第8話8

 町には菓子屋がふたつある。

 ひとつはうめや。

 神社の鳥居端とりいばたに店を張り、元は屋号やごうもないような小屋掛こやがけであったものが、味は良かったから境内けいだいの内に在る小さな梅林にちなんで梅屋さんと呼ばれるようになり、自然とその名がついた土地の老舗しにせである。今も所も変わらず小さな店なれど、この地に住まう人々の気風も好みも知り尽くし、その強みで営々と繁盛している。

 もうひとつは、みよ屋という、十数年前にこの地に移って来た新参しんざんの店である。

 まったくの徒手空拳としゅくうけんに近いにも関わらず、これまで商売を張って来られたのは、ひとえに店の主人の踏ん切りの良さがこうそうしているのだろうと言われている。

 何故なら、それぞれの店の品揃えは絶対にかぶらない。

 梅やの目指すところは、昔ながらのいつもの味を用意することで、数十年来店の品揃えは一切変わらない。それに対してみよ志屋は、土地の人気がついて定番ていばん商品となった一二いちに品を残して季節ごとに菓子を丸々入れ替える。新たに店先に並ぶのは、店主の考案した新作だったり、思い切って他から取り寄せた珍しい品だったりと変化に富んでいる。

 要するに梅やは、醤油だんごに饅頭、大福といった、口に馴染なじんだ生菓子なまがしを扱っており、みよ志屋はそれ以外の諸々もろもろを扱っている。

 登紀子ときこの要望はまず日持ひもちがして、更に見栄みばえのする菓子であれば尚良なおよしというものであったから、いさんでみよ志屋を訪れてみれば、あいにく今日は店が閉まっていた。

「あー…」

 いやいや、待てよ。確かみよ志屋はミルクホールにも菓子を卸していたっけ。思い出して駅に回ってみる事にした。傘のおかげで直接の陽射ひざしはけられても、白く乾いた道の照り返しはまぬがれず、登紀子は薄目を開けたまぶしい顔で汗をき掻き駅への道を歩いた。

 夏の光にくらんだ目には、駅舎の中は真っ暗闇に見えた。

 と、その時、何かがすらりと登紀子の身体を除けて、すぐ横をすり抜けていく気配があった。誰かの行く手をはばんだに違いない。

「ごめんなさい」

 とっさに謝りながら振り向いた。

 炎昼えんちゅうの中でも丈の長いまっ白なワンピースは涼し気だった。ひまわりの造花を飾ったクロッシュ型のお洒落しゃれな麦わら帽子。肉の薄い痩せた背中に細い手足。14、5歳くらいの女の子だろう。背に垂れた黒いしめ縄のような、太い一本おさげがひどく印象的だった。

 不意に、

神の御使みつかい、しろぎつね

 そんな言葉が頭に浮かんだ。

「お、登、紀」

 ぽんと肩を叩かれ、向き直る。

「たかちゃん」

 目は元に戻っていて、同級生のたかちゃんの顔が良く見えた。

「久しぶり、元気そうね」

 たか子は一度は縁付いてこの町を出て行ったものの、三年経って戻って来た。何でも、忌々いまいましいクソ婆ぁに愛想が尽きたのだという。つまりしゅうとめとの折り合いが悪かったのだ。今の彼女は小遣い稼ぎに駅のミルクホールで店番みせばんをやっている。

「寄ってくでしょ?奢るわよ。と言っても出せるものは麦茶くらいしかないんだけどさ。ほら、例の先生たちのエクソダス大脱出のおかげで、お菓子のたぐいは全部けちゃったのよね」

 またしても当てが外れたようだ。しかしそれはそれとして、夏の陽に散々あぶられて歩いてきた後では、たとえ温い麦茶でも干天かんてん慈雨じうには違いない。たか子と一緒に喫茶室へ行くと、

「たかちゃん、お茶もらってるよ」

中年の男がひとり、テーブルについて弁当を広げていた。彼の足元に置かれた大きな風呂敷包みには、登紀子にも見覚えがあった。薬売りの行商ぎょうしょうだ。もうそんな時期かと、我が家の薬箱に思いを馳せた。

「あら、ちゅうさんいらっしゃい。どうぞ」

 喫茶室と言えば洒落た響きがあるが、実質じっしつは休憩所が併設へいせつされた雑貨屋だ。駅は他所への、他所からの出入口だから、手ぬぐいや石鹸などのちょっとした日用品からおやつや新聞雑誌まで諸々取り揃えて販売している。たか子の話からすると、ちょうど空っぽになっているのがお菓子の棚なのだろう。

 女ふたりは空茶からちゃでひとしきり近況きんきょう報告をしあった。

「あっ。忠さん、もう行く?悪いんだけど、届け物頼まれてくれないかな」

「お茶のお礼にお安い御用だ」

 行儀良く自分の使った茶碗の始末をつけ始めていた忠さんは二つ返事で請け合った。

「ありがと。さて、と」

 同級生はサッと椅子から立ち上がり、書棚の方へと向かった。その様子を何の気なし見ていると、たか子が棚から抜き出す本の背表紙にはどれも見覚えがあるように思えた。

「ねえ、たかちゃん。それ…」

「そうよ、全部きさらぎ先生の本。じゃーん、なんとさっき売切れちゃった」たか子は取り出した本を重ねて差し上げて見せた。

「ええっ、いったい誰が」

 わざわざ買うのだ?

 有難いことに役所は元より、郵便局や隣町の銀行にも、父の著書は一揃ひとそろい置いてあり、待合まちあいの間に誰でも手に取って読めるようになっている。

「さっきあんたが見蕩みとれていた白いワンピースのお嬢さん。あー…でも、あのは注文しただけで本には目もくれなかったから、ただのお使いだったんでしょうね。読むのは別の人ね、きっと。ここいらでは珍しい恰好かっこうをしていたし、見ない顔だったなあ。まだ町に残っている拝み屋さんのむすめなんじゃない?」

 父の元を訪ねて来た人に関係のある女の子かも知れない。後で届け先を聞いておこうと登紀子は思った。

「そうと、お登紀。本陣の拝み屋先生は大変な別嬪べっぴんさんなんだそうじゃない?」

「えっ。うん」

 まあね。

「あんた大丈夫なの」

「何が?」

「相変わらず暢気のんきね、あんた」たか子はあきれ気味に鼻を鳴らして続けた「繁明しげあきさんだって男なんだから。そういうことよ」

 ああ、世間の目とはそういうものか。

 そういうものだろう。

 だけど、繁ちゃんの場合はちょっと違うし、別嬪さんの方はもっともっと違う。

「こんにちは。まあ、お友達?」

「あら、蛁呼ちょうこさん。いらっしゃい」

 品の良い初老の婦人が喫茶室に入ってきた。足が良くないのか、つえを突いている。

 ちりり

 瀟洒しょうしゃな作りの杖には小さな鈴飾りが付いていた。

 まあと感心した時、汽笛が鳴った。列車が到着したのだ。

 あっ。

 登紀子は思わず音を立てて椅子から立ち上がった。

 一日の間に到着する列車の本数など、そう多くはない。大体だいたいの時刻表は自然と頭に入っている。昼過ぎ一番の列車が着くのは確か…。恐る恐る待合の時計を見上げると、もう二時半を回っていた。随分油を売ってしまった。

「あたし、もう戻らなきゃ」

「まだいいじゃない」

 それはならぬ。そろそろ大所帯おおじょたいの晩ご飯の仕度したくに掛からねば、絶対に間に合わぬ。

「ごめん、また今度ね」

「じゃあ、その時にはあんたのあの塩饅頭、持って来てよ?みよ志屋さん、一家で里帰りとかってさ、今お留守なのよね。当分はお菓子の仕入れが出来ないの」

「へえ、そうなの?」

 ということは、茶菓の買い置きは算段さんだんがつかなくなった。

「わかった、たかちゃん。今度差し入れに来るね」

 慌てて駅舎を飛び出し、深町家の門口が見えてきたところで、登紀子はもうひとつ大切なことを忘れていたことに気が付いた。そうだ、お父さんの本を買った人!

