第7話奇跡は、起きない。

 今、ドラマで見たような夜中の病院に僕らはいる。できる事は何もない。何が起きたのかすらわからなかった。空港の人がいろいろ手配してくれて、僕は訳も分からず救急車に詰められた。柚は裕の名前をずっと呼んでいたけど、そんな彼女の肩を抱いてやる事も、僕にはできなかった。頭の中で、裕の笑顔が浮かぶ。でも、どの笑顔も音を立てて崩れて、救急車で見た彼に変わってしまう。目を閉じて、青白くなった裕の顔に。


僕は、言いようのない恐怖にのまれそうだった。


緊急患者用の病室が開き、裕の両親が出てきた。

「ごめんなさいね二人とも。明日、××病院に移るわ。しばらく入院しなくちゃいけないみたい。ごめんね。びっくりしたでしょう。」

裕の母親が、僕と柚の肩にそっと手を置いてくれた時、これまで混沌としていた意識が現実に引き戻された。

「いえ…。」

言葉が出たのは柚の方が先だった。僕の頭では、裕の母親が言った言葉が繰り返されていた。そして、思い当たる事を見つけた。

「××病院って、」

「二人とも今日は帰りなさい。お父さん、送ってあげてね…。」

「はい…」

彼女が僕の言葉を遮った事が、僕の予想が当たっていることを示唆しているように思えた。僕が知っている限り、××病院には脳外科の名医がいる。まさか、裕の病気は脳に関係しているんだろうか…。握りしめた拳に冷たい汗を感じた。


 車内は静かだった。いつ切れるかわからない緊張の糸を、全員が必死で繋いでいた。

「裕くんの病気って…」

柚はゆっくり口を開いた。バックミラー越しに見た裕の父親は、鏡越しに僕らを見て、小さく首を横に振った。

「あいつのわがままなんだけどね。知ってほしくないみたいなんだ。」

「…でも」

柚は、強く彼の父親を見た。彼女の気持ちは、痛いほどわかる。こんなことになるくらいなら、裕に嫌われてでも病気の事を聞くべきだった。旅行も止めるべきだった。心配かけたくないなら柚には言わなくてもいい。でも、僕だけは…僕だけでも裕の体をもっと気遣うべきだった。どうしようもない後悔に、押しつぶされそうになる。

「君のそういう顔を、裕は見たくなかったんだと思うよ。」

彼の父親は、暗く、静かな車内で、しっかり柚の瞳を捉えてそう言った。僕は、俯く事しかできなかった。俯いた時、僕の目に映った柚の手は、力強く白いカーディガンの裾を握りしめていた。


「ありがとうございました。」

柚を降ろすと、彼の父は僕を助手席に来るよう促した。

「君と二人で話すのは初めてだな。」

「はい。」

「この間まではありがとう。助かったよ。」

「いえ、いい経験になりました。晩御飯もごちそうになってたし、僕の方こそ、ありがとうございました。お給料も。」

「相変わらず君はしっかりしてるな。裕にも見習ってほしいよ。」

乾いた声で笑う彼の横顔は、裕とよく似ている。

「びっくりしただろう。」

「え?」

「何も聞いてないんだろう。病気の事。」

「はい。」

「君が聞きたいなら話そうか。」

裕の父親は、真剣な目つきでフロントガラスを見ていた。でも、僕はそれ以上、彼を見る事は出来なくなった。彼の瞳が、フロントガラス越しに真っ直ぐぼくを見ていたからだ。

「やめておきます。聞くなら、裕の口からがいい。」

フロントガラスに、大粒の雨が当たった。彼は、「そうか」と少し微笑んで、ワイパーを動かした。


「ありがとうございました。」

車から降りると、彼は僕に、雨の当たらない所に行くよう言った。そして、雨音にかき消されないように僕に言った。

「君が裕の親友でよかったよ。ありがとう。おやすみ。」

人の口から「親友」という言葉を聞くのが、こんな気分になるなんて思わなかった。言いようのない恥ずかしさと、誇らしさが僕の中で混じり合った。雨は、僕の頬にも落ちてきた。


 暗い部屋に灯りをつける。一人で暮らすには大きすぎるこの家にまた僕は帰ってきた。

「ただいま。」

小さな声で呟くと、聞こえるはずのない「おかえり」が聞こえる気がする。

 両親が残したこの家を、僕は一人で使っている。一人になってまだ二年。意外と寂しさは感じない。間違いなく、裕と柚のおかげだ。僕の家に、毎日のように来てくれた二人のおかげで、僕は「一人」ではなかった。親戚にもよくしてもらっている。未成年の僕には保護者が必要だから、と母方の兄は僕の保護者になってくれた。僕にとっては叔父にあたる。叔父は、僕の名字が変わらないようにと養子縁組を断ってくれた。それでも、高校卒業までは家に引き取ってくれていたし、高校を卒業した時には、「慣れない所で暮らすより、ここで暮らしたいだろう」と両親の残したお金を学費分を引いて、僕に渡してくれた。厄介払いなんかじゃなく、まぎれもない愛情だ。両親がいなくなると苦労する人が多いけど、親友達と叔父、倹約家だった両親のおかげで、僕は今のところ精神的にも、金銭的にも苦労はしていない。厄介なのは、時たまに見る「悪夢」くらいだ。両親が逝ってしまった時の光景。それも、ご丁寧に二本立てで。


