第10話10
「
「ヤツのおかげで場を荒らされたあげくに、お前もその
蟾の頭上、
「何にせよ会話もままならぬのには、毎度
「あれっ、おっさん?」
「ン。小僧か」
ここは元々大人数を収容する為の宿泊施設で、出入口を多く
「ああ。嘘鳥と一緒なのか」鴨居の蝶を認めた環が、
環の言うとおりだ。嘘鳥はできる限り人目を
「小僧、
「思うも何も、あれは嘘鳥じゃないか。おっさんだって、そうと知っているからふつうに
蝶がふわりと舞い上がった。
一面に広がる
もしそうなったらどうなるだろう。
溺れ死ぬだろうとの確信がある。
海ならそうだろうが、空に落ちて溺れるとは?海と空とが似ているから、素直にそう思えてしまうのだ。しかしそのようなことは起こらなかった。
「
声のした方にころりと頭を
「坊ちゃん方ァ。ンなかんかん照りの下には行かず、こっちの
女中たちはそれぞれに
春樹の家、本陣ではこのところ毎日と言って良いぐらいに葬儀が立て続いているのだ。
それにしても。あんなに達者だった春樹の
「さぁさ、坊ちゃん方。これからが一日の内一番の暑い盛りだよ。チッとお昼寝しなせえ」
有無も言わさず寝かされてしまえば不思議なことにウトウトし始めた。いや、そのせいばかりとも言えまい。屋敷の
「絹ちゃん、滅多なことは口に出すもんじゃないよっ!」
年配の方の女中の声だ。押さえた口調でも
「シッ。坊ちゃん方が起きちまうよゥ」
―そもそもあんたは、その意味を知ってるのかい?
―さぁ。それが分らないから、お梅さぁなら知ってるかと思っテぇ。ンな、だってアタシは
―だから、よしなさいって言ってるんだよッ。余所者はそんなの知らなくて良いんだから。
ちりーん。
夢うつつだったのだから、眼は閉じていたはずだ。しかし気がつけば差し向かい、眼前には
「
落ち着いた美しい
きさらぎ先生は
さっきまでのは―夢、なのか?
いや、春樹のいないこの世界こそが悪夢なのではないか?
「はあ…」きさらぎ先生はようようにして、返事とも何ともつかない声を漏らした。「今のは、一体…?」
「ご覧いただいたのは、すべてあなた様の記憶で御座います。わたくしどもがそれを拝見する機会は永遠に巡っては参りませんから、ご本人様にご確認いただくより他に術は御座いませんが」
確かに。自分より他にあれを見聞きした者はないだろう。
催眠術というものなのだそうである。
れっきとした学問に基づくものだとも聞かされた。
しかし、それよりも。きさらぎ先生はこれまで、
つまり先生は蛁呼の示した術にすっかり
今見てきた頃の先生は七歳だ。絹という若い女中が居たことがその確証となる。絹は余所の集落から
「坊ちゃん方ァ、七歳まで無事に育ちあがッたンなら、もう安心だぁ。アタシもあやかりてぇから、頭にちィと触れさせておくれなぁ」
絹は優しい手つきで春樹と自分の頭を撫でまわすと、それきり本陣から
彼女は今も達者に暮らしているようだが、照れ臭くて、あえて訪ねたことはない。
さて。ひとまずそれは置き、それがどうしたということになるが、問題は、自分も春樹も要さんに出会ったのは十歳の時なのだ。
そうすると、要さんがこの集落に現れる以前から、かくりょの障りという言い回しが存在していたことになる。
ほぼ人生を
―しかし、もし蛁呼の
そんな思いに
やって来たのはこの土地を代表する二家の一方である
この土地の表看板を張っていたのは深町家で、重要な交渉事に関してはこちらが本分で、何かしら
まず、生涯そっちに曲がることはないだろうと思ってきた角を曲がり、聞きしに勝る立派な表門を
「ようこそお越しくださいました、きさらぎ先生。蛁呼様から伺っております」
孫のような年頃の女中が対応した。美しい顔立ちだがにこりともしないその様は人形めいていた。
先にここへ来た時―訳も分らず引っ張り込まれたのだが―は、ただ々異様でしかなかった光景も、理由が分ってしまえばどうということはない。よりよく術が掛かりやすくなるように香を
