第7話7

そろいも揃って役立たずが、まったく余計なことをしてくれたものよ」

 蟾は苦い顔をしながらも、怒っているというよりはなかあきらめたような平坦へいたんな声でそう言った。

「申し訳ありません」

 紅蛇楼は抗弁こうべんすることもなく、ただ悄然しょうぜんとして顔を伏せた。

「わざとそうした訳じゃないんだから、素直にそう言って謝ればいいだけの話じゃないかおっさん」

「阿呆ぅ!式神しきがみ使役しえきできるほどの術者じゅつしゃとなれば、その腕前うでまえはなまなかなものではない。それが故意こいであろうとなかろうと、その術を破った時点で相手を打ち負かしてしまったことに変わりはないのだ。かさねてびなんぞ入れようものなら、その術者の面目めんもく丸潰まるつぶれだ」

「―では…。どうしましょう」

「この場合はもう、どうしようもありませんな。深町さんも、余計よけいなことはせぬよう願いますよ。この場合知らぬ存ぜぬを通すのが肝要かんよう。松虫とやらはそもそも人外じんがいの者、死したわけではありませんから心配無用です。ところでオマエはいつまでここに居るつもりなんだ?」

「今日はもう夜行やこうは出てしまいましたから、明日。始発で発ちます」

 蟾は必要な事だけを述べ、知りたい事を確認すると、あっさりと自分の寝所しんじょへ引き上げて行った。

 深町がほっと息をつき、口を開いた。

「それにしてもコウダさん、すごいですね。わたしはその道には暗いので、ただただ感心するばかりですが、人ならぬものを瞬時に散らしてしまうとは、やはり何かしらの修業を積まれたのですか?」

「いえいえ。蟾の話では僕のこれは特異体質といったもので、怪異めいたものを自動的に跳ね除けてしまうのです」

「さて。よくわかりませんが…何やら頼もしい気がします。ここにこのまま留まった方が良くはありませんか?」

「いかんせん、僕のこれには取捨選別しゅしゃせんべつの自由が利きません。嘘鳥たちは怪異に近づき、それを取り込むことで解決にみちびかなくてはならない。十把一絡じっぱひとからげに怪異を払ってしまう僕が居てはそれを妨げてしまう。僕は邪魔者じゃまもの以外の何者でもないんですよ」

 翌早朝、蟾が起き出す前であるのを良いことに、環は紅蛇楼を見送るためにこっそりと深町家を出た。野良とは違って町場にはまだ人影はない。たちまち漆黒の翼が飛来した。

「おお、八咫!久し振りだなあ、お前」

 嬉しそうに環に甘える真っ黒けの鳥の姿に紅蛇楼は目を丸くした。

「環君、それは君の鴉なのかい?」

「俺の、って訳じゃありませんよ。コイツがヒヨッコの頃に巣から落ちて死にかけていたのを俺が拾って育てたんです」

「ああそれで。よく懐いているようだね」

「賢くて可愛いヤツです。それはそうと…コウダさん、もうここに来ることはないんですか?」

「いや、また来るよ。一件落着したらだけど。嘘鳥は人前に姿を現す訳にはいかないからね、移動は夜になる。何かと不用心だから、その時ばかりは蟾からも僕にお呼びが掛かるんだ」

紅蛇楼は苦笑しつつ言葉を継いだ。

「それは置いても、僕は個人的にこの土地に興味がある」

「この土地に?」

 名所旧跡名物の、いずれのひとつも見当たらない田舎町に一体どんな興味が湧くというのだろう?

「この辺りでは昔、神隠しが頻発ひんぱつしていたらしいんだ」

 そっちか。

「本当に好きなんですね」

「生き甲斐がいだからね」

応える紅蛇楼の声には妙に深く、しんとした響きがあった。

 コトリ、コトコト。近くの商店から物音が聞こえたのを契機けいきに八咫が飛び去っていった。

「あっ。そろそろ俺も…。今のこのなりを人前にさらす訳にはいかないからここで。じゃあコウダさん、道中気をつけて」

「うん。ここまでつきあってくれてありがとう。君も八咫も達者でね」

 環は駅舎を見る前に紅蛇楼と別れ、ひとり来た道をとぼとぼと戻り始めた。

 今日も雲ひとつない晴天だ。まだ朝も早いというのに、すでにしゃのかかったような薄い空色が引き続く炎暑えんしょを予告していた。

 このまま深町家にとんぼ返りするのが少々勿体もったいない。気が付けば足は止まり、夏空の下でくっきりとした緑に萌える山の稜線りょうせん丹念たんねんに目でなぞりながら、どこかの軒下で朝風になぶられているのだろう風鈴の音色に耳を傾けていた。

