第6話6

山塩やまじお?それは…」

「文字通り山から取った塩ですな。塩気を含んだ温泉の湯を煮詰めて作る」

「あぁ!」

「ほらね、登紀ちゃん。蟾さんって本当に物知りなんですからね」菊枝小母さんが愉快そうに目を細めて鼻の頭にくしゃりと皺を寄せた。

「お塩は海から取れるものばかりと思っていましたけど、そう言えば塩辛い温泉だってありますものね」

「お父上がなかなか得心されないとなれば、しむらくは材料が違っていると考えられる。多分それは塩ではないかと」

「ありがとうございます。いずれ試してみます」

「それは…なるべく近々にお願いしたい。その、私がここに居る間に」

 それを聞いていたお重が盛大に噴き出した。「蟾さんがみすみす美味しいものを逃すはずもありませんものねぇ。登紀子さん、あたしからもお願いしますよ」

 深町家の手伝いに上がってすぐに引き合わされた蟾と名乗る老人は、登紀子の塩饅頭を手放しで褒めてくれた。それが面映おもはゆくて、登紀子はうっかり余計な事を口走ってしまったのだ。「あのう…。申し訳ありません、こんなに褒めていただけるなんて勿体ないです。あれは失敗作ですから」

「失敗作!?」蟾老人は心底驚いた顔で、目を大きく見開いた。

 塩饅頭が父の故郷の名物であること。失敗作たる所以ゆえんは、時々父にねだられて拵えてはみるものの、一度として父が満足した気配がないことを、紀子は初対面の老人に語った。

「母が拵えていた頃からですから、もう諦めています」

「お父上の郷里はいずれかな?」

「さあ。なんでも山深い土地だったそうですけど、今はもう誰も居なくなってしまったとかで、詳しい場所については分らないんです。それでもともとのお菓子の味にしても確かめようもなくて」

「…ふぅーむ、なるほど。では、山塩かな?」老人は真剣な面持ちでつぶやいた。

 登紀子はこれまでの人生の中で拝み屋と呼ばれる人々とまみえたことがなかった。先日、町長に呼ばれた“先生方”の激励会が催されるとの噂を聞きつけ、にわかに野次馬根性を起こして買い物がてらこの町唯一の貸席辺りをぶらついてみた。間違っても平服とは思われず、然りとてよそ行きともとれない異装の人々をの当たりにして、複雑な印象を受けたばかりである。

 蟾老もその変わった名前が示すとおり拝み屋一家の一員であるというのだが、登紀子には至って普通の人にしか見えなかった。特別な衣装を纏っているということもないし、変わった呼び名についても、

「源氏名というヤツです。商売柄、山田や田中では今ひとつ気分が出ない。煌々こうこうと明かりを灯したお化け屋敷では怖くも何ともない、台なしになるのと同じ原理です」

誠に開けっ広げな説明に思わず失笑を漏らしてしまった。

 面白い小父さんではないか。菊枝やお重がしょっちゅう彼を構っては笑いさざめいている姿も心楽しかった。

 もしも深町の小父さんが今も生きていたら、こんな感じだったのかしら。ちょうど、年恰好としかっこうだってこのくらいになって…。ふとあらぬことを夢想している自分に気が付いて、登紀子はどきりとした。

―登紀ちゃんが大きくなったらぜひ、ウチの坊主の嫁にくれよ―

「そうしたら、お前の家とは縁続きになるだろう?賑やかになって、これはいいぞ」そんな言葉が続いたのだから、あれは深町の小父さんの冗談だったのだろうと、大人となった今の登紀子はそう思う。

 登紀子が深町家に足を踏み入れたのは、病気がちな深町の小父さんを見舞う父に連れられてきたのが最初だった。父にしてみれば同じ年頃の子供が居る家に行くのだから、という位の気持ちだったろう。しかし登紀子にとって本陣のお屋敷は、まるでお殿様やお姫様が住むような御殿ごてんだった。お寺だって負けるぐらいに広くて立派なのだ。

 その御殿に住んでいる深町の小父さんから、登紀ちゃんはウチの嫁にくるんだよね?などと度々たびたび念を押されると、おしゃまな女の子の頭の中では大人には予想もつかないような世界が広がってしまった。勿論恥ずかしくって、誰にも一言だって漏らしたことはない。言い出しっぺの小父さんはもう居ないのだし、父が真に受けたはずもないから覚えてもいないだろう。死ぬまで自分ひとりだけの秘密である。

