第5話幸せのまばたき。
暦の上では「秋」になった頃。僕はとんでもなく空気の悪い空間にいた。いつものファミレス。右には、いつも以上にへらへらとした裕。前には、見た事のないくらい殺伐としたオーラを纏っている柚がいる。僕の主観だけど、この二人は他のカップルに比べてよく喧嘩する。いや、するようになった。
「入学式」以降、二人はよく喧嘩をするようになった。喧嘩の原因は、くだらない事がほとんどだけど、とにかく頻度が多い。一度心配になって、裕に「大丈夫なのか」と聞いたことがある。そしたら裕は言ったんだ。
「喧嘩してたいんだ。もうすぐ離れなきゃならない事なんて忘れるぐらい、くだらない事で喧嘩して、次の日には仲直りしてさ。これまでしなかった分、いっぱいしてやるんだ。」
それは酷く、不器用な愛だった。でも同時に、「くだらない喧嘩」は僕の心の支えでもあった。裕がいつまで元気でいられるのか、僕らには分からない。病名すらわからないんだから調べようもない。そんな中で、「喧嘩ができる事」は裕が元気な証でもあった。
けど、流石にこんなに雰囲気が悪い喧嘩は初めてだ。そもそも何でこんなことになってる…。とにかく、口を開けば「火に油」なのは間違いない。僕は、トイレに立ちたい衝動を必死に抑えながら、変える事の出来ない一時間前の事を思い出す。
九月は柚の誕生日だ。二人が付き合って四回目。しかも、今年は二十歳という節目の年。彼氏の裕には、それはそれは大きな計画があるだろう。僕は、サプライズとかは苦手だし、二十歳の女の子が何を欲しがるかなんてわかるはずもないから、何が欲しいかは本人に直接聞く事にした。
「柚。誕生日、何が欲しい?」
アイスコーヒーを飲んでいた彼女は、ストローから口を話して眉を下げた。
「え、何。」
がっかりしているような、怒っているような彼女の表情に、思わず声が強張る。
「そういうのはサプライズでくれるのが誕生日の醍醐味なのに。」
あぁ、なるほど。
「それは彼氏の担当だから。」
「何よ。あなたからも楽しみにしてたのに。」
「気に入らないものをあげたくないから。」
「でた。正論。そんな正論ばっか言ってると、正論くんって呼ぶわよ。」
柚は、もう一度アイスコヒーを飲んで何とも安直な異名を僕に付けた。
「絶対に嫌だね…。」
「そう皮肉言ってやるなよ。」
空になったレモンスカッシュのグラスをウェイターに渡しながら裕が言う。
「そういう彼氏くんはのリサーチは済んでるのかしら?」
「当たり前だろ?お姫様。」
「ほんとに?何くれるの?」
「そういうのはサプライズが醍醐味なんじゃなかったのかよ。」
「でも、教えてもらえないと思うと知りたくなっちゃうじゃない?」
「なんだよそれ」
裕が何をあげるのかは、僕も気になっていた。裕のリサーチは完璧なはずだ。そして僕も、柚に欲しいものを聞く以上、二人のプレゼントが被る可能性はある。タイミングを見て聞こうと思っていた。もちろん、柚のいないところで。
「まぁ、丁度いいや。早めに伝えないとやばいと思ってたし。」
「どういう事?」
「準備がいるからさ。」
「準備?」
「柚、旅行行かないか?」
僕らの間に、不自然な「間」があいた。ほんの二、三秒の事だったけど、今思えばこの「間」がこの後の空気の予兆だったんだと思う…。
「旅行⁈」
裕の突拍子のない「プレゼント」に驚くより先に、僕は柚の大きな瞳が、その小さな顔から落っこちてしまわないかとハラハラした。
「あぁ。旅行。」
裕は、楽しそうだ。
「どこに?」
「ハワイ。」
「ハワイ⁈ダメに決まってるでしょ?病院は?最近よく行ってるの知ってるんだから。」
確かに、裕が病院に行く頻度は、明らかに増えている。三日に一度くらいだろうか、裕は服に病院独特の消毒液の匂いを染み付けてくる。
「すっごいなー。何で知ってんの?」
「そんなことどうでもいいの。」
まずい。柚に火がついた。本能が裕を止めるべきだと言っている。でも、二人の会話は止まらない。
「だって海外なんてもう行けないぞ?大事な彼女の二十歳の誕生日、一生の思い出にしたいって思うのは当然だろ。」
まずい。本当にまずい。気がする…。
「だからってなにも海外じゃなくてもいいじゃない。」
言葉尻が…いや、柚の口から出る言葉の全てに棘を感じる。それも、極太の…。気のせいじゃない。これもう大火事なんじゃないか?