 戻るのが嫌なら、このまま逃げてしまえば良いではないか。

嘘鳥たちにはどこの誰とも一切素性を明かしてはいないのだから、行方をくらませてしまえばこっちのものである。

 でも、俺はそうしない。

 取り留めのない思いに呼応して胸中に戻って来た答えに、環は不思議な満足感を覚えて再び足を踏み出した。

 ほほっ…はなのかんばせ、つきのまゆ

 かそけきつぶやき声が環の耳朶じだをかすめた。

 環の眉間みけんにぎゅっと皺が寄る。

 ―花のかんばせ

 容姿ようし言祝ことほがれて喜ぶ向きも有れば、そうではない向きも有る。環に限っては禁忌きんきにも等しい言葉だ。思わずきっとなって辺りを見回してみたが、誰の姿も認められなかった。益々忌々いまいましい。

「環さぁーん!」

 今度は明らかな呼び声に、環は振り返った。

「あれっ、登紀子さん!?どうしたんですか」

「蟾さんからぁ、言いつかってぇ」

息せき切って駆けて来た登紀子は

「コウダ、さん、は?」

切れ切れの息と一緒に口から言葉を押し出した。

「まだ駅に居るでしょう。始発までにはまだまだ間が有りますから」

 紅蛇楼は蟾に気を使い、彼の目に留まらずに済むよう、余裕有り過ぎの時刻に深町家を辞している。

「良かった…」

 蟾の言いつけで紅蛇楼が車中でつかうための弁当を届けに来たのだと言う。

「蟾が?これはこれは。どういう風の吹き回しか、恐ろしい気もしますが嬉しいな。ありがとう」

「こんなに早く発つのなら、朝飯に困るだろうって仰って。中身はお握りがふたつ。片方は梅ですけど、ちょうど今朝のおかず塩鮭しおじゃけでしたから、もう片方はそれにしました。それと沢庵たくあんが二切れ」

「それは楽しみだ」

紅蛇楼は思いがけぬ土産を手に駅を発って行った。



「お父さん、ご飯の前にはちゃんと手を洗ってよ?」

「食事中に肘なんかつかないで!」

「お父さんたらほらっ、渡り箸してるじゃない。お行儀ぎょうぎが悪いわよ」

 昨日は娘の登紀子にぴしぴし叱られているうちに、混乱から熱をびていた頭も徐々じょじょえ、平常心を取り戻していった。

 明けて今日、きさらぎ先生はひとりもやもやしていた。

 先にかくりょの障りなる噂を耳にしたのは、一体いつの頃だったろうか?

その一点がどうにもに落ちない。幼馴染が今も存命であれば、このわだかまりもすぐさま解消するものを。

 人の死とは、それが老衰であれば無論のこと、不慮の事故であれ病没であれ、なべて天命なのだ。そう思うことで諦めをつけてきたつもりだが、それでもなお時折こうして、口惜くちおしさがぶり返してくる。

