短くてふしぎなお話
柊らし
「蒸発」
ガスコンロの前にひろげた折りたたみ椅子に腰をおろし、なるべく気取った顔で待つ。ステンレスのケトルがしゅうしゅう音をたて、吐き出された湯気の向こうにぼんやり見知った顔が浮かぶ。ずいぶん久しぶりじゃない。開口一番彼女は口をとがらせる。ガス止められたのかと思ったよ。
ごめんごめん。三年前に蒸発した恋人と、ときどきこうやって会話する。目の前でH2Oが気化している間だけ、蒸気の向こうに彼女がみえる。最初に気がついたときは驚いたけど、今ではもう慣れてしまった。おぼろげにゆらめく彼女が本物かどうかはわからない。わからないけど別にいい。変だなと感じることなんて、他にも数え切れないくらいあるから。
それで今日はなんの用? 彼女は言う。用事なんて別にないけど、役に立たない話をしようよ。僕は言う。同棲期間が長かったから、僕らはなんでも話しあえる。言えない台詞はなにもない。今どこにいるの? の一言以外は。
もうすぐお湯がなくなりそうだよ、と彼女が言った。僕はケトルを持ちあげて、ふたたび水道水で満たした。湯気が晴れ、ひとりに戻る朝と夜のはざま。落とし穴のような時間。青い炎を見つめながら、水面が泡立つのを待っている。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます