第10話10

 「嘘鳥うそどりよ。無理無体むりむたいは承知の上だが、いい加減、紅蛇楼こうだろうと縁を切ってはどうか」

 鍛冶かじはとっくの昔にこの家の主婦たちのまるお勝手かってへと去っている。

 夕映ゆうばえの鮮やかな残照ざんしょうも消え去った薄暗い廊下ろうかで、ひきがひとりで不満を鳴らしていた。

「ヤツのおかげで場を荒らされたあげくに、お前もその有様ありさまではないか」

 蟾の頭上、鴨居かもいに休む真っ白な蝶が一羽、彼にこたえるかのように羽根をふるわせた。

「何にせよ会話もままならぬのには、毎度辟易へきえきする」

「あれっ、おっさん?」

「ン。小僧か」

 ここは元々大人数を収容する為の宿泊施設で、出入口を多くもうけけられている構造上、誰かがひょっこりと何処どこからでも現れて何の不思議もないのだが、この時ばかりはあまりの出し抜けさにさすがの蟾もギョッとなった。

「ああ。嘘鳥と一緒なのか」鴨居の蝶を認めた環が、も当然という口調で言い放った。「にしても、誰が通るとも知れない廊下でなんて、不用心ぶようじん過ぎじゃないか」

 環の言うとおりだ。嘘鳥はできる限り人目をはばかるのが望ましい。が、それはそれとして。

「小僧、何故なぜあれが嘘鳥だと思うか」

「思うも何も、あれは嘘鳥じゃないか。おっさんだって、そうと知っているからふつうにしゃべってたんだろ?」

 蝶がふわりと舞い上がった。



 一面に広がる紺碧こんぺきの空が、ピンと硬く張りつめている。見渡す限り一片いっぺんの雲すら見当みあたらない。だからそこには何も有りはしないと分っている。にもかかわらず、どうしてこれほど深い奥行きを感じるのだろう?寝転がって眺めているだけで、ふとしたはずみに向う側へ落ちて行きそうな気がして怖くなる。

 もしそうなったらどうなるだろう。

 溺れ死ぬだろうとの確信がある。

 海ならそうだろうが、空に落ちて溺れるとは?海と空とが似ているから、素直にそう思えてしまうのだ。しかしそのようなことは起こらなかった。

しげちゃん、お弁当が来たよーっ!」

 声のした方にころりと頭をかしげると、女中をふたりしたがえた春樹はるきがこちらに向かっていた。

「坊ちゃん方ァ。ンなかんかん照りの下には行かず、こっちの日陰ひかげにおいでなせ。涼しいよォ」

 女中たちはそれぞれにたずさえてきたおじゅう手提てさげを開き、皿やはしそろえながら薬缶やかんの麦茶を茶碗へ注ぎと、てきぱき食事の支度したくを整えていく。重箱の中には、たかだか子供ふたり分の弁当にしては豪勢すぎる料理が詰められている。

 勿論もちろん、ふだんはこんなことは有りえない。今はふつうじゃない事情があることを自分も春樹も承知していた。

 春樹の家、本陣ではこのところ毎日と言って良いぐらいに葬儀が立て続いているのだ。弔問客ちょうもんきゃくきょうする料理から流用りゅうようするのが一番手間にならないから、こういう次第しだいとなる。

 それにしても。あんなに達者だった春樹の曾祖父母そうそふぼが続いてき、家族同然ともいえる永年の使用人がちと、年嵩としかさの者から順にというところからすれば、それが天命てんめいであったかと、そんな巡り合せもあろうかと、思えなくもないが、なんとも不吉ふきつであることには変わりない。あまりにも縁起えんぎが悪いとして春樹は鯨幕くじらまくから遠ざけられることとなった。元の居室きょしつからも追い出され、今は仏間から一等遠い奥まった座敷で寝起きをしている。今日だって、春樹の大叔母のおとむらいなのだ。

「さぁさ、坊ちゃん方。これからが一日の内一番の暑い盛りだよ。チッとお昼寝しなせえ」

 有無も言わさず寝かされてしまえば不思議なことにウトウトし始めた。いや、そのせいばかりとも言えまい。屋敷の耳目じもくを離れた女中たちの、気ままなひそひそ話の声も眠気ねむけを誘う原因のひとつに違いない。大人の、それも女の話となれば、つまらないに決まっているから尚更なおさらだ。

 川面かわもを流れるの葉のように、とろとろと眠気ねむけの波間を浮きつ沈みつしていると、

「絹ちゃん、滅多なことは口に出すもんじゃないよっ!」

 年配の方の女中の声だ。押さえた口調でも語気ごきに鋭さがあった。

「シッ。坊ちゃん方が起きちまうよゥ」

 ―そもそもあんたは、その意味を知ってるのかい?

