第3話3

 南向きの座敷の中は明るい光にあふれて暖かく、自然と気分もなごむ場所であった。

 畳はほこりひとつ立たぬまでに綺麗に掃き清められ、艶やかな飴色に変じた柱からは手入れの良さが感じられる。ほのかに聞こえる薫香くんこうは、床の間に飾られた香炉から来ているものだろうか。

ゆえなきことではないと、あなたは先ほど仰いましたね。これがそうなのですか」

 嘘鳥の目の前には子供のように無垢むくな顔をした老人がひとり、布団の中に横たわり安らかな寝息を立てていた。

「この人が昨日お話ししたかくりょの生き残りで、例の障りの根拠です」

「お名前はなんと?」

「さぁ…。なにしろ助け出されてから一度も目覚めた事がありませんので、正確なところは誰にもわかりません」

 嘘鳥は唖然あぜんとした。ひとが眠ったまま何十年も生きていられるものなのだろうか。しかし自分が信じられないからといって、深町やこの町の人々を疑う訳にもいかない。

 ―ふと、違和感を覚えた。「正確なところとは、どういう意味でしょう?」

「発見された時、この人は小さな紙包みを持っていましてね」紙包みの上書きには日付と、それからかなめとあり、へその緒が入っていたのだと言う。おそらく生年しょうねんと名前ではないかと当時の人々ははんじた。「ちょうどわたしの父と生年が同じでしたから、はっきりと覚えていると、祖父は何度も断言しておりました」

「この方をお助けしたのも、やはり障りを恐れての事なのですか」

「まさか、その頃はまだ。この人はほんの少年の年頃で、単純にひとの哀れを誘っただけでしょう。障りというのは、今回初めて出て来た話なんです」

 人々に哀れまれて世話をされ、命は保っているものの、一向目覚める気配はない。数日かひと月の間の事であれば、弔いを出した後に残るのは、単なる昔話ひとつきりだっただろう。

 それが年を越え、年古としふようになると誰もが先ほどの嘘鳥と同様に考え始めるのは道理だ。

 これはなにかおかしくないか?

 自然と畏怖いふの対象となり、何かしらのきっかけがあれば、諸悪の根源ともなり得る人智を外れた存在。

「それなら、筋道すじみちは立ちますね」充分に、障りという発想に到る根拠になる。

 嘘鳥は“要さん”という名前なのかも知れない人物の顔をまじまじと見つめた。

 なんと切ない事か。

 この人は、なにひとつ知らずに眠っているのだ。自分が年老いた事すらもわからずに。

「婆っぱぁか?」

「えっ」

 突然の幼い音色に不意を衝かれ、嘘鳥は老人の寝顔からぱっと目を上げた。

 肩上げされた紺絣、髪を短く刈られた十歳前後の男の子がそこに立っていた。

「どうか、されましたか?」

 深町の声で我に返ると、もうそこには誰も居なかった。

 それでも、顔を上げた嘘鳥を見て、男の子は―しまった間違えた―確かにそんな顔つきをしたのだ。



 水音が聞こえている。

 ということは、また勝手にここに戻って来てしまっているようだ。

 ここは常闇とこやみだから、周りに一体なにがあるのかを要は知らない。

 多分、川が流れているのだろうと当たりをつけてはいるものの、スウッとするような水の気配も、湿った土や草の匂いもしないから、いまひとつ確信が持てないでいる。

「…おかえり」

 直ぐ傍でくぐもった声がした。

「うん。そっちこそ、いま帰ったのか?」振り向いたからって相手の姿は見えないのだから意味はないのだが、声のした方へ顔を向ける。「それで、どうだった?」

「…ほら。今日はこんだけ」

 闇の中から五つ六つ、ぽつりぽつり蛍火ほたるびが湧き出した。

 それほど強い光ではないのに、闇に慣れた要の目にはまぶしく映る。

「今日はかなりかせいだんだな」

「…まだまだ足りない」

「そうか」

 瀬音に混じってかすかに河鹿かじかの鳴き声が聞こえてきた。やっぱり近くに川が流れているのだ。



「こんなボロ屋でお恥ずかしい限りですけれど、広さだけは町の宿屋なんぞには負けませからね。どうぞ、ごゆっくり。おくつろぎくださいな」縁側から差し込む陽の光が、櫛目くしめの通った銀ねず色の髪を輝かせている。