「ごめんくださいまし。もし、ごめんくださいまし」

 玄関先から訪いの声がした。

 些末さまつなことは娘に任せておけば良いと、いつもなら聞き流す。しかし今、登紀子は留守だ。それなら放って置いても良かったはずだ。なのに―

「はい。どちらさんかね?」

 何故か応じてしまった。

「突然押しかけまして、あいすみません」

 五十年配くらいの身なりの良い小柄な婦人がひとり、足が不自由なのか杖をともなって玄関先に立っていた。

「昨日はこちら様とのご縁をいただきまして、誠に勿体もったいなく有難く感じ入りまして。早速に何かお助けできることはないかとまかした次第でございます」

「ははあ…。然様さようでしたかなあ?」

「何かお困りごとなどはございませんか?何でも仰ってくださいな。必ずお力になれると存じております」

 きさらぎ先生にはとんと覚えがないものの、なぜか会話はとどこおりなく流れていく。

 先生は昔、役場で戸籍係を務めていたことがある。ひと昔もふた昔も前のことでも狭い町だ、全住民とまでは言わずとも、ほとんどが顔見知りだ。

 ところでこの人は、まったく見知らぬ人である。

 言葉つきからしても恐らくはよそから来た人で、何だか要領を得ないことを言っている。ならばあれこれ質問を投げかけて、相手の正体を知ろうとするのが順当であろう。しかし何故か、きさらぎ先生の頭はあさっての方向に働いていた。

―鈴を転がすような声とは、このような声を言うのだろうか―

 と、この見知らぬ婦人の落ち着いた口調と澄んだ声の響きにじっと聞き入ってしまっていた。

 チリリ、チリリリ。

 本当に鈴の音が聞こえてきた。

 おや、とよく見ると婦人の杖には小さな鈴飾りがついている。まるで巡礼じゅんれいのようだなと思うと同時に、きさらぎ先生は急に気が咎めてきた。優しい姿と美しい声を持ち、丁寧ていねいに話しかけてくるこの人に、失礼が有ってはならぬ。

「このままお話を進めるのも何ですから、どうぞお上がり下さい」

 ちりーん

 今のは軒先に吊るした登紀子の風鈴の音だろうか。



「あれっ、登紀子さん。今から買い物にでも行くのかい?」

 退屈で仕方がない環が暇つぶしにお勝手を手伝っていると、何やら包みを抱えた登紀子が勝手口から出掛けようとしている。昼飯時に他家を訪ねて行くはずもないし、そろそろ深町家の食卓も整おうかという矢先に外出の必要があるとすれば、何か不足があっての買い出しかと思ったのだ。

「今日から父にね、お弁当を持っていくことにしたの。あたしも一緒にお昼を済ませてくるから、昼過ぎに戻ります」

「ああ、そうなんだ」

「登紀ちゃん、今日も日差ひざしが強そうだからかさをお持ちなさいな」

 あらかじめ用意して置いたのだろう、菊枝が洒落た作りの日傘を取り出して登紀子に手渡した。

「ありがとう小母さん。お借りします」

 登紀子は昨夕ゆうべから反省はんせいしていた。

 父は急に散歩してみたくなって外に出たと言っていたが、そもそもそれを習慣としない人間が唐突とうとつにそんな事を思い立つものだろうか。登紀子が家に居たなら、それで用事は足りていたのではないか。思えばここ数日、自分はあまりにも父親をないがしろにし過ぎていた気もする。朝はいたし方ないにしろ、昼と夕方なら時間を作れるではないか。