 ―さぁ。それが分らないから、お梅さぁなら知ってるかと思っテぇ。ンな、だってアタシは余所者よそものだぁね。ね、お梅さぁ。かくりょのさわりって何のことなのかい?

 ―だから、よしなさいって言ってるんだよッ。余所者はそんなの知らなくて良いんだから。

 ちりーん。

 軒下のきしたの風鈴が鳴った。

 夢うつつだったのだから、眼は閉じていたはずだ。しかし気がつけば差し向かい、眼前には蛁呼ちょうこの穏やかな顔があった。ぞっとして、思わず彼女の顔を凝視ぎょうししてしまった。

如何いかがで御座いましょうか。多少はお役に立てましたでしょうか?」

 落ち着いた美しい声音こわねが心地良く耳朶じだをくすぐる。

 きさらぎ先生は呆然ぼうぜんとした。

 さっきまでのは―夢、なのか?

 いや、春樹のいないこの世界こそが悪夢なのではないか?

「はあ…」きさらぎ先生はようようにして、返事とも何ともつかない声を漏らした。「今のは、一体…?」

「ご覧いただいたのは、すべてあなた様の記憶で御座います。わたくしどもがそれを拝見する機会は永遠に巡っては参りませんから、ご本人様にご確認いただくより他に術は御座いませんが」

 確かに。自分より他にあれを見聞きした者はないだろう。

 催眠術というものなのだそうである。

 れっきとした学問に基づくものだとも聞かされた。

 しかし、それよりも。きさらぎ先生はこれまで、百聞ひゃくぶんは一見にしかずという言葉をこれほどみしめたことはなかった。

 つまり先生は蛁呼の示した術にすっかり感服かんぷくしたのだ。そしてそればかりではなく、先生にとって一縷いちるの望みをつかむことにもなったのである。

 今見てきた頃の先生は七歳だ。絹という若い女中が居たことがその確証となる。絹は余所の集落からとついできた女で、その口調も変わっていれば、珍しい話もいっぱい聞かせてくれた。それが面白くて自分も春樹もしょっちゅう彼女に付きまとっていたのだが、程なく身籠みごもったことを理由に勤めを辞めた。本当に短い期間しか本陣の手伝いに入らなかった。

「坊ちゃん方ァ、七歳まで無事に育ちあがッたンなら、もう安心だぁ。アタシもあやかりてぇから、頭にちィと触れさせておくれなぁ」

 絹は優しい手つきで春樹と自分の頭を撫でまわすと、それきり本陣から退いて今に至る。

 彼女は今も達者に暮らしているようだが、照れ臭くて、あえて訪ねたことはない。

 さて。ひとまずそれは置き、それがどうしたということになるが、問題は、自分も春樹も要さんに出会ったのは十歳の時なのだ。

 そうすると、要さんがこの集落に現れる以前から、かくりょの障りという言い回しが存在していたことになる。

 ほぼ人生をしたと言っても良い位にこの土地の郷土史きょうどしを研究してきたきさらぎ先生なのに、この言葉に突き当たったことは皆無かいむなのである。資料という資料をひっくり返してみても見つからなかった。これはゆゆしきことだ。なぜなら、きさらぎ先生の研究が人生が、根っこからひっくり返ってしまうことになるからだ。今や先生自身が老境ろうきょうに入り、訪ね歩くべき古老ころう軒並のきな鬼籍きせきへ引き移った後である。

 ―しかし、もし蛁呼の助太刀すけだちを得られたならば―もしかしたら。何かやりようがあるかもしれない。

 そんな思いにられて先生は、雨天をして出掛けて来た。

 やって来たのはこの土地を代表する二家の一方である椚屋くぬぎやだ。椚屋というのは土地の符牒ふちょうで、正しくは苗字みょうじ増田ますだという。昔この家の門口かどぐちに椚の大木たいぼくがあったことから椚屋と呼ばれ、それが今も踏襲とうしゅうされているのだ。今はもうその木はない。

 ざいの椚屋、名誉めいよの本陣。

 この土地の表看板を張っていたのは深町家で、重要な交渉事に関してはこちらが本分で、何かしら危急ききゅうに金銭を要する場面では、渋々しぶしぶと財布を開くのが増田家という図式ずしきが出来上がっている。実際に身銭みぜにを切るのが増田家の方なのだから、有難がられそうなものではあるが、しつこく恩着おんきせがましいところから、土地では一等嫌われている家だ。きさらぎ先生だって、今まで土地の名士めいしとして(あるいは座興ざきょうとして)会食に招待されたこともなくはなかったのだが、すべて断り倒してきた。