 母はあっという間だった。僕が中学の頃。脳梗塞で倒れた母は、××病院の緊急患者として搬送された。「脳外科の名医」と書かれたポスターがわざとらしく張られたロビーが印象的だった病院だ。緊急手術の後、容態の急変。それでも、最期に母は僕と父にありがとうと微笑んだ。父は、最期の母にキスをした。世界で一番美しい光景だった。

父は事故だった。母が死んで一年経った頃だ。乗用車とトラックの正面衝突。原因は、相手の居眠りだ。僕は、目指すべき広い背中を失った。無事故、無違反だった父。いつも優しく僕と父を包んでくれた母。


僕は、奇跡を信じない。望んだ者に起こらないなら、そんな言葉に意味はない。


 久しぶりに夢をみた。この世で一番見たくない「悪夢」。まだ外は暗い。手元にある人口的な光を付けると、午前四時半。もう一度目を閉じると、今度はスマートフォンの方から光を放ってきた。裕からのメッセージだった。


『驚かせてごめん。母さんに聞いた。昨日の事。空港にいたはずなのに、起きたら景色が変わってるからびっくりしちまったよ(笑) 今日の十時には病院移るよ。入院中はしばらく会っちゃいけないんだ。直ぐ退院できると思うから、そうなったら連絡するよ。ちゃんと迎えに来いよ?』


「『直ぐ退院できると思う』か。」

それが本当なのか、嘘なのか。僕にできる事は、裕を信じる事だけだった。『わかった。』と短く返信を送ると、馬鹿みたいに大きく両手で力こぶを作る外国人の画像が送られてきた。今の裕の気持ちが分かるすべを、僕は知らない。


 その日の午後、僕は柚とファミレスに来た。いつもより厚化粧な彼女。目元は赤い。昨日の夜から眠れなかったんだろう。

「裕から連絡来たよ。しばらく会えないって。」

「うん。私の方にも来たよ。直ぐ退院できるって書いてたけど、本当なのかな…。」

「信じるしかないね…」

「うん…」

彼女は、テーブルの端にあるスティックシュガーに手を伸ばし、目の前のコーヒーに二本入れた。砂時計のようにカップに落ちる砂糖は、僕がカフェオレに入れるそれよりも、ゆっくり溶けていく気がした。


 それから僕らは、二か月間、裕に会う事ができなかった。気が付くと、裕の余命宣告から一年が経とうとしていた。裕とのメッセージは、日に日に短くなり、ここ一週間は僕にも柚にもメッセージが来なくなった。僕は何度も裕の家を訪ねた。でも、彼の両親は訳を話してはくれなかった。

 裕が入院してから半年が経った。桜の開花宣言がされ、僕と裕は、もうすぐ大学二年生になる。バイト終わりの僕は、いつものファミレスで彼女を待っている。待ち合わせ時間の午後五時まであと五分。彼女はセミロングに伸びた髪を束ねてやってきた。

「相変わらず早いわね。待った?」

「バイト先の近くだからね。うん。少し。」

「ごめんね。っていうか、まだ五分前じゃない。早く来てる方が悪いのよ。」

「待ったって聞いたのは柚だろ。」

「はいはい。あなたの正論に付き合ってたら日が暮れちゃうわ。」

「もう夕方だからとっくに日は…」

「あー!もうわかった!」

くすくすと笑う彼女を見て、僕も笑った。なんだか久しぶりに笑った気がした。


三月は裕の誕生月。柚の提案で、僕らは裕にサプライズ動画を作る事にした。今日はその打ち合わせだ。

「ここなんてどう?」

「いいかもね。って福島県?東北まで行くの?」

「え!本当だ。名前しか見てなかった…」

「遠いね。」

彼女は、「がっくり」という言葉がはっきり見えるくらい肩を落とした。僕ら三人はハワイへの旅行はできなかった。その代わりに、日本にある「ハワイ」と名の付く所を回って、裕に「オンライン旅」をしてもらおうと柚が言い出して始まったこのサプライズ。柚が提案してきたのは、福島県にある「スパリゾートハワイアンズ」という所だ。こんな調子で、柚は地理を考えずに場所の候補を次から次へと持ってくるから、完成時期は未定だ。まったく、スケジュールを組むこっちの事も考えて欲しい。柚は本当に裕に似てきた。

「でも、行こうか。」

「へ?」

「写真を撮るだけだし、新幹線で行けば何とかなるんじゃない?それに、」

「何?」

「柚が行きたいとこは全部行こう、ってあいつなら言うと思うから。」

言ってしまって直ぐに「しまった」と思った。柚は、ブラックコーヒーを包んでいた手を机から降ろした。きっと机の下で、スカートを握りしめているんだろう。

「そうだね。裕も優しいから。」

口元だけで笑う彼女を見て、僕はもう一度、「しまった」と思った。「ごめん」という言葉は、口から出てしまう前に飲み込んだ。

「いつから行こうか。」

「そうね、早く行かないとね。」

「そうだね。」

僕らの頭には、裕のいつやってくるかも分からないタイムリミットがある。


それから二週間。

僕らが裕に会う事は、二度となくなった。

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