 思いつく限りの父への不義理ふぎりを数え上げつつ、集落のへりにある自宅にようよう帰り着いた登紀子は、

「ただいま!」

玄関戸を思いっきり引き開けながら、違和感を覚えた。

 家の中の雰囲気が何だか奇妙に空疎くうそな気がしたのだ。まるで葬儀を終えて、弔問客ちょうもんきゃくの最後のひとりを送り出した後のような…。

「お父さんっ!?」

 不安から思わず声がひるがえる。

「何だ?狭い家なんだから、そんな大声を出さずとも聞こえるわい」

 家の奥から応える父の声に、ひとまず安堵した。

「お昼ごはん、作って来たわ。おつゆは今から作るから、少し待ってて」

 玄関を上がって茶の間を通り、台所に入って見ると、流しの洗いおけの中に来客用の茶碗が沈んでいた。

「お父さん、お客が有ったの?」

 ああ、でも、うーんでもない、うなり声が返ってきた。やれやれ、洗い物はお昼を済ませた後でまとめてやっつけるか。

「お父さん、早くご飯を済ませてくれないと。お父さんっ、聞こえないの?」

 汁物しるものも出来上がり、先程さきほどから何度か声を掛けたのだが、今度はウンともスンとも返事がない。業を煮やして父の居室の襖を開けた登紀子は呆然ぼうぜんとした。

 座敷の中は、まるで紙の海だった。

畳といわず、床の間にしても文机ふづくえも、大量の紙の下に埋もれてしまっている。

「何…どうしたの。気の早い虫干むしぼし?」

 見れば部屋中の壁をふさいでいる書棚のほとんどが空になっていた。

 そこにはふだん書籍ばかりではなく、父がこれまで心血しんけつそそいで研究し、何十年もかけて収集してきた郷土史の調査記録が収められている。

「ウン。今朝なあ、お祓いの先生が訪ねて来て、何でもこの土地の歴史を勉強したいのだそうだ。それで、あれこれと尋ねられたんだがね、いくつか答られんことがあったんだよ。この歳になって勉強不足を思い知らされた」

 そう言う父は別に気落ちしている風もなく、無我夢中といった様子で書類の束をるのに忙しそうだ。

「お父さん、それは実に探求し甲斐の有る課題ね?」

 探求と言う言葉は最近父の中で流行はやっている。

「うん。実に、探求し甲斐があるよ」

 それはともかく。

 登紀子はどうにかきさらぎ先生を茶の間まで引っ張り出して食卓につかせた。しかし、続く食事の間も先生の左手には古い書類の束がしっかりと掴まれたままである。

 まったく行儀が悪い。新聞紙の類であればさっさと取り除けて食事を急かしているところだが、いま父の手の内にあるのは、取りも直さず彼の魂そのものだ。それは登紀子が簡単に手を触れてはいけない宝物なのである。

 だから登紀子はそれをとがめることはせず、きさらぎ先生のしたいようにさせておいた。

「お父さん、その人たちはまた家に来るの?」

「うん」

「じゃあ、今度はきちんと面目めんもくほどこささなくちゃあね」

「うん」

 まるでうわの空だ。

 しかしきっかけは何であれ、これは良い兆候ちょうこうだと登紀子は思った。引きこもりがちでほとんど人と関わろうとしない父親に常日頃つねひごろから危惧きぐを感じていたのだから。

 父のお客の次の来訪らいほうそなえて、何かお茶請ちゃうけの甘い物でも用意しておこう。

 にわかに娘の箸が止まり、その目線は何やら思案気しあんげに中空をさまよっている。

 その様子をこっそりと盗み見ているきさらぎ先生は、決して上の空でいたわけではなかった。そして、郷土史の調査記録に熱中していたというわけでもなかった。

 きさらぎ先生は今朝がた、これまでの人生が丸ごとくつがえるような事態に直面して、ついさきほどまで動転していたのだ。そこへ登紀子が投げかけた“探求”という符丁ふちょうが図らずも命綱の役割を果し、かろうじて正気付くことができたのだった。

 とはいえそれは、酷い転び方をした人がはっと我に返って、恐る恐る状況を確認し始めたところ、という程度に過ぎない。一体わが身になにが起ったのか…この時点では何をどう問われたところで、はかばかしい受け答えなど望むべくもない。

 まず自分は転んだのだという事実を確認し、では一体どのような転び方をしたのか、というところから吟味を始めなくてはならない。次に怪我の具合を見て、誰にどのような助けを求むべきかを考えるという順番となり、しかもそれには、しばしの沈思黙考を必要とする。

 あれこれ話しかけられたのでは気が散るばかりで旨く考えがまとまらない。

 そこできさらぎ先生は適当な相槌あいづちだけを打って、娘の話の一切合財いっさいがっさいを聞き流すことにしたのだ。

 食事の後片付けをする間も、登紀子は何やかや喋りかけてきたが一言半句いちごんはんくも耳に入れなかった。

「じゃあね、お父さん。夕飯時にはまた帰って来るから」

 言い置いて、娘がやっと家の外へ出て行った。

 きさらぎ先生はふうぅ…と、大きく息をついて目を閉じた。



 これから向かう先は昔からの主要な街道筋にある集落のひとつだ。途中に峻険しゅんけんな山並みがあるだとか、深い谷間にはばまれているということもないので、列車は一切起伏のない平坦な路線を淡々とこなして進んでいた。