 はやる心を押さえつつ、この家を訪れることがあろうとは、今まで想像さえしたことはなかった。

 まず、生涯そっちに曲がることはないだろうと思ってきた角を曲がり、聞きしに勝る立派な表門をくぐった。

「ようこそお越しくださいました、きさらぎ先生。蛁呼様から伺っております」

 孫のような年頃の女中が対応した。美しい顔立ちだがにこりともしないその様は人形めいていた。

 先にここへ来た時―訳も分らず引っ張り込まれたのだが―は、ただ々異様でしかなかった光景も、理由が分ってしまえばどうということはない。よりよく術が掛かりやすくなるように香をいたり、それらしいしつらえをして意識を整えて貰うのだと蛁呼は説明した。この場に集まっている人々にしても、良く見れば見知った顔も二三あるようだ。

「おや。おちさん、こんなところでお目に掛かるとはお珍しい」声を掛けてきたのはかつて勤めていた役所の同僚だった。

「これは随分とご無沙汰ぶさたをしております」

「お互い様ですよ」

 まったきふつうの人である。



「おや。今来たのはきさらぎ先生じゃないか」

 己の想いをなぞるような言葉が耳に飛びこんできた。それで、あああれはやはりきさらぎ先生なのだと、安堵あんどする。

 声がした方へ首をめぐらしてみる。

 隣近所で誘い合わせて出て来たという風情ふぜいの、あまり見栄みばえのしない中年過ぎの男女が三四人固まって座り、ひそひそやっていた。

「そうじろじろ見たりしてはだめよ、アンタ。あの先生はあんまり人交ひとまじわりしない性質たちらしいから、そっとしておいてあげなさいよ。気の毒だから」

「そうそう、この前もね。せっかく来たってのに、みんなして珍しがってかまうものだから、すぐに帰っちゃったのよね」

 きさらぎ先生に目を戻す。知人らしき同年輩の男と二言三言挨拶を交わすとそれきりで、話し込む様子は見えなかった。

 なるほど。顔見知りにでもならない限り、天気の話もしてくれなさそうだ。それでもきっかけだけは得られたと思えば喜ばしい。

 こんなつまらない田舎町の話が立派な本になって、店で売られるようになるなんて信じられなかった。試しに郵便局の待合に備え付けの一冊を手に取ってみて驚嘆した。地誌ちし紐解ひもとく面白さに触れて夢中にもなり、先生の本をむさぼるように読み尽くした。

 以来ずっと、きさらぎ先生と直接話をしてみたいと願ってきた。さりとて、面識はおろか紹介者も居ない立場で、土地の名士を訪ねていくのは憚られた。その判断はどうやら正しかったようだ。どうも先生の人となりをかんがみれば、門前払いは必至だったろうし、それどころか取りつく島もなく嫌われてしまっていたかも。危ないところであった。取りあえず、先程の男のように挨拶を交わすところから始めてみよう。

「したが、どうしたことだろうな」中年男女たちのひそひそ話は未だ続いている。「本陣だって拝み屋を呼んだんだろ?先生はあっちとの係り合いの方が濃いだろうに、何だって椚屋の門など潜るんだ」

「そりゃあさすがに、本陣が呼ぶほどの御祈祷ごきとうさんともなれば遠慮するだろうさ」

「いんや。そこはやっぱり学者さんなんだよ、きっと。だって、蛁呼様は変な格好もしていないし、誰にも分らないような呪文を唱えたり祈ったりもしないしさ。なにしろ立派な学問に基づいた治療とも言っていなさる」

「ああ、初っ端しょっぱなはそんな連中ばかりだったよな。アイツらは結局いんちきだったんだろうな。ンだもんで逃げてったんだろう。今も町に残っとるのが本物だってもっぱらの噂だ」

「…蛁呼様に限っては、そればかりじゃあねぇ」

 気ままだった喋り声はそこから急にぎゅうっと押さえ込まれ、くぐもったひそひそ話には不穏ふおんな気配があった。さすがに顔をそちらに向けることはしなかったが、耳だけはしっかりと振り向けておいた。

「ほら、あの町長ンに火ィ点けた。連中もここへ通っていて、あいつらを押さえているのが蛁呼様なんだと」

 へえぇ。蛁呼様って、やっぱり特別なお方なんだねえ…ひそひそボソボソ…。その続きは聞こえないほどの小声になった。まあ、それでも構わない。自分もそれは知っていたし、ついでに言えば真実であることも承知していたから。

 差し当たっての関心事は、どのように振舞えばきさらぎ先生のかんに障らずに近付けるかということだ。



 った方は忘れても、打たれた方は忘れない。

 そのことを知ったのは、徳ちゃんがいなくなってすぐだった。ひとりぼっちになったら、またぞろいじめられるに違いないと思っていたのに、そうはならなかった。拍子抜ひょうしぬけしたし、すぐには信じられなかった。そう見せかけておいて、油断したところを狙うつもりかも知れない。しばらくの間、おっかなびっくり周りの様子を窺がっていた。

 そうして分かってきたのは、打った側(いじめっ子連中)はなべて、鍛冶を打っていたことなどきれいさっぱり忘れており、そんな事実はなかったようになっているらしいことだった。

 何故だろう?

