第5話5

 なんとなく目が覚め、ぽっかりと目が開いた。

 辺りが薄っすらと明るいから朝なのだろう。枕元の眼鏡に手を伸ばす。空気が薄蒼い、と言うか見えている情景全体が青味掛かって見える。それで今が夜明け前なのだとわかる。

 昨夕町長の家が火災に遭って全焼した。

 それは火の不始末ではなく、付け火なのだという事だった。

 のんびりおっとりとした田舎町の優しい気風を気に入っていたのに、人の心とはやはり、どこか得体の知れない恐ろしいものなのかも知れない。

 横臥おうがしたまま、ぼんやりと見慣れた天井の木目を眺めつつ深町はそんなことを考えていた。

 静かな朝の中で、遠く人声がしている。

 目を閉じる。

 町長の件以外はいつもの朝だ。

 今頃なら母とお重が台所に立って朝餉の算段さんだんをしているはずだが、今朝はいつもと違って老母ろうぼと古参の女中よりも一段高い声が何やら受け答えしている様子が伝わってきた。

 昨夜から家に泊まり込んでいる登紀子の声だ。

 深町は寝返りを打った。



 ひそひそ声。

 時折、こらえかねたような忍び笑いが混ざる。

 くふくふくふふ

 これはぜったいにひみつだからな

 でもぉ…

 やくそくをまもれなかったら、おまえとはにどとあそんでやらないからな

 多分、小さな子供がふたり。

 どちらも子供特有の高い声で喋っている。口調や語調の強弱から片方は男の子で、もうひとりは女の子だなと嘘鳥は思った。

 夢うつつに聞いた声に姿はあるのかしらと起き上がってみたが、なにも見えなかった。

 そこにはただ、夜明け前の蒼褪あおざめた空気に満たされた物置部屋の雑然とした景色が有るだけだった。

「それは、幽霊とかいうものですか?」深町が神妙な顔つきで訊ねた。

「いいえ、あれは多分この蔵が見ている夢でしょう」

「蔵が、夢を見るのですか?」

「蔵は自分では動けないから、そんなことをして退屈な時を潰すのよ」

 これを他の人間が口にしたなら正気を疑うところだが。

「―…それはもしかして当家の過去の不始末に関係したような…?」

「いいえ、それはありません。それについては先代だか先々代だかの嘘鳥が収めたはずだし、万が一にもそのような気配は感じられなかったから、心配は無用です」

 昨夕からしばらく町長の身柄を預かることとなった深町家は、これから俄然がぜんひとの出入りが激しくなるだろうし、それに連れて無遠慮な耳目じもくも増える。そうなると流言飛語りゅうげんひごの種にされることも覚悟しなくてはならない。

 嘘鳥は人目を避けるべく、昨日のうちに母屋から居を移し、昨夜から蔵の二階で寝起きを始めていた。「―そもそも夢なんて、それ見ている者以外には関係のないものよ。気にすることはないわ」低くて少し掠れ気味な嘘鳥の声は、不思議ななつかしさを感じさせる。ひとをほっとさせる音色だ。

「他には―…なにかありますか。不都合なことなどは?不測の事態とはいえ、これではまるで押込おしこめのようで申し訳ありません」

「私はどこに行ってもこんなものだから、お気遣いなく。でも、ありがとう」

 平素へいそ彼女は人前に姿を現すことはない。今回は環が嘘鳥の名を借りて代役を務めているが、これは異例なことである。とはいえ鍛冶の身に実害が及んだ今となっては、平岩からの助言を受け入れておいて間違いなかったといえるだろう。

「それにしても、なにがそれほどこの町の人たちを追い詰めているのかしら?余程のことが無ければ、付け火などしないでしょう。真偽しんぎのほどをどうあれ、かくりょの障りと思うなら、お祓いなり何なり受ければいいじゃない。おそらく町長さんはそう考えたのでしょう?」

おっしゃるとおりです。町長の考えは難しいことの分からない年寄りや女子供には通用しましたが、それ以外の者からは真っ向から反発を受けました」

「それはなぜ?」

「これは呪詛じゅそだと」

「呪詛!?」穏やかではない。

「その者たちの意見では、いち早く下手人を挙げて、厳しく罰するのが肝要かんようだという声が強かったのです」

 手が痺れて箸を掴むのもままならなくなった人は自他ともに認める能筆のうひつだった。耳が聞こえなくなった人は音曲おんぎょくの師匠で、目が見えなくなった人は巧みな絵描きだった…等々。

