第10話奇跡までの時間。
裕が死んでから六年が経った。柚は、大学在学中にフラワーデザイナーの資格を取り、ブリザードフラワーのデザインなどをする地元のフラワーデザインの会社に就職した。僕はというと、彼女への想いに鍵をかけたまま残りの大学生活を過ごし、柚から逃げるように一度は東京で夢だった出版社に就職した。でも、裕の月命日に必ずかかってくる彼女からの電話に出る度、その鍵は開きかけた。離れれば、この気持ちは完全な「友情」変わると思っていた。でも、それは間違いだった。僕は結局、出会って十年経っても、柚を「親友の彼女」の枠から外す事も、「友達」の枠に留めることもできなかった。だから未だに、「片想い」とも呼べないこの気持ちに、気付かないふりをしているんだ。「気が付かないふり」をしている事に気が付いたのは社会人二年目の二十四歳の時。すると彼女から離れたくて出てきた東京が、途端に窮屈に思えた。だから、悩んだ末に、苦労して採用をもぎ取った大手出版社を一年前に退職して地元に帰り、今は一般商社に再就職している。
簡単に夢を捨ててしまった罪悪感はある。それでも、このまま彼女を忘れられないよりはマシだった。柚の傍にいれば何かが変わると思っていた。それが僕の気持ちなのか、柚の気持ちなのかは分からなかったけど、何かが変わり始める。そんな根拠のない自信があった。
でも、もうこの世にいない親友は、想像していた以上に僕らに大きな爆弾を残していた。それは地雷のように、ふとした瞬間、思いもよらぬ場所で次々に爆発した。彼女の家、近所の公園、駅、どこにでもそれは埋まっていて、どこに行っても僕らは裕を思い出した。僕は、二年間この町を離れていた分まだマシだ。でも、彼女はそうはいかない。この六年間、彼女の時間は少しだって動いていないだろう。分かっていた事だ。柚が裕を過去にできない事は、裕の家でおじさんに「想い」をもらった時から分かってた。いや、裕の病気が分かって、彼女が離れない覚悟を決めた時から分かっていた事だ。それでも、大学卒業までの二年間、過去への想いが強くなるたびに泣けなくなっていく柚を近くで見るのは、想像以上に辛かった。そして僕も、裕を過去にするなんてできなかった。そして僕は、柚の傍を離れた。自分の想いを開こうとする度に浮かぶ裕の、裕と柚の笑顔。その酷く幸せな笑顔に、僕は耐えられなくなってしまったんだ。僕は大学を卒業してから一度も柚に会っていない。地元に帰っている事すら、伝えられていない。過去から動けないでいる柚に会う勇気が僕にはなかった。でもきっと、僕らは一緒に居ない方がいい。僕らは一緒に居ると、いつまでたっても過去から動けない。
裕の「想い」だって未だに読めていない。彼の達筆な字で書かれた僕宛の「想い」に何が書いてあるのか、気にはなった。でも、それよりも恐怖が勝っていた。僕はまだ、親友の死を受け入れられないでいる。それに、同じ思いで苦しむ柚を支える事すら諦めた。そんな僕に、裕は何を思っていたのか。果たして僕には、その「想い」を受け取る資格があるのか。そう考えると言いようのない恐怖がその「想い」に繋がっていた。
いくら過去に囚われていようと、時間は「待ったなし」のノンストップで過ぎていく。今、僕は二十六歳。この年代に起こりうるイベントといえば何が思い付くか。
「お前はどうなんだよ。」
「何が。」
「結婚だよ。結婚。」
会社の昼休みも残り十分という時に、飯田がにやついた顔で聞いてくる。飯田は僕と同じ年に中途で採用された少しデリカシーのない同期だ。飯田はいっこうに恋人の類が出来ない僕を同性愛者だと思ってた時期があった。思うだけなら勝手だし、それを僕に聞いてくる分にもいい。でもこいつは、そういうデリケートな話をとにかく場違いなところで話してしまう。例えば、取引先との接待中とか…。あの時はいろんな意味で肝が冷えた。