「おや。
「これは随分とご
「お互い様ですよ」
まったきふつうの人である。
「おや。今来たのはきさらぎ先生じゃないか」
己の想いをなぞるような言葉が耳に飛びこんできた。それで、あああれはやはりきさらぎ先生なのだと、
声がした方へ首を
隣近所で誘い合わせて出て来たという
「そうじろじろ見たりしてはだめよ、アンタ。あの先生はあんまり
「そうそう、この前もね。せっかく来たってのに、みんなして珍しがって
きさらぎ先生に目を戻す。知人らしき同年輩の男と二言三言挨拶を交わすとそれきりで、話し込む様子は見えなかった。
なるほど。顔見知りにでもならない限り、天気の話もしてくれなさそうだ。それでもきっかけだけは得られたと思えば喜ばしい。
こんなつまらない田舎町の話が立派な本になって、店で売られるようになるなんて信じられなかった。試しに郵便局の待合に備え付けの一冊を手に取ってみて驚嘆した。
以来ずっと、きさらぎ先生と直接話をしてみたいと願ってきた。さりとて、面識はおろか紹介者も居ない立場で、土地の名士を訪ねていくのは憚られた。その判断はどうやら正しかったようだ。どうも先生の人となりを
「したが、どうしたことだろうな」中年男女たちのひそひそ話は未だ続いている。「本陣だって拝み屋を呼んだんだろ?先生はあっちとの係り合いの方が濃いだろうに、何だって椚屋の門など潜るんだ」
「そりゃあさすがに、本陣が呼ぶほどの
「いんや。そこはやっぱり学者さんなんだよ、きっと。だって、蛁呼様は変な格好もしていないし、誰にも分らないような呪文を唱えたり祈ったりもしないしさ。なにしろ立派な学問に基づいた治療とも言っていなさる」
「ああ、
「…蛁呼様に限っては、そればかりじゃあねぇ」
気ままだった喋り声はそこから急にぎゅうっと押さえ込まれ、くぐもったひそひそ話には
「ほら、あの町長ン
へえぇ。蛁呼様って、やっぱり特別なお方なんだねえ…ひそひそボソボソ…。その続きは聞こえないほどの小声になった。まあ、それでも構わない。自分もそれは知っていたし、ついでに言えば真実であることも承知していたから。
差し当たっての関心事は、どのように振舞えばきさらぎ先生の
そのことを知ったのは、徳ちゃんがいなくなってすぐだった。ひとりぼっちになったら、またぞろいじめられるに違いないと思っていたのに、そうはならなかった。
そうして分かってきたのは、打った側(いじめっ子連中)はなべて、鍛冶を打っていたことなどきれいさっぱり忘れており、そんな事実はなかったようになっているらしいことだった。
何故だろう?
自分は未だにその頃の夢を見てうなされて飛び起きたりしてるというのに、どうしてそうなる?
打たれる側は不意打ちで、打つ側はそうではないから?
そんなことをぐるぐる考え込んでいるうち、あることを思い出して、鍛冶は
小一まで一緒だった椚屋のよっちゃんのことだ。
今はもう、よっちゃんはいない。小二に上がる少し前に、自分ン家の前の椚で首を
よっちゃんがそうした理由は誰にも分らなかった。何か
けどそれは、ただそういうことにしたというだけの話で、謎は謎のままだ。だから多分、なぜなに
鍛冶を驚かせたのは、その謎について、自分なら思い当たるふしがあるという確信だった。
よっちゃんとは直接仲が良かったわけではないから、ことの始まりがいつだったのかは知らない。気がついたら、彼はいるけれどいない人になっていた。
曰く、よっちゃんはいないのだから、その姿は見えない。声も聞こえないし、触れることも出来ない。でもよっちゃんからは皆が見えるし声も聞こえて触れられる。よっちゃんが仕掛けてくる悪戯にびっくりして声を上げたら負け。そんな決めごとの遊びだった。鍛冶がこの不思議な遊びを知る頃には、よっちゃんの仲間たちはかなり習熟しており、何をされても上手に知らんぷりする
今にして思えばあれは、鬼の
それってどういう気分なんだろう?