「前にもお話しましたが、隣の須ン坊は、足が速いので町でも有名な子供でした。それが今は足腰も立たなくなりました。その原因は今もわからぬままです」

「つまりは、その方たちの方便や、生き甲斐を感じるような肝心要かんじんかなめの部分が、誰かに取り上げられてしまったような具合なのね?」

 なるほど一応筋は通っている。たまたま怪我をしたであるとか、病を得たということなら折り合いも付けられようが、自身のきもに関わる部分に突如として支障をきたした者が続出したとなれば、何者かのしゅを受けているのかも知れぬと想像するのはアリだろう。嘘鳥は大いに納得がいった。それと同時に、今回の仕事が益々難しくなった。

「でも、よくわからないわ。それをして一体なんの益があるというのかしら?」

 例えばねたみの気持ちから他人の得手えてを奪って、その狼狽ろうばいする姿に溜飲りゅういんを下げる?

 無くはないのかも知れない。けれど意味がわからない。



 遠く聞こえる潮騒のような喧騒けんそうに混じって、鋭い槌音つちおとが響いている。

 町長の身柄を引き取ってからこっち、深町家の空気はにわかに騒がしくなっていた。

 そもそもこの家は深町母子おやこと女中との三人所帯で、広大な屋敷を持て余し気味に暮らしていたのである。数多くある座敷の半分以上は使わぬ部屋として、畳を上げて雨戸も立て、ほぼ閉め切ってあった。たまには順繰じゅんぐりりと風を通してはいるものの、ここかしこに傷みがきているのは致し方ないことである。

 嘘鳥たちに供されたのは客間で、まだ日用の範囲に属する部屋だったのだが、急遽の客人―鍛冶と平岩―に振り当てられたのは生憎あいにく普段は開かずの間に当たる方だった。そのような理由で、ここ連日と町長たちの居室周辺には修繕しゅうぜんが入っているのであった。その費用は勿論、鍛冶持ちである。

 それにしても口惜くちおしいほどの晴天続きだった。明らかな初夏の空は銀粉ぎんこをまぶしたようにきらきらと輝いている。

「あらあらっ、若い娘さんは間違ってもそのようなあられもない恰好など致しませんことよ」言いながら、お重は躊躇ちゅうちょなく環の胡坐あぐらをかいた両足を蹴飛ばすと、ももまでり上げられた緋袴を引き下し、だらしなくくつろげられた襟元をきりりと締め直した。「壁に耳あり障子に目あり。どこから誰に見られているとも知れませんからね。お気をつけなさいませ」

「だって、お重さん。暑いんだよ」ついでに自分は若い娘などではないのだし。環は思いっきりの渋面をお重に向けた。

「あらま、美人が台無しですよさん」

 つい二、三日前だったら客の来訪に合わせて早変わりをしていれば良かったのだが、役場の人間や修繕の職人などがひんぴんと深町家を出入りするようになった今、環はほぼ丸一日中嘘鳥に化けていなくてはならなくなった。

 しかもそれには、およそ嬉しくもないおつりまでついているのだ。

 町場の宿から深町家に移って以降、環の拵えは菊枝とお重が二人掛かりで引き受けている。

「やっぱり、女の子は楽しいわねぇ。衣装も華やかだし、身の回りの小間物を見繕みつくろうのも楽しいし。ねえ、お重、男の子はつまらなかったわね」

「本当に。繁明さんの上にお姉さまとか、それか下に妹さんでもいれば良かったのに、男の子の一人っ子でしたもの。ついでに言えば親類縁者もみぃーんな男腹おとこばらでしたしねぇ…」

 女主人とその忠臣は、そんなお喋りをしながら嬉々として化粧道具を広げ、衣類の着付けに意匠いしょうを凝らすことに没頭した。とりわけ化粧にはかなりの気合が入っているのだろう、当の環自身が鏡に映った自分の顔にドキリとする時すらあるのだ。

 思い出すだに、環の眉間に深い縦の線が入った。

「さあさ、今日はくずまんじゅうをこしらえましたよ。これでも召し上がって機嫌を直してくださいな」

 小皿の上には、中の餡子あんこが薄っすら透けて見える半透明の玉がふたつ乗っかっていた。ひとつは鮮やかな翡翠ひすい色、もうひとつは落ち着いた臙脂えんじ色。

「ほう。ずんだに小倉おぐらか…。これは涼しげな、目にもご馳走だ。食すのが少々勿体もったいないな」そう言った舌の音も乾かぬうちに蟾はぺろりと平らげて、麦茶に喉を鳴らした。

