第9話9

 田舎町の小さな駅舎の一角いっかくめるここには、新着の新聞やその他の読み物、ありふれた日用品などがにぎやかに並んでいる。ぐに言えば売店で、商用なり歓楽の旅なり、途中下車か或いは現地到着の折に列車を降りた旅客が立ち寄り、ちょっとした不足をおぎなう為の場所である。しかしこの場所の用途はそれだけに止まるものではないらしい。会計の横の立て看板にミルクホールとある通り、それなりの調度品ちょうどひんが整えられてある。都会のティールムに比べれば幾分見劣いくぶんみおとりはするものの、居心地いごごちは悪くないと、顕比古あきひこは思う。彼を半ば強引に招き入れた女は今、鼻歌を歌いながら上機嫌で茶器を揃えていた。

「ごめんなさいね、顕比古さん。こんなじめついた日にはコーヒーの方が合うんだけど、生憎あいにくと豆を切らしちゃってて、お紅茶にしたわ」

 れ馴れしく呼び掛けてくる女の名前は失念しているが、確かにこの女とは面識めんしきがある。この町に到着した当初、連日入れ代わり立ち代わり投宿先とうしゅくさきに押しかけて来た野次馬連中の中に見かけている。ある意味印象的過ぎて、一度見たらなかなか忘れられない顔だ。

「はい、顕比古さん。お・待・ち・か・ねっ」

 目の前のテーブルの上に香り高い真紅のお茶が供された。脚付あしつきの洒落しゃれた形の茶碗の受け皿の上に、銀紙に包まれた親指の先ほどの大きさの固まりがふたつ乗っている。

「マロングラッセというそうよ。甘く煮た栗の実のお菓子でね、洋酒も使っていて、それがこのお茶に合うのよ。それをかじりながら召し上がってね」

「みよ志屋さんの看板商品ですね。これは嬉しい」

「あら。良くご存じなのね」女がくすくすと笑った。「じゃあ今、みよ志屋さんが休業している事も知ってらっしゃるわよね?」

 知っているも何も、みよ志屋に休業を勧めた張本人が顕比古なのである。

 町長が言うように、この地を襲う呪いや祟りが本当に有るのであれば、何かしらが“見える”はずなのだが、それらしきものは皆無かいむだ。にもかかわらず、影響が出るところには出ている。

 みよ志屋の主人はその心情を“心が折れたと”と表現した。

 まだ四十代に差し掛かったばかりで体力も意欲も野心も充分過ぎる位なのに、まるでぽっきり折り取られたように、菓子作りへの興味が消え去ったのだと、泣いていた。

 とりあえず呪われた土地?由来の怪異の可能性をかんがみ、みよ志屋の主人に転地を勧めてみたという経緯ゆくたてである。

「買いめしといてホント良かったわぁ。貴重品きちょうひんよ、それ。今度はいつ、みよ志屋さんが開くか分らないんですからね、出来るだけ味わって召し上がって。にしても、みよ志屋さんが戻って来るまでてば良いんだけど、どうかしらねえ」

 みよ志屋が将来この地に帰って来るかどうかは、神のみぞ知る、だ。

勿論もちろん、有難く頂戴しますよ」

 顕比古は余計なことは言わずに栗菓子を齧りつつ、供されたお茶を賞味しょうみした。その間ものべつ幕なしに意味のないお喋りを繰り出す女の言葉に適当な相槌あいずちを打ちながら、しばし感慨かんがいふけった。

 ―どうにも不可解だ。

 怪異かいいと言うのなら、この女の顔こそそれにふさわしい。鼻筋をさかいとして、この女の顔は真っぷたつに割れているのだから。

 パッと見薄気味悪いが、これは案外ありふれた光景である。他人からすればうらやましい限りの人生を送っているように見えても、当人の感情は明後日あさっての方角を向いている場合がある。

 田舎町の駅舎の中に喫茶室を設営して、それなりに趣味の良い空間を実現出来る才能はまれである。それでもこの女はおそらく、それも認められずに、自身に強い不満を持っているのだ。

 たぶん平常へいじょうに近い左の顔が表向きの顔で、血の涙を流しながら歯噛はがみしている右の顔がこの女の本心だろう。このまま放置した場合どうなるのかと言えば、ころころと様相ようそうを変えるこまかな傷病しょうびょうわずらわされ続けるか、一息に大病を患うか事故に遭って命を落とす。或いはおかしな人間とのえんつながって理不尽な災難に遭うかの、いずれであろう。なぜなら、自分への不信とは自身へ向けた呪詛じゅそであるからだ。受け手と送り手が同一であれば、誰にも止められはしない。

 そこまで見通みとおせて何もしないのか?との苦言くげんもあるかも知らないが、こちとら商売である。慈善事業じぜんじぎょうなどいとなんではいない。相談を持ち掛けられたなら話は別だが、基本的には何もしない。

 持ち前の才などない顕比古は、努力と修練しゅうれんによって今の仕事をしている。そもそもただ人であるし、不快なモノを見続けていると重大な心の傷となりかねない。怪異を見る為に自身にほどこした術を一旦く事にした。

