第11話『run』

 あんよあんよの逃避行。ないものねだりはいざ知らず。


 重ね合わせた肌の、脈打った動きが規則的な寝息を立てていく。切れかけの電球のジジっと瞬く燐光が開いた瞼をたたく。


 隣に目を向けると、寝付いたばかりの花向がうーんと唸るようにないていた。

 それを意味もなくながめ、彼女の額に唇をあてる。


 こうしてユウは少女というものを知っていった。下書きのように、幾重にも線を重ね、ゆっくりと輪郭をつかんでいく。


 どんな表情で応対し、どんな目線を投げてやればいいのか、どんな言葉をかければ喜ぶのか、悲しむのか。


 以前はなんとなく掴んでいたそれをより詳細に、誤差なく。


 少年はそれを体系的に学んでいった。それまで異性というものにあまり興味をもったことはなかったが、普通の高校生ならばそれなりに知っておくべきだろう、と興味本位で。


 複数の絵の具を合わせるように、花向カレンという少女を通して、亜櫻ユウは『女』を知った。


「亜櫻ユウ!」という険しい顔つきの彼女が「亜櫻くん……っ」と物言いたげな表情にかわり、「ユウ、くん……」と次第に軟化していく。


 変わっていく彼女の反応は見ていて面白く、その後花向の扱い方が他人にも同通することを知ってからも随分と世話になった。


 案外、人間というものは御し易い。


 ブロンド髪を撫でながらも、ユウの胸内は冷めていた。

 特に異性というものは一度関係さえもってしまえば、こちらがどんな人間であろうとも、ある程度は目を瞑る。


 高飛車なはずの彼女の瞳は、会うたびに憂いを帯びるものになっていて、見ていて興味深い。


 それは新鮮だった。女というものを身体的に、精神的に味わっていく。

 亜櫻ユウにとってそれは今までにない経験であり、同時に見知った感覚でもあった。


 絵を一枚、描き切った後のなんともいえ虚しさ。


 達成感のなかにぽっかりとあいた穴のようにあるそれと似た虚しさ。

 その感情に言葉をつけるより先に、女が起きた。ゆっくりとこちらに微笑む。

 警戒を許しきった喜びの目だ。


 女の首筋に指を侍らせる。指の腹をうずめ、やわらかな感触に体を預ける。女がこちらを艶のある目で見つめ返してきたところで離した。

 そのままつつみこむように女の顎筋を滑らせて頭を撫でれば、猫のような反応が少年の手を追跡する。


 じゃれあい。それもひどく一方的なものだ。


 ユウの目はあくまで冷静だった。冷静に獲物を観察し、咀嚼する。

 花向を喰らう上で、副次品もあった。


 いく当てがなかったユウは花向のツテで家を借りたし、生活のお金なども彼女から得ていた。


 そうして何度目かの逢瀬を重ねて、少年は女を喰らい尽くした。


 愛らしいとは思わなかった。純粋な興味で少年は動いている。

 獣に、ひとのルールは当てはまらない。


 もうこの女の可食部はない。なので別の獲物探すのは必然だ。

 次に喰ったのは花向の取り巻き、髪の短い陸上部の方だ。

 理由は特にない。単純に視界に入る機会が多かったから。


 彼女はあまり僕のことをよく思っていなかったが、意外にもすぐに心を許してくれた。

 人間、案外話してみれば通じ合えるのかもしれない、とユウはわずかばかり感じた。


 だがそれも一晩が過ぎてからは歯牙にも掛けなくなったが。

 獣のこうべに女はたやすくかかった。すでに花向である程度の応用性を効かせた。猟は単純なものだった。いとも容易く彼女の四肢を奪った。


 そうして身体が女というものに慣れていくと、だんだん彼女たちでは得られるものが安く感じてきた。


 何にでも限度というものはある。食欲も同様だ。食らいすぎると、胃もたれを起こす。

 その頃には花向からの援助も絶たれていたので、小遣い稼ぎもかねて夜遊びをはじめた。


 刺激を求めて夜の街をうろつく。


 幸い、東京という街は夜にこそ輝く。そそるものはいくらでもあった。


「その顔なら男でもイケるんじゃない?」


 ある日のこと、そんなことを口にする女がいた。

 女に振り返る。ちぢらせた黒髪をかきあげて、女が首を傾ける。


 驚いた。そんな思考はなかったから。

 一度考えるように顎に手を寄せて思案する。


「男というのもありかもしれない」


 確かに、ある程度女は食ったな、その自覚はある。

 窓枠にもたれかかりながら、瓶をあおるユウに女はわらう。


「マジかよ。君、やばいね」


 その目は好奇というよりも、奇異の目が混じっていた。


「そう? ボクはべつに」


「ユウくんって変だよね。遊んでるくせにしては暇だし、好きぴつくるわけでもない……セフレだっていないでしょ? つくろうと思ってもない。そのくせ自暴自棄になってるわけでもないんだから、ほんとどうしてグレちゃったの、て感じ」


 おねーさんにはそう見えるんだ。ベッドに戻り、タバコに火をかけた女の横に寝転ぶ。

 煙がヤニ焦げた天井を満たす。なんとなく、それが苛立った。


「ボクはただ曝け出したいだけだよ」


「曝け出したい?」


 女が聞き返す。仕方なく応えた。


「ひとってのはどいつもこいつも心の弁にしばられてやりたいことさえまともにできない。女も男もそれは変わらない。それを促しているのは社会だし、だからこそどうしようもないけど、ぼくはそんな世界が大嫌いだ」