 車窓の外を流れてゆく景色は、どこで見かけようと目先の変わることもない田舎の情景が果てしもなく続き、走馬灯まわりどうろうの影絵を延々と眺めるのに似て眠気を誘うばかりである。

 でも、それがいい。いかにも郷里への帰省という風情だ。

 しかし目的地は別に、生まれ故郷というわけではない。

 姉の嫁ぎ先だ。

 とはいえ、姉弟きょうだい二人っきりの家族だから、帰る先といえば姉の元より他にはない。それに姪っ子が生まれてからは益々郷愁の念を抱くようになった。ほのぼのと幸せを感じる。

 姪っ子のためにあがなった土産物みやげものすら可愛くて、荷物一式を詰め込んだ重い鞄からは乗車前から片時も手を離さず、今もずっと大切にひざの上にかかえている。事情を知らぬ者からすればいかなる貴重品をたずさえているのかと思われるだろうし、巡り合せによっては良からぬ手合いに目をつけられる恐れだってあるかもわからない。

 しかし車中にあるのはおのが独り。その気遣いはまったくない。

 のんびりと夢想に耽ることができる。

 心だけになってしまえば自由自在だ。地べたも時も一気に飛び越えて、ほら、もう駅のホームに降り立った。顔なじみの駅員に会釈をしながら改札を抜けて駅舎を出る。ズボンの尻ポケットには道に迷った時の用心に、義兄の家までの道順を控えた手帳を忍ばせてある。この季節に訪ねるのは初めてだから、今の景色がよく分らずに、時々立ち止まっては心の眼に補正ほせいを掛ける。そうこうするうちに列車が減速げんそくし始めるのを感じた。

 思わず口元がほころぶ。

 すわ到着、とばかりに列車ごと滑り込んだプラットホームで目にしたのは、これまでも何度かこの町を訪れているのに、初めて見る光景だった。

 いもを洗うがごとくの人の群れ。都会の繁華街はんかがいもかくやとばかりの混みようである。

 まあ、田舎町とはいえ他所よそとの往来おうらいがまったくないわけではないのだから、たまにはこのようなこともあるだろう。今まで大抵たいていのところは、乗降客じょうこうきゃくは自分独りきりの場合が多かったのだけれど。どちらがたまの出来事なのかわからないが。

 そんなことを考えながら、どうにか非礼を働くことなく、人をけ掻き分け改札まで辿たどり着いた。それでもまだ喧騒けんそうから完全に抜け出せてはいなかった。

おぉーーいっ!

 黒山くろやまつらなりの向こう側から、こちらに向けて両腕をぶんぶん振り回している人がいた。

「お帰んなさい」

「ただいま姉さん。珍しいね、迎えに来るなんて」

 姉とは十歳違いだが、甘やかされた記憶はほとんどない。

「ちび助がね、あんたを迎えに行くんだって頑張ってたんだけど、この頃は前にも増してやんちゃにしているから許してやんなかった。ちびのヤツ今日は昼前に学校から帰ったはずなんだけど、気がついたら姿が見えなくなってて、もしかしたらこっちに回ってるんじゃないかと思って来てみたのよ」

「相変わらずなんだ」

「それにしても、びっくりしたでしょう?この混みようったら、正直あたしも驚いたわ」 

 姉によると、今ぞくぞくと駅に詰めかけている人々は、この地を離れようとする拝み屋の面々と、それを引き留めようとする、彼らの信奉者たちなのだそうだ。

 先日の町長宅焼き討ち事件を契機に、この地から引き上げる拝み屋がぽつぽつと現れ、日を追うごとにその数が増大しているのだと言う。

 この町に出来しゅったいした奇禍については、最近の町長宅焼き討ち事件も含め、勿論もちろん知っている。しかしその知見ちけんの内容は、姉から貰った時候じこうの便りの片隅かたすみにあっさりとしるされた一文であったり、二流三流の新聞社が妙に気味の悪い絵付きの記事で、揶揄やゆ混じりに面白おかしく報じた情報のみに留まっていた。

 百聞ひゃくぶん一見いっけんにしかずとは言うけれど、正にその通りで、こうして目の当たりにしてみればこの町の迎えている事態は、ひやかし機嫌きげん一笑いっしょうに付してしまえるものではないようだった。