 厚化粧が多少気になるものの、女はそれなりに美人だった。まあ、それよりもなによりも、まともな人間の顔であるというだけで有難さを感じる。

 怪異といえば。正一位しょういちいもそのたぐいの者には違いなかろうが、今ひとつ顕比古にはピンと来ない。それが何故なのかはいまだ思い当たらない。

「今日はきっと一日中ひまだわね。雨だし。ひょっとしてこれって、明日も続くのかしら」

「今朝はもうひとり暇そうな人物が居ましたね」

 先刻せんこく雨の中で行き会った若い男。彼には出現しようと意図いともしていないはずの正一位の声が聞こえ、姿も見えていたようだった。ああいうのが俗に感が強いだとか、霊感があるだのと言われる人間なのだろう。顕比古には持ち合わせのない才能だ。あの男と話をすれば何か参考となる考えも聞けるかも知れない。

「えっ。ああ。あの若い子のこと?違うわよ、彼は女の子を小学校まで送って行った帰りなんだから、当てもなく歩いていた訳じゃないわ。本陣の隣の…、何てったっけ。まあすぐ隣の家の親戚の人みたいね。年に一回か二回は見かけるかな」

 本陣、隣、小学生の女の子が居る家。顕比古は素早く頭の中に覚え書きを残した。

「そんなことより昨日のあの本はお役に立てたかしら」

「まあ、今回の事件の輪郭りんかくとらえる上で大いに参考になりましたよ」

 少なくとも、この集落しゅうらくの最年長者であるお絹の昔話の裏付うらづけが取れる程度には役に立った。

「あらぁ、事件だなんて大袈裟おおげさね。たまたま似たような時期に具合を悪くした人が続出したというだけでしょうに。本当に、みんな騒ぎ過ぎなのよ」

 女の言うとおり単なる偶然の重なりだったとして、町の有力者の家に火を放つ程にうったえかけたい不安や不満とは一体何だ?何がそれほど人々の恐怖をき立てるのかが謎である。

 今回の件はそれがきもだろう。

 人には想像力があるばかりに、ただ暗いだけの物置の中にすら怪しい存在を見いだしてしまう。その正体を早々につかみ、町の人々に知らしめればこの騒動も終息しゅうそくに向かうはずだと顕比古は考えている。

 彼の役割は人々が闇の中にしかと見たと訴える怨霊おんりょうどもをもとに引きずり出し、ほらこれがそれですよと尾花おばなを示してやることだ。

 そうして、そうするための手掛てがかりは、どうやらこの地でかくりょと言いならわされていたかくざと周辺しゅうへんにあるらしいことがぼんやりと分ってきた。とは言え、それ以上のことは一向いっこうに分らない。一縷いちるの望みとして、隠れ里の生き残りが現在も本陣で養われているという話を聞いたし、そこが障りの震源との噂も耳にした。しかしそれは、まったくに納得のいかない話だった。

 それこそ縁もゆかりもなくして何十年と面倒を見て生かして貰い、恩に着ることはあれども、如何いかなる理由であだを成す?元より他人の心など解かりようがないのだけれど、自分の心をって想像しても、まるでうなずけない説である。根拠とするには最も信の置けない説だ。大体だいたい、有るかなきかも判然としなかった隠れ里は、その痛ましい終焉と共に初めてその存在を明らかにしたのではなかったか?それまで人の行き来があったわけでもない、未知の土地の一体何が障るというのか?何かまだ伏せられている事実があるということなのか?だとすれば今は、限りなくお手上げに近い状況だ。

 隠れ里はすで跡形あとかたもなく、それから随分ずいぶんと時もってしまった。

 その時代に立ち会った者で今も残されているのは、当時幼かった者ばかりで記憶は曖昧模糊あいまいもことしている。くわしい事情を知っていそうな手合てあいはそうじてとっくに鬼籍きせきに入っており、頼みのつなのお絹については他所よその土地からとついでくる以前の出来事などまったく知らないのだそうだ。

「あっ」

 放っておいても勝手に喋り散している女の眼線が町側に面した窓外に止まっている。

「どうしました?」

「顕比古さんの興味を引くかどうか分らないけど、すぐそこを歩いているのがきさらぎ先生のお嬢さんよ」

 雨にくすんだ駅前の目抜き通りを、人目を引く真っ赤な雨傘を差し掛けながら、しかしその足元は無粋ぶすいな黒ゴム長という出で立ちの女性がひとり歩いて行くのが見えた。

「うふふ、嫌だわ。お嬢さんなんてこそばゆい。もうそんな歳でもないしね。あの子あたしの同級生なのよ」

 昨夜紐解ひもといた書物しょもつの、素朴そぼくな文章をなつかしく思い出す。

 なるほど…。何の矛盾むじゅんも感じない。

 あのような本をものする人の娘にふさわしく、行き過ぎる女性の横顔は清潔せいけつな美しさをたたえていた。



「いい日和ひよりだねえ」

 煙るように降りしきる細かな雨に包まれて、田も畑もほっと息をついているように見える。昨日までの日照りにやられてすっかり意気地いくじらしていた雨蛙たちも、今朝は早くからやかましく鳴き交わしていた。

「ちょうどいいお湿しめりだよ」

 こればかりはお金で買えない天の恵みである。

 おきぬは自身で用意した小皿の上から漬物つけもの一切ひときれつまみ上げ、口の中へ放り込む。パリリと噛んだ。これも自分で淹れたほうじ茶を大ぶりな湯飲みからずいっとすすり込む。

「ああいい漬かり具合だよ、美味しいねえ。ふうぅ…」

 以前だったらこんな日は、息子の嫁と孫息子の嫁と三人して三々五々さんさんごごと、自分の針箱はりばこを持ち寄って、時々おやつをつまみながら賑やかに時を過ごしたものだった。

