アクリル越しの瞼——浅川千代の場合——

第5話『reunion』

 浅川千代がこの学校にやってきたのは、三月さんがつ。チラつくようなさくら季節きせつだった。


 美大を卒業し、念願ねんがんだった教師の道。

 

 昔から何かを教えるのは得意というわけではないにしろ好きで、ちょうど美術の顧問が空いているという話を耳にし、せっかくだからと引き受けること数ヶ月。


 さすがに母校に就職するとは思ってもみなかったけど、懐かしさよりも新しい日々への忙しくも充実した時間がまさった。


 同期からはもっとレベルの高い、専門学校や海外での指導を薦められたけど、ありがたくも断ることに。


 わたしはその日みんなが笑顔で絵を描いてくれればそれでいい。

 だから教師という職は意外にも浅川千代という人間にぴったりだった。


「チヨちゃん先生っ、これみて〜」


「チヨちゃん先生、ここの配置がわからないんですけど…」


 ……まあ、少し距離感には悩むけれど。そこはカウントしない。


「こら、浅川先生でしょ」


 めっと女生徒たちをいなす。もちろん、彼女たちへの効果はいまひとつだ。


「えへへっ、だって先生って感じしないんだもんっ。歳も近いし」


「あと、先生可愛いしね〜〜っ」


「褒めたってなにも出ませんっ」


 むすぅと頬をふくらませる千代に、わきゃきゃっと生徒たちが笑う。女の子というものはいつの日も元気だ。ちょっと元気すぎるのが難だけど、細かいことは気にしない。


 好かれるというのは教師としても悪いことではない。


 雨上がり、ぱりっと晴れた空模様はインスピレーションを広げてくれる。

 こんなにいい天気になるなら水彩画でもよかったと胸中で肩をすくめる。


「ここは先にこの色を足した方が、もっと蒼に深みが出るよ」


「えっ、このいろですか?」


「そうそう、それと水木さんの絵は幾何学模様だから紙コップだけじゃなくて、水筒やフライパンの蓋なんて使ってみるのもありだね。」


 フライパン?と目をまるくする部員にくすりと笑って、隣の床で豪快に描いている子を覗き込む。


「マスキングもテープだけじゃなくて、紐とかもつかってみると面白いよ」


「紐ですか?」


 思わぬところから意見が飛んでくるので、少女たちは皆驚いた顔で千代を見つめる。

 そんな彼女たちに千代はうふふと返して、美大時代の教訓を伝える。


「本来、芸術とは自由だよ? 自由だからこそ固定観念に囚われやすいから、いろんな道具で試してみるの」


 高校の美術部というのは人物画や風景画はもちろん、普段はデッサンなども行うが、今日は華金。


 受験が近い三年生もいることから、たまには思考を一新してのびのび描いてもらいいたいという千代の計らいで、生徒たちはパレットを奪われて右往左往している。


 そのおかげか、普段と勝手が違う技法や施工に苦戦しながらも少女たちの顔は明るい。


「やぁ〜先生って見かけによらず大胆だよね」


「在学中は海外で学んでたんですよね?」


「うん、でもあっちでは学びっていうよりも、肌感って言葉のほうが近いかな…っ」


 実際、言語に苦労してほとんど授業は頭に残らなかったし…。その代わり色々な作品に触れて自分なりの表現の追求ができた。


 赴任して4ヶ月、千代の指導力は確実に生徒たちの心を掴んでいる。それもある意味では留学経験も生かされている…ということにしておこう。


「よしっ、そろそろ下校時刻にチャイムなるから片付けはじめるよ〜」


「「「は〜い」」」


 美術部うちには男子がいないぶん、女子たちの仲が深い。


 だからこそこういった片付け時間などは制作中の集中力があったぶん会話が弾む。


 そんな彼女たちの姿を見ていると、千代も自分の生徒時代を重ね合わせて微笑ましくなる。


 隣にいた子はいまどうしてるかな。気になるあの子はなにしてるだろう。


 そんな懐かしさとほんのちょっとの寂しさを孕んだ風にカーテンが揺れて、まぶしくなったときに。


「あっ! 今日もきてる〜〜っ」


 と、女子部員の一人が興奮気味に声をあげた。


 続けて二人、三人目とぐいっと窓に乗り上げてあがる黄色い歓声。


「ほんとだぁ!」


「どこどこ〜?」


「こらこら、危ないよ」


 急なテンションの変化に気負いしながら、窓の外に手を伸ばしていなす。あっすいませんと聞き分けのいい返事で、若干距離をとりながら女の子たちは尚も瞳を外に向けている。

 一応、何事なのかと千夜も外を眺める。いったい彼女たちは何に反応しているのやら。


「アレ! あのひと!」


 千代のそんな目に親切に指を挿しながら少女たちの興奮はやまない。


 指の方向には校門があり、それほど人だかりもない。


 そしてその角にもたれるようにスマホをいじっている背の高い男性。


 誰かの保護者だろうか。


 この時間帯なら会社帰りということはないだろう。見たところ大学生のようだ。


「あれってユウくんのお兄さんだよね?」


「ユウくん……?」


 と、これは千代。


「まぁ、噂だけど。最近ちょくちょく見かけるよね」


「いっつも迎えにきてくれるお兄さんなんて、いいなぁ〜。しかもイケメン」


「それな」


「………」


 彼女たちはいったい誰の話をしているのだろう。


「あ、ごめんごめんっ。千代ちゃん先生。そういえばユウくんのこと知らないよね」


「あー、そっか。千代ちゃん先生は今年きたばっかだから去年のことは知らないのか〜」


「浅、川、先、生、ですっ!!」


 ふんすと頬を膨らませて、女子生徒たちに不満の目を投げながら、そのユウという人物について説明を求める。


 曰く、去年美術部にはひとり、男子がいたということ。名前は亜櫻ユウ。


「名前だけなら先生も聞いたことあるんじゃないかな…? 一時期ニュースにもなってたらしいし」


 美術にたずわるものでその名を知らぬものはいない。矢墨レンに次ぐ天才てんさい


 幼少期に才能を見いだされ、高校進学を機に上京して、いまは高名な画家のもとで生活しながら指導を受けているそうだ。


 なぜ美術科のある高校に進学しなかったのは謎だが、とにかくそんなすごい人物がうちにはいるらしい。


「いやー、当時はほんと凄かったですよ。鬼気迫るっていうか、描いている間は他の誰も寄せ付けない気迫があって…可愛い顔してんのに正直怖かったくらいですよ」


 うんうんと他の子たちも一様に頷いている。


「でも、ユウくんってなんか変わっちゃたよねー。まえのクールな感じがよかったのに。いまじゃチャラ男みたい……」


「わかる、2年になってから女の子とたむろってるし…、でも2組の花向さん盛大にフラれて学校休んじゃったらしいよ?」


「え、あのザ・陽キャの花向が?」


「………へぇ」


 最後のほうは聞いてなかったが、件の少年と以前の彼女たちの関係はそれなりに良かったらしい。


 しかし彼はある日突