第8話8
町には菓子屋がふたつある。
ひとつは
神社の
もうひとつは、みよ
まったくの
何故なら、それぞれの店の品揃えは絶対に
梅やの目指すところは、昔ながらのいつもの味を用意することで、数十年来店の品揃えは一切変わらない。それに対してみよ志屋は、土地の人気がついて
要するに梅やは、醤油だんごに饅頭、大福といった、口に
「あー…」
いやいや、待てよ。確かみよ志屋はミルクホールにも菓子を卸していたっけ。思い出して駅に回ってみる事にした。傘のおかげで直接の
夏の光に
と、その時、何かがすらりと登紀子の身体を除けて、すぐ横をすり抜けていく気配があった。誰かの行く手を
「ごめんなさい」
とっさに謝りながら振り向いた。
不意に、
神の
そんな言葉が頭に浮かんだ。
「お、登、紀」
ぽんと肩を叩かれ、向き直る。
「たかちゃん」
目は元に戻っていて、同級生のたかちゃんの顔が良く見えた。
「久しぶり、元気そうね」
たか子は一度は縁付いてこの町を出て行ったものの、三年経って戻って来た。何でも、
「寄ってくでしょ?奢るわよ。と言っても出せるものは麦茶くらいしかないんだけどさ。ほら、例の先生たちの
またしても当てが外れたようだ。しかしそれはそれとして、夏の陽に散々
「たかちゃん、お茶もらってるよ」
中年の男がひとり、テーブルについて弁当を広げていた。彼の足元に置かれた大きな風呂敷包みには、登紀子にも見覚えがあった。薬売りの
「あら、
喫茶室と言えば洒落た響きがあるが、
女ふたりは
「あっ。忠さん、もう行く?悪いんだけど、届け物頼まれてくれないかな」
「お茶のお礼にお安い御用だ」
行儀良く自分の使った茶碗の始末をつけ始めていた忠さんは二つ返事で請け合った。
「ありがと。さて、と」
同級生はサッと椅子から立ち上がり、書棚の方へと向かった。その様子を何の気なし見ていると、たか子が棚から抜き出す本の背表紙にはどれも見覚えがあるように思えた。
「ねえ、たかちゃん。それ…」
「そうよ、全部きさらぎ先生の本。じゃーん、なんとさっき売切れちゃった」たか子は取り出した本を重ねて差し上げて見せた。
「ええっ、いったい誰が」
わざわざ買うのだ?
有難いことに役所は元より、郵便局や隣町の銀行にも、父の著書は
「さっきあんたが
父の元を訪ねて来た人に関係のある女の子かも知れない。後で届け先を聞いておこうと登紀子は思った。
「そうと、お登紀。本陣の拝み屋先生は大変な
「えっ。うん」
まあね。
「あんた大丈夫なの」
「何が?」
「相変わらず
ああ、世間の目とはそういうものか。
そういうものだろう。
だけど、繁ちゃんの場合はちょっと違うし、別嬪さんの方はもっともっと違う。
「こんにちは。まあ、お友達?」
「あら、
品の良い初老の婦人が喫茶室に入ってきた。足が良くないのか、
ちりり
まあと感心した時、汽笛が鳴った。列車が到着したのだ。
あっ。
登紀子は思わず音を立てて椅子から立ち上がった。
一日の間に到着する列車の本数など、そう多くはない。
「あたし、もう戻らなきゃ」
「まだいいじゃない」
それはならぬ。そろそろ
「ごめん、また今度ね」
「じゃあ、その時にはあんたのあの塩饅頭、持って来てよ?みよ志屋さん、一家で里帰りとかってさ、今お留守なのよね。当分はお菓子の仕入れが出来ないの」
「へえ、そうなの?」
ということは、茶菓の買い置きは
「わかった、たかちゃん。今度差し入れに来るね」
慌てて駅舎を飛び出し、深町家の門口が見えてきたところで、登紀子はもうひとつ大切なことを忘れていたことに気が付いた。そうだ、お父さんの本を買った人!