 今、お絹は自室に独りきりだ。

 正直、息子の嫁とはそれほど仲の良い方ではなかった。それが、孫息子の嫁の千代子ちよこがお絹たちに魔法をかけたのだ。

 千代子は手先てさき器用きようで、裁縫さいほう得意とくいで、その上、ちょっとした工夫くふうさいを持っていた。彼女の手にかると、ふるびてせた着物の切れはしや焼けげをこさえて捨てるしかなくなった座布団ざぶとんさえ、見違みちがえるほど洒落た小物に生まれ変わるのだ。

 当の千代子は何の苦もなくすいすい思いつくらしいのだが、世代の古い嫁姑よめしゅうとめからするとそれは、青天の霹靂へきれきともいうべき事態だった。

 そうとはいえ徐々と見慣れてくると、すごーく簡単そうな作業に見える。

「ねえ、千代ちゃん。これとそっちのとをはぎ合せたらちょっといい手提てさげになりそうよね?」

 何の気なし、ふと思いついたことを口にすると、

「わぁ。大きい義母かあさん、それいいですね。さっそくやってみましょうよ」

 千代子はさっさと取り掛かる。

「出来たよ、千代ちゃん!」

「まあ、やっぱり。大きい義母さんのみ通りに素敵すてきなのが出来ましたね」

 それは、お絹自身が思いえがいたものとは段違だんちがいの出来栄できばえとなった。千代子が上手に誘導ゆうどうしてくれるからこそなのだが、められればやはり一層誇いっそうほこらしい。それを見ていた孫息子の嫁だって、俄然黙がぜんだまっていられるわけがない。共通の楽しみが出来たら話題にも困らなくなり、明るく気の良い若い嫁にき込まれる形で、新旧しんきゅうふたりのしゅうとめの仲は上々じょうじょうとなった。

 しかしそんな生活も、例の“さわり”とやらのせいで台なしとなった。

 ぱりぱりバリバリぼりぼり。ずずっ。ごっくん。

 皿の上から矢継やつぎ早に取り上げた漬物をどんどん口の中に詰め込む。まるでカタキを打つかのように噛みしだき、お茶で一気に飲み下す。

 おや。

 細く開いた窓の外を何かが通り過ぎた。それほど近くはないが遠過ぎもしない。田んぼをへだてた向こう側、あぜではなくて本通りを赤い雨傘が駅の方角に向かっていた。あれには見覚えが有る。

登紀ときちゃんは今日も本陣参りなんだねえ」

 思わず口にしてみて、うそ寒さに背中がふるえた。

 本陣といえばこの地を代表する家柄だ。屋敷も広大こうだいだし、代々やしなってきた名誉だって易々と尽きるものではない。けれど今は没落した家の印象をいなめない。お絹がその姑から聞かされた御大家ごたいか逸話いつわはすべて、彼女が嫁にくる以前の出来事だった。現在の深町家の使用人といえば古参の女中がひとりだけ。家の敷地を除く地所ちしょのあらかたも今は手放して、現当主は町役場の官吏かんり勤めだ。嫁の来手きてもあるまいとまでは言わないものの、嫁の毛並けなみを云々うんぬんするような立場ではあるまいと思う。

 すぐに言えば、お絹は登紀子ときこ深町家ふかまちけへ嫁ぐものと信じてきた。

 若くてふわふわしている時期があったとして、人の寿命はほぼ決まっているのだ。自分の人生をどう過ごして、終わりはどうしようかと決める時期は必ず来る。今流行の恋愛どうこうになど、意味はない。自分を良く知る相手と安心して過ごすことこそ最良だとお絹は思っている。

 ところがどうして、繁明も登紀子も未だそれぞれに独り者ではないか。

 どうにもこの世はままならぬものらしい。

 お絹はお茶を淹れかえるために座を立ち、窓を閉めた。



 ただいまあ。ふぅ。

 辺りに人など居ないのだから、いちいち口には出さない。無言のまま一息ついた。

 本陣の玄関は夏の間、日中はほぼ開けっ放しだ。雨の日も、酷い吹き降りでもなければ閉めることはない。

 登紀子は三和土たたきの上に点々と続く水に濡れた足跡を見つけた。

 それは上りかまちまで続いており、辿った目線の先には、こちらに爪先を向けてきちんと揃えられたゴム長が一足置かれてあった。傘立てには男持ちの大きなコウモリが差さっている。

 登紀子は自分の傘は畳まずに、広げたままで三和土の隅っこに据え置いた。ついでに笠立てのコウモリもそうしておく。

 空気がひんやりとしていた。今日は幸い蒸してはいず、夏の小休止といったところだ。

 お伽噺とぎばなしの鯛やヒラメ、乙姫までも出払ってしまったら、竜宮もこんな具合になるだろうか?水底に沈む御殿の、冷たい水に満たされた薄暗い廊下を、留守番に残された亀になったつもりでノロノロ歩いた。

 こんなおかしなことを考えてしまうのは、昨日が賑やか過ぎたせいだ。

 平岩を逃がす為に結託けったくした役場の職員がこぞって押しかけて来て、終日会議会議の連続。おかげで登紀子たちも一日中、お茶とおやつに軽食の給仕でてんてこ舞いに忙しかった。町長宅放火事件以来の騒がしさだった。

