘れられたくはない!ただ、あんまりおっきく残すと大変だから、ちっちゃく残して。そんで、ちゃんと幸せになれ。絶対、幸せになれ。俺のために。俺の最後のわがまま。おっきな幸せじゃなくってもいい。ちゃんと毎日飯食って、寝て、そんで、笑って? お前の笑顔は世界一なんだから。柚稀、ずっと愛してるよ。


「こんなこと、言ってくれたことないのに…」

子供に見たいに泣き腫らした目で柚が呟く。

「ずっとなんて、無責任なこと言わないでよ…もう、会えないのに…ほんっとに最後の最後まで…。」

何が書いてあるか分からない僕が何も言わないでいると、彼女が僕に「読んでないの?」と尋ねた。

「それは、裕から君への最後の手紙だから。僕は、おばさんからもらったし。」

「あれなら私ももらったわ。」

「そうだったね。」

「あなたを頼んだって。」

「へ?」

「それだけ。」

驚いた。僕と同じ事が書いてあったなんて。僕らの事がそんなに心配だったのか…。

「僕も同じことが書いてあった。」

「え?」

彼女の瞳が、「それなのに逃げたのか」と言わんばかりに僕をにらんだ。

「読めたのは最近。」

「あぁ…。『読めたのは』ね…。」

こんな風に悲しく微笑む彼女を僕はこれまで何回見てきたんだろう。あと、何回見るんだろう…。

「こっちが本当の手紙よきっと。」

「え?」

「最後の手紙。読まなきゃ。」

そう言うと柚は、「柚稀へ」と書かれたページを一枚めくって「読んで」と僕に渡した。


「誰かさんへ」

最期のページはそう言う書き出しだった。きっとわざとだ。僕は自分の名前が嫌いだったから。


誰かさんへ


自分の名前が嫌いなお前に、いい事を教えてやる。俺はお前の名前が大好きだ。男として、人間として「でっかい奴」って意味が漢字を見てすぐわかる。でも実際、お前はでかい男じゃない。身長だって俺の方があるしな。心だって俺の方が広いと思う。いや、確実に広い。でも、お前はでかくなんかないけど、あったかい奴だ。心が、言葉が、あったかいやつだ。だから俺はお前を信じたし、これからだって信じてる。これから話す事は、ただの俺の予想だ。でも希望でもある。だから、どうするかは「お前ら」が決めて欲しい。


もう自分の気持ちを抑えるのはやめて欲しい。俺が、柚と付き合っていていいか迷ってた時、お前言ったよな?「この三年間、俺たちを一番近くで見てきた」ってさ。俺も同じだよ。十何年、お前のこと一番近くで見てきた。俺はどっちも大事だ。だから大事な二人が一緒に居てくれたら嬉しい。本当は俺も一緒に居たかった。でも、悪いけどちょっと無理そうなんだわ。だから、お前たちが幸せになって、うんとじいちゃんになったら一緒に顔見せに来いよ。そん時は、迎えに行くからさ。

隠しきれてるとでも思ってたのかよ。百年早いわ。でも、お前が何も言わずに見守ってくれるから、俺は、俺がいなくなっても大丈夫だって思った。本当にありがとな。

今でもお前の中に柚はいるだろ?もちろんあいつの気持ちもあるから勝手なこと言えないけど、俺は、お前がいいよ。


空…柚稀を頼んだ。本当に、頼んだぞ。


「最後の手紙」を読み終えた時、「空」という名前を持つべきだったのは裕だったと心から思った。やっぱり僕は、君には一生敵わない。


「『空』って名前。」

「ん?」

「嫌いなんだってね。」

「うん。僕はそんな名前を持っていいほど『でっかい奴』じゃないしね。」

「何それ。」

「手紙に書いてた。」

「裕が言いそうなことね…」

「事実だしね。」

「そうでもないんじゃない?」

「え?」

「だって、『でっかい』だけが空じゃないじゃない。空がないと雨は降らないし、太陽も行き場を無くすわ。虹だって、どこに出たらいいの?それに、空は一つだもの。みんなを繋ぐ、たった一つの、『なくてはならないもの』。空ってそんな感じじゃない?」

「君らには…かな‥‥。」

僕には、絶対にかなわない人が二人いるみたいだ。

「え?何?」

「何でもない。」

「感動して泣きそうになった?」

嬉しそうにテーブルから身を乗り出す柚。いたずらが成功して喜ぶ子供みたいだ。

「その一言がなかったら泣いてたかもね。」

「うわ、そういう意地悪な所、裕そっくり。」

そう言うと今度は、椅子にもたれかかって眉間にしわを寄せた。

「少しだけ、自分の名前が好きになったよ。」

今度は優しく笑う君に、「ころころと表情を変える君こそ、春の空みたいだ」と言うのはやめておこう。

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