第4話『but』

「じゃあ、どうしろっていうんだよ…」


 嗚咽を堪えるようにでた康介の問いを、中心街のビルはわらうように見下ろしている。

 帰ってきたマスターに起こされ、しかたなく店を出た。だけど呑み下せない熱はまだ康介を帰路に向かわせない。


 顔の筋肉が掴めない。泣きそうな顔を隠しているのか、妙に強張った顔面は夜の冷気にやられて鼻を赤くする。胃液がぐるぐると波打って息苦しさに苛立ちがつのる。


 ひとはひとを救えない。それで救えるのは自分だけだ。


 しまいには自分自身も救えなくて、こうしてここに立っている。

 そんなことはわかってる。解ってたんだよ。

 でもそれじゃ、目の前にあった「助けて」にオレはなんて返せば良かったんだ。


 ふざけやがって。どいつもコイツも。


 泣けなしの憎悪を力ない目で睨みつけた。けれどガラスに映るのは、そんな情けない康介の姿だけ。ますます惨めになる。


 街灯は暗い。劣化のした電光がヂリリとまたたく。

 主のいない蜘蛛の巣を眺め、その間にちらつく名前も知らない虫たちに眉をひそめる。


 まばらに見える人影の誰1人、康介に目を留めるものはいない。

 唐突な孤独が押し寄せて胸が苦しくなった。

 世界の誰からも必要とされず、誰にも認知されない。

 康介を支える自尊心はあの時ポッキリと折れている。だからひとに支えられないと、もう立つことができない。


 こんな時に限って、フラれた女の顔が浮かぶ。


 優しいひとだった。ちゃんと俺の話を聞いてくれて、いつも励ましてくれた。初めて本音を出せる相手だった。俺の過去も失敗も、すべて受けていれてくれた。自己肯定をなくした康介のことをその両手で包んで、ちゃんと愛してくれた。