「聞いてんのか?」
喫煙室の中から窓をコンコンと叩いて、喫煙室の外の僕の返事を促す飯田。なんて忙しい奴だ。
「あぁ。」
言葉だけでは聞こえないだろうから、少し顎を突き出す。タバコを吸うか、話すかどちらかにすればいいのに。わざわざ喫煙室の中と外で話すような話でもない。そもそも、「わざわざ喫煙室の中と外」で話すようなことなんてない。しかも、僕の方から聞き取れる音量で話してるんだ、中はきっと飯田の声が煙と同じくらいその場を支配してるだろう。僕は喫煙室に上司が入らないか気が気じゃなかった。
「ノーマルなんだろ?そろそろ恋人作れよ。田村も林も結婚だってよ。このままじゃお前、ご祝儀で破産だぞ。」
「ノーマル」とは異性愛者の事だ。僕がにらむと飯田は「はいはい」と肩をすぼめてタバコの火を押しつぶした。「田村」と「林」は僕らの同期だ。僕らと違って新卒からこの会社で働いているから、キャリア的には先輩だけど、彼らは東京から戻ってきた僕らを何故かリスペクトしてくれている。
「そんな怖い顔すんなって。」
喫煙室から出てきた飯田が香水を振りながら近づいてくる。
「あぁいう事は大声で言うようなことじゃないんだよ。」
「結婚?」
「違う。」
「あぁ、ノーマル?なんで?」
「もし、マイノリティの人がいたらいい気はしないだろ。」
「そうか?俺は別に平気だけど。」
「誰しもが飯田みたいに性にオープンなわけじゃないんだ。」
「ふーん。んで、どうなんだよ。結婚。」
そう。結婚。この一年、結婚を考えるやつが異常に多い。地元に戻ってきてからの一年間を含めて、これまで裕がいなくなったことや、柚と離れた事を忘れるために、仕事に没頭していて考えた事もなかった。
「結婚か…。しようと思って直ぐにできるもんでもないだろ。」
「でも、しようと思う心意気は必要だろ?お前、本当に恋人いないのか?」
「いないよ。」
「ずっと?」
「ずっと。」
「まさか童貞?」
こいつの辞書に今すぐ「デリカシー」という言葉を足してやりたい。こんなところでする話じゃないと念を込めてまた睨むと、「何だよ。図星か?」と見当違いな事が返ってきた。
「違うよ。今はいない。作る気もない。」
ため息と一緒に吐き出した。僕はいつか、こいつの脳内に「デリカシー」だけの類語集を作ってやる。
一応、僕だって女性と付き合った事もある。経験だって人並みだ。でも、続かない。当たり前だ。気持ちはいつも別のところにある。これまで、僕に全身で愛を伝えてくれている女性を、愛したいと心から思った。いつも思った。でも、無理だった。心に蓋をされたみたいに、「彼女」を想った気持ち以上のものが湧いてこない。その「彼女」とだって、もう会うことはないかもしれない。地元に戻ってきて今年で二年目。僕と「彼女」が最後に会ったのは、大学の卒業式だ。きっとあの頃よりもっと綺麗になったんだろう。離れたくせに、支えるのを諦めたくせに未だに彼女を忘れられないんだから、僕も大概未練がましい男だ。
「紹介してやろうか。」
「話聞いてなかったのか。作る気ないんだって。」
「まぁ、行けば気持ちも変わるって。」
「行くってどこに。」
「合コン。」
「行かないよ。」
「今更、代打は頼めないから。」
「なんで。」
「今日だから。」
「はぁ…。」
僕は大きくため息をついた。こいつは何でも急なんだ。「デリカシー」と一緒に「アポイントメント」も足してやろう。こういう時は、こいつが同期であることにうんざりする。