「その温泉から取った塩で作った饅頭、俺も試してみたいな」

「それは勿論。環さんにもご賞味いただきますから、安心してくださいな」

 見目麗みめうるわしい巫女の口から飛び出すのが明らかに男声という違和感に、登紀子の心は一気に現実に引き戻された。

 この人が登紀子の父を訪ねて来たさいと、そして深町家で再会した時までは単純に美少年という印象だけだった。それが今や大変な美女に変身してしまっている。菊枝によれば蟾の一家の主要な拝み屋先生は女性であり、彼女の身を守る用心棒として、男の環が女装をして代役に立っているのだという。

「あたくしもねえ、最初はそりゃあびっくりしましたよ。でも町長さんの家があんなことになってしまって…、やっぱり用心するに越したことはありませんもの」

 登紀子も納得した。事情を知ればそれほどなことではない。

「それはそうと蟾さん、今晩の献立はいかが致しましょうねえ」

 嘘鳥たち一行が深町家に移ってからこっち、正午を過ぎた頃に必ず、お重が口にするようになった台詞せりふだ。なぜなら蟾は決して曖昧なことは言わないからだ。主菜はこれこれ、副菜はあれ、汁の実はそれが良くて云々と、非常に具体的である。深町や環のように“何でも良い”という返答は鷹揚おうようなようでいて、反って賄い方を悩ませるものらしいと、環は初めて気が付かされた。

「蟾のおっさん、本当に食い物の話になると詳しいよな。料理人とか、そっちの方が向いているんじゃないか?」

 実際、日々何をしているのかよく分らない人物だ。好きなものがあるのなら、そっちへ鞍替えした方が良かろうに。環は素直にそう思った。

「まあ。ままならない事はあるからな」蟾はぽつりと応えたきりで、その話は打ち切りとなった。



「おやぁまあ、きさらぎ先生。お珍しい」

 数年ぶりに顔を合わせる隣家りんかの主婦は目を丸くして本気で驚いている。

「登紀子が本陣の手伝いに出ていて、家の事には手が回らんようだから…」

 急に独りきりが不安になったきさらぎ先生は、玄関の下足入げそくいれの上に置きっ放しにされた回覧版を見つけて、これ幸いとそれを口実にこうして隣家を訪ねたのだが、日頃の不義理を確かめたようで何だかばつが悪かった。

「ああ。それはそれは登紀子さんも先生も、ご苦労様でございます」

 一方相手方は、特に何も感じている様子はなくにこやかだ。

「いやいや」もごもご。

 役所を退官した後はほとんど家に引きこもって好き勝手に過ごしてきたから、これと言った話題も思いつかずにへどもどしていると、

「ところで先生は、どちらですか?」声を潜めて相手が切り出してきた。

「どちら、とは?」

「嫌ですよ、どの人がアテになりそうかって話!」言いながら、隣家の主婦はぱんと回覧板を叩いて見せた。

 ああ…。

 実は下足箱の上に回覧版を置いたのはきさらぎ先生自身である。昨日ざっと目を通した回覧板の内容は、町に招聘された拝み屋の面々の紹介と下馬評げばひょうであった。

 かくりょの障りなる噂に大いに憤慨していたきさらぎ先生は、莫迦々ばかばかしいとにべもなく下足箱の上に放置したのだ。

「さて…。どんなものかは」

「先生は昔ッから本陣と近しいから、やっぱりそっちですか?」

「そっち?」

「本陣で呼んだお祓いの先生ですよぉ」

 それは初耳だ。それを告げると、

「はぁ…。学者先生はホントに浮世離れしていなさるんですねえ…」

 きさらぎ先生こと落重正は別に学者ではない。たまたま落の研究を面白がった人物が居て、どのような伝手つてを辿ってなのかも分らないが、印刷された書籍が世に出た。それは片田舎の人々にとっては大事件であり、それ以来、落はきさらぎ先生となり、この地では偉い学者様ということになってしまったのだ。