 自分は未だにその頃の夢を見てうなされて飛び起きたりしてるというのに、どうしてそうなる?

 打たれる側は不意打ちで、打つ側はそうではないから?

 そんなことをぐるぐる考え込んでいるうち、あることを思い出して、鍛冶は愕然がくぜんとした。

 小一まで一緒だった椚屋のよっちゃんのことだ。

 今はもう、よっちゃんはいない。小二に上がる少し前に、自分ン家の前の椚で首をくくってしまったから。

 よっちゃんがそうした理由は誰にも分らなかった。何か悪戯いたずらでもしようとして間違ったんだろう。そう結論付けられて終わった。

 けどそれは、ただそういうことにしたというだけの話で、謎は謎のままだ。だから多分、なぜなにつながりでひょいと思い出されたのだろう。

 鍛冶を驚かせたのは、その謎について、自分なら思い当たるふしがあるという確信だった。

 よっちゃんとは直接仲が良かったわけではないから、ことの始まりがいつだったのかは知らない。気がついたら、彼はいるけれどいない人になっていた。

 曰く、よっちゃんはいないのだから、その姿は見えない。声も聞こえないし、触れることも出来ない。でもよっちゃんからは皆が見えるし声も聞こえて触れられる。よっちゃんが仕掛けてくる悪戯にびっくりして声を上げたら負け。そんな決めごとの遊びだった。鍛冶がこの不思議な遊びを知る頃には、よっちゃんの仲間たちはかなり習熟しており、何をされても上手に知らんぷりする様子ようす寸劇すんげきを観るようで面白かった。それに、駈けっこや鬼ごっこみたいに俊足しゅんそくであることが絶対の決め手!なんてのがないのも良い。決めごとを呑み込んだ子から順次この遊びに混ざっていって、しまいには学年中の子供が参加していたはずだ。

 今にして思えばあれは、鬼の交代こうたいしない鬼ごっこみたいなものだった。負ければやっぱり、いない人役と入れ代わりとなるものの、どうしても動じずにいられないお調子者のよっちゃんが、すぐにいない人役に返り咲いていた。だからよっちゃんがほぼずっと、いない人役だった。

 それってどういう気分なんだろう?

 ふつうに考えて、鬼ばっかりやりたい人なんかいない。なら、よっちゃんは途中からこの遊びが嫌になって、止めたくて仕方がなかったのじゃないだろうか。でも学年中で流行はやっちゃったら、おいそれとそうは言い出せなかったろう。だからきっとよっちゃんは、ああやって、一抜いちぬけすることにしたのだ。

 よっちゃんが永久にいなくなったと知らされた時、本当に意味が分らなかった。だって、みんなで楽しく遊んでいただけなのだし、よっちゃんがいなければ始まらない遊びだったのだから。

 ああ、そうか。

 それと同じなんだ。

 最初は大した思惑おもわくなどない、軽い思い付きだったんだ。誰も彼もが。

無勢ぶぜいがどんなに辛く悲しい思いをしていようとも、多勢たぜいは痛くもかゆくもなければ何も気付かないし、皆がそうしているからそれが当たり前位に思っている。現に鍛冶自身だって、自分が火の粉をかぶってみなければ、よっちゃんのことなど、この先一生思い出す事などなかったろう。

 ぞっとした。

 徳ちゃんが仲立ちしてくれて、恐々おそるおそるいじめっ子連中と付き合ってみれば、そう悪い奴らじゃなかった。ことが悪い方へ転がり始めるきっかけは、誰かの軽い思い付きなんだ。何となく石を投げてみた様な、たったのそれだけのことなんだ。

 人の心とは恐ろしい。それも、しゅうたのむようなことになれば歯止めも利かなくなり、何が起こるのか誰にも分からなくなる。

 どこからともなく“かくりょの障り”なる意味不明の言葉がささやかれ始めるちょっと前から、鍛冶は異変に気付いていた。

 いつからそうだったのか、役場の全員が常に不機嫌で、鍛冶自身もその例にれず不機嫌で、些末さまつなことに声を荒げている自分に驚くという場面が幾度いくどもあった。その上、帰宅すればそれに輪をかけて虫の居所の悪い妻に詰め寄られるという日が続いた。