「あーあ」
今日はまったく
町長の用心棒とはあくまでも仮の姿。その正体はまっとうな米屋の主人である
そういう訳で、にわか大所帯からひとり減ったのだが、夕餉の席からはもうひとり、頭数が減っていた。
「あら、町長さんは?」
「部屋でフテ寝でもしているんじゃないかな」
「夕方からお部屋に
「しょうがないわね。それじゃあ、町長さんの分はおむすびにして水屋にでも
実は平岩は、町長の
平岩としては鍛冶の身柄が本陣に移ったところで引き上げたかったのだが、すっかり臆病風に吹かれてしまった幼馴染はそれを許さなかった。
「お前ンとこには奥さんがひとりと、大きい息子がふたりも居て、その上雇い人もひとりいるって話じゃないか。それで何の不足があるんだ?」
人手が足りていれば商売が成り立つというものではない。
困り果てた平岩は本陣の
「それは困ったわねえ。町長さんも子供じゃあるまいしにねぇ」
「…なんですってよ、お重。どうしたものかしらね」
「そんなの簡単だよ。町長の奴を忙しくさせといて、その間に逃げちゃえばいいんだ」
化粧という
「それ、いいかも知れませんわね、奥様?つまり、テキを
敵?
「そうね。それなら
―手荒とは?
菊枝にも何か
母親から唐突に相談を持ち込まれた深町はしばし考え。
「それなら、丁度いいかも知れない。家を開放しましょう」
例の火災事件以来、鍛冶が役場に
これまで本陣に遠慮して小出しにしか仕事を片付けられなかった町役場では満場一致でこの案に賛成した。鍛冶不在の役場で、たくらみは
「それにしても急に淋しくなってしまったわねえ」
深町は嘘鳥の相手をしながら夕食を摂るので蔵の方へ行っている。今日から平岩が抜け、用心棒と
都合、いつもより三人が欠けている。
元々淋しい三人所帯であったのが、にわか大所帯で
環には深町自身も、深町家も不思議である。
女と違って
ガチッ。
環の伸ばした
おっと、
食卓を見下すと、飯のおかわりもまだなのに、自分の皿の上からお
「あああ、あれっ?」
ふと目の
「あっ、もしかして!」
「箸が進まんところを見ると、さては嫌いなお菜なのであろう?俺が代わりに食ってやるから感謝しろ」
蟾は涼しい顔で環の小鉢から芋の煮っ転がしを
「おっさん何してんだ、泥棒ーっ!」
菊枝が吹き出し、お重が腹を抱えて笑い出した。
「大丈夫ですよ、環さん。今日は何だかカンが狂っちゃって、お菜を作り過ぎているくらいなんですから、まだたくさんありますよ。蟾さんも、どんどんおかわりして下さいよ」
お重が力強く請合う。それを
「作り過ぎたからといっても心配には及びませんよ。余ったお菜は次の日にちょいと
「まあ、それはどんな方法なんでしょう?」
菊枝が乗って、食卓にはいつもの賑わいが戻って来た。
蟾の
「なにやら楽しそうだね」
母屋に引き上げてきた深町が、茶の間に顔を出した。
「おや、登紀子は?」
「登紀ちゃんなら、きさらぎ先生にお弁当を届けに行きましたよ」
「この前晩飯に誘ったのに、小父さんはやっぱり来ないのか」
菊枝は八の字に眉を寄せて言った。
「気の置けない顔ぶればかりならいざ知らず。昔から
ほうら、やっぱり。深町はさっさと登紀子を妻と定めて、早く孫を作ってじィじやばァばを喜ばせてやるべきなのだ。それで
「ン、環君。何か言ったかい?」
「別に、何も。ごちそうさまでした」
風呂には入ったし、飯も食った。田舎の町には娯楽はなく(有っても外出はできない)、あとは寝るだけだが、それにはまだまだ早過ぎる。
自分の使った食器を片付けがてらにお勝手の窓から覗いた外の景色は、環を誘うのに充分な魅力を備えていた。
昼間は鍛冶を訪ねて来る客や、家屋を
見上げれば、西の空を
環はなるべく屋敷の
ヒタリと着地した屋根瓦の上、環の
「八咫、俺はもしかするとしくじったぞ?」
環の顔を見上げ、
意外なことに返事があった。
「あれっ!?黒助か?」
それも、子供の声が返ってきた。
「ふむ。まあ、こんなものだろう」
