第13話不甲斐なく、最低なのは誰か。
今日は朝から社内が騒がしい。先週、うちのメインクライアントである大手ベンチャー企業の情報漏洩が発覚し、株価が暴落するという事件が起きた。株価の暴落はどの企業にとっても大問題だが、ここ数年で急成長を遂げたベンチャー企業にとっては最悪倒産の危機だ。そして、その最悪が今朝、起きた。。始業前に暗い目をした上司に言われた言葉が、今、取引先の課題解決を担当する僕らコンサルの顔を暗くしている原因だろう。
「家に帰らない覚悟をしろ。」
『帰れない覚悟』ではなく、『帰らない覚悟』。建前は、あくまで自分の意思での残業をしろという事だ。部署内の空気が一気に荒んでいくのが肌で分かった気がした瞬間だった。僕だって、目の前にある膨大な資料を無心でシュレッターにかけるか、燃やすかの二択を真剣に考えるくらいには嫌になっている。
でも、仕事が立て込むおかげで彼女に会わなくて済む。それだけはありがたかった。あれから一週間、彼女とは会っていない。これを機にまた会わなくなるかもしれない。それでいいのかもしれない。僕らはこうなる運命なのかもしれない。
何の根拠もない「かもしれない」で、自分を守る僕は、傍にいたいと言いながら、愛したいと言いながら、いつだって彼女から逃げる方法を探している。
結局、仕事が終わったのは十二時を超えていた。
「お疲れ…。」
いつもは若く見えるの飯田も、疲労で五歳は老けて見える。
「あぁ。」
「俺、帰るけどお前も家で寝る?」
飯田の家は、電車で二十分の僕と違って徒歩圏内だ。
「いや、いいよ。彼女いるだろう。」
結局こいつは、あの「美穂ちゃん」でも柚でもない彼女と付き合って、今は半同棲状態らしい。
「まぁな。そっか、じゃあ…また…」
「あぁ。また明日な。」
「はぁ…わざわざ言うなよ。今、ちょっと明日はない感じで帰ろうとしたんだから。」
「何の暗示だよ。明日が変わるわけでもあるまいし。」
「お前には一生わかんないよ。」
「そうか。分かんなくていいから早く帰ってやれ。」
「そうだなー。帰って癒されてくるわ…お疲れー。」
スマホの画面が光り、飯田の顔が優しくなる。彼女からのメッセージだろう。どうやら順調らしい。オフィスから出ていく彼の背中は疲れているのに、足取りはどこか軽かった。
次の日も、その次の日も僕らの地獄は続いた。ここまで来ると、新卒一年目が体調不良を訴える。これに上司が「だから最近の奴は…」なんて言おうもんなら、立派な何とかハラセメントだ。新卒であれ、人数が減るのは単純に困る。でも、「体調が悪い」と言うなら仕事をさせるわけにはいかない。それが「今の」社会のルールだ。僕はこのルールを提唱した人に一つだけ言いたい。「このルールを作るなら、『体調が悪い人』の分まで仕事を受けおった人のルールも作っておいてほしかった」と。
「おつ…」
「お疲れ。」
飯田は、オレンジジュースを二本持って、僕だけになった会議室に来た。三日目にもなると、強制的に起きるためのカフェインも喉が受け付けなくなる。ただ、ひたすらに体が糖を欲しがるんだ。
「田中と林は?」
三ヶ月前に結婚した二人の同期を視線で探しながら、パックのオレンジジュースを僕に向かって軽くほおった。
「十時には帰したよ。」
僕はそれを右手で受け取る。
「まぁ流石に、新婚早々、三日連続家に帰さないのはかわいそうだわな。」
そう言いながら僕の横に座って、飯田はすでに緩んでいたネクタイを完全に解いた。
「あぁ。残ってるのは独身組ばっかりだよ。」
「お前だけじゃん。」
会議室の椅子に深く沈みながら、整った鼻筋越しに僕を笑う飯田。
「今みんな休憩に出てるんだよ。」
そう言うと、「そうかよ。」とさらに鼻を鳴らした。
「終わりそうか?」
僕は眉間を抑えて言った。
「あと二日ってとこ。」
「一回死ぬか。」
「もうとっくに死んでるよ。」
「だよな。俺も。」
そう言ってオレンジジュースにストローを挿す飯田。時計はとっくに十二時を過ぎている。
「今日は帰らないのか。」
「うーん。」
何とも歯切れの悪い返事だ。
「なんかあったのか。」
「喧嘩した。」
「なんで。」
「いや。喧嘩って言うか、泣かせちゃった。」
彼女を傷つけてしまったことをひどく後悔しているその顔は、僕に柚の顔を思い出させた。
「聞いて欲しい話か?」
「ご名答。」
「はいはい。」
これ以上仕事の話をするのは脳がアレルギーを起こしそうだし、かといって何もしていないと彼女の顔が浮かんでしまう。正直、このタイミングで飯田の話を聞けるのはありがたかった。
「喧嘩って言うか、俺が不甲斐なくなって一方的にキレたっていう話なんだけどさ。」
「不甲斐ない?」
「彼女さ、実は作家なんだよ。しかも、結構売れてるの。」
「そうなのか。」
「それで、薄々は気づいてたんだけど、やっぱり彼女の方が稼ぎは多くてさ。」
「うん。」
「改めて言われると、なんか自信無くなってさ。そしたらカッとなって…」
「そもそも何でそんな話になったんだ。」
「残業しすぎじゃないって言われたんだよ。」
「ほう。」