ふつうに考えて、鬼ばっかりやりたい人なんかいない。なら、よっちゃんは途中からこの遊びが嫌になって、止めたくて仕方がなかったのじゃないだろうか。でも学年中で
よっちゃんが永久にいなくなったと知らされた時、本当に意味が分らなかった。だって、みんなで楽しく遊んでいただけなのだし、よっちゃんがいなければ始まらない遊びだったのだから。
ああ、そうか。
それと同じなんだ。
最初は大した
ぞっとした。
徳ちゃんが仲立ちしてくれて、
人の心とは恐ろしい。それも、
どこからともなく“かくりょの障り”なる意味不明の言葉が
いつからそうだったのか、役場の全員が常に不機嫌で、鍛冶自身もその例に
常日頃
「どうしたの?」
「めめちゃんがどうでも良くなっちゃったの」
めめちゃんとは娘が名付けた名前で、お誕生日に買い与えたお人形のことである。
めめちゃんに
「じゃあ、新しいお人形さんを買ってあげるよ」
「いらない!」
あくまでも、めめちゃんが一等賞のはずなのに、そうは思えなくなったことに娘はむずかっているのだ。
何がどうなっているのか。ともかく、何かただならぬことが起っていると鍛冶は感じた。
それからの鍛冶は注意深くひとびとの様子を観察した。役場ばかりではなく、町中どこもかしこもにささくれた雰囲気がある。そんな状況で、誰かが気晴らしの“名案”を思い付いてしまったらどうなるだろうか。
家族の安全確保を講じ、まずは
ことほど
徳ちゃんが
そうだ。あのヒキとかいう男がつけると言っていた護衛。
彼の言う“ウチの小僧”とはアイツのことだろう。アタリはついている。
食卓を囲む時だけ顔をあわせる若いヤツ。男と呼ぶには身体の線が全体に細く小柄で、男女のどちらともつかない、あどけない顔つきをした。多分まだ、二十歳前の少年だ。
ちっとも強そうではない。
用心棒とするには少々心もとない気がする。しかし今や頼みの綱はそれ
それからハッとなった。そう言えば…。
徳ちゃんからチラリと聞いたっけ。数十年を隔てた再会にふたりして祝杯をあげた夜、酒を過ごした上に、あろうことか本陣で潰れた時のこと。すっかりへべれけだった鍛冶自身は覚えていない
翌朝のおでこのたんこぶの具合から
次の朝の食卓でも、鍛冶の名前が話題に乗ることは一切なかった。
こちらはこんなに切実な思いを乗せた必死の視線を送り続けているというのに、ヒキと目が合わない。大人になっても弱虫な己があまりにみじめで、自分から切り出すことなど
一昨日から沈みっぱなしの気持ちを抱え、鍛冶は菊枝に与えられた自室へと戻った。
今日こそ
「おっさんが
匂うような色香にも関わらず、喋る声がシッカリ男声だ。ああ、コイツで間違いないのだな。鍛冶は思った。
「まず俺は、気軽に外出が出来ない。あんたよりも先に嘘鳥の用心棒だから、持ち場を離れる訳にはいかない。それでなくともこの
では
広大な深町家の庭に出て稽古をつけて貰っていると、兄貴兄貴とかしましく叫びたてる四人組の子供らが
今日はもう、十分―。
一日中可能な限り働いて、疲れ果てた身を布団に横たえてうつらうつらしている至福の寝入りばなに、いつもふと
二度と目覚めない眠りとは何だろうかと。
すぐに思いつくのは―死―だ。
しかしそればかりではないことを知っている。子供の頃から目の辺りにしてきた不思議。
さてしかし。そんな生に何の意味があるのだろうか?誰にともなく問いかけてから本格的な眠りにつく。
「先生、先生。どうぞ起きてくださいな」
揺り起こされた
それは、
ああ。なるほどと
「先生、先生、栗崎先生!」
声の調子が
家庭生活の日常であれば、自分への呼びかけは「あなた」であるが、「先生」との呼びかけなら間違いなく仕事がらみである。
「何だ。また急患かい?」
「そのようではあるのですけれど…」と、
休息時間が分断されれば、天然自然に機嫌が悪くなろう。が、そんなこと
そうか。俺もトシなんだなぁ。
と、ぽっかり開いたつもりの目の前は真っ暗だった。
「トシ子」
「ハイ」
「なぜ明かりを点けていない?」
「ここに居ることを
ガンガンガンガン。診療所方面から、戸を叩く音が聞こえている。
しばらく耳を傾けてみて、妻の覚えた恐怖の理由が分かった。
通常の
―クリサキセンセイ、クリサキセンセイ、オネガイシマスッ。タスケテクダサイ!