「何かあったらどうするの。かかりつけの病院もないし、それに、」
「まぁ、柚。落ち着い…」
「うるさい!」
「…ごめん」
消火、失敗。
「飛行機の中だって、気圧とか、時間とか、何が危険かもわからないのに、リスクが大きすぎるじゃない。」
もう既に、柚の眉間は見たことないくらい狭くなっている。裕は、いつもと変わらない表情で話を続ける。いや…いつもより確実に楽しそうだ。
「でも、俺が行けるって言ってんだからさ。」
「勝手なこと言わないで。行かないわよ。」
何でこいつはこんなにも楽しそうなんだ…。「もう辞めろ」と念を込めて裕を見ると、あいつは右の眉毛を小指でかいていた。まずい…。こいつ、まだとんでもない事を言う気だ。
「でも、もうチケット買っちゃった。」
「はぁ⁈」
彼女の声先か、僕がカフェオレの入ったグラスを倒すのが先だったかは分からないけど、テーブルに広がるカフェオレを僕らはしばらく無言で見ていた。テーブルに広がるそれを見ると、時間が進んでいる事は分かるのに、僕の時間は止まっているみたいに思えた。気が付くと、裕が布巾を持ってきてくれたウェイターに礼を言って、急いでテーブルを拭いていた。カフェオレは僕と裕が座っていた席にも溢れてきた。裕のキャンパス地の鞄が色を変える。僕は慌てて、鞄を掴んだ。中に染み込んでいないか確認しようと鞄を除くと、突然、裕に取り上げられた。
「ったく。この鞄気に入ってたのにさ。」
「ごめん。中、大丈夫?」
「…あぁ。多分な。」
テーブルを拭き終わると、僕らは恐る恐る柚を見た。僕らがテーブルを拭いている間も、柚は無言だった。
「柚…さん…?」
機嫌を取りに言って裕の声は、見た事のないくらい冷たい彼女の瞳に凍り漬けにされた。
あれから一時間。息をするのも窮屈なこの沈黙の中、発言する勇気が僕にあるだろうか。でも、どうしても言わなければいけない。僕のこれからにかかわる事だ。
「あのさ…」
覚悟を決めて、口を開く。その一言だけで充分「火に油」だ。彼女は顔を窓の外に向けながら、瞳だけをこちらに向ける。人は本気で怒るとこんな顔をするのか…。そんな事考えている暇はない。僕はこれから「油」以上のものを注いでしまうかもしれない。
「こんな時に言うのも何なんだけど…」
柚の瞳は一層冷たくなり、眉間はどんどん狭くなる。「何だ」という文字が、いまにも浮き出てきそうな顔だ。
「トイレ…行ってもいいかな…。」
沈黙が、より一層静かになった。彼女は鋭い瞳と顔の向きを揃えた。裕も僕を見ている。そして、二人は顔を見合わせ、困ったように、でも大きく、声を揃えて笑った。
「え…何…」
二人は笑いのツボが似ている。前に僕は、そのツボが微妙に分からないと言ったけど、訂正する…。全く分からない。
「…っ‥‥‥‥ふふっ…」
「勝手に行けよ…っ…トイレぐらいっ…」
「どれだけ我慢してたのよ…っ…」
笑いすぎだろ…こっちがどれだけ気を使って…
「…なんだよ。呼吸するのも目立つんじゃないかって言うくらい静かだったんだから言えるわけないだろ。」
「呼吸するぐらい、目立つも何もないだろ…っ…どこの軍人だよお前は…」
「沈黙を意識しすぎて、分かんなくなったんだよ!」
「わ…っ…わかんなくなったって、息の仕方を…っ?」
「そうだよ。笑いすぎだろ。二人とも…。」
何がそんなにおかしいんだこの二人は。
「悪い悪い…っ。行ってこいよ…。漏らすぞ…っ」
「そうよ…っ。いくら怒ってたって、トイレに行くななんて言わないわよ…っ…どうぞ行ってきて。」
この二人は本当に……
「もう行きたかったの忘れたよ‼!」
僕の人生二番目の大声は、二人のさらなる「爆笑」の引き金になった。
僕は、意図せず二人の「爆笑」を引き起こして空気を変える事はできたけど、沈黙の原因を変える事はもちろんできなかった。結局、あの後柚は、さらに油を注いだ裕の頭を思いっきりはたいてファミレスを出てしまった。
「しくったな。」
彼女にはたかれた頭をさすりながら裕が言う。
「当たり前だろ。何でまた急に海外旅行なんて…」
「死ぬまでに行きたいところ。」
「え?」
「小学校の時話したろ。」
「あぁ。」
僕は、小学校の頃、社会の授業で死ぬまでに行きたい所のリストを作った事を思い出した。