「それで、仕方ない事だって言ったら、残業代貰ってるのかって話になって、もちろんサービスだなんて言ったら『私なら好きでもない仕事そこまでできない。しかも、お金貰わずになんて論外だ。』って言われてさ。」
「ほう。」
「それでも仕事だからって言ったんだよ。そしたら、『じゃあしんどいって言わなきゃいいのに』って。それにカチンときちまった。」
「なるほどな。」
「いくら自分が好きなこと仕事にできて、俺より稼いでるからって、そこまで言うことねーじゃん。しんどいくらい誰でも言うわ。」
「それはそうだな。でも、彼女は何で急にそんなこと言ったんだろうな。」
どれだけ仕事が忙しくても、辛くても、家に帰る飯田の足取りが軽かったのを僕は知っている。それは、自分がどれだけ疲れていても、笑顔で「お帰り」と言ってくれる彼女がいるからだとこいつは言っていた。そんな彼女が、理由もなく一方的に、飯田を傷つけるようなことを言うんだろうか。
「問題はその後なんだよ。俺、酷いこと言っちまったんだ。」
「何て言ったんだ。」
「『頭の中のこと書いてるだけで仕事になるやつは良いよな』。」
「それはまた…。」
「分かってる。最低だよ。」
「それで泣いたのか。」
「いや。その後、『そうよね、頑張ってるの知ってたのに、酷い事言ってごめんさない』って泣かれたんだ。」
「そうか。」
「普通はさ、重たいとか、面倒くさいって思うのかもだけどさ。でもさ、無理もなかったんだよ。」
「どういうことだ?」
「誕生日だったんだよ。」
僕の中で、「何か」が重なった。
「俺、自分の事ばっかりで忘れててさ。ダブルで不甲斐なくて、帰りにくい。」
「先に謝られると余計にな。」
「そうなんだよ。」
また、僕の中で「何か」が重なった。今度はさっきよりも明確に、柚とのあの日が浮かび上がった。そうだ。あの日は、柚の誕生日だったんだ。
「聞いてる?」
「あぁ。うん。」
嘘をついた。聞いてなんていない。今、僕の頭の中は、自己嫌悪でいっぱいだ。
どうして忘れていたんだろう。僕は、何も見えていなかった。見ていなかった。「柚の誕生日」。忘れたくても忘れられない日、裕が空港で倒れた日だ。そして、僕らが生きていた裕と最後に過ごした日。あの日彼女は、どんな思いであのファミレスに入ろうと言ったんだろう。
六年前、裕が倒れた日。彼女は自分を責めた。裕は、彼女の誕生日を祝うために旅行の計画を立てた。その日のために間隔を狭めて病院に行っていた。体調が万全だったのか、今となってはもうわからない。でも、結果として裕は帰らぬ人となった。
「どうして止めなかったのか。」
そんなことは誰一人として言わなかった。でも、僕らは言った。何度も何度も、自分にそう叫んだ。
柚が裕の死をすんなり受け入れている?そんな訳がない。あの日が彼女の誕生日だったことに気が付くと、自分の言った言葉の全てが、重みを増し、彼女を深く再び傷つけた事に気が付いた。彼女の「ごめん。」と言う言葉が頭の中で響く。あれは、どういう意味だったんだろう。僕は、彼女が裕の死を既に消化している事が引っかかった。だからあんなことを言ってしまった。けど、彼女もずっと過去にいたとしたら?彼女はまだ、自分のせいで裕が死んだと思っていたのかもしれない。今更その可能性に気が付くなんて。不甲斐ないのも、最低なのも、僕だった。本当に昔から、オレンジジュースを飲んだ日はろくなことがない。
「はぁ…。無かったことにしたい…。」
「そうだな。」
僕の自己嫌悪と飯田の気持ちが重なった。
「え…。」
「ん?」
何か変なことを言った人を見るような目で僕を見る飯田に、僕も同じ目をして言った。
「どうした。」
「いや。なんか意外だった。」
「何が。」
「お前なら、『そんなこと言ったって現実が変わるわけじゃないんだから』とかなんとか言って、早く謝りに帰れって言うと思った。」
なるほど。確かに、普段の僕ならそう言っていた。でも、今日は言えない。
「僕にだって、変えたい現実くらいたまにはあるさ。」
「お前には、そういう気持ちは無縁だと思ってたよ。」
「…。」
そんなことはない。裕や柚の事に関しては、『そういう気持ち』ばかりだ。
「正論好きが、正論言えなくなるなんて、よっぽど堪えてんだな。恋愛系?」
「そんなんじゃないよ…。そんなんじゃないけど、ただ…」
「『ただ…』?」
「何でもないよ。」
『大事な人だから』という言葉は飲み込んだ。その人を傷つけたのはどこのどいつだ。
「何でもいいけど、早めに解決しろよーって俺もだな…。…よし、帰るか。」
「お疲れ。また…。」
今の気持ちで、『明日』と言うのは少し憚られた。自己嫌悪だらけのまま『明日』を迎えると考えただけで気分が下がる。すると、重いはずの腰を軽々と椅子からあげた飯田に、
「また明日な。」
と、ニヤついた顔で言われてしまった。僕は、昨日の自分を叩いてやりたくなって、飯田の言葉をそっけなく手で払った。
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