いつもより早く仕事を終わらせ、何とか飯田に見つからないよう帰ろうとしたけど無理だった。ロビーに向かうエレベータに駆け込んできた飯田の顔を見て、僕はまた、大きくため息をつきそうになった。「逃がすかよ。」と言ってにやついた飯田は、僕の肩をしっかり抱えた。僕より少しだけ背の低い飯田に、逃げられないようずっと肩を抱えられたまま歩いているから、心底歩きにくい。
「浮かない顔すんなよ。今日は花が来るぞ。」
「花?」
「めちゃくちゃ美人ぞろいだってさ。」
「それで花ってお前…。」
「違うぞ。なんか花屋さんかなんかなんだってさ。ははっ、なんだよお前、おやじ臭いな。」
「勘違いさせるようなこと言ったのは…。」
会社を出ると、飯田は文句も聞かずに手早くタクシーを止め、僕を押し込んだ。
「もう逃げないよ…。」
「ははっ、幹事の子にお前の写真見せたらどタイプだって言うからさ。よろしく頼むよ。」
「だから他には手を出すな」と言いたいらしい。つまり僕に選択肢はないんだな。別に興味も沸かないだろうから構わないけど。
「はいはい。」
店に着くと、店の前に同世代の男が一人で立っていた。飯田の知り合いだというその男は、僕らを見つけて手を上げた。
「お待たせ。」
「いや、俺も今着いたとこ。」
背が高くて、爽やかな人だ。茶色のスーツを着たその男は、僕に「初めまして、結城です。」と軽く頭を下げ、にこりと笑った。その笑顔は、なぜか僕に懐かしい「彼女」を思い出させた。
オシャレな店内に入ると、ウェイターが僕ら三人を席へ案内してくれた。女性陣がまだ来ていないので、僕と結城さんは、改めて自己紹介をし合うことにした。「結城一也」さん。僕らと同じ二十六歳。職業は広告代理店の営業マンらしい。見るからに「美形」なその顔立ちは、合コンに来るほど女性に困っているようには見えなかった。
「俺、高校まで男子校だったから女性を見ると緊張しちゃって…。大学も部活ばっかりしてたし…。」
少し恥ずかしそうに眉毛を掻くその仕草は、とても懐かしく、悲しい。
「嘘かと思ったら、これがほんとなんだよなぁ。大学までの一也は本当、ただの野球馬鹿でさ。プロになる道もあったのに、普通に就職しちゃってさ。」
誇らしそうに話す飯田を見て、この二人の仲の良さが伝わってきた。心の中がざわつく。居心地の悪いソファーに背筋を伸ばして座っているような気分になった。
「ずっと広告業界行きたかったからな。それに、プロは俊が思ってる以上にきつい世界だよ。きっと。」
「俊」は飯田の下の名前だ。さっきとはうって変わって真っ直ぐな瞳で話す結城さんは、僕と目が合うと、はっとしたように「今でもキャッチボールくらいはするけどな。」と笑った。「裕みたいだ。」僕は不思議なくらいはっきりとそう思った。「彼女」じゃない。この人は、裕にそっくりだ。そう自覚すると、身長も、茶色のスーツも、照れた仕草も、真っ直ぐな黒い瞳も。裕にしか見えなくなった。もし、裕が生きていたら、彼のようになっていたかもしれない。そう思うと、目頭が少しだけ熱くなった。
「美穂ちゃん。」
飯田が声を上げて立ち上がった。僕は、冷たくなった手の甲で軽く目をこすった。目頭の熱が消えるのを少し待って顔を上げる。
「飯田さん。こんばんは。」
幹事の「美穂ちゃん」と飯田が話している間に、他の二人が僕らに挨拶をしにやってきた。その中に、忘れもしない顔があった。
「柚…。」
僕が待ち望んでいた「奇跡」は、起きてはいけない時にやってきた。
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