「では逆に、教えて貰いたいのだが。どのお祓いの先生が有望そうなのかな?」

「そりゃあもう、この辺りでは顕比古あきひこ先生ですよ。もうすっかり、お絹さんがご執心で。米寿べいじゅも超えた知恵の有る人があそこまで信用していなさるのなら、まず間違いないでしょう。ほら、お絹さんは蝦蟇がまが大の苦手ですわ。この前草抜きをしていたお絹さんの手元に急に蝦蟇のヤツが飛び出してきたもんで悲鳴を上げたら、その時たまさか近くを通りかかった顕比古先生が駆けつけて来てくれて、そこらの草の葉を千切ってなにやらむにゃむにゃって言って蝦蟇の上に投げたんだそうで。したらば、蝦蟇はぺしゃんこになって死んでしまったんですってよ」

 その真偽はどうあれ、ともかく薄気味悪い話である。人気じんきしたって家の外にまろび出てみたが、反って不安が募ってしまった。こうなっては深町家の夕餉の席を訪ねていくしかなさそうだ。しかしそれには、まだまだ日が高い。きさらぎ先生はとりあえず駅前を目指してみることにした。



 闇だ。

 それも、決して目の慣れようはずもないほどの深い闇。

「ここは…」

 よもつひらさか

 そんな言葉が嘘鳥の頭の中を過ぎった。これまでも何度か訪れたことがある。けれど今回は何かが違う。

 ほら、幽かではあるけれど時折、瞬く光が見える。この世とあの世とのあわいにあのようなものがあるはずがない。今まで一度だってそんなものを目にしたことはない。

 ―ここは一体、どこなのかしら―

「だれ?」

 すぐ傍らから、舌足らずな子供の声が問い掛けてきた。

「どうした、何か見つけたのか?」

 今度はもう少し年長らしい少年の声が聞こえてきた。

「ねぇ」確かめるべく声を発してみた。

「あっ、女の人だよ!」甲高い声が叫びを上げた。

「ええ、そうよ。ここは暗いわね。でも、時々見えるあの光は何かしら?」

「暗いのは当たり前だよ。ここは常闇なんだから」少年の声が応えた。「うん。きらきらした、あれでしょ?」追いかけるように、年少の方の声が誇らしげな音色で割り込んできた。「あれはね…」

 そこでぱちんと世界が弾けた。

 まるで墨壺すみつぼの中に突き落とされたような闇の中から、目が潰れるかと思われるような光の中へと放り出され、とっさに両手で顔を覆った。

 恐る恐る薄目を開けて辺りを見回してみる。そこは相変わらずの深町家の蔵の二階だった。そもそも人が寝起きする場所ではないから光源は限られており、薄暗い。ほっと胸を撫で下ろす。

 当面この町を席巻している奇禍の源を探る手掛かりは、この家を初めて訪れた時に突然現れた男の子かも知れない。あれが何者にしろ、現身うつしみではないことだけは確かだ。突然現れたり消えたりしているように見えるのは、あれらの通り道が並みの人とは違っているからである。

 嘘鳥はくうひずみを探した。

 ようやく見つけた隙間に滑り込んでみるとどことも知れない闇の中で、もう少しで何かに近付けそうになったところで弾かれてしまった。

 どうして?

 ―それに、ふたり…?



「環君、しばらく会わないうちに随分と様変さまがわりしたねえ…」

 数日ぶりに顔をあわせた紅蛇楼は、化粧を施され、すっかり女の形をしている環を目の当たりにして、目を白黒させながらそう言った。

「お前など、そこの小僧ほども役に立たん。何故戻って来た?」

「新聞を読みました。この町の町長宅で不審火が発生したとか」

 蟾は舌打ちしながら座を外した。

「…コウダさん?」

「環君が心配することではないよ。どっちみち、永遠にああだから」

 彼は所用で不在にしていた訳ではなく、また拝み屋とも何の関係もない平凡な勤め人であり、嘘鳥たちとは知己といった程度の間柄なのだという。紅蛇楼の名は勿論本名ではなく、彼の号なのだそうだ。

 何やら最近似たような話を聞いたような気がする。

「ひょっとしてコウダさんも何かの先生をしているんですか?」

「先生というのは違うな。別に弟子が居る訳でもないしね。僕は個人的に超自然的なものを研究しているんだ」

「はあ…」

 良く分らないが何かの研究しているらしい。

 いかにも不得要領ふとくようりょうそうな環のなま返事に苦笑しながら紅蛇楼が続けた。「ほら、昔から不可解なことってあるだろう?神隠かみかくししとか、天狗礫てんぐつぶてとか、かまいたちとか…。そうだな、お化けの話とでも言った方が解りやすいかな。主にそんなものを収集しているんだよ」

