短くてふしぎなお話

柊らし

「蒸発」

 ガスコンロの前にひろげた折りたたみ椅子に腰をおろし、なるべく気取った顔で待つ。ステンレスのケトルがしゅうしゅう音をたて、吐き出された湯気の向こうにぼんやり見知った顔が浮かぶ。ずいぶん久しぶりじゃない。開口一番彼女は口をとがらせる。ガス止められたのかと思ったよ。

 ごめんごめん。三年前に蒸発した恋人と、ときどきこうやって会話する。目の前でH2Oが気化している間だけ、蒸気の向こうに彼女がみえる。最初に気がついたときは驚いたけど、今ではもう慣れてしまった。おぼろげにゆらめく彼女が本物かどうかはわからない。わからないけど別にいい。変だなと感じることなんて、他にも数え切れないくらいあるから。

 それで今日はなんの用? 彼女は言う。用事なんて別にないけど、役に立たない話をしようよ。僕は言う。同棲期間が長かったから、僕らはなんでも話しあえる。言えない台詞はなにもない。今どこにいるの? の一言以外は。

 もうすぐお湯がなくなりそうだよ、と彼女が言った。僕はケトルを持ちあげて、ふたたび水道水で満たした。湯気が晴れ、ひとりに戻る朝と夜のはざま。落とし穴のような時間。青い炎を見つめながら、水面が泡立つのを待っている。

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