「あーあ」

 今日はまったく虻蜂あぶはち取らずだ。



 町長の用心棒とはあくまでも仮の姿。その正体はまっとうな米屋の主人である平岩ひらいわは、「店の主人がいつまでも留守にしているのはよろしくありません」と、本日深町家ふかまちけを辞した。

 そういう訳で、にわか大所帯からひとり減ったのだが、夕餉の席からはもうひとり、頭数が減っていた。

「あら、町長さんは?」

「部屋でフテ寝でもしているんじゃないかな」

「夕方からお部屋にこもったきりですよ」

 菊枝きくえの問いかけに、たまきとおしげが同時に応えた。

「しょうがないわね。それじゃあ、町長さんの分はおむすびにして水屋にでも仕舞しまっておきましょうか」

 実は平岩は、町長の鍛冶かじにだけ内緒ないしょでフケてしまったのだ。

 平岩としては鍛冶の身柄が本陣に移ったところで引き上げたかったのだが、すっかり臆病風に吹かれてしまった幼馴染はそれを許さなかった。

「お前ンとこには奥さんがひとりと、大きい息子がふたりも居て、その上雇い人もひとりいるって話じゃないか。それで何の不足があるんだ?」

 人手が足りていれば商売が成り立つというものではない。

 困り果てた平岩は本陣の刀自とじ様にお伺いを立てた。

「それは困ったわねえ。町長さんも子供じゃあるまいしにねぇ」

 特段とくだん人助けを信条しんじょうとしているわけではない菊枝は、嘘鳥うそどりの替え玉をこしらえながら、その忠臣に気軽に相談を持ち掛けた。

「…なんですってよ、お重。どうしたものかしらね」

「そんなの簡単だよ。町長の奴を忙しくさせといて、その間に逃げちゃえばいいんだ」

 化粧という苦役くえきを耐え忍んでいた環は、ふたりの手が止まったのをこれ幸いと口を挟んだ。

「それ、いいかも知れませんわね、奥様?つまり、テキを攪乱かくらんしておいて、そのスキをくってことでしょう?」

 敵?

「そうね。それなら手荒てあらなことをしなくて済みそうね。さっそく繁明に相談してみましょう」

 ―手荒とは?

 菊枝にも何か腹案ふくあんが有ったのか、無かったのか、それは開示かいじされることはなく、彼女は日傘を片手に町役場へ出掛けて行った。

 母親から唐突に相談を持ち込まれた深町はしばし考え。

「それなら、丁度いいかも知れない。家を開放しましょう」

 例の火災事件以来、鍛冶が役場に登庁とうちょうしないため、保留になっている案件がいくつもある。それをいっぺんに片付けるのだ。

 これまで本陣に遠慮して小出しにしか仕事を片付けられなかった町役場では満場一致でこの案に賛成した。鍛冶不在の役場で、たくらみは粛々しゅくしゅくと進行していった。やはり、居るべき場所を留守のままにしておくのは宜しくないのである。

「それにしても急に淋しくなってしまったわねえ」

 深町は嘘鳥の相手をしながら夕食を摂るので蔵の方へ行っている。今日から平岩が抜け、用心棒とたのんだ幼馴染にまんまとたばかられた鍛冶は、その心痛しんつうから今この場に居ない。登紀子は父娘おやこふたり分の弁当をげて実家に戻っている。

 都合、いつもより三人が欠けている。

 元々淋しい三人所帯であったのが、にわか大所帯で人心地ひとごこちがついてしまい、なおさらに淋しく感じるのだろうと環は思った。

 環には深町自身も、深町家も不思議である。

 女と違ってあせる必要は無いとはいえ、深町はさっさと身を固めて、早く菊枝に孫を抱かせてやれば良いではないか。それが女の子だったら益々ますます良しである。菊枝にしたって、自分の息子にそれをねだって当然ではないのか?もしもよく知らない女を家に入れるのは嫌だということなら、登紀子という頃合いの存在もある。環は単純にそう考える。