「退屈か、小僧?」

 言わずもがなである。お重も立ち去ったところで、環は両袖を肩先までたくし上げた。



 小皿に取った稲荷ずしを再び箸で持ち上げ食らいつくと、口中にジュワっと強い甘味が広がった。その奥から細かくきざんだ甘酢ショウガのすうっとした爽やかな風味と白ごまの香ばしい香りが次々と立ち上がってくる。今朝も同じものを食ったが、昼にまた食ってもやはり美味い。

 つい一昨日おととい、町長の家が焼き討ちに遭ったという。

 この土地で何か事が起れば今も昔も引き受けるのは本陣の深町家である。それが決まりだ。娘は飛び立つようにして、深町家に駆けつけていった。それからはあちらとこちらを行ったり来たりで、気忙きぜわしく往復しているようだ。

 卓袱台ちゃぶだいの上に据えられた重箱にぎっしりと詰められた稲荷ずしをしばし眺める。

 これだけのものを用意する暇など、一体どこにあったのだろう?不思議に思うが、事実現物が有る以上は、ともかく何とかしたのだろうとしか考えざるを得ない。

 アザラシ殿こと、落重正おちしげまさは手ずから淹れた熱いほうじ茶をきっしながら、そんな事を考えていた。

小父おじさん」

 声のした方へ目を向けると、縁先にひょろりと背の高い真っ黒な影がたたずんでいた。

「おお。これはこれは。本陣の当代のご当主が、恐れ多くも当家の裏口に回っていただけるとは痛み入る」

「登紀子が留守なんですから、表の方からいくらおとないを入れたところで、誰も出ては来ないでしょうよ」深町は特に許しをうこともなく座敷に上がり込むと、そのまま真っ直ぐと台所へ向かった。古屋ふるやに作り付けの水屋みずやてするガタガタした音が聞こえてきた。

「母からの言付です。―しばらくお嬢さんをお借りします。先生にはご不便をお掛けしますが、ご容赦ください」

 言葉と同時に差し出された小皿の上にはあま羽衣はごろもを纏ったような半透明の翡翠色の玉と臙脂色の玉と、涼しげな夏菓子がふたつ乗っていた。

「なんの、お安い御用だ。そんなことを気遣われるのも水臭い。それより勝手知ったる幼馴染おさななじみの家に上がり込んだアイツが遊び気分で何ぞやらかさんかと、そっちの方が心配だ」

 たった今、昔馴染むかしなじみの家の水屋を勝手にき回して皿を取ってきた深町としては少しく耳が痛い。

「ところで、要さんは息災そくさいかな?」

「変わりはありませんよ」

 深町家の奥座敷で、半世紀以上の時を眠ったまま過ごす男の存在を直接知る落の小父さんもまた、深町の父とは幼馴染の間柄だった。

「それにしても、どうしてかくりょの障りなんぞと言う噂が広まったものだろう?」

「さあ…何かしら理由が欲しかったのでしょう」深町は思わず嘘鳥の説を採用してそのまま口に出した。

「なるほど…」落の小父さんは猫が香箱こうばこを組むようにして突き出た腹の上に両腕をたたみみ込んだ。

 軒先に吊られたギヤマンの風鈴がちりんと鳴った。

 もう何十年も前の縁日で、深町と登紀子が揃いで買ってもらった花火の図柄のものである。あの頃は楽しいことは楽しいままに―本当に、心のままに生きていた。

「しかし、そんなのは要さんの知ったことではないだろう。昔も今も眠ったままなのに」そのような人が一体、この世界に向けてどのような影響を及ぼせるというのか?と、落の小父さんは本気で義憤ぎふんを感じているのだ。

 もし父が存命だったらなら、やはりこのように反応したのだろうか。物心のつく前に他界した父のことは深町にはよく分らない。

 深町の祖父は、我が子と生年を同じくする哀れな孤児を放ってはおかれなかった。居場所を与え、衣食も与え、そして何よりも大切な朋輩ほうばいまで与えた。

 決して目覚めることのない少年は、眠り続けることによって、他のふたりの少年をすっかり魅了してしまった。なぜなら彼の存在は、言い伝えの中のさとが本当に在ったことのあかしであり、余計なことを語ることがなかったために、ふたりの少年の想像力を大いに掻き立てたからだ。

 落の小父さんはそれがこうじて若い頃から研鑽けんさんを積み、今やひとかどの郷土史家として、きさらぎ先生の名で人々に知られている。

「人の口には戸は立てられませんからね、詮方せんかたないことです。怒ってみても仕方が無い。それより小父さん、これを機に前々からいつか書いてみたいと言っていた、隠れ里を考察した本に手をつけてみてはいかがですか?」

 落の小父さんはカクリとうつむくと、夏菓子の乗った小皿を取り上げた。「それは老後の楽しみに取ってあるのだ」菓子に添えられた黒文字くろもじを使ってつるり、臙脂色の玉を口の中にたぐり込みながら、もぐもぐそんな言葉をつぶやいた。