 更に言えば件の焼き討ち事件の犯人はいまだ不明だそうである。この町には元々拝み屋なんぞを呼ぶことに不賛成な一派が有り、その一派が首謀であろうと目されている。

 それが嘘か誠かは他にして、実力行使で抗議の意を表明されたからには、身の危険を感じて逃げ出すのは当たり前だと思う。

 駅前のにぎやかな目抜き通りを抜けて長閑のどかな田舎町を進むうち、義兄の家への道順で一番の目印となる大きな屋敷が見えてきた。

 屋敷はその威容から、昔はさぞ栄えていたであろうことが見て取れる。まだ数えるほどしかその前を通ったことはないが、現在の人気の途絶えたようなひっそりとした様子から、いつも幽霊譚ゆうれいたんやら没落した名家めいかを舞台とした探偵小説の筋書きなどを想像しては独り楽しんできた。

 今日は姉と同道している。滅多なことを口にしてきつい叱責しっせきなどを受けないよう自重しながら、努めて屋敷の方は見ないようにして通り過ぎた。

叔父ちゃーん

 どこから見ていたのやら、自分を見つけたたらしい姪っ子の愛らしい呼び声が響いて来た。

 声のした方へ目を向けると、さくらんぼ色に頬を輝かせた姪っ子の須美すみがこちらに向かって駆け寄って…いや、必死な形相ぎょうそうで駆け寄って来るのは、須美を背負った彼女の一の子分である正太しょうただ。それに負けじと伴走ばんそうしているのは、二の子分の兼造けんぞうだろう。

「ハッケヨイの叔父ちゃん!」

ン坊!」

 抱き上げた姪っ子の髪からは汗と日向ひなたの匂いがした。

 ハッケヨイの叔父ちゃんは今売出し中の相撲取すもうとり―などではなく、これから八卦見はっけみで身を立てようという若者である。まだ小学生の幼い女の子の知識では、ハッケとくればヨイと続くより他にない。彼女の想像の届くのが秋祭りの子供相撲が関の山なのだから。

「大きくなったなあ、この前よりも重くなったぞう」

「動かない分、えたんだ」

 正太がぼそりと呟いた。

「ショウ!」

 須美の鋭い声に、兼造の平手がサッと持ち上がり、正太の後頭部を張り倒した。

「お前、余計なこと言うなって」

「正太に兼造、お前たちも久し振りだな」

「こんにちは、小父さん。お邪魔じゃましています」

 はきはきと受け答えしたのは兼造で、彼が続けてぺこりとお辞儀じぎをすると、正太が慌ててそれにならった。

「お前らが一緒なら安心だ。俺は大いに頼りにしているぞ」

 笑いを噛み殺しつつ、ハッケヨイの叔父ちゃんがふたりを賞賛しょうさんすると、少年たちは揃って胸を張った。

「フン。悪ガキ三羽烏さんばがらすのせいで、ちび助は嫁の貰い手がなくなるかもね」

 須美の母は、にべもなく冷水れいすいを浴びせると、さっさと家に入っていってしまった。

 三羽烏―。そうだ、もうひとり。

倫太郎りんたろうはどうした?」

「リンの奴は…」

 正太が口ごもる。

「いいよ、ショウ。叔父ちゃんはこっちの味方なんだから」

 子供の秘密で内緒ないしょの話なら、十中八九じゅっちゅうはっく、中身はキナ臭いことに決まっている。しかし可愛い姪っ子にたのまれたとなれば、子供の悪事に加担かたんするのもやぶさかでない。そうと決まればさっさと重い鞄の始末をつけて、ハッケヨイの叔父ちゃんは姪っ子一味いちみに加わった。

 露払つゆはらいに兼造が立ち、再び須美を背負った正太がそれに続く。殿しんがりは一味の新入りハッケヨイの叔父ちゃんだ。どっちみち彼はどこに行くとも知らされていないのだから、黙って付いていくしかないのだけれど。

 義兄の家の裏庭を通り抜け、人の痕跡こんせきはあるものの、下草したくさえ具合から今はほとんど使われることはないのであろう細道を進んで、辻まで来たところで道を逸れて竹藪たけやぶくぐった。