 ガチッ。

 環の伸ばしたはしは皿を直撃したようだ。

 おっと、失態しったい。考えごとなんかしているから無作法を働いてしまうのだ。

 食卓を見下すと、飯のおかわりもまだなのに、自分の皿の上からおかずがあらかた消えていた。

「あああ、あれっ?」

 ふと目のすみに見えたひきの皿が不自然にてんこ盛りになっている。

「あっ、もしかして!」

「箸が進まんところを見ると、さては嫌いなお菜なのであろう?俺が代わりに食ってやるから感謝しろ」

 蟾は涼しい顔で環の小鉢から芋の煮っ転がしをつまみ上げると、ぱくり食ってしまった。

「おっさん何してんだ、泥棒ーっ!」

 菊枝が吹き出し、お重が腹を抱えて笑い出した。

「大丈夫ですよ、環さん。今日は何だかカンが狂っちゃって、お菜を作り過ぎているくらいなんですから、まだたくさんありますよ。蟾さんも、どんどんおかわりして下さいよ」

 お重が力強く請合う。それをしおに蟾が恒例の食い物講釈こうしゃくをぶち始めた。

「作り過ぎたからといっても心配には及びませんよ。余ったお菜は次の日にちょいと工夫くふうして目先めさきを変えれば、また別の一品ともなる」

「まあ、それはどんな方法なんでしょう?」

 菊枝が乗って、食卓にはいつもの賑わいが戻って来た。

 蟾の振舞ふるまいは菊枝たちの気持ちを引き立てるためのものだろう。しかしそれはそれ、これはこれ。環は自分の汁碗しるわん皿小鉢さらこばちを出来るだけ蟾から遠ざけた。

 今夕こんゆうの蟾の講釈のお題は余ったお菜の賢い活用法のようだが、余り物など出る筈がない。ひょっとすると彼の胃袋は足首までも達しているのではないかと思われるくらい、蟾の食い意地はあなどれないのだ。

「なにやら楽しそうだね」

 母屋に引き上げてきた深町が、茶の間に顔を出した。

「おや、登紀子は?」

「登紀ちゃんなら、きさらぎ先生にお弁当を届けに行きましたよ」

「この前晩飯に誘ったのに、小父さんはやっぱり来ないのか」

 菊枝は八の字に眉を寄せて言った。

「気の置けない顔ぶればかりならいざ知らず。昔から人交ひとまじわりを得手えてとしない方ですからね、そりゃあ来やしませんよ」

 ほうら、やっぱり。深町はさっさと登紀子を妻と定めて、早く孫を作ってじィじやばァばを喜ばせてやるべきなのだ。それでまるく収まるではないか。

「ン、環君。何か言ったかい?」

「別に、何も。ごちそうさまでした」

 風呂には入ったし、飯も食った。田舎の町には娯楽はなく(有っても外出はできない)、あとは寝るだけだが、それにはまだまだ早過ぎる。

 自分の使った食器を片付けがてらにお勝手の窓から覗いた外の景色は、環を誘うのに充分な魅力を備えていた。

 昼間は鍛冶を訪ねて来る客や、家屋をつくろっている大工がそこらをうろついているが、今日はもうそれも仕舞って、人気ひとけはすっかり絶えている。

 見上げれば、西の空をふさぐ金色の光が、そろそろ最後のさざめきを見せ始めていた。

 環はなるべく屋敷ののきに迫った立木たちきを選び、それを足掛かりにヒラリと一息に屋根の上に飛び移った。環にとっては造作ぞうさもない。しかし余人よにんが目にしたなら、何事が起ったかと目をこするような所作しょさだった。

 ヒタリと着地した屋根瓦の上、環の膝元ひざもとには目の早い八咫やたがすでにかしこまっていた。

「八咫、俺はもしかするとしくじったぞ?」

 夕映ゆうばえ色に輝く鳥に話しかけながら、屋根の端を見やる。さっき確かに、誰かが息を呑む気配を感じた。

 環の顔を見上げ、つぶらな目をぱちぱち、しばらく首を傾げていた八咫は何を思ったのか、主の見やる方向へとわしわし歩いて行き、首を突っ込むようにして下を覗き込むと、ガアと大きくひと声鳴いた。