「ああ」

 それなら何となく解かる。他でもない環の師匠にもその気がある。馴染みの骨董屋から仕入れて来た不思議話を面白がる程度であるが。

 それから環は紅蛇楼に問われるままに、彼が不在だった間の出来事について語った。

「ふむ。なるほど。君は本当に縁ある人だった訳だ。蟾の言うとおり役にも立っているようだしね」

「…それはどういう?」ことなのだろう。

「駅で君に逢った時、当方へのご助力をなんて言い方をしたけれど、あの時点では僕も釈然としていなかったんだよ。嘘鳥にどうしても君を連れてきて欲しいと頼まれて、あれは苦しまぎれの言い訳だった」

 なるほど。だから具体的にあれをしろ、これをしろといった指示がなかった訳だ。

「それにしても、どうして嘘鳥が俺を?」

「さあ。詳しくは僕にも分らない。ただ、嘘鳥からすると君は縁のある人なんだそうだ」

 少し前に登紀子が運んできた麦茶に口をつけた紅蛇楼はふっくり微笑み「これは有難い、この陽気で喉がからからだ」喉を鳴らしながら一息に飲み干した。

「さて、こうして安否確認も出来たことだし、僕はそろそろお暇しよう」

「えっ。コウダさん、嘘鳥には会わずに帰るんですか」

「うん。その必要はない。それに蟾の言うとおり僕は役立たずだから、なるべく早くお暇するのが望ましいのさ」

 環から見れば蟾だって然して役立っているようには思えない。紅蛇楼がそこまで気を使う必要がどこにあるのか。そして、それよりも何よりも、ここしばらくずっと女の形を強いられて、日がな一日ほぼだんまりの日々を過ごしてきた環としては、蟾や深町よりも、ぐっと年代も近くて話しやすい紅蛇楼にもう少しここに留まって居て欲しかった。

「コウダさん、せめて深町さんには挨拶してから帰った方が良いんじゃないですか」

「ああ、ここのご当主かい?それはうっかりしていた。そうだね、このまま帰ったのではとんだ礼儀知らずになるところだ。有難う環君、そうさせてもらうよ」

 深町が帰宅するまでのわずかな間ではあるが、環はひとまず紅蛇楼の引き留めに成功した。



 どうしてこんなことになったのだろう?

 きさらぎ先生は暗澹たる思いで自宅の玄関先の上り框に座り込んだ。すっかり呆然自失のていだったから、それからどれほどの時が過ぎたのかは分らない。玄関戸のからりと開く音がしたすぐ後から、人が息を飲む気配が伝わって来た。

「お父さん、一体どうしたのよ!?」

 白ごまと甘酢生姜の稲荷ずしはきさらぎ先生の大好物である。だからこそ登紀子は、重箱にぎっしりと詰め込んで家を出たのだが、夕餉まで持つかどうかは分らなかった。昼で食べ切ってしまうかも知れないし、日暮れまでに痛んでしまう可能性だってある。それで深町家で拵えたお菜で弁当作って家に持ち帰って来てみれば、玄関先でしょんぼりと座り込んだ摺り傷だらけの父と対面するはめとなり、登紀子は初めて見る異様な光景に肝を潰した。

 登紀子は薬箱を持ち出してきて、数え切れないような擦り傷に軟膏をすり込み続けた。さっき父の襟首に千切れた青葉が引っ掛かっているのを見つけてつまみ取って捨てた。

「外に出たの?」

「…うん、ちょっとな」

「たまには外の空気を吸うのも必要だと思うけど、どうしたらこんなことになるのよ?」

「登紀子、世間様は大変なことになっているんだなあ」

「ええっ?」

 きさらぎ先生は結局、駅前までたどり着けなかったのだ。

 滅多に姿を見せることのない町の有名人の外出はかなり人目を引くものらしく、一間と進まぬ内に周囲の野良中のらじゅうから声が掛かった。「きさらぎ先生、良いお日和ひよりで」

「お珍しい、これからどちらへ?」

「今一服しようとしていたんで、良かったらこちらへどうぞ」

 はて、せんに外出した時はどうだったろうか。こんなに賑々しい歓迎を受けた覚えはなかったようだがと、きさらぎ先生は首を捻った。そうこうするうちに、一番近い農家からすぐにそれと分るよそ行きに身を包んだ人々が出て来て、やはり先生先生と持ち上げてくる。戸惑ってうかうかいるうちに農家の座敷の中まで引っぱり込まれてしまった。