「小父さん、人はいつどうなるかなんて分らないんですよ。事故だか病気だかは分らないけれど、ひょっとしたら小父さんよりもこっちの方が先に…ということもあるかも知れない。わたしは小父さんが最後に残しておいた本を読んでみたい。もし本の形はとっていなくても、草稿から読むことができたらなら―むしろそっちの方が嬉しいかもしれない」

 落の小父さんは一瞬目をぱちくりさせぽかんとした表情をしたが、そそくさと「…うん。そうだな。そうしてみようかな?」ふたつめの翡翠色の玉をたぐり込みながら、もごもごと不明瞭な声でそう言った。

「そうだ小父さん、時分時じぶんどきになったらぜひウチにおいでなさい。大勢での晩飯は美味いですよ」

 深町の何の気なしの申し出に、きさらぎ先生は愕然がくぜんとする思いがした。

 深町の父もどちらかといえばそうだったが、きさらぎ先生はまぎれもなく内向的なたちである。賑やかな席は忌避する傾向が強い。

 思慕しぼする幼馴染や妻が存命で幼い子があり、自身がまだ若かった頃ならば、そのような場面も苦に感じることは少なかった。しかし今は失われたものが多く、老いた分だけ体力も気力も減って我慢が利かなくなってしまっている。

 今後雑多な人々の集う場所への誘いなど、嫌なものは嫌だとして、まず応じることは有るまいと我ながら思うし、今の今まで深町もそれを承知しているものと思っていたのだ。

 いつからそうだったのか正確なところは思い出せないが、ここしばらくの間、深町家と落家は随分と疎遠そえんになっていることは確かだ。ここにきてそれがはっきりとした。

「まぁ…。気が向いたらそうさせて貰おう」

 きさらぎ先生は深町が期待し、待ち受けていたであろう言葉をそっくりそのまま口にすることで、彼を追い払った。

 深町の姿が目の前から消え、独りきりになったことを確かめた後、きさらぎ先生はふうぅ―…。長めの溜息をついた。

 例えば耳を塞ぎ、口をつぐんで固く目をつむり微動だにしなかったとしても、時を止める事は叶わない。あらゆるものがそれと気づかぬうちに変転していく。

 それにしても。

きさらぎ先生には先ほど深町と言葉を交わしている間に見つけたものがある。いや。思い出したことといった方が正しいだろうか。

―小父さん、人はいつどうなるかなんて分らないんですよ―

 最初は自分のことだと思って聞いていた。縁起でもない言いだしではあるが順番からいっても不自然さはないし、特に気に障るということもなかったのだ。しかし話の途中から、幼子の頃から良く知る青年自身に向けられた言葉であることに気づいて、強い違和感を覚えた。彼はまだそんな思いを持つには若すぎる年代ではないか。どこからそのようなことを思いついたのだろう。それに、よりによって何故今なのかと、落は大いにいぶかしんだ。そしてはるか昔の、自分の子供の頃を思い出した。

 落の幼馴染である深町の父の父、深町繁明の祖父の代のこと、深町家の中に限って頓死とんしが立て続けに起きた。そしてそれがしばらくの間続いたのをよく覚えている。これが後の深町家の凋落ちょうらくに直結することになるのだが、それはさて置き、集落の肝である本陣の異変を誰もが気に掛け、不安をつのらせた。そのうち―これは、かくりょの障りでは?そんな噂が集落中でひそひそとささやかれ始めた。

 繁明が生まれるずっと前の話である。

 事象じしょうのあまりの不吉さから、軽々と口のに上るような話題ではない。今の若い者たちはほとんど知らないはずだ。当時ほんの子供だった落の世代が鬼籍きせきに入ってしまえば一切の記憶は消滅するだろう。にも関わらず、この符合ふごうは一体何なのだろうか。

 万物流転を絶対の理としているはずのこの現世で、まるで時を巻き戻したかのように過去のおりが突如と浮かび上がってくることがある。

 ひょっとして本当に、かくりょの障りなるものがあるのだろうか。なにしろ眠っている要さんだけは昔も今も唯一不変ではないか。不審を覚えるのならまずはその辺りだろうと、自然とそう思えてしまった。