 それが今日は一転してひっそりと静まり返っている。

 本来これがいつもの様子なのに、それが何とも切なく淋しく感じるのだ。

 ユラユラ歩いて茶の間を覗いても、お勝手に行っても、誰にも会わなかった。

 お客が来ているようだったから、わざと客間には行かなかった。

 昨日から閉じ籠ったきりの町長の部屋の前に行くと、朝に置いたぜんがそのまま有った。

 味噌を塗った焼きむすびにすれば一日は持つから、まとめて作って置いといてはどうかと、ひきが言っていたが、なるほどその方が手間ははぶけそうだ。

 膳を片付けて、ひとまず自分の為にお茶を淹れた。

 静かだった。

 子供の頃はこの屋敷も今よりずっと賑やかに感じていた。重ちゃんと深町の小父おじさんが居て、小母おばさんもいて、おじいさんにおしげさんに自分の父と母。それからかなめさんと、栗崎くりさき先生。ああ、そうだ!今日のお客は栗崎先生ではないか。先生は月に一度要さんを診るためにやって来る。先生のお父さんの大先生から引き継いで、五十年以上もずっと―。

 まだそこまでの歳月を生きていない登紀子には想像もつかない、眩暈めまいがしそうな年月だった。

 自分の為に入れた熱いほうじ茶をすすりながら、ふっと息をついた。

「違うよ」

 声に出して呟いてみる。

「人数なんかじゃないんだ!」

 小父さんもお爺さんも、ウチのお母さんもこの世から居なくなってしまった後だって、この屋敷はこんなに淋しくはなかった。ある日から重ちゃんの人が変わったようになって、それからなんだ、こんなになってしまったのは。

「一体なんでよ?何があったってのよ、重ちゃん?」

 覗いた湯飲みの中には、自分の顔と天井しか映っていなかった。

「あたしにも話せないこと?」

 ぽろりとこぼれた涙の一粒が、登紀子の膝に染みを作った。



 そおぅれっ。

 よいしょおぉ。

 もういっちょう!

 どっこいしょおぉっ。

 本陣の奥座敷から、威勢の良い掛け声が響いてくる。

 声だけ聞いていると時ならぬ餅つきでもしているのかと思われる。しかし、丸めたり伸ばしたり、ひっくり返されたりしているのはもち米ではなく要さんなのである。

 今日は月に一度の栗崎先生の往診の日だ。先生は、要さんのことを頭の天辺から足の裏まで隈なく診る。

 栗崎先生とお重のふたり掛かりで要さんを抱き起してうつ伏せたり、背中に蒲団をかって座らせたりする。菊枝きくえが必要に応じて要さんの着物を脱がせたり着せたりしながら先生の診察を助ける。

 なかなかの肉体労働にも係わらず、弱音を吐く者は毎度ひとりも居ない。

先生は本職の医者で、菊枝とお重は普段から褥瘡除じょくそうよけにしょっちゅう要さんを転がすことが長年の習慣となっている。

 眠りこけたまま何十年も生きている人。

 単純に生きているのが珍しい人。

 栗崎先生はふと微笑んだ。

 父は頭をひねりながらもこの人を診察し続けていた。それが自分の代になっても、相変わらずに生きており、まだまだ死ぬ兆候も気配も見えない。生命とは非常に興味深い。この商売は、辞められないほど面白いかも知れぬ。

 栗崎家は別に医者の家系という訳ではなかった。けれど、要さんの存在が不思議過ぎて栗崎は自然と父親の仕事を継いでしまった。

 要さんはずっと眠っていただけだ。

 これからもそうだろうし、そうしていずれは、深町家の人々のことも、栗崎の人生を決めてしまったことも一切知らずに逝くのだろう。

 栗崎先生は哲学に興味を覚えたことはない。但しこの頃は、生命を主題に据えるとその限りではなくなってきた。

 俺も歳をとったということなんだろうなあ。栗崎先生はそこはかとない落胆を感じつつ、心の内でそっと独りごちた。

「先生、手がお留守になっていますよッ」

 ぴしりと飛んで来たお重の声で我に返った。

「今日は朝昼抜きなんでなあ。さすがに頭も何も働かなくなってきたようだ」

「心配しなくても、召し上がりものならちゃあんと用意してありますよ」

 菊枝がふくふくと笑いながら保証した。



 ゴム長がすっかり痛んで使い物にならなくなっていた。これはまったくに出不精の祟りに他ならない。なるほど娘が時折口を尖らせるのも無理はない。

 已むなくきさらぎ先生は下駄ばきで出ることにした。玄関の引き戸を開け、ひとわたり辺りを見回してみる。しめしめ思った通りに人っ子ひとり見当たらない。この雨で田んぼも畑も今日は休みだ。

 暑くなく寒くもない。雨に煙る田園の中の道をコウモリ片手に足を濡らして歩いた。泥んこ遊びにはとうの立ち過ぎた年齢となっても、足元の感触が酷く懐かしい。人の記憶とは凄いものだと思う。忘れたからといって、決して失われるものではないのだ。きさらぎ先生は先日それを目の当たりにしたばかりだ。

 あの婦人は蛁呼ちょうこと名乗った。

「わたくしどもは憑き物落としだとか、御祈祷ごきとうといったことは一切致しません」

 蛁呼は鈴を転がすような声できっぱりと言い切った。

「わたくしがもといとしているのはとある学問なのですが、人様から見れば少々胡乱うろんなところがございます。それでえて拝み屋の看板を揚げておいた方が、かえって解りが良いと申しますか、すんなりご納得頂けるという具合なのです」

 そう言われても、きさらぎ先生としては納得も何もない。

 それにしても美しい声である。ずっと耳を傾けていたくなる。

「はあ…。では、普段は主にどのようなお仕事をなさっているのです?」

「然様ですね。失せ物探しなどが一番多いでしょうか」

 祈ることはなくとも、占いやまじない程度はするということなのだろうか?