 程なくしてこれもまた打ち捨てられたような生垣いけがきに突き当たった。本来なら閉まっているはずの木戸が腐って落ちている。

 兼造も正太も迷うことなく生垣の中へ踏み込んで行く。

 ははァなるほど。ここへきて、ハッケヨイの叔父ちゃんにも合点がてんがいった。

 生垣は天然物ではないから、その内は必ず誰かの地所ちしょである。断りもなく他所の家の土地に入り込むのを常習としているなら口ごもりもするだろう。

 自分の子供の頃にも似たような覚えがある。ことの善悪の区別はつくけれど、それを押しやってしまうくらいに、どうしようもなく子供の心を惹きつけるものがあるのだ。

 とその時、なにか柔らかいものが後ろから前に向かって素早く、ハッケヨイの叔父ちゃん頭を撫でた。反射的に上を仰ぐと一羽の鴉が飛び去っていくところだった。

 驚きから思わず、喉からヒョウと変な音が洩れた。先達せんだつの三人が一斉に振り返り、同時に人差し指を口元に当てた。

 しーッ。

「小父さん、それって、黒助の奴にからかわれたんだよ」

 合流した倫太郎が肩をすくめた。

 人の背丈すれすれまで急降下してきて、腹の羽毛でさっと人の頭を掠めて飛び去るのが黒助の得意とするやり口なのだそうだ。

「黒のヤツ、いっちょまえに新入りいじめかなあ」

「でもクロは頭がいいから、叔父ちゃんが仲間だってことはわかってるはずだよ」

 口下手くちべたな正太は他の三人が口を開くたびにそちらへ顔を向け、うんうんうなずいている。

 本物の鴉まで手なずける姪っ子の腕白わんぱくぶりに舌を巻きながら、本当に嫁の貰い手がないかも知れぬと、ハッケヨイの叔父ちゃんはしばし感慨かんがいふけった。

 ハッケヨイの叔父ちゃんたちは今、あのお屋敷―深町という人の家の敷地の、ずっと奥まった場所にある森の中に居た。ここまで来てしまえばくだんの人の土地なのかどうかも曖昧あいまいだし、それほどコソコソせずと良いように思えるが、大人を鬼に見立みたてた隠れ鬼をしているというのなら不思議ではない。

「それでリン、今日はどんな塩梅あんばいなんだ?まったくチョビちょうの奴が出てってくれないと面倒臭くってたまんないよな」

 チョビ長(チョビ髭の町長の略)が自宅を焼け出されて本陣に引き移って来てからこっち、深町家の敷地内を大勢の大人が闊歩かっぽするようになった。修繕しゅうぜんに入っている大工や役場の職員をはじめ、すっかりおびえきった町長がこの家から一歩も外に出ないという事情から、公私こうし取り混ぜて彼あての来客も増えた。

「おちおち探索たんさくも出来やしない」

 ぼやく兼造の隣で正太が、眉間に皺を刻んで握りこぶしで頷いている。

「今日は、さ。役場が引っ越してきたみたいになってるから、だめかもしんない」

 倫太郎が手近な木のうろから小さく折り畳んだ紙を取り出してきた。

 車座くるまざの輪の真ん中で広げられたそれは、どうやらこの屋敷の見取り図である。

「へぇ、すごいな。これお前らが作ったのか?」

 四人の子供たちが同時に、うんと頷く。

 図面を見る限り、四人組はいつももっと屋敷に近づいた辺りをうろついているはずだ。それこそ忍びのように、どこにでも身を隠せる小柄な倫太郎が斥候せっこうに立ち、屋敷の様子をうかがいつつ遊んでいるのだろう。

 まあ確かにこれだけ大きな家屋は大人の目から見ても珍しい。広くひっそりかんとして、そこらじゅうの物陰ものかげから今にもお化けが飛び出して来そうな風情が、子供心をくすぐるのに違いない。しげしげと眺め下した地図上にはやはり、聞こえの蔵だの眠り男だのと、なかなかに思わせぶりな書き込みが散見さんけんされる。