 理想のひとで、このひとのためならやり直せると思った。


 でもそんな理想は長く続かなかった。はじめの一年で彼女は限界を迎えた。


 もう、わたしにかまわないで。そうありきたりな言葉で、その関係は終わった。

 自分の足で立てないことは、救われるということにおいて致命的だった。


 ネオンが咲く夜の繁華街で、やけどするような冷気に寂しさは一層積もる。

 きっとこのまま帰ってしまえば、抑え切れない感情に破裂してしまうだろう。


 気持ちを沈めるために千鳥脚をばたつかせ、ぶらぶらと夜の路地を彷徨う。

 大通りにでれば数分で駅だが、下手に駅に出ると幸せそうな人混みにたえられなくなる。できるだけひとのいない、あかりから離れた裏道を歩く。


 くたびれたシャッター街とラブホテル。90年代の名残は時代遅れという名の下に極限まで存在を薄めている。

 おかげで視界には電柱にすがる酔っ払いか家に帰るOLの背中しか見えなかった。特筆することもない日常。ようやく康介のもとへ安心が訪れる。


 だがそこで彼の意識を逆流する出来事が起こった。


「……っ」


 何に対する苛立ちなのか、酔っているせいで感情のコントロールが自分でもできない。

 ただ目前から向かってくる二つの影が男女だということに気づいて、再びが胃が唸った。いま彼が一番目にしたくない部類だ。


 拒んでいるというものはなぜこうタイミング悪く訪れるのだろう。

 もちろん無視を決めこもうとするが、近づくにつれて会話がいやでも聞こえてくる。


 喋っているのは主に男の方だ。ねっとりしたへばりつくような声に同性の康介でさえ不快感をおぼえる。

 よくそんなやつの隣に歩けるな。援交か? と部外者特有の不躾さで女に目を向ける。


 裏路地のせいで、街灯も少ないから2人の姿はよく見えない。まぁいい。通りぎわ横目ですこし見ればいい。


 タイミングを合わせて蛍光灯の灯りに女を見る。


 その途端ちくりと首筋に妙な違和感がはしった。徐々に顕になる女の顔。面影があった。女の纏った制服にじゃない、髪型でもない。瞳だ。


 女の目は死んでいた。自分を大切にするという器官が壊れて、何もかも諦めた眼差し。


 ついぞ掛かる男の声も通りすぎる康介の姿も女にとっては背景にすらないない。

 世界がすべてどうでもいい。そう決め込んだ怒りの目、そんな目をする人間を俺は1人しかしらない。


 酔いが一気に冷める。

 子供がこんなところで何をやっている。遅れてやってきた常識に、男の声が重なる。


「この通りにあるはずだからさ」


 言葉の意味はいわずともわかった。さっき通りすぎたラブホテル、廃れてはいるが営業中だった。

 そこまで考えて、自分の浅はかさにため息をはく。さっきまで考えていたことと、これからやろうとしていること。その両方にだ。


 フラつく足が踵をかえすのに時間はかからなかった。


 ——オレには関係ない。一瞬そんな声が漏れた。

 たとえば勘違いだったら? 2人は恋人同士で、妙な感傷に浸っていたオレの早とちりだったら?