「いえいえ、そのようなことも一切致しませんのよ。簡単に申しますと、ご本人に思い出して頂くのです。わたくしどもはつまり、そのお手伝いをするという訳なのです」

 益々分らなくなった。きさらぎ先生が眉根を寄せると、蛁呼はしたり顔で微笑んだ。

「ねえ、胡乱でございましょう?」ころころと文字どおり転がるような笑い声を立てた。「如何でしょう。百聞は一見にしかずと申します。試してみませんか」

「試す、とは?」

「どなたにでもひとつやふたつ、失せ物に心当たりはございましょう?別に直ぐに要るものでなし、探していなくとも、ああ、あれはどこに仕舞っただろうかと思う程度の物でも」

「そう言われてみれば確かに、誰しもそんなものぐらいあるでしょうな」

 実は娘に任せっきりのきさらぎ先生には特段思い当たる物はないのだが、登紀子が家中の物入れを引っ掻き回している光景は割と良く見かける。

「然様…モノではありませんが、どうにも記憶が曖昧ですっきりしないことがあります。そんなのでもお手伝い頂けるのですか」

「勿論。それも一種の失せ物と言えましょう」

 そうしてきさらぎ先生は褪せた記憶をきれいに取り戻した。

 実に驚くべき学問の力に触れて、先生は止むに止まれずこうして再びあの婦人に会うために出掛けて来たのだ。



 あの噂は本当だった。

 最初に聞いた時はまさかと思った。

 あんな出不精で人嫌いな感じの人が、わざわざそんな集まりに出掛けて行くなんてことあるはずがない。草抜きをしている最中に耳に入ってきた話だったから、次の作業に移った頃にはすっかり忘れていた。

 明け方から降り始めた雨のおかげで、今日の畑仕事は休みだ。急にぽかんと暇になると手持無沙汰てもちぶさたでいけない。つくろい物があるのは知っているが、どうにも気が塞いで針箱に手をつける気になれない。

 たまの休みだし、夫は放っておいてやるのが親切だろう。姑は独りでいいようにしている。息子は嫁の気晴らしのために汽車で遠出をしていった。このところずっと元気を失くしている嫁も、少しは良い目をみるべきだ。そんなに多くはないが、息子にはこっそり小遣いを渡して送り出してやった。それからはさてどうしたものか、することがない。

 ああそうだ。回覧板。

 隣から回ってきた時にちゃちゃっと見て、どうでもいいなと思った。さっさと次へ回すつもりが、忙しさにかまけてそのままになっているのを思い出した。

 確かいつでも持ち出せるように―。

 その時、ぱあっと外が明るくなった。

 雨が上がったのかと外を覗いてみると、雨は相変わらず降り続いていた。

「狐の嫁入り?」

 そんなものであるはずもなく、雲が一時切れただけの様だ。つかの間の光は呆気あっけなくしぼみ、何事もなかったようにすうっと元の薄闇が辺りを包んだ。

 おやっ。

 他に人気もないから余計に目立つ。それでなくとも非常に珍しい人が雨の中を歩いていた。きさらぎ先生だ。いくら変わり者とはいえこんな天気に散歩でもないだろうし、さりとて畏まった用向きの外出にしては身形を構わな過ぎる。

 暇にかまけて好奇心に従うことにした。

 畑の中を行けば気付かれることなく易々と跡をつけられる。農家に混じって暮らしてはいるが、先生は元々役所勤めの人だったし、田畑に寄りつくこともなくて、駅前に続く道を真っ直ぐと進んで行く。見失う心配はない。

 一町も進んだところで、きさらぎ先生が道を折れた。その先にあるのは椚屋くぬぎやだ。

 本陣に次ぐ大家たいかで、屋敷も広いしそれに見合って所帯も大きい。この頃偉いおはらいの先生をお迎えしたのだと、使用人を使って隣近所に吹聴しては大いに相談者をつのっていたことは知っている。本陣のような名誉はなく単なる金持ちの椚屋は使用人たちからはへいこらされていても、それ以外の者からすれば生活様式が違い話も合わず、金の持ち合わせ如何いかんで態度を変えてくる気風きふうが、ずっと倦厭けんえんされてきた。畑の噂雀によると確かに最近の椚屋は人の出入りが多いそうだ。きさらぎ先生の背中から目を離さずにじいっと見ていると、先生は本当に椚屋に入って行ってしまった。

「ホント…なの?」

 あんなちゃんと印刷されて、大きな町では書店で普通に売られているような本を何冊も出している学者先生も信用するというのなら、椚屋の“偉いお祓いの先生”とは一計に値するのかも知れない。