「皆さん、珍客ですぞ。きさらぎ先生が御出でくださいました」

「まあ、あのご本を出された先生?」

「偉い学者さんなんだろう?」

「ほお、それは心強い」

 座敷の中はほとんど満員で、どの人もこの人も洩れなくよそ行きを着こんでいる。祭事の時節でもないのに異様である。しかしそれよりもきさらぎ先生をぎょっとさせたのは座敷の設えの方であった。

 神式とも仏式ともつかない、見たこともない様式の祭壇が組まれており、派手な刺繍の施された大陸風の衣装を着せられた大人の等身大程もある人形が据えられている。その左右には色も形もとりどりながら異様な形の金属製の香炉が各々六つずつ置かれてそれぞれ香煙をたなびかせていた。香気もくそもなく、ただひたすらに不快に厚ぼったい空気にむせ返りそうだった。すると―

「土地でご高名な先生ですか。本日はよう、お越しくださいましたな。果報に存じまする」

 人形が口を利いた!

 きさらぎ先生は毛などないはずの足の裏まで総毛立ったような気がした。

 いや、よくよく見直せば人であるようだ。

 のっぺりとして特徴のない顔には表情も生気も乏しく、それで勝手に人形と思い込んでしまったものらしい。

「きさらぎ先生、こちらは御祈祷師の…」

 ああ、例のお祓い先生のひとりか。ならばと得心がいった。

「来て早々、大変失礼だが。はばかりりを拝借したい」

 きさらぎ先生は便所へ行くふりをしてまんまと逃げ出した。

 とは言え、道行けばやはり方々から声を掛けられ、行く先にはまたしても、どこかへ連れ立って歩く着飾った人々の姿が見える。進退窮しんたいきわまった先生は、止むに止まれず藪の中をって自宅へ引き返してきたのだった。

「まあ…。そんなことがあったの」

「お前もどこかに誘われているんじゃないのか?」

「あたしはほら、本陣のお手伝いに行っているから、そっちへ行っている暇なんてないわ」

「そうか」

 実は登紀子も再三さいさん誘われていたのだが、そのたびに「父に聞いてみないと分りません」の一点張りで断り続けていた。

 さすがに面と向かって言われたことはないが、ご近所連中の認識としては、登紀子は行かず後家ごけとなっているはずである。―どこにも嫁がずに年老いたやもめの父親の面倒をみている健気けなげな娘さん―その口から、“父に…”と切り出されたとなると無理強いする訳にもいくまい。そこへどういう風の吹き回しか引きこもり気味のご本尊ほんぞんが外へ出て行ったものだから、ここぞとばかりに狙いをつけられたのかも知れない。驚きのあまり意気消沈している父の姿に、何とも申し訳ない気持ちになった。

「ねえ、近いうちにまた塩饅頭を拵えるわね。ちょっと思いついたことがあって、それを試してみるから楽しみにしていて」

「うん?ああ」

 久し振りに父娘おやこで夕餉の食卓を囲みながら談笑し、後片付けまで済ませてから登紀子は深町家へ取って返した。



 外へ出るとすっかり日が暮れていた。空はまだまだ光を残しているようだが、地上には徐々と闇が下り始めている。

「少々足元が危ういようだ。松虫に送らせましょう」

 そう顕比古が言い終わらぬうちに、白衣びゃくえに白袴を纏った切り下げ髪の少女が灯りを燈した提灯ちょうちんかかげて深町の先へ立った。

「これはかたじけない。宜しくお願いするよ」

「またお立ち寄りください。いつでも歓迎しますよ」

 顕比古の気さくな様子はどこからどう見ても現代風の紳士である。それはまた、今日の彼の出で立ちが、当人の言うところの仕事着姿ではないせいもあるのだが。

「それではまた、いずれ」

 別れを告げた深町は松虫先導のもと帰途についた。まだ夏が若いからだろう、日が落ちるとともに昼間の陽気が嘘のように消え去り、冷えた風と祭りの後にも似た静けさが辺りを包んでいる。

 それにしても思わぬ時を過ごしてしまった。

 農家のご隠居さんが深町を連れて行った先は、造り酒屋の奥庭の小ぢんまりとした離れ家だった。その趣旨はどうあれ、町の住人の寄合ならば見知った顔ばかりが揃うはずなのに、ひとりだけ深町の知らぬ顔が有った。