「恐れ入ります」
顕比古もしおらしく恐縮してみせたが、腹の中ではほくそ笑んでいた。
「この屋の秘蔵の
ついでに借り受けた
「
正一位は箸を手放さずに、空いている方の手で盃を持ち上げた。
「ほお。こっちはなかなかのものだ」
「とんだお口汚しで。相済みません」
言いながら正一位の皿を取り上げて、お代わりを足してやった。
「佳い酒があるだけで、料理の味もぐっと上がるのう」
正一位は
本当は最初から美味くないはずはないのだ。なにしろ顕比古が仕出し屋に注文したのは正一位の好物ばかりなのだから。しかしそんなことはおくびにも出さず、
「もう
ちろりを持ち上げ、更に酒を勧めた。
口をもぐもぐさせたまま、正一位は素直に盃を差し出した。口の中身を呑み込むと、
「顕比古よ、お前も下戸ではあるまいよ。それを我に貸せ」
正一位は
「苦しゅうないぞ、ほれ、これは返杯よ」
乱暴な手つきで、
「おっとっと、
顕比古の慌てた様子に、正一位が声を立てて笑った。
美しい笑顔だった。それも並みでなく。頂きますと顕比古は盃を
「遠慮せずと呑め。今日は無礼講だ」
まっ白なワンピース姿の山百合のように
若い娘がはしたない、とたしなめるには当たらない。正一位が選んで
では正一位とは何者なのか。
さあそれは、顕比古にも分らない。
新しい土地を訪れるごと、真っ先にその地の
しかし今回に限って、顕比古はそうしなかった。
ここには一体、何が居る?
どのみち神ではないことだけは分かっている。少々乱暴かとも思ったが、
獲物を
解き放った。
「痛ええぇーっ!!」
予想外の近場から声が上がり、顕比古を大いに驚かせた。
「おのれは何者ぞっ!
いや。
知らんから、試しにやってみたのだ。
見れば顕比古の足元からすぐの地面の上に小さな
自分は神の名代なのだと正一位は
処置なし。
「…名代様」
「正一位でよい。まどろっこしい」
「正一位、油壺がこの社のご神体なのですか」
「そんなことあるか、ご神体はまた別だ。我は
つまり、どこに転がっていてもおかしくない日用品に化けて、氏子宅を訪問しているということなのだろう。そうして役務をこなしているということか。
得体は
「ほれ、
仮にも神の名代と名乗る者を
酒を別にすれば大した費えではなかった。用意した重箱の中身は、煮しめかまぼこ卵焼き、きんとんに稲荷ずしと、いかにも子供の喜びそうなものばかりである。元の形は何か分らないが、少なくとも正一位の魂はまだ子供なのだろうと顕比古は思う。
調子に乗った名代殿がそろそろ舟をこぎだしていた。
「正一位、お酒がこぼれそうになっていますよ」
「ウン」
ぐいと湯呑み茶碗をあおると、そのままぱったり後ろに倒れ、正一位な見事に酔いつぶれてしまった。
おやおや。
顕比古が手を打ち鳴らすと、
気を
「松虫、正一位に
それぞれに用事を言い付けると、顕比古は
帰省するたびにいつも思うことだが、田舎の夜は都会のそれに比べて圧倒的に闇が濃い。昼間の出来事のいちいちが、まるで夢だったように感じられるくらいだ。そして今は、まだ虫が鳴き出すまでには季節が進んでいないため、大変静かである。
と、聞き馴染みのある足音がどすどすどすと音高くこちらに向かってやって来た。
ガラリ、戸板が開いた。
「なんだ、あんただったか。珍しく夜更かししているのかと思った」
「
ようやく後片付けを終え、火元の確認も済ませた姉は、夫の勉強部屋の明かりを見つけて急行してきたものらしい。
隣町の中学で
「それで」
姉は少し伸び上がって弟の手元に開いた本を
「あんたはここで勉強中?」
「まあね。ここに居る間に、ひととおりは目を通しておきたいから」
手元のものとは別に、脇に積まれた本の小山の
「うへぇ、そっちもみんな漢字だらけなの」
「
「それでいつ、あっちに行くの」
「先生はこの秋には出発したいって」
幸運にも
「しっかり頑張りな、ハッケヨイの叔父ちゃん!しくじって、ただの叔父ちゃんになったりしたら、ちび助もがっかりするよ」