 常日頃良妻賢母りょうさいけんぼ自認じにんしている妻のそのような態度など前代未聞ぜんだいみもんだったから、一体何事かとその言い分に耳を傾けてみると、脱いだ靴はちゃんと揃えろだの、読み終わった新聞はきちんと畳んで定位置に置け、でないと家事に支障をきたすではないか等々―どう考えても言い掛かりばかりでげんなりさせられた。それでも妻の気の済むまで付き合い、息をついていると、幼い娘が廊下のすみで泣いているのを見つけた。

「どうしたの?」

「めめちゃんがどうでも良くなっちゃったの」

 めめちゃんとは娘が名付けた名前で、お誕生日に買い与えたお人形のことである。

 めめちゃんにきたのかな?

「じゃあ、新しいお人形さんを買ってあげるよ」

「いらない!」

 あくまでも、めめちゃんが一等賞のはずなのに、そうは思えなくなったことに娘はむずかっているのだ。

 何がどうなっているのか。ともかく、何かただならぬことが起っていると鍛冶は感じた。

 それからの鍛冶は注意深くひとびとの様子を観察した。役場ばかりではなく、町中どこもかしこもにささくれた雰囲気がある。そんな状況で、誰かが気晴らしの“名案”を思い付いてしまったらどうなるだろうか。

 家族の安全確保を講じ、まずは妻子さいしを妻の実家へやった。あとはどうしていいのか分らないから取りあえず、霊能者を集めてみた。それで解決するとは思っていないが、お悩み相談の窓口を増やしてみようとの措置そちである。

 ことほど左様さように鍛冶にはあらかじめ椿事ちんじの予感があった。しかし、まさか自宅が焼き討ちにうとは思っていなかった。

 徳ちゃんがそばに居てくれたお蔭で乗り越えられたものの、大人になった今は、子供の頃みたいに自由気ままとはいかず、それぞれに事情があるから、またしても鍛冶はひとりぼっちになってしまった。二度目のひとりぼっちは一度目から何十年も時を経ており、若さという宝はすでに失われている。空度胸からどきょうを恃みにえいやッ!とばかりに飛び込む無鉄砲さなど、望むべくもない。そうかといって、このまま踏み出さずにいることも出来ない。―どうしたものか…。

 そうだ。あのヒキとかいう男がつけると言っていた護衛。

 彼の言う“ウチの小僧”とはアイツのことだろう。アタリはついている。

 食卓を囲む時だけ顔をあわせる若いヤツ。男と呼ぶには身体の線が全体に細く小柄で、男女のどちらともつかない、あどけない顔つきをした。多分まだ、二十歳前の少年だ。

 ちっとも強そうではない。

 用心棒とするには少々心もとない気がする。しかし今や頼みの綱はそれ一択いったくなのだ。ヒキと小僧の顔が揃う場面で詳しい話が出るだろうと期待して一日ぶりの食卓についてみると、その件について毛ほども触れられることなく食事が済んでしまった。そうしてそればかりでなく、徳ちゃんの不在を改めて認識したことで鍛冶は落胆した。

 それからハッとなった。そう言えば…。

 徳ちゃんからチラリと聞いたっけ。数十年を隔てた再会にふたりして祝杯をあげた夜、酒を過ごした上に、あろうことか本陣で潰れた時のこと。すっかりへべれけだった鍛冶自身は覚えていない顛末てんまつを。

 翌朝のおでこのたんこぶの具合からして、自分はてっきり千鳥足を踏み間違えてひっくり返ったものと見ていたのだが、そうではなく、酔いに任せてからかった小僧に突き飛ばされた拍子に、柱の角に額をぶつけて気を失ったのだ…そうだ。

 余計よけいなことを思い出した鍛冶は更に落ち込んだ。

 次の朝の食卓でも、鍛冶の名前が話題に乗ることは一切なかった。

 こちらはこんなに切実な思いを乗せた必死の視線を送り続けているというのに、ヒキと目が合わない。大人になっても弱虫な己があまりにみじめで、自分から切り出すことなど到底とうてい出来なかった。それにしても意地汚い爺ィだと思う。育ち盛りの年頃の小僧が馬ほど大食たいしょくしても不思議はないが、それと同等の食いっぷりとは一体どういうことなのか?せめてもの腹いせに大いにあきれ返ってやった。勿論腹の中だけである。