けど今は、熱心に戸を叩き続けるばかりで声がない。
「分かった。ここを動いてはいけない。待っていなさい」言い置いて、
「はい。栗崎です。しばしお待ちください」呼ばわると、訪いを入れる音がぴたりと止んだ。
玄関の
ガラリと開けた戸の向こう側に居たのは、
「ああ。君は…」松虫だったか鈴虫だったかは覚えてない。ともかく、どちらかではある。「
正体を掴み安心したところで、栗崎先生は彼女の異変に気がついた。泥だらけの着物に点々と散っている
「もしかして、顕比古君に何かあったのかな?」
少女は無表情にこっくりと頷いた。
鳥の
「ハッケヨイの叔父ちゃん、おっはよーっ」
地上の太陽とも言うべき姪っ子の明るい笑顔に照らされて、胸の奥に灯が燈る。
「おはよう、須ン坊」
小さな
早めの朝ご飯だから、食べ終わった後は登校時間まで暇が明く。さて今朝はどうしようか。朝顔にはさっき水をやったから、軽くそこらを散歩してみようか。姪に
「おはようございまぁーすッ」
「来たあっ!!ショウ、ケン、リン!」
何たることか。三人の子分どもが
「あんたッ。ぼさっとしてないで、サッサと自分の部屋の掃除を済ませなさいよ。今日中に屋根裏を片付けてもらうからね」
帰郷以来連日、姪っ子の居ない昼間の間はここぞとばかりに
座布団をはぐる。
やっぱり、そうか。
これをどう判断するかについて悩み、ハッケヨイは
座布団を除けた畳の上に現れたのは、親指の先ほどの大きさの、真っ黒な円がみっつ。これらは昨夜まで、確かに三枚の
昨日は結局、まる一日屋根裏部屋の整理に
「いいかい、
この「ぽん」が小さな女の子にウケて、ふたりはしばらく熱中した。
「あんたのそれって、何でも占えるの?」
早起きの家は当然早寝だ。
これは「もうやめろ」の
そうと
「何だって占えるよ。
「―ふぅ…ん」
「珍しいね。何か気に掛かることでもあるの?」
「ほら、ちび助。それにあんたも、もう寝ないと朝ご飯前に起きられなくなるよッ。寝坊したらめし抜きにするからね!」
この家の胃袋の支配者にめしを
「叔父ちゃー…ん、おやすみぃ。また明日…」
昼間によく遊んだらしい子供は、布団に寝かしつけた頃にはもう、夢うつつとなっていた。
「おやすみ、須ン坊。また明日」
その様子を
「ン。ああ。
家運に対して町運か。ふむ。なるほど。
単純に面白い考えだと思った。だから、試しにという気を起こしたのも軽い
勉強部屋の畳の上に描き出されたのは陰でも陽でもなく、三枚の硬貨による
板の間というならまだしも。真っ平らなはずもないイグサの上に、直立したまま着地した三枚は、くるくるくるくる、くるくるくるくるいつまでも
占いなんて、当たるも
師匠とその
説明を求めてもはかばかしい答えが返って来ないところをみると、もしかしたら、師匠たちにだって分らないのかも知れない。
ハッケヨイの知る限り確かなことは、彼らの誰ひとり飛び込み客など相手にしないということ。紹介もない
「向う側から戻ってきた時に、
そも遊び半分だったのだし、こちとら半人前以下なのだから“向こう側”へ渡れたものやら戻って来たのか?など、まるっきり分らない。しかし、ここに転がっているのは
師匠が見込んでくれた自分には、確かに
こんな形ではあれ、それを確認出来てひとまず安心。
か?
そんな訳はない。
逃げたらどうなる?
自分ひとり助かって、姉さん夫婦はどうなる?可愛くて、可愛くて堪らないあの娘が、不幸になるのか?悪くしたら死んでしまうのか?
そんなのは耐えられない!!
自分ひとりの命が助かったところで、絶望に心が死んでしまえば、生きる意味は消失するだろう。
ハッケヨイは、師匠に
かくりょの果てのまほろばの @Aomi_kins8149
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