「大丈夫だよ、姉さん。俺が先生を見つけたんじゃなくて、先生が俺を見つけたんだから間違いないさ」
「うん。そう、そうだったね。じゃあ、おやすみ。
「分かった。おやすみ」
姉の足音が遠ざかり、人の動く気配も絶えて家中が寝静まった。
おもむろに旅行鞄を引き寄せ、洗面道具や着替えの下から紙箱をひとつ掘り出す。箱の中身は黒いエナメルのストラップシューズが一足。
去年の暮れに帰省した時の姪っ子の話題は、同級生の
ああ。いかにも女の子らしいと、素直に感動した。
かつて人形を買い与えた時は、着せ替え遊びもママゴトも一向に始まらず、その代わり
ところが
なんの前触れもなく、須美は歩くことはおろか、立つこともままならなくなりました。お医者にも行きましたが、先生にも原因は分らないそうです。
これを機に少しはおとなしく、女の子らしくなってくれることを願って
「命まで取られたわけじゃあるまいし、大したことないわよ。こんなもん」
姉のいつもの
けれどさすがに、これを渡すことは叶わなかった。これではまるで坊主の
永久に出番を失くした、それでも可愛い姪っ子の為に用意した品をすげなくする気にはなれずに、再び鞄の底へ仕舞い直した。ついでに易学の本もまとめて鞄に仕舞ってやった。
良く考えたら、二年後にも姪っ子が今の様に気安く遊んでくれるとは限らないではないか。ふだんより長めに取ってある滞在期間中を、めいっぱい姪っ子と遊び倒してやろうと決めた。
明かりを消して窓を開く。満天の星空が明日の晴天を保証していた。
「おや、今日は丁度良いお
朝から目の
「夕べ
このところ連続していた日照りのせいで、学校で植えた朝顔が双葉のまま
上機嫌の須美に傘を持たせ、彼女をおぶって小学校へ送って行った。
ついでに復活した朝顔の芽と、その周辺に
「なめくじの奴、双葉をたべちゃうんだよ。あっ叔父ちゃん、ほら、でんでん虫っ」
なめくじは問答無用と死を
「問題は殻か?」
そんなことを
何か面白い読み物でも
ああいうのにうっかり近づくと、馴れ馴れしく寄って来て、あれこれ喋りかけてくるはずだ。
いかにも人待ちという
「早く早く、早くと言うに!梅やの菓子は日持ちせんのだ、早く食ってしまわねば駄目になってしまう」
傘を少し持ち上げて透かし見ると、自分と同じような傘の下に、五歳くらいの子供を抱いた若い父親がひとり見えた。
「ああ、じれったい!」
叫ぶと同時にもんどり打つと見えた子供の姿は
あらぁ、あきひこさん
さっきの年増の店番が、傘を
さっきのは一体何だったのだろうか。自分は何を見たのだろう。そんな疑問もまとめて振り切るように足を速めて歩いた。
間もなくお屋敷の前に差し掛かった。昨日までとは見る目がまるで変ってしまっている。それは勿論、あの拝み屋先生とやらに出会ったせいだ。
足を止めて、しげしげと屋敷を見やる。
義兄の話によると、深町家はやはりこの地ではかなりの
「ウチも
「その、故障と言うのは何なんです?」
「さあ…。祖父さんは俺の生まれる前に死んでるし、親父もお袋ももう居ないから詳しいことは分からないな。何、そういうの興味あるのかい?だったら、きさらぎ先生の本でも読んでみたらいいんじゃないかな」
「きさらぎ先生」
「ここらでは有名な
駅に長居したことはなかったから、へえと思った。考えてみれば、新しいものはまず最初に駅に着くのだ、
さっきは別にそのきさらぎ先生の本を求めようというつもりではなく、絵入りの新聞でもあれば子供たちに喜ばれそうな気がしたのだ。しかしあの店番が居る限り、この先二度と列車の
それはさて置いて、
「一度でいいから、声を聞いてみたい」
思わず知らずに
シーっ。
立てた
けれどこうして屋敷を見つめていると、あちらからも見つめ返されている様な気がして何とも居たたまれない。
傘で顔を隠すようにして、そそくさと
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