「あっ、そうだ。今日、チョビ長ンとこの弁慶べんけいがこっから出て行くらしいよ」

「なんでケンがそんなこと知ってんのよ?」

 須美の疑問に、倫太郎と正太も大きく頷いて兼造に注目した。

「弁…あの人平岩さんっていって、元々この町に居たんだって。小学校の時に父ちゃんも母ちゃんも死んで、遠くの親戚にもらわれていったんだって、ウチの婆ちゃんが言ってた」

 へぇ…。

 他の三人は揃って溜息をついた。

 その人が今は大人だとしても、子供は子供の話が気になるものだ。それもふた親の死とか、貰いっ子とかいう悲運ひうんからまった話となるとみすみす看過かんかする訳にはいかない。兼造のもたらした情報によって、他所から来た見知らぬ小父さんはにわかに、昔辛かった子供に変身して子供たちの関心を惹く対象となった。四人組は互いに互いの目を見交わして暗黙の内に弁慶…いや、平岩さんを物陰からでも見送ってやることに決めた。

 とは言え、それが今日というばかりでいつ出ていくのかが分らなければどうしようもない。

 例の如く倫太郎が偵察に出る。何か情報をつかんだら、兼造がすぐ伝令に走る。残りの三人は屋敷に出来るだけ接近した処で待機。と言うことに話がまとまり、一味は二手に別れて隠密行動おんみつを開始した。

「ねえ、ショウ。お母さんが死ぬってどんななのかな?悲しいだろうなって思うけど、どんなカンジなんだろう」

「…なないと思う」

「え、なに?」

「うちの母ちゃんは死なないと思う」

「なんでよ」

「ほら、ウチの母ちゃんってアレだから、閻魔大王えんまだいおうも怖がっちゃってさ、すぐに家に帰されてきて、生き返っちまうんじゃないかと思う」

「ああ…。ショウのお母さん、強いもんね」

 そんな会話を聞きながらハッケヨイの叔父ちゃんはぶらぶらと子供たちの後について歩いた。

 屋敷に近づくにつれて、ハッケヨイの叔父ちゃんは不思議な印象を覚えた。それが何なのか、しかとは分らない。何しろ初めての心地なのだ。にも拘らず、それが何故だかとても懐かしい。

「須…」

 唐突に強烈な人の気配を感じて、ハッケヨイの叔父ちゃんの胸が凍った。

 一間(1.81メートル)ほども先を歩いていた正太ですら振り返って固まっている。須ン坊は大きな目を見張っていた。

 さらさらと衣擦きぬずれが、すぐ横を通り過ぎる。

 長くつややかな黒髪を後ろで束ね、白衣びゃくえの下には鮮やかな緋色の袴を纏った、目鼻立ちの清らかな若い女だった。

 彼女はふとハッケヨイの叔父ちゃんの方を見返り、すぐに興味なさ気に視線を外した。次に子供たちの姿に目を留め、そこらに転がっている石ころさえもウットリしそうな華やかな笑顔を浮かべると、何も言わずにそのまま深町さんの屋敷の方へと立ち去って行った。

「あの人、そこから出て来たんだね」

 須美があごでハッケヨイの叔父ちゃんの背後を示しながら言った。

 見れば一棟、戸を開け放したままの蔵が建っていた。全体にすっかりつたおおわれてしまっているために、木立こだちまぎれてまったく気がつかなかったのだ。

「きっとあの人がそうだよねショウ。本陣の祈祷師ってさ?うわさどおりすっごく綺麗な人だったね。ねえ、叔父ちゃん?」

 返事がない。

「叔父ちゃん?」

 母とはあべこべに叔父は優しくおとなしやかで、元々ちょこっとボンヤリしたところがある。でも今は、何かがおかしい。さっきからまばたきもしなければ、口なんか半開きになったままだ。

「ハッケヨイの叔父ちゃんってば!」

「ン、ああ…」

 ハッケヨイの叔父ちゃんは寝起きのような顔をした。

「今のは、ここの家の人なのかい?」

「ううん。他所の人。けど、本陣が呼んだ拝み屋の先生だから、今はここに居るよ」

「…拝み屋の先生?」

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