「繁明さぁ、こちらはご祈祷の顕比古先生。先生、この方が本陣の当代のご当主さぁです」

「顕比古と申します。先日お宅へお伺いさせていただきましたが、直接お会いするのはこれが初めてですね。よろしくお引き回しの程お願い申し上げます」

 深町は驚きを隠せなかった。極端な事例とは分っていても、拝み屋祈祷師と聞けば、真っ先に環の扮装が思い浮かんでしまうのだ。それに比して目の前の顕比古はごく普通の青年である。

 それを察してか「ああ、今日は平服ですからね。この集まりは懇親会の意味合いが強いので仕事着はふさわしくない。でも、私の身分を表すにはやはり烏帽子狩衣姿の方が判りやすいでしょうね」顕比古はやわらかな微笑を浮かべた。

 離れ家にはちょっとした軽食や茶菓が用意されており、見目良いふたりの少女が給仕をしてくれた。

「この者たちは私の従者で、白衣の者が松虫、青衣せいいの者は鈴虫と申します。何かあれば遠慮なくお申し付けください」

 紹介されたふたりは、身の丈も肩先までの切り下げ髪も一緒で、衣の色が違わなければどちらがどうとも区別がつかないほどそっくりに見えた。そしてどちらの面差しも、どことなくその主に似ている。

 もしかするとこのふたりは顕比古の縁戚えんせきか、あるいは歳の離れた妹達なのではないかと深町は思った。

「本日はお忙しい中こうしてお集まりいただき、誠にありがとうございます。ところで皆さんは祈祷師、または拝み屋と呼ばれる者についてどのようなお考えをお持ちでしょう。人智の及ばない強い霊力や、神通力を用いて邪を払うといったところでしょうか。勿論、今回こちらへ招かれた方々の中にはそのような人物も居られましょう。しかし私は、霊力だとか神通力といったものは一切持ち合わせていないことを最初にお断りしておきます。私の修めてきた道はもっと文明的なものです。それでは、文明とは一体何なのかと申しますと、一番分りやすいのは鍋釜包丁等の道具の類でしょうか。その使い方さえ覚えれば誰でも使えるものです。つまり、特別な能力などなくても問題はありません。とは言え、人によっては向き不向きもありますし、修練を積むにも数年から数十年もの時間が掛かる場合もあります。私は幸いにもこの道に向いておりましたので、今もこうしてこの道を歩いていられる訳ですが、中身は皆さんと大して変わらないただの人です。ですから皆さんには、すべてこの顕比古にお任せいただいた上でご助力を願いたいのです」

 今回の事象にいどむに当たり、何とも手掛かりが掴めないのだと、顕比古は言う。

「何か糸口を見つけられたなら、私の専門的な知識も行使こうし出来ようというものです。皆さんはこの度のことが起るきっかけとなるような出来事に思い当たるものはありませんか?それは胸騒ぎや気配、噂話といったものでも構いません。是非とも忌憚なきご意見をお聞かせ頂きたい」

 そこからは一番の年長者である農家のご隠居お絹が舵を取り、活発な意見交換が行われた。

 深町は顕比古のざっくばらんな人柄や弁舌に感心もし、またその座の賑わしさにつり込まれて思いがけず長居をしてしまったのだった。



 陽が落ちて余人よにんも消え去り、入浴も食事も終えた環は上機嫌で紅蛇楼のための布団を座敷に運び込んだ。

「深町さんは確か、町役場に勤めていると言っていたよね環君。それに間違いはないのかい?」

「いつもだったら、暗くなる前には帰っているはずなんですけどねぇ」

 今日に限って待てど暮らせど深町は帰宅しない。紅蛇楼は汽車の時間も迫っているからと、直接役場へ出掛けて行ったのだが、当然役場の開いている時間はとっくに終わり、しっかり施錠もされて人気ひとけもなかった。

「あら。それならアタシがちょいと行って聞いてみましょうか?ご近所で役場に勤めている人を知っておりますから」

 言い置いて出掛けて行ったお重もしかり。ついでの世間話に花でも咲いたのか、なかなか戻って来なかった。

「コウダさんがそう急くから、待ち時間が長いように感じるんですよ。もうじき帰って来るんじゃないかな。ひょっとしたらお重さん、途中でばったり深町さんに出くわして一緒に帰って来るかも知れないし」