「多大なご厚意こういを痛み入ります。ところで、あなたの事は何とお呼びしたら宜しいか?」

菊枝きくえとお呼びください。もう長らくその名で呼ばれた事がありませんから、まるで娘時代に戻ったようで、その方がうれしゅうございますね」

 嘘鳥たち一行は深町宅へと宿を移していた。

 菊枝と名乗ったのは深町の母君である。

 深町はそろそろ三十路みそじに手が届こうかという年頃なのだが、未だ独り身で老母と古参の女中との三人暮らしをしているらしい。

 所帯の規模から言えば深町宅であるが、彼の住まいは実際、邸宅と呼んで差し支えは無いだろう広大さを兼ね備えていた。昔は栄えた家だったのかも知れない。

「ほう。これはまた変わった味わいの…、実に美味い饅頭ですな」言うが早いか蟾の手は既にふたつ目の饅頭に伸びている。

 痩せの大食いとはよく言ったものだ。

 深町家の女中、おしげの淹れたほうじ茶を啜りながら環は半ば呆れていた。それでも透かさず自分の分と八咫に分け与える分とふたつ、饅頭を確保していた。さっそくに自分の分を割って口に放り込む。ほんのりとした塩気が餡の甘みをうまく引き立てている。

「本当だ、おいしい」

「お気に召しましたかね」何故か手柄顔のお重が蟾の茶を淹れかえる。

「これはこの辺りの名物ですかな?」

「いえいえ、これは懇意こんいにしているお宅のお嬢さんが拵えたもので、あたくしたちにしても珍しいお菓子なんですよ」

「きさらぎ先生は元々他所よそから来た人ですから、お郷の名物なのかもしれませんけどねえ」お重が補足する。

 そんな会話が飛び交う間も蟾の手も口も止まらず、とうとうひとりで菓子鉢かしばちの中身をきれいに平らげてしまった。

「そんなにお気に召したンなら、折を見てお嬢さんに所望しょもうしておきましょうかねえ」

「それは宜しく頼みたい」

 蟾の大真面目な顔つきに、菊枝もお重も笑い崩れた。

「登紀子さんも腕の見せ所と、きっと喜んでくれるでしょう」

 件のお嬢さんは登紀子という名前らしい。食いしん坊が絶賛するだけあって、なかなかのシロモノだと環も思った。帰りがけにでも、いくばくか包んで貰えたなら立派な土産物みやげものになる。そうすると、土産代も浮いて自分の懐も痛まずに済む。そんなさもしい計算が、環の頭の中で密かに動いていた。

 それにしても、いつ帰途きとにつけるのだろう。

 この町を襲う“奇禍きか”とやらが収まるまでか、それとも、これは己が手に余ると嘘鳥が音を上げてここを引き払うまでなのか。

 そんな事をおぼろに考えていると、気が付けばこの場は一層の盛り上がりを見せていた。

 人間、好きなものに関しては饒舌じょうぜつになる。蟾もその例に洩れず、話題が食に限られるとなると、途端に彼は造詣ぞうけいも深く茶目っ気たっぷりの魅力的な話者に大変身を遂げるらしい。

 貸席の場での態度とは雲泥うんでいの差だ。

よその土地の珍しげな料理や茶菓の話に菊枝もお重も興味津きょうみしんしん々と耳を傾け、実に楽しそうにしている。

 ともかく蟾が好人物として印象づけられたのなら、ここでの生活は安泰あんたいだろうと言う事だ。

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