 一昨日から沈みっぱなしの気持ちを抱え、鍛冶は菊枝に与えられた自室へと戻った。

 今日こそ登庁とうちょうすべきかどうか。言うまでもないではないか。いやいや、やはり外は怖い。ひとりきりのんびり思うさま、うじうじ迷い倒しているところへ小僧…いや、うら若く美しき巫女がやってきた。

「おっさんが安請やすうけ合いしちまったみたいだな?俺としてはやぶさかでもないけど、まあ、無理だ」

 匂うような色香にも関わらず、喋る声がシッカリ男声だ。ああ、コイツで間違いないのだな。鍛冶は思った。

「まず俺は、気軽に外出が出来ない。あんたよりも先に嘘鳥の用心棒だから、持ち場を離れる訳にはいかない。それでなくともこの姿形なりであんたの後を付いて歩けば、かえって悪目立ちするだろう。俺があんたにしてやれるのは、付け焼刃やきばでも効果的な護身術を教えてやるのがせいぜいだ」

 では早速さっそくに。

 広大な深町家の庭に出て稽古をつけて貰っていると、兄貴兄貴とかしましく叫びたてる四人組の子供らが雪崩込なだれこんで来た。



 今日はもう、十分―。

 一日中可能な限り働いて、疲れ果てた身を布団に横たえてうつらうつらしている至福の寝入りばなに、いつもふと想起そうきする思いがある。

 二度と目覚めない眠りとは何だろうかと。

 すぐに思いつくのは―死―だ。

 しかしそればかりではないことを知っている。子供の頃から目の辺りにしてきた不思議。

 さてしかし。そんな生に何の意味があるのだろうか?誰にともなく問いかけてから本格的な眠りにつく。

「先生、先生。どうぞ起きてくださいな」

 揺り起こされた刹那せつな、寝入りばなの問いへの答えがぽんと返ってきた。

 それは、めない夢を見続ける幸せのため。

 ああ。なるほどと合点がてんした。

「先生、先生、栗崎先生!」

 声の調子が切迫せっぱくして来た。

 まぎれもなく妻の声だ。

 家庭生活の日常であれば、自分への呼びかけは「あなた」であるが、「先生」との呼びかけなら間違いなく仕事がらみである。

「何だ。また急患かい?」

「そのようではあるのですけれど…」と、歯切はぎれが悪い。

 休息時間が分断されれば、天然自然に機嫌が悪くなろう。が、そんなこと医家いかでは日常茶飯事で今更腹も立たない。それにしてもなかなか開かない己の目蓋まぶに、栗崎先生は老いを感じた。

 そうか。俺もトシなんだなぁ。

 と、ぽっかり開いたつもりの目の前は真っ暗だった。

「トシ子」

「ハイ」

「なぜ明かりを点けていない?」

「ここに居ることをさとられるのが恐ろしくて」

 ガンガンガンガン。診療所方面から、戸を叩く音が聞こえている。

 しばらく耳を傾けてみて、妻の覚えた恐怖の理由が分かった。

 通常のおとないであれば呼び掛けが伴うはずなのだ。

 ―クリサキセンセイ、クリサキセンセイ、オネガイシマスッ。タスケテクダサイ!

 けど今は、熱心に戸を叩き続けるばかりで声がない。不審ふしんな相手に判断を迷いまた異様な状況にもおびえて、妻は自分にすがりつきつつ半ば泣き声を上げているのだ。

「分かった。ここを動いてはいけない。待っていなさい」言い置いて、心張棒しんばりぼうを手に取る。

「はい。栗崎です。しばしお待ちください」呼ばわると、訪いを入れる音がぴたりと止んだ。

 玄関の電燈でんとうを点ける。引き戸にはまったを硝子がらすかして見える人影は小さかった。

 ガラリと開けた戸の向こう側に居たのは、つややかな黒髪を肩先で切りそろえたおかっぱ頭の少女だった。

「ああ。君は…」松虫だったか鈴虫だったかは覚えてない。ともかく、どちらかではある。「顕比古あきひこ君のところの女の子だね?」

 正体を掴み安心したところで、栗崎先生は彼女の異変に気がついた。泥だらけの着物に点々と散っている臙脂色えんじいろみは、明らかに血液のそれだ。素早く少女の身をあらためる。彼女自身に怪我はないようだ。

「もしかして、顕比古君に何かあったのかな?」

 少女は無表情にこっくりと頷いた。



 鳥のさえずる声にハッと我に返った。気がつけば空がしらみ始めている。どうやら夜を明かしてしまったらしい。それから間もなく、ひとの立ち働く気配が伝わってきた。この家はあるじである義兄に合わせて皆早起きだ。自分の役目を果たすべく腰を上げる。一晩座ったなりで過ごした足腰はすっかり強張り、膝がきしんだ。