 意外なことに返事があった。

「あれっ!?黒助か?」

 それも、子供の声が返ってきた。



「ふむ。まあ、こんなものだろう」

 顕比古あきひこが取り分けてやった料理に箸をつけた正一位しょういちいは、とりすました声でそう言った。

「恐れ入ります」

 顕比古もしおらしく恐縮してみせたが、腹の中ではほくそ笑んでいた。

 っ気ない感想だったわりに正一位の箸は止まらず、もう皿がきそうだ。すかさず酒をすすめる。

「この屋の秘蔵の逸品いっぴんとやらを出させました」

 ついでに借り受けたさかずきになみなみと酒を注いでやる。

い香りだな」

 正一位は箸を手放さずに、空いている方の手で盃を持ち上げた。

「ほお。こっちはなかなかのものだ」

「とんだお口汚しで。相済みません」

 言いながら正一位の皿を取り上げて、お代わりを足してやった。

「佳い酒があるだけで、料理の味もぐっと上がるのう」

 正一位は俄然がぜん美味うまい美味いと盛大せいだいに料理をぱくつきだし、ついには重箱の中に直接箸を付け始めた。

 本当は最初から美味くないはずはないのだ。なにしろ顕比古が仕出し屋に注文したのは正一位の好物ばかりなのだから。しかしそんなことはおくびにも出さず、

「もう一献いっこん、いかがですか」

 ちろりを持ち上げ、更に酒を勧めた。

 口をもぐもぐさせたまま、正一位は素直に盃を差し出した。口の中身を呑み込むと、

「顕比古よ、お前も下戸ではあるまいよ。それを我に貸せ」

 正一位は酒器しゅきをひったくると、顕比古の盃に酒を注ぎ入れた。

「苦しゅうないぞ、ほれ、これは返杯よ」

 乱暴な手つきで、一二滴いちにてきたたみに酒を吸わせてしまった。

「おっとっと、勿体もったいない」

 顕比古の慌てた様子に、正一位が声を立てて笑った。

 美しい笑顔だった。それも並みでなく。頂きますと顕比古は盃をいただいた。

「遠慮せずと呑め。今日は無礼講だ」

 まっ白なワンピース姿の山百合のように可憐かれんな少女が、今やすそを乱して胡坐あぐらをかき、盃を捨てて湯呑みに手酌てじゃくの有様となっていた。

 若い娘がはしたない、とたしなめるには当たらない。正一位が選んで化生けしょうしたのが、たまたま若い娘の姿だったというだけなのだ。

 では正一位とは何者なのか。

 さあそれは、顕比古にも分らない。

 新しい土地を訪れるごと、真っ先にその地の産土神うぶすながみたずねることを常としている顕比古の知る限り、この町の神社に神は御座おわさない。やしろの中はもぬけの空だ。それだけのことなら、早々にその場を立ち去ってそれきりとする。不浄を払う御力みりきを欠いた神域しんいきになど、何が巣食すくっているか分かったものではない。

 しかし今回に限って、顕比古はそうしなかった。

 丹精たんせいされた社殿しゃでんにしろ、鎮守ちんじゅの森にしろ、そこには確かに人々の信仰心が生きており、何より神座しんざたるにふさわしい清浄が保たれているのが不思議でならなかったからだ。

 ここには一体、何が居る?

 どのみち神ではないことだけは分かっている。少々乱暴かとも思ったが、ついやす時がしかった。くうに思い描いた弓をかまえ、幻の矢をつがえてつるを引きしぼった。

 獲物をじか見据みすえる必要はない。ただ、当たると信じるだけでことは足りる。

 解き放った。

「痛ええぇーっ!!」

 予想外の近場から声が上がり、顕比古を大いに驚かせた。

「おのれは何者ぞっ!われをこの社の祭神さいじん名代みょうだい、正一位と知った上での狼藉ろうぜきかっ!!」

 いや。

 知らんから、試しにやってみたのだ。

 見れば顕比古の足元からすぐの地面の上に小さな油壺あぶらつぼがひとつ、ころげ回り、ね上がりしながら身をよじって怒っている。

 自分は神の名代なのだと正一位は豪語ごうごする。自分について知っていることは、役目と名前と、このふたつのみなのだぞと踏ん反り返る。

 処置なし。

「…名代様」

「正一位でよい。まどろっこしい」

「正一位、油壺がこの社のご神体なのですか」

「そんなことあるか、ご神体はまた別だ。我は常々つねづね氏子うじこを見守っておる。あれらをおびえさせてはならぬから、こうしたありふれた什器じゅうきに身をやつして家々をめぐるのじゃ」

 つまり、どこに転がっていてもおかしくない日用品に化けて、氏子宅を訪問しているということなのだろう。そうして役務をこなしているということか。

 得体は依然いぜん知れないが、悪いものではなさそうだ。納得したところで、顕比古としては正一位に対する関心は途切れたのだが、正一位の方では真逆だったようで、それからは頻繁ひんぱんに顕比古を訪ねて来るようになった。顕比古が松虫鈴虫まつむしすずむしを失ったと知るや、代わりに自分がけてやると言い出した。

「ほれ、過日かじつおぬしには梅やの甘味かんみ馳走ちそうになった義理がある。苦しゅうないぞ」

 仮にも神の名代と名乗る者を使役しえきするのははばかられたが、仕方がない。二つ三つほど用事を片付けてもらい、その謝儀しゃぎとしてこうしてささやかなうたげを張ることにした。