「千代子ちゃん、何とかなるかも…。ううん、あたしがきっと何とかしたげるからね」

 きさらぎ先生に続きいざ行かん、と畑の外に踏み出そうとして危うく思い留まった。粉糠雨こぬかあめの中、着の身着のまま傘も差さずに畑の中を縫って来たのだ。身体中がずっくりと濡れており、髪だってきっと大変なことになっているはずだ。二番手とはいえ椚屋もいみなで呼ばれるとおりに相当の大家ではあるし、このまま行くのはさすがにまずい。身繕いのために一旦家に引き返すことにした。

 土間の小上がりに回覧板を見つけた。

 ああこれだ、と手に取る。さっきまではコイツの始末をつけるつもりだったのだ。改めてじっくりと内容をあらためる。町長が招聘しょうへいした拝み屋の名簿と人物紹介が連ねてある。

 名簿といって、どこの世界にこんな名前の人が居るのだと思われる奇妙な字面が並んでいる。しかも読み方すら分らぬ。

 滞在先から辿ってみることにする。

 あった、椚屋!名前の欄に指を滑らせる。

 蛁呼

「―…」

 意気阻喪いきそそうしてしまいそうだ。

 でも、あのきさらぎ先生が支持しているのだと気を励まして紹介文に目を通す。元々読書に親しむ質ではないから、読むというよりも紙面を目で嘗めているのに近い。

 ―若き頃には神経学の権威長谷川博士の下で勉学に励む―

 紙の上を滑る目が博士の二文字に引っ掛かった。他にも科学だとか実験など角ばった熟語が多く散らばっていた。神仏がどうとか霊性が云々等々の、案の定な記述で塗り固めて紹介されている他の先生様方とは明らかに一線を画している。

 ほうらやっぱりこの先生は…何という名前なのか読めないが、他とはひと味もふた味も違うのだ。

 身支度を整え、回覧板を片手に傘を差して通りに出た。

 こうしてみるとなんとまぁ、自分に都合の良い手札が揃っていることか。いきなり訪ねていくよりも回覧板が良い口実となるし、告知されている内容からして相手に水も向け易い。まったくもって幸先が良い。

 自分は正しい道を選んだのだと深まる確信に胸を膨らませつつ、椚屋へと続く道に曲がった。



「兄貴、兄貴、居るかい?」

 何故だろう、呼び掛けようというのにささやき声になっている。

あまりにも静か過ぎると、人間は声をひそめる仕組みになっているのだろうか。

「ガアッ!」

「うわあっ、びっくりしたあっ!黒助くろすけのバカ、脅かすなよっ」

 暗い天井の上から環の爆笑する声が響いてきた。

「ここだ、倫太郎りんたろう。そこに縄梯子なわばしごがあるから上がって来い。階段の方は使うなよ」

 天井の一画いっかくが四角く切れており、そこから意外なほど明るい光が洩れている。光の下には上に昇るための木の階段も見えるが、その手前にまるで通せんぼするみたいに縄梯子が垂れ下がっている。

「うわあっ、凄い!」

 初めて使う縄梯子に四苦八苦しながらよじ登って来た倫太郎は、階上の様子に目をみはった。

 二階の天井の高い所が一カ所破れ、そこから差し込む外の光が屋内の様子を柔らかく照らし出している。良く見ると壁のあちこちが小さく破損しており、外壁から這い込んだつたが壁も床も、つややかな緑の葉で一面ふんわりと覆っていた。真っ暗で埃臭い一階とは違い、森の中に居るようなスウッとした空気が心地良い。

「倫太郎、板だけの床は踏むなよ。網を張っているところだけを歩け。天井に穴を開けたのは俺だ。かなり脆くなっているから、気をつけないと踏み抜いて下に落っこちるぞ」

「グゥ」悠々と階段を使って上がってきた黒助が、何故か応える。

「お前は軽いから例外だ。いざという時は飛べるしな」

「ねえ、兄貴。黒助ってひょっとして兄貴の鴉なの?」

「俺のって訳じゃない。けど、コイツを育てたのは俺だ。ソイツはその時死にかけていたからな」

「へえぇっ!?じゃあ兄貴は黒助の命のお父さんってことなんだね!」

 倫太郎にしてみれば感心しきりである。

 俺が穴を開けたなんて簡単に言うけれど、あんな高い処、どうやったらそうできるのか?落ちたらフツウに死ぬだろうし、倫太郎には怖くてとても出来ない。床を覆う蔦の葉の下には環の言うとおり、目の細かい網が渡されてあった。

「ここんとこ、暇だけはどっさりあったからなあ、古物を貰って網も俺が作った」

 凄い。

 この兄貴は役者張りの男っぷりも合わせて、きっと特別な人なのだ。

「倫、突っ立ってないでその辺に適当に座れ。今日のお梅婆うめばあちゃんの様子はどうだ?」

 聞かれて環を見返した少年の目は明るかった。

「そうか。良かったな」

 少年が頷いた。

 倫太郎は母方の大お祖母ちゃんに当たるお梅とふたりきりで暮らしている。

両親が居ないという訳ではなくて、家業に忙しい夫婦は子供の世話まで手が回らないのだ。それで彼は親戚筋でも当たり障りのないお梅に預けられることとなった。もうかれこれ五年になる。お梅婆ちゃんは倫太郎を可愛がるが、必要以上に構い過ぎず、放ったらかしにもせず、丁度良い塩梅で育ててくれた。