 環はもう待てぬ、もう出ないと汽車の時間に間に合わぬと、菊枝の元へ挨拶を済ませに行こうとする紅蛇楼をどうにか引き留めようと宥めすかし続けた。

「まあお重、後片付けもそっちのけで一体どこへ行っていたの。あら、ささげ?どうしたのそんなに沢山」

 環たちの進行方向から菊枝の声が聞こえてきた。

「そこの遠藤さんから。本陣は急に大所帯を賄わなければならなくなって大変でしょうからって」

 お重は深町とではなく、明日のお菜の材料と共に勝手口から戻って来たらしい。

 深町家に到着以来、纏わりついて離れようとしない環を突っぱねることまではしないものの、微妙な間合いを測りつつ菊枝の居るお勝手にじりじりと進んでいた紅蛇楼は、サッと足を速めた。

「お重さん、どうでした?」

「ああ、コウダさん。それが、繁明さんはお昼に他出してから役場へは戻らなかったそうなんですよ」

「なあに、繁明のこと?それなら、きさらぎ先生の処へ行ったのよ。今朝、先生に挨拶してくるように言いつけてお菓子を持たせましたからね。それにしても、役場に戻らなかったとはどういうことかしらねえ…。ずっとお邪魔したままなのかしら」

「あたしが夕方に一度家に帰った時には父はひとりきりで、繁ちゃんは居ませんでした」

「そう言えば今日は繁明遅いわねえ。お重、玄関先の灯りを点けておかないと。もう外も暗くなるわ」

「それなら僕がやりましょう」

 紅蛇楼はさっさとお勝手から出て行った。

「ほう。これは立派なささげだ。食べごたえもありそうだ」

 入れ違いに勝手口を潜ってやってきた蟾は、さっそく笊に盛られたささげの山に目をつけて感嘆の声を上げた。と、急に表情を硬くしてひたと環に顔を向けた。

「おい、小僧!」

「何だよ、おっさん?」

「アイツはどうした」

「え。コウダさんなら…」

「アイツを止めろ。今すぐ引き戻せ!」

「分かった、行ってくる!」

 正直何が何だか分らないのだが、いつもと違う蟾の様子に凍りついたお勝手の空気を 

 少しでもやわらげようと、環は元気に声を張り上げ玄関へと走った。

 広い屋敷だ、お勝手から玄関までも遠い。さっき出て行ったばかりだから途中で捕まるだろうと思いきや、紅蛇楼の背中を見る事もなく、環は玄関まで辿り着いてしまった。玄関先を照らす明かりは燈されているのに、ここにも紅蛇楼の姿はない。外に居るのかと玄関を出てみると、表通りへ続く道の先からこちらに向かっていると思しき仄かな光が有った。近付いてみるとそれは、提灯をげた、まだあどけない年頃の切り下げ髪の少女だった。

 上から下までまっ白な衣装に提灯の明かりが照り映えて、全身がぼんやりと光って見える。その様子が人外の者のように感じられた。まさか狐狸こりの類とか?

「どちら様ですか?この家に何の御用です」

「おや環君、迎えに来てくれたのかい?」

「深町さん!?」

 思わずすっとんきょうな声が出てしまった。少女の姿に見蕩れて、彼女より他に人が居るなど気がつきもしなかったからだ。

「深町さんですか」

 すぐ後ろから紅蛇楼の声がした。

 その途端、白衣の少女はハッと目を見開き、あっと言う形に口を開けたが、その声は上がらなかった。

彼女は音もなく空に散った。もうどこにも跡形もない。

ただ深町の足元に落ちた提灯が、めらめらと炎を上げ始めていた。



 何か硬い物がてんてんと畳の上を転がる音に、顕比古は振り返った。

こちらに茶卓がひとつ、そちらに小ぶりな盆が投げ出されてあり、あちらにはすっかり中身をぶちまけた湯飲みがひとつ転がっていた。つい先程、鈴虫に言い付けておいたお茶のそれだろう。

 鈴虫の姿はない。気配すら消えている。

「まさか本陣の術者か?」

 とりあえずてんでに散らばった茶器を片付ける。宿も道具も厚意からの借りものだ。恩を仇で返すような振舞いをしてはならない。「そんなはずはあるまい。あんな偽物に俺の術を破るなど」

 それに、深町という人物がそのようなことを許すとも思えない。

「…そう言えば、あいつもここに呼ばれて来ていたな」


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