 酒を別にすれば大した費えではなかった。用意した重箱の中身は、煮しめかまぼこ卵焼き、きんとんに稲荷ずしと、いかにも子供の喜びそうなものばかりである。元の形は何か分らないが、少なくとも正一位の魂はまだ子供なのだろうと顕比古は思う。

 調子に乗った名代殿がそろそろ舟をこぎだしていた。

「正一位、お酒がこぼれそうになっていますよ」

「ウン」

 ぐいと湯呑み茶碗をあおると、そのままぱったり後ろに倒れ、正一位な見事に酔いつぶれてしまった。

 おやおや。

 顕比古が手を打ち鳴らすと、青衣せいい白衣びゃくえのふたりの少女が座敷に姿を現した。

 気をり直すのに多少の時間は掛かるが、術者がすこやかに生きている限り、式神しきがみが永久に失われたままとはならないのだ。

「松虫、正一位にとこを取って差し上げなさい。鈴虫は手付かずの菓子をおりに作って、今宵こよいの内に社に届けておくように」

 それぞれに用事を言い付けると、顕比古は別間べつまに移った。

 机上きじょうには夕方に届いた書籍が、包みをかれて置かれていた。表紙にはきさらぎしずか著、郷里きょうりのあゆみとある。何のひねりもない題名だが、著述者の実直さがうかがえる。これとは別に二冊、やはり朴訥ぼくとつな表題の書籍が重ねられてあった。顕比古は腰を据えてぺージり始めた。



 帰省するたびにいつも思うことだが、田舎の夜は都会のそれに比べて圧倒的に闇が濃い。昼間の出来事のいちいちが、まるで夢だったように感じられるくらいだ。そして今は、まだ虫が鳴き出すまでには季節が進んでいないため、大変静かである。

 と、聞き馴染みのある足音がどすどすどすと音高くこちらに向かってやって来た。

 ガラリ、戸板が開いた。

「なんだ、あんただったか。珍しく夜更かししているのかと思った」

義兄にいさんなら、もうとっくに寝に行ったよ」

 ようやく後片付けを終え、火元の確認も済ませた姉は、夫の勉強部屋の明かりを見つけて急行してきたものらしい。

 隣町の中学で教鞭きょうべんを取っている義兄ぎけいの朝は早い。なにしろ学校まで15kmの道のりを自転車で疾駆しっくしなければならないのだ。朝寝坊しようものなら遅刻は免れない。夫の不名誉は、当然そのまま妻にもしかり。よいりの罪は重く、厳しく取り締まるべき悪習あくしゅうなのである。

「それで」

 姉は少し伸び上がって弟の手元に開いた本をのぞき込んだ。

「あんたはここで勉強中?」

「まあね。ここに居る間に、ひととおりは目を通しておきたいから」

 手元のものとは別に、脇に積まれた本の小山の天辺てっぺんをぱんっと叩いてみせた。

「うへぇ、そっちもみんな漢字だらけなの」

易学えきがくの専門書だから」

「それでいつ、あっちに行くの」

「先生はこの秋には出発したいって」

 幸運にも素性すじょうの確かな師と巡り会い、その下で数年研鑽けんさんを積んだ結果、いよいよひとり立ちも目前となってきた。とは言え、師匠の太鼓判たいこばんひとつで看板をかかげて、今日から充分に食べていかれるというものではない。最後の仕上げの地固じがためとして大陸に渡り、かの地に住まう師の師にお目見めみえを果し、更に関係各所すべてに遺漏いろうなく挨拶回りを敢行かんこうして大いに顔を売っておく必要がある。広い大陸中を東奔西走とうほんせいそうして、帰国の途につけるのは早くて二年後と、師は目算もくさんを立てていた。それで今回急遽きゅうきょの帰省となったのだった。