 だからそんなしょうもない枷ってやつ外したいんだよ、ぼくは。

 最後までは告げずに身体ごと顔を背けた。バカみたいな喧騒が窓の外には溢れている。


「ふーん、つまんないね」


「あ?」


 そんな彼の独白を女はどう受けとったのか。そっけない返事をもらすと、おもむろにタバコの火を消した。

 女が鼻で笑う。口から巻き上げた煙が宙を舞う。


 タバコの煙が女とユウの間をむんむんと立ちこめている。


 女を睨みつける。どういう意味だ、と問い詰める目だ。


「つまんないや、君。せっかく綺麗な顔してんのに」


 そういった女の顔。貶すようなそれでいて怒るような目。


 ああ、そうだった。女というものは気分屋で、ひどく冷めやすい。

 あれだけ激しく哭いた女の瞳は、ひどくさめていた。


 女の言っていることはよくわからなかったが、ただはっきりと不快だった。


 それだけいって、女はシャワーを浴びにいく。

 ユウはただ女の背中を睨み続けた。


 嫌いな煙草の煙だけが纏うようにあいつの香りを残している。


 結局彼女とはそれきりだった。べつに僕としてはどうでもいい。

 むしろ清々した。


 そこから男と関係を持ち出すのに、そう時間はかからなかった。


 女の発言があってかあらずか、後になってはわからない。


 需要というものは何にでもあるようで、相手はすぐに見つかった。


 すれ違いアプリで知り合ったその男は30代ほどの商社マンで、仕事終わりといったばかりのスーツ姿で現れた。


「君がyouくんだね、はじめまして」


 均一に整えられた微笑みは、嫌に作り込んでみえる。男の一瞥に僕は応えないまま、「じゃ、いこうか」という男の声でホテルへ向かった。


 関係を持つ上で抵抗らしきものはなかったのかって?


 はっきり言うと、ホテルへついた後からの記憶はない。

 ない、というよりは思い出せないといった方が正しい。


 曖昧に記憶しているのは、自分のものとは思えないほどの嬌声と体が内側から作り替えられていく感覚。

 開ききった両眼に映る天井。それがだんだんと麻痺していき、息が喉を通らない極限状態。


 暗闇でかすかに男の鈍い眼光が歪に笑いかけてくる。

 男は吠えるように、絶えずユウに言葉を投げていたが、彼のなかまでは届かない。

 抱かれる側になって気づいたのは、苦しみというものはとても俗物だということ。


 だってそうだろう。


 死んでしまう、そう思った次の瞬間に、男は果てて首の緊張もとれる。


 意識が飛びかけるその直後に襲われる、どうしようもないまでの現実てんじょう


 脱力しきった四肢の抜け殻みたいな、けれども確かに意識のある視界は、強烈な「生きてる」という実感を湧き立たせる。


 死を直前にして生を知る。なんて皮肉めいた実感が全身を満たす。

 少年の思考はすでに停止している。


 なのに、とても冴え渡っていた。


 それは限りなく、危うさを孕んだ眼。不気味なほどうつくしく、リアルだった。

 男からは10枚ほどお金をもらった。悪くない。


 自分はどうやら、こちらのほうが性に合っていたらしい。女との行為では得られなかった刺激に、獣は満足する。


 渋谷に新宿歌舞伎町、池袋のその先々。男たちと肌を重ねるたび徐々に弛緩する思考。


 正直、楽しかった。首が絞まる、殴られる。時にはそのまま放置されて脱水症状に陥ることもあった。


 呼吸ができなくなってじたばたとベッドを揺らし、寸で相手の腰が早まり、意識が真っ白になって死に狂う。


 まるで残唱、、。置き去りにされたセミの慟哭だ。


 果てた脳裏に浮かぶのは、晩夏に落ちゆくセミの死骸。


 仲間が死んだその先でなおも愛を求めるセミたちは、自分の命にとことん関心がない。


 いったいそれはなんのため。売れ残りにはそれすらわからない。


 いや、だからこそだろう。


 もう誰もいないからこそ、狂気をもって叫ぶんだ。


 自分はここにいるのだと。世界に刻むために。


 まるで僕らだ。彼らが虫ケラなら、僕らはきっと獣。


 ああ、獣だ。そんなやつらは獣だ。


 だけど滑稽なのは、誰もその事実に気づかない。薄々は気づいていながらそれを見せないように何千もの防衛戦を張り巡らせている。


 所詮、自分達が獣だということ認めたくないだけ。


 だからつまらない。


 そんな世界はこっちから願い下げだ。いっそ人間なんて死に絶えろ。ボクも含めて。


 そうして少年は一つの答えを得た。だからといって彼の人生が好転することはない。亜櫻ユウは彼自身の決断で、そういう生き方を選んだのだ。


 ひとは堕落する。亜櫻ユウも彼の慕った少年も、それは避けられなかった。


 だがそれが間違いだと、いったい誰が言えるのか。


 神など死んだ。それはニーチェが200年も前に言っている。


 この世は金と男女のもつれあい。遊んで盛って繰り返して、そうして時々涙を溜めて世界まどを睨む。


 つまらない人間さ。つまらない人生さ。


 けれど獣は知恵がない。だからこのままのらりくらりと生きていく。


 そうして、康介あいつに出会った。



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