 ところが二年前くらいから少しずつ婆ちゃんの様子が変わってきた。時々婆ちゃんが人形みたくなってしまうようになったのだ。

 初めは何をぼんやりしているのだろうとしか思わなかった。話しかけても知らんぷりなのは、年で耳が遠くなったせいだろう。

 耳元で大声を出してみたが、ぴくりともしない。ゆすぶっても駄目だった。じゃあといって、倫太郎は婆ちゃんを叩いたりつねったりはしたくなかった。どうしたら良いか分らなくなって、取りあえず婆ちゃんの頭を撫でてみた。

すると、

「おや、倫。婆ちゃんにいい子いい子してくれるのかい?」

 婆ちゃんがにっこり笑って元に戻った。それからは毎度このおまじないで婆ちゃんを元に戻してきたが、最近はこれも効かなくなってきた。

 倫太郎は婆ちゃんの身の上に起っていることを、婆ちゃん本人には伝えていない。何度目のおまじないの時だったか、ある時

 ―倫だけは婆ちゃんをいい子いい子してくれるんだね。ありがとうねえ―

 婆ちゃんがそんなことを言った。その口ぶりや顔つきが何故か胸にこたえた。まるで今まで一回も褒められたことのない人みたいだったから。だから婆ちゃんが可哀想で、どうしても伝えられなかったのだ。他の誰に相談するのも、婆ちゃんに済まない気がして、このことはずっと倫太郎だけの秘密としてきた。

 けど、兄貴は違った。

 絶対に嘘のつけない黒助が懐いている人ならば、間違いないような気がしたのだ。

 だから環にだけは思うところを素直に打ち明けることが出来た。

「倫、お前は優しいんだな」

 いや。

 そんなんではなく、気が弱くて怖がりなだけだと思う。

「ほら、褒美だ。これをやる」

 うつむいた倫太郎の鼻先に突き出された環の手の上には、指先ほどの小さな包みが乗っていた。

 それには見覚えがある。ずっと前にお父さんが買ってくれたキャラメルだ。

 ―しかし。

 それよりも何よりも、環の声が近い。驚いて顔を上げると、かがみ込んだ環の涼しげな顔がすぐ目の前に迫っていた。

 さっき褒められた時には確か、少なくとも倫太郎が普通に歩いて十歩は離れた場所に環が座っていた。人の動いた気配も感じなかったし、瞬間移動したみたいだった。

 その時、今までよりも一段も二段も強い光が差し込み、辺りを白く照らし出した。

「おっ。雲が切れたか」

 環が立ち上がり、天井を見上げた。倫太郎もそれに倣って上を見上げると、旨い具合に雨除けとなっている蔦の葉を伝い落ちてくる小さな雨粒が、きらきらと輝いて淡い虹の半円を出現させていた。

「そうと、倫。お梅婆ちゃんには友達は居ないのか?婆ちゃんの友達になら、今のお梅さんのことを伝えておいても良いんじゃないか?」

 婆ちゃんの友達?

 ううーんと倫太郎は考え込んだ。

「居なさそうなのか?」

「多分。ウチの婆ちゃんは長生きのし過ぎなんだと思う」

「そうか」

「ひとりだけ。お絹さんって、婆ちゃんと同い年くらいの人は居るけど…。婆ちゃんはその人のこと嫌いみたいだし…」

「それじゃ仕方ないな。何か困ったことがあったら俺に言えよ。俺で助けになることも有るかも分らん。俺が構ってやれない分、…黒助が世話になっているみたいだからな」

 八…黒助は先刻から何が面白いのか蔦の葉叢はむらに潜っては抜け出し、潜っては抜け出しを繰り返している。おっと、何かに足を取られたか?唐突にグエェと悲しげに鳴いた。

「あーあ。何やってんだ、お前は?」

 呆れ声を出す環の足元で、倫太郎が優しく黒助の世話を焼いた。



「雨だ」

「うん。雨が降っている。おかしいな、どうしてだろう。今までこんなことなかったのに」

「こないだの女の人もね」

「変わったことばかりだな」

「面白いね。次はどうなるのかな?」

常闇とこやみが常闇でなくなるとか?」

「それはないよ」

「どうしてさ」

「初めてここに来た時からここはこんなだったし、それからずっと変わらない」

「どうしてそんなことが分るのさ?」

「そうか。ここを作ったのはお前じゃあないんだ。他の神様なんだね?」

「山と海でも神様は別々だし、かまども便所も別々で、とにかく人間に負けない位に数が居るよ」

「じゃあ、神様たちが喧嘩けんかでもしたら大変なことになるな」

「さあ、ね」



 暗闇の中で目が開いた。

 真っ暗で本当に目が開いているのかどうかも分らない。けれど、ああ夜なのだなと思った。

 まだ夜なのか、もう夜なのかを確かめようとして身を起こしかけたところでゴッチン!思いっきり頭をぶつけて目の前に火花が散った。

 ああ、そうだった。思い出した。

 鍛冶かじはもそもそと押入れから這い出した。

 座敷は薄暗かったが、照明もないのに明るいということは、今は昼間なのだろう。細く開いた窓の外は雨模様。静かなはずである。

 静寂とは無音を指す言葉ではなく、寂寞せきばくを指すのだと鍛冶は思う。

 とくちゃんはもう居ない。(平岩の下の名前は徳三とくぞうという)今日から自分は独りぼっちなのだ。

 もう中年も過ぎたいい大人の鍛冶の、“小柄”という身体的特徴には年季が入っている。乳幼児の頃から群を抜いて小さかったし、運動が苦手で声も小さく、男としてとにかく威勢いせいが悪かった。