 きさらぎ先生は内臓をそっくり抜き取られたような空虚さを感じて身震いした。



 落家を辞して、ひとりぶらぶらと自宅に帰る道すがら、そも要さんとは自分にとってどのような存在だろう?深町はぼんやりとそんなことを考えていた。

 家の中でも一等手入れの行き届いた特別な座敷で眠ったきりの人。

 子供の頃からその人がそこに居るのが当たり前で特に不思議と思ったことはない。

 加えて、生来せいらい身弱みじゃくでほとんど枕から頭あがらず寝込みがちだった父はよく要さんと布団を並べていたから、幼い頃の深町にはどちらがどちらとも区別もつかない位であったのだ。

 一応は目を開けていて、起き上がったり歩きまわったり、喋ったりする方が父で、目を瞑ったままの方が要さん。大袈裟ではなくその程度の認識だった。

 幼年から少年へ、少年から成年へと成長してくる過程で疑問に感じなかったわけではないが、したる葛藤かっとうも覚えずに今に至る理由としては、祖父の存在が大きい。その人となりに思いが至ることもないままに死に別れた実父とは違い、祖父は彼が成人するまでを見届けてくれたのだ。

「済まんなぁ…」

 臨終りんじゅうの前の晩のことだった。

「本当にお前には済まない。これはまったくにオレの浅慮せんりょの果てのことだから、申し開きも何もないし、このに及んで正直その必要もないとも思っている。けどなぁ、それでもやっぱりお前が不憫ふびんだ。済まん」

 一体何を謝っているのか、深町にはさっぱり心当たりがなかったのだが、祖父は公平で正直な人だったから、何かしらの理由があるのだろうと思った。

「おィ。何が有ろうと俺はお爺ィをうらまんよ」

「ああ。そんなことァ先刻承知だ。けどな、この先、どうにも腹が煮えて煮えてどうしょうもないこともあるかも知らん、そん時は真っぐとオレを恨め。けど、その頃にはオレはもうどこにも居らんからな、きっぱりとあきらめろ」

「分かった。そうする」

 翌日の朝、祖父は布団の中で冷たくなっていた。

 眠っているようにしか見えない穏やかな顔だったから、少しも苦しまずにったのだろうと安心した。

 爾来じらい深町は、どのような理不尽なことが起ったとして、一切揺らがずに生きて来られた。

 要さんにしても「済まん」の内のひとつなのだろうから、気にはならなかった。

 とりとめもない考えがふと懐かしい祖父の思い出に至り、深町はほんのりとひとり微笑した。「そうか。要さんは俺にとってお爺ィからことづかった約束みたいなもんだったんだな」ひとりごちて。その考えが益々確かなように思えてきた。

 なるほどお爺ィと交わした約束だったとあれば、疑念も不満も抱くはずがない。ただひたすらに守るだけなのだから。

 なるほどなるほど。今まで一度も考えたことはなかったが、これほど明快な答が出てきてみれば、一本筋が通った爽快さがあった。

「おや、繁明さぁ。ごきげんさん」

 急に声を掛けられて飛び上がりそうになった。「ああ、こんにちはお絹さん」

 落家は農家でもないのに何故か人里の切れる山際やまぎわぎりぎりの辺り、田畑の端っこに位置している。お絹は近在きんざい農家のご隠居さんだ。元々小柄な人だったが、今ではそれに輪をかけてちんまりとなってしまった老婆が長身の彼の顔を見上げていた。見下した老女は小ざっぱりした身なりをして、いかにもよそゆきといった金糸の入った洒落しゃれ巾着きんちゃく袋をひとつ右手にぶら下げている。

「しばらくぶりですね、お元気そうで…。これからどこかにお出掛けですか」

「繁明さぁのところでは、どうなさるんですかのぅ?」

 “さぁ”は「様」がつづまった言い回しである。深町がほんの子供の頃から一貫してこの人からは様付で呼び掛けられている。

「どう、とは?」

「本陣は特別な拝み屋さんを呼んでいると聞いちょりますけど、どんなもんなんですかい?」

 どんなもの―…とも、応えるべくもなく返答に困っていると、お絹の方から切り出した。「それはそうと、これから寄り合いが有りますで、繁明さぁもチラッと顔ォ出して下さいませんかのぉ…。本陣が肩入かたいれしてくれなさるとなればぁ、あたしらもはげみになりますしぃ」

 何の寄合いなのかも分らないし、役所の一職員に過ぎない深町に関連があるとも思えない。まるで藪から棒のような申し出なのだが、旧弊きゅうへいな習慣がすたれ行く今となってもこの年代の人々にとっては、本陣の当主といえば文句のつけようのない名士めいしで有り続けているのだ。ここまで落ちぶれているにも関わらず、臨席りんせきを求められるなど反って光栄である。

「そうだね。わたしはかまわないよ」

 年功序列で一応は係長の役職にはあるが、深町一人が欠けたぐらいで役所の業務がとどこおることはない。


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