「ハッケヨイの叔父ちゃん、おっはよーっ」

 地上の太陽とも言うべき姪っ子の明るい笑顔に照らされて、胸の奥に灯が燈る。

「おはよう、須ン坊」

 小さな淑女しゅくじょを抱き上げて便所まで連れて行き、そこから先は当然母親である姉が介助かいじょする。用を足し終えた須美すみと一緒に洗面と着替えを済ませ朝の食卓に着く。何のことはない毎日の繰り返しが、ひどく幸せだ。

 早めの朝ご飯だから、食べ終わった後は登校時間まで暇が明く。さて今朝はどうしようか。朝顔にはさっき水をやったから、軽くそこらを散歩してみようか。姪に骨抜ほねぬきの青年がそんな嬉しいランデヴーの算段さんだんに頭を悩ませていると、

「おはようございまぁーすッ」

「来たあっ!!ショウ、ケン、リン!」

 何たることか。三人の子分どもが雁首揃がんくびそろえてやって来て、女親分をさらってしまった。それもどうやら、あらかじめ示し合わせていたらしい様子がハッケヨイの心を傷つけた。だってあのはそんなこと、おくびにも出しはしなかった。これは明らかに仲間外なかまはずれではないか。

「あんたッ。ぼさっとしてないで、サッサと自分の部屋の掃除を済ませなさいよ。今日中に屋根裏を片付けてもらうからね」

 帰郷以来連日、姪っ子の居ない昼間の間はここぞとばかりに男手おとこでる力仕事や面倒臭い家事代行にと、こき使われてきた。姉の容赦ない追い打ちに、ハッケヨイはすごすごと、平常なら義兄の勉強部屋である自室へと戻った。

 ふすまでも障子しょうじ戸でもなく板戸で仕切られた個室は一見、納戸なんどか物置にも見えるが窓を切られており、外光が燦々さんさんと降り注ぐ明るい座敷である。昨夜は寝ていないから布団は部屋の隅に畳まれたままだし、私物はかばんの中に収まっている。何の乱れもない。唯一おかしいのは、部屋の真ん中に投げ出されている座布団ざぶとんだ。

 座布団をはぐる。

 やっぱり、そうか。

これをどう判断するかについて悩み、ハッケヨイは一夜いちやついやしたのだ。

 座布団を除けた畳の上に現れたのは、親指の先ほどの大きさの、真っ黒な円がみっつ。これらは昨夜まで、確かに三枚の白銅貨はくどうかだった。通貨だから人手を介して次から次へとわたり歩き、それなりに薄汚れていたが、このような腐食しきった黒色こくしょくなどていしてはいなかった。

 昨日は結局、まる一日屋根裏部屋の整理に忙殺ぼうさつされて姪っ子と遊べる隙はなかった。それでせめてもの顔つなぎにと、夕飯後に姪の前に持ち出したのが、くだんの白銅貨だったのだ。

「いいかい、ぼう。表が出たらよう、裏ならいん。どんな組み合わせになったかで占うことができるんだよ」子供相手だから難しいことは言わず、「両手の中に三枚入れたら、占いたいことを心の中でとなえながらよぉく振って。もういいと思ったらぽんと投げる。サイコロみたいにね」手順の説明も簡単に。

 この「ぽん」が小さな女の子にウケて、ふたりはしばらく熱中した。

「あんたのそれって、何でも占えるの?」

 早起きの家は当然早寝だ。寝支度ねじたくを整えていた姉がひょいと、いつまでも遊んでいそうな幼い娘とその叔父の手元をのぞき込んだ。

 これは「もうやめろ」の合図あいずだ。

 そうとさっしたが、ハッケヨイには意外を覚える問いかけでもあった。何故なら姉は占いをアテにする人物ではない。姉は決して迷わない人間だ、とまでは言わない。ただ彼女の場合、どうしようとう場面に出くわすと、それなら自分はどうしたいのかという考えに頭が切り替わるのだ。くねくねと悩み続けることがない。