「ヨーロッパばっかりだったよなお前。言うのも書くのも難しいような所ばっかでさ、あれだろ?人が知らない所書いて、俺たちとは違うって言いたかったんだろ?」
「いつから性格悪いキャラなんだよ僕は…。そういう君は発展途上国ばっかりだった。小学生のくせに変な奴だと思ったよ。」
まだ、お互いの事を大して知らなかった当時の僕たちは、リストを見せ合い、休み時間に夢中で地図に印をつけた。色んな地方や都市に印が付いたけど、僕らの印が重なった所はハワイだけだった。そうだ。すっかり忘れていたけど、僕らは一枚のリストをきっかけに仲良くなったんだ。裕は覚えてたんだな…。
「どうしてハワイだったんだろう。」
「やっぱ憧れなんじゃん?旅行と言えばリゾートみたいな。日本人あるあるだろ。」
「日本人って本当単純というか、何と言うか。」
「俺ら含めてな。」
「まぁね。とにかく、説得より仲直りが先だ。」
「分かってる。はぁ…それが一番の壁だな。」
その後どうやって仲直りしたかは知らないけど、結局、二人はハワイに行くことになったらしい。何故か僕も。なんで二人の海外旅行に僕も行くことになったのかは分からない。でも、裕の容態を知る医者もいない、何が危険かもわからない異国の地だ。何かあった時、二人を支えられる所に居られるのは少し気分が楽だ。それと同時に間違いなく邪魔者だとも思っているけど…。
憧れのハワイといっても僕らは大学一年生。旅行に行く時間はあっても金がない。そもそも大学一年生が恋人の誕生日に贈るものじゃないだろ。旅行なんて。どこの漫画の主人公なんだあいつは。でも、文句ばかり言っていても仕方がない。まずはアルバイトだ。
僕と裕は、新作が出ると呆れるほど長蛇の列ができる世界的に有名なカフェで働いていたけど、それだけじゃ足りない。だから、旅行までの二ヶ月間、という条件つきで裕の父親の会社を手伝うことになった。なんだか少し反則な気もするけど…。彼の父親は不動産会社を経営していて、個人経営なだけに人手不足だといつも愚痴をこぼしていたから、僕らが手伝いたいと言ったら二つ返事で許可してくれた。仕事は主に事務だ。事務といっても、資料作成から客のお茶出しまでするいわゆる雑用というやつ。愛想が悪くてパソコンが得意な僕が資料。パソコンが不得意で愛想のいい裕が客対応だ。仕事中の僕らの相性は完璧だ。もちろん、裕の父親とも。裕の父親は、仕事終わりによく僕を夕飯に招いてくれた。僕は自然と裕の家族といる時間が長くなった。こんなに裕の家族と過ごすのは久しぶりだからすごく懐かしい。裕は病気から半年経ってようやく家族に自分のことを話したらしい。彼の母親は、「なんでもっと早く言わないの!」と怒って、泣いて、一週間は大変だったらしい。でも、きっかり一週間だったみたいだ。母は強いと言うけど、子供がピンチになればなるほどそれは証明されるんだなと僕は思った。今、大学はどうなとかとか彼女はいないのかとか幼馴染の母親のテンプレ質問を繰り出す女性からはあまり想像できないけど…。やっぱり彼女も強かった。
いよいよ旅行の二週間前という週末、僕らは三人で行きつけのファミレスで計画を立てていた。
「モアナルアガーデンに行きたい!」
「モア…何だって?あ、分かった。花だろ。好きだなーお前。」
「違うわよ。花じゃないわ。」
「木だよ。」
「なんだお前も知ってんのか。」
「裕も知ってる場所だよ。」
裕は納得と不思議が混じったような瞳で僕を見た。僕が花を好きな事は覚えているけど、その場所を自分が知るわけがないという目だろう。
「小さい頃コマーシャルで流れてただろ。」
「あぁ!そうそう。どこかの保険会社だったかな?何とかっていう歌の。」
「あぁ、あれか。『この木何の木』とかなんとかいう…。でも、なんでその何とかガーデンに行きたいんだ?」
なんだこの頭の悪そうな会話。僕はこめかみを押さえて二人を見た。
「見てみたい。」
そう言った彼女は強い瞳をしていた。でも、その瞳とは裏腹に、彼女の顔はどこか寂し気だった。僕の前に座る二人の幸せは、いったいいつまで続くんだろうか。願わくば、二人の幸せがほんの少しでも長く続きますように。そんな祈りを込めて、僕はゆっくり瞼を閉じた。
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