「しっかり頑張りな、ハッケヨイの叔父ちゃん!しくじって、ただの叔父ちゃんになったりしたら、ちび助もがっかりするよ」

「大丈夫だよ、姉さん。俺が先生を見つけたんじゃなくて、先生が俺を見つけたんだから間違いないさ」

「うん。そう、そうだったね。じゃあ、おやすみ。こんなんか詰めないで、あんたも早く寝なさいよ」

「分かった。おやすみ」

 姉の足音が遠ざかり、人の動く気配も絶えて家中が寝静まった。

 おもむろに旅行鞄を引き寄せ、洗面道具や着替えの下から紙箱をひとつ掘り出す。箱の中身は黒いエナメルのストラップシューズが一足。

 去年の暮れに帰省した時の姪っ子の話題は、同級生のいている洒落たぱっちん靴でめられていた。

 ああ。いかにも女の子らしいと、素直に感動した。

 かつて人形を買い与えた時は、着せ替え遊びもママゴトも一向に始まらず、その代わり狒々退治ひひたいじごっこが始まった。その当時の飼い猫ミケを狒々に見立て、人形は勿論、健気けなげで美しく、あわれな人身御供ひとみごくうの役である。生贄いけにえは悪い狒々にさらわれたことにするために紐でぐるぐる巻きにされ、猫にしっかりとくくりつけられた。子供たちに散々追いかけ回されてめちゃくちゃに逃げた狒々ミケが、どうやら討取捕獲られた頃には、まったくもって無残むざんな有様となっていた。

 爾来じらい、姪っ子の土産物みやげものには繊細なものを避けるようになっていた。だから感激もひとしおに、次回の土産は絶対にぱっちん靴それにしようと心に固く決めていた。

 ところが椿事出来ちんじしゅったいである。


 なんの前触れもなく、須美は歩くことはおろか、立つこともままならなくなりました。お医者にも行きましたが、先生にも原因は分らないそうです。


 時節外じせつはずれに届いた姉からの手紙の内容に愕然がくぜんとした。特に医師が不明をとなえるくだりでは、絶望から目の前が真っ暗になった。が、それはあくまでも心象世界での話だ。手元は相変わらずに明るくて、文面に続きがあることだって、バッチリ見えている。


 これを機に少しはおとなしく、女の子らしくなってくれることを願ってみません。


「命まで取られたわけじゃあるまいし、大したことないわよ。こんなもん」

 姉のいつもの口癖くちぐせが聞こえてくるようだった。こんなのはでもないと姉が断じるなら、安心して任せておけば良い。思った通り再会した姪っ子には屈託くったく欠片かけらも見えなかった。むしろ馬力が付いてしまったきらいさえある。

 けれどさすがに、これを渡すことは叶わなかった。これではまるで坊主の花簪はなかんざしだ。靴は履いて満足するものではなく、その靴で地面を歩くから嬉しいのだ。今回は念の為にと、別に用意していた土産でお茶をにごした。

 永久に出番を失くした、それでも可愛い姪っ子の為に用意した品をすげなくする気にはなれずに、再び鞄の底へ仕舞い直した。ついでに易学の本もまとめて鞄に仕舞ってやった。

 良く考えたら、二年後にも姪っ子が今の様に気安く遊んでくれるとは限らないではないか。ふだんより長めに取ってある滞在期間中を、めいっぱい姪っ子と遊び倒してやろうと決めた。

 明かりを消して窓を開く。満天の星空が明日の晴天を保証していた。



「おや、今日は丁度良いお湿しめりだ」

 朝から目のこまかい雨が降っていた。星空に裏切られ、何だ雨かとえない気分で歯を磨いていると、やったやったと快哉かいさいを叫ぶ姪っ子の声が聞こえてきた。

「夕べ雨降あめふれ坊主を作ったんだ。ショウたちにも頼んでおいたから、きっとみんなの力が合わさったんだ!」

 このところ連続していた日照りのせいで、学校で植えた朝顔が双葉のまましおれ掛かっていたのだという。

 上機嫌の須美に傘を持たせ、彼女をおぶって小学校へ送って行った。

 ついでに復活した朝顔の芽と、その周辺にきずかれた塩の小山もいくつか確認した。

「なめくじの奴、双葉をたべちゃうんだよ。あっ叔父ちゃん、ほら、でんでん虫っ」

 なめくじは問答無用と死をって罪をつぐなわされたというのに、からを背負ったかたつむりはでられた上にあっさり勘弁かんべんされていた。

「問題は殻か?」

 そんなことを考察こうさつしながら、散歩がてらにぶらぶらと、来た道を引き返した。思いついて駅に寄ってみることにした。

 何か面白い読み物でも物色ぶっしょくしようと売店兼休憩所の様な一画いっかくを見やると、店番らしい年増としまの女がひとり居て、ふだん見かけない顔を見つけて好奇心を起こしたのだろう、こちらを待ち構える気振けぶりが見えた。

 ああいうのにうっかり近づくと、馴れ馴れしく寄って来て、あれこれ喋りかけてくるはずだ。剣呑けんのん、剣呑。派手な服装にしろ、濃いめの化粧にしろ、全部ひっくるめて、どうも苦手な手合いである。