 更に父方の祖母がお花の先生で、母方の祖母がお茶の先生ときている。そうした家庭環境から鍛冶にとっては幼い頃からお茶お花の稽古はするのが当たり前だった。 いかにも弱々しい見た目な上に、本気で女々めめしい男の子は周囲にすっかりめられて、同級といわず、上下の級も問わずに相当に嫌がらせを受けいじめられた。祖母同志の繋がりで両親が出会って鍛冶が生まれたのだから、感謝こそすれ恨む筋合いではないのだが…、複雑である。

 今にして思えばあれは、そこそこ小金持こがねもちの家のお坊ちゃんに対するやっかみ半分の所業しょぎょうだったのだろうなと、理解できる。

 まあ、今なら、な。

 当時は意味も分らないし、理不尽極まりなかった。そこをいつも助けてくれたのが、徳ちゃんだったのだ。

 徳ちゃん家はお花も作っている農家で、配達に来るお父さんやお母さんにくっ付いてくる徳ちゃんとは自然と仲良くなった。徳ちゃんは鍛冶と打って変わって大柄で、運動も得意だし、度量どりょうの大きい性格から、周りに一目置かれる存在だった。いつも助けて貰うお礼に、鍛冶は決して成績の良くない徳ちゃんの勉強を助けた。

 徳ちゃんの両親が事故でいっぺんに死んで、遠くの町に引き取られていった時には、世界が終ってしまったように感じた。

 けれど、よくよく考え直せば自分には両親を始め祖父母が勢揃せいぞろいで付いているではないか。徳ちゃんはこれから独りで頑張らねばならぬのだ。それなら自分だってとふるい立ち、そして今日こんにちがある。

 とは言え。

 またあそこからやり直しなのだなあと、鍛冶は溜息をついた。幼馴染との何十年ぶりかの再会に興奮し、ついつい調子に乗って甘え過ぎてしまったことを反省した。

 ぐぅう。

 腹の虫が泣いた。

 嬉しくとも悲しくとも、後悔の最中さなかにあったとしても人は腹が減る。 今がいつなのか分らないが、まず一昼夜は何も食べていないだろう。

 食を乞うにしてもまず身形を整えなくては。顔を洗いに行こうと襖を開けると、いい匂いが鼻先をくすぐった。香ばしい匂いが足元から立ち昇って来る。見ればそこには豆絞りの布巾を被せて、何かが置かれてあった。布を取り除けてみると、味噌を塗った小ぶりな焼きおにぎりの山が現れた。

 口中にどっとつばが湧き、また腹の虫が泣いた。

「おや町長、お目覚めかな」しわがれ声が上から降ってきた。

 顔を上げると鶴のように痩せた男がすぐ側に立っていた。本陣が呼んだ拝み屋一家のひとりだ。確かヒキとかいうへんてこな名前だった。明らかに偽名に違いない。稼業がアレだし、フツウの名前ではサマにならないからなのだろう。にしても、どこから思いつくのやら。

「昨日は御苦労でしたな。お役人様とはいかにも大変なお勤めだ。こうしてみると平民は気楽なもので、大事なことは役所に丸投げしておけば安心しておられる。結構な世の中であることに、今更ながら痛み入りますよ」

 今までこの男とは差しで話したことはなかったが、案に相違して、至って普通で奇矯ききょうなところは微塵みじんもない。

「恐れ入ります」

 会釈えしゃくする鍛冶の目の前に、枯れ木のように痩せ細った手首がにゅっと伸びてきて、焼きおにぎりをひとつ掴むと引っ込んだ。

「ところで町長、警護の御仁ごじんが危急の用でこの地を立ち去られたとか。お困りでしょうな」

 自然な所作しょさでヒキが鍛冶の隣にしゃがみ込む。そうしながら彼は焼きおにぎりを一口でたいらげた。いや、一飲みか?咀嚼そしゃくする気ぶりは見えなかった。

「差し出がましい申し出であることは重々承知ですが、あなたにウチの小僧をつけようと考えております」

 ヒキの手がふたつめの焼きおにぎりをつまみ上げ、己が口へと放り込む。

「この件は既に菊枝様にも相談済みです」

 モノを食いながら喋っているとは思えないほど、ヒキの口調にはよどみがなかった。やはりこの男は飯を飲んでいるのだ。

 ひょい、ぱくり。ひょい、ぱくり。

 皿の上に山を成していたはずの焼きおにぎりが、みるみるうちに消え去ろうとしている。鍛冶は慌てて皿の上からおにぎりをつかみ上げた。

「幸い、菊枝様からは大賛成の…」

 その時さあっと茜色あかねいろの強い光が差して来て、鍛冶もヒキもおにぎりをも、優しく鮮やかに照らし上げた。

「雨が上がったようですな」

 西の空が金色に輝いている。

 おや。

 ヒキの頭上にもなにかきらきらしたものがひらめいているのが見えた。目を凝らしてみる。

 蝶か。

 羽根の形からそう判じる。やはりきれいな茜色をしている。くまなくその色に染まっているということは、元々は真っ白な蝶なのだろう。

 わしづかみにしたおにぎりが、一体いくつ有ったものかは分らない。今は鍛冶の掌の中にぎゅうと握られて一個に固まっている。美しい夕焼け空を見物しながら頬張ってみると、米の甘みがじんわりと身体中に染み渡った。

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