 体が動いてから遅れてそんな思考がよぎる。


「だとしても女子高生と中年が歩いているのは問題があるだろ」


 目を逸らすべきだ。頭のなかでは理性がやめろと警報を鳴らす。

 それを強引に振り払って、一歩駆け出した。


 うるさい、うるさいうるさい。

 ありとあらゆる理由を酔いのせいにして、二人の間を割るように少女の腕を掴む。


 そこからは嵐のように力任せだった。

 びくっと魚のように跳ねた肩を強引に連れ去る。酔っているとはいえ、その身体はあまりにも軽すぎた。


 唐突な接触による少女の呆けた表情が重力を逆らう。傾いた身体が転ぶ前に二歩三歩と足がもつれる。


「——っ!?」


「いってぇ!?」


 少女と男の声が重なる。ちょうど少女に話しかけるために頭を低くしていた男はタイミング悪く顎に少女の左腕が突き刺さる。見事なアッパーだ。


 勢いを殺さずにしたせいで、男のほうは体制を崩したらしい。凹んだアスファルトに尻餅をついた鈍い音がする。状況が掴めずにあたりを見回している。

 そちらには目もくれずに、康介は少女の手を引いて走り出していた。


 ようやく背後から怒号が聞こえた時には、すでに2人の影は見えなくなっていた。

 一瞬少女がブレーキをかけたが、足の力が弱いせいで再び康介の方向に体が傾いてしまう。


 これではどちらが悪人かわからない。

 何度か少女が口を開いたが、こちらも必死だ。少女の言い分を聞いてやる暇はない。


 しばらく4つの足音だけがあたりを満たした。かつかつというローファの硬い音と、スニーカーの緩い足音。

 男が追ってくることも含めて、駅の方向に走った。しかし康介の健脚に男は追いつくことはできないだろう。


 ようやく駅の明かりが見えたところで、体力の限界を迎える。

 ぜぇぜぇとだらしない息を吐いて、脚に手をつく。ずいぶん久しぶりに走ったものだから、なぜか頭が痛くなってきた。


 汗をすこし拭って少女を振り返ると同様に手をついている。彼女のほうはとっくに限界だったらしく、息の切れも尋常じゃない。

 走った距離は2、3キロはある。考えてみたら、走りずらいローファでよく走らせたものだ。


「大丈夫?」


 さすがに悪いと感じたらしく声をかけようよしたその時、パンっと乾いた音が響いた。

 左の頬がひりひりと熱を帯びる。

 いまだに握っていた康介の手を強引に振り解いて、こちらをキッと睨む。


「離せよっ」


 その声が意外にも低くて鋭いものだから、反射的に謝ってしまった。

 少女は腕をさすりながら、再び睨み返してくる。


「なんのつもりだよ」


 肩外れかけたし、ふざけやがってと少女が悪態を吐く。全身の毛を逆立てた猫のように、鋭い眼差しは異様なプレッシャーを放っている。

 そこでようやく、康介は彼女が女ではないことに気づいた。流麗な顔立ち、華奢ななで肩。でもそれを持ってしても拭えない違和感。


「君……」


 気づいて一瞬、表情がたじろぐ。次の言葉が出ない。

 少女——いや少年はそれに舌打ちで応えて、けれどもすぐに歯を剥き出した。


「なんだよ、お兄さんもボクと遊びたいの?」


 嗤いたいならわらえよ。笑顔とは裏腹に毒吐いた目だった。


「———、どうしてこんなこと——」


 ありきたりな言葉しかできない自分に反吐が出る。精一杯だった。


「ッ」


 さも不快というような、明らかに音を伴った舌打ちがとぶ。そんな当然の疑問は聞き飽きた。とでもいうかのように、挑戦的な瞳。

 いままで幾度となく同じ質問をされてきたのだろう。


「つまんないこときくなよ。自分のエゴが通せて満足なら、さっさと失せれば?」


 じっとこちらを見つめる瞳に康介は戦慄を覚えた。

 何も言い返せない。体が痺れたように硬直する。


 意味がわからない。俺の行動の意図が彼には明白だった。そのことが理解不能だった。

 恐怖にもとれる焦りが康介を満たす。

 そんな彼に興味を失ったとばかりに、少年はそれきり翻った。話は終わりだとでもいうように、メモくれず元来た道を帰っていく。

 すかさず手を掴んだ。いかせない、いかせたくない。


「おまえにオレのなにがわかる」


 振り払うような眼光が康介に向けられた。感情をむき出しにした獣の目だ。


「しらないよ。上から目線で正しいことしかいわないやつらに用はない。それはただ正しいだけだ。救いもなければ、理想でしかない。でも自分ですらそのエゴを貫けない半端者だ。そんなやつがボクを咎めるなよ」


 ボクはそういう奴らが大嫌いだ。


「わかったなら——失せろ」


 心底嫌そうに、貶しを込めた睨み。

 返す言葉がなかった。


 だってそれは一言一句違わぬ康介の胸の内で、今まで絶えず言われなかった言葉を一気にぶつけられる。反応などできるはずがない。


 康介の手を取り払い、少女しょうねんはようやく自由になる。もう、追撃の手はない。康介はその場に立ち尽くしている。


 誰からも責められず、ついぞここまできてしまった。


 周りの人間は離れていくばかりで、オレのことを真に見てくれるやつはいない。

 罪を責めることも、また康介自身が貶されることも、もはやない。

 なのに望んでもないところで、いとも簡単に成されていく。


「じゃあ、オレはどうすればいいんだよ………、どうすればよかったんだよ!」


 あの時あの場所で、何か一つでも先輩から責められればオレは満足したのか?

 朝倉康介は救いを求め続けていた。彼にとっての救い、それは罰。自分のエゴで先輩を殺した報い。望んでいるのは、どこまでいっても償いだ。

 だが償う相手もいない彼に、もはやそれは叶わない。

 そんなことは康介自身もわかっている。


「アンタの過去をボクは知らない。でもアンタがやったことは愚かだとわかるし、変えることも消すこともできないのもわかる」


 その後悔は一生そのままだよ。


 あらためて、他人の声でその事実を告げられる。

 これまでそんなことは一度もなかった。正当に彼を叱るものなど誰1人いなかった。

 だのに、目前に立つ年端もいかない少年はいとも容易く彼を咎める。

 それは康介にとって待ち焦がれた救いの手だった。

 さんざん篭っていた殻にひびが入る。


「……じゃあ、どうすればいい?」


 子供が大人から教えを請う、素朴な目。

 いままでずっと繰り返していた疑問を、終わらせる刻。


「簡単な話だよ。そんなのもの、見て見ぬふりをしてしまえ。自分の罪とか罰とか、そんなものはどうでもいい。アンタの後悔は一生消えないし、他の誰かが背負うことも消すこともできない。だったら開き直ってたのしく生き死ねばいい」


 べつに誰もアンタを救えないのなら、救いのない世界で、これ以上気を張る必要もないだろ。


 そう、それは考えてみれば至極簡単なことだ。


 世界なんてものはどうしようもなく理不尽で。ひとの力なんて、そのなかのちっぽけなモノでしかない。

 だから今日を楽しく面白おかしく生きたって。別にそれでも構わない。



 たぶん、それが出会いだったと思う。

 ユウと名乗る少年は、オレを連れて夜を歩く。

 関係を持つようになるまで時間はかからなかった。同性なのになぜか抵抗はなかった。

 今日も夜は飢えている。

 およそそれはひとではない。道を外れた獣道。

 飛ぶことを忘れて、どんどんどんどん堕ちていく。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る