「何だって占えるよ。ただし、これは簡略なやり方だから、出てくる結果も雑になるけどね」

「―ふぅ…ん」

「珍しいね。何か気に掛かることでもあるの?」

「ほら、ちび助。それにあんたも、もう寝ないと朝ご飯前に起きられなくなるよッ。寝坊したらめし抜きにするからね!」

 この家の胃袋の支配者にめしをしちおどされた叔父姪のふたり組は、タイヘンダタイヘンダを連呼れんこしながら大急ぎで寝る仕度を済ませた。

「叔父ちゃー…ん、おやすみぃ。また明日…」

 昼間によく遊んだらしい子供は、布団に寝かしつけた頃にはもう、夢うつつとなっていた。

「おやすみ、須ン坊。また明日」

 その様子をかたわらからぽかんと眺めている姉の気配が、いつになく頼りなく感じられた。「姉さん。さっきの話」

「ン。ああ。家運かうんってのがあるでしょ?なら、町にも運勢ってのがあるのかなと。ちょいと思いついて聞いただけ。そんなことより、あんたも寝なさいよ」

 家運に対して町運か。ふむ。なるほど。

 単純に面白い考えだと思った。だから、試しにという気を起こしたのも軽い気紛きまぐれだった。お遊びの流れで硬貨を投げた。後は投げ出されて散らばった陰陽の具合を読み解くだけのはずだった。

 勉強部屋の畳の上に描き出されたのは陰でも陽でもなく、三枚の硬貨による演舞えんぶの出現…?

 板の間というならまだしも。真っ平らなはずもないイグサの上に、直立したまま着地した三枚は、くるくるくるくる、くるくるくるくるいつまでも旋回せんかいを続けた。コレハ、アレダ。コレガ、ソレナノダ。生まれて初めて見る異様な光景にぞくりとして、ハッケヨイは思わず座布団をおっ被せてヘンなモノを視界から消し去った。

 占いなんて、当たるも八卦はっけ当たらぬも八卦、そもそもが曖昧あいまいなもので、占い師だってうさん臭い者と相場そうばが決まっている。ハッケヨイだってこの道に入るまではそう思っていたし、致し方なかろうとも思う。まず第一に占師とは、形あるものを扱っていないというのがあり、またそれをいいことに誰でも彼でも然程元手さほどもとでをかけずに開業できる気軽さがある。まさに玉石混淆ぎょくせきこんこうで、当たりハズレが激しい。それで十把一絡じっぱひとからげにあれらはあやしいとされてしまうのだが、しかし決してそんなことはない。石ばかりのように思えても、必ずどこかに玉が混ざっている。少なくともハッケヨイの師匠はそのクチで間違いない。師匠はく言い当てる。辛抱強く丹念に石ころをよりり分け師匠の元へと辿り着いた客人の、未知みちであれ失念しつねんであれ、見ることができる。

 師匠とその類友るいとも連中が良く使う言い回しに、「向う側」というのがある。それが何を意味するのか、修行を始めたばかりのハッケヨイには分らない。ただ彼らがしきりと口にするのは、「向う側へ渡って戻る際に、奇妙なモノを引っ掛けて連れ帰るのだけは勘弁だ」とばかり。

 説明を求めてもはかばかしい答えが返って来ないところをみると、もしかしたら、師匠たちにだって分らないのかも知れない。

 ハッケヨイの知る限り確かなことは、彼らの誰ひとり飛び込み客など相手にしないということ。紹介もない得体えたいの知れない人間など、ちりのように追い払う。素性が確かでそれなりの人物からの口添くちぞえがなければ信用しない。何故なら、占い師とその客との関係性はそもそもいびつだからだ。ごくふつうに考えて、相談事など自分をよく知り、かつ信用の置ける人物に持ち掛るもの。なのに、あえて他人を選ぶところからしておかしいではないか。それを承知の上で応じるのだから、相手とする客は吟味しなければならない。それでもごくまれに、こちらも石ころを引き当ててしまう場面が巡ってくるようなのだ。師匠は常日頃、口をっぱくして言いつのる。

「向う側から戻ってきた時に、怪異かいいを目にする場合がある。そんなものは我らの手に負えるものではない。それが引きぎわだ。それを見たなら迷わず逃げろ、おかしな縁を結んではならぬ!」

 そも遊び半分だったのだし、こちとら半人前以下なのだから“向こう側”へ渡れたものやら戻って来たのか?など、まるっきり分らない。しかし、ここに転がっているのは尋常じんじょうではない真っ黒けな円がみっつ。これこそ、師匠が言うそれには違いない。

 師匠が見込んでくれた自分には、確かに資質ししつが有るようだ。

 こんな形ではあれ、それを確認出来てひとまず安心。

 か?

 そんな訳はない。

 逃げたらどうなる?

 自分ひとり助かって、姉さん夫婦はどうなる?可愛くて、可愛くて堪らないあの娘が、不幸になるのか?悪くしたら死んでしまうのか?

 そんなのは耐えられない!!

 自分ひとりの命が助かったところで、絶望に心が死んでしまえば、生きる意味は消失するだろう。

 ハッケヨイは、師匠にそむく決意を固めた。

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かくりょの果てのまほろばの @Aomi_kins8149

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