 いかにも人待ちというていを装い、駅舎の中を、余裕を持たせてぐるうぅーっと見渡してから回れ右。再び雨の往来へと踏み出した。駅前の目抜き通りをいろどる商店も、今日はしょぼくれて見える。

「早く早く、早くと言うに!梅やの菓子は日持ちせんのだ、早く食ってしまわねば駄目になってしまう」

 粉糠雨こぬかあめに煙った向こう側から子供のごねるキンキン声が響いてきた。その隙間すきまを埋めるように、大人の男の声が何やら話し掛けている。ショウイチと聞こえた気がした。親が子供をなだめているのだろう。

 傘を少し持ち上げて透かし見ると、自分と同じような傘の下に、五歳くらいの子供を抱いた若い父親がひとり見えた。

「ああ、じれったい!」

 叫ぶと同時にもんどり打つと見えた子供の姿はまたたく間に掻き消え、代わりに持ち手のない真ん円な鏡が一枚、きらり反射光を放ちながら宙を飛び、ぬかるみの地面に《ふち》で着地した。そうしてそのまま、道の続く先へとまっしぐらと転がって行った。

 唖然あぜんとしていると、若い父親?がこちらを視返みかえる気配がした。ハッシと眼が合った。

 あらぁ、あきひこさん

 さっきの年増の店番が、傘をつかんでいそいそとこちらにやって来る。慌ててその場を離れた。

 さっきのは一体何だったのだろうか。自分は何を見たのだろう。そんな疑問もまとめて振り切るように足を速めて歩いた。

 町家まちやが切れ始める辺りから足を緩めた。この先にあるのは深町家の屋敷を別として、義兄あにの家と猫の婆ちゃんの二軒きりだ。

 間もなくお屋敷の前に差し掛かった。昨日までとは見る目がまるで変ってしまっている。それは勿論、あの拝み屋先生とやらに出会ったせいだ。

 足を止めて、しげしげと屋敷を見やる。

 義兄の話によると、深町家はやはりこの地ではかなりの名家めいかなのだそうだ。しかし先々代せんせんだいの頃に何か故障があって、今のこの有様なのだという。

「ウチも祖父じいさんの代にはお屋敷に出入りしていたそうだよ。けど、親父の代からは他所に勤めるようになって、疎遠そえんになったんだねえ。道で会えばそりゃあ、挨拶ぐらいはするけど、その他では付き合いの様なもんはまったくないなあ」

「その、故障と言うのは何なんです?」

「さあ…。祖父さんは俺の生まれる前に死んでるし、親父もお袋ももう居ないから詳しいことは分からないな。何、そういうの興味あるのかい?だったら、きさらぎ先生の本でも読んでみたらいいんじゃないかな」

「きさらぎ先生」

「ここらでは有名な郷土史きょうどしの先生でね、本も何冊が出している。そうそう、駅に行けば揃えて置いてあるんじゃないかな」

 駅に長居したことはなかったから、へえと思った。考えてみれば、新しいものはまず最初に駅に着くのだ、大抵たいていの物が揃っていると言われても不思議はない。

 さっきは別にそのきさらぎ先生の本を求めようというつもりではなく、絵入りの新聞でもあれば子供たちに喜ばれそうな気がしたのだ。しかしあの店番が居る限り、この先二度と列車の乗降じょうこう以外の用事で駅に立ち寄ることはしまい。

 それはさて置いて、書物しょもつにその名をとどめるほどの家がうた祈祷師があれなのかと、驚きを禁じ得ない。まだ駆け出してすらいないとはいえ、見込まれて卜占ぼくせんの道に入った身の上だ、観相かんそうには自信がある。どのような経緯けいいでお屋敷に呼ばれてきたのかは知らないが、あの人物には霊的な能力は一切いっさいない。あの人にしても、一体どういうつもりなのだろう。あの人、あの美しい人は悪人なのか?

「一度でいいから、声を聞いてみたい」

 思わず知らずにおのが口からポロリ、こぼれ出たつぶやき声にギョッとした。

 シーっ。

 立てた人差ひとさし指を口元に当てて、こそこそと辺りを見回した。当然、他には誰も居ない。

 けれどこうして屋敷を見つめていると、あちらからも見つめ返されている様な気がして何とも居たたまれない。

 傘で顔を隠すようにして、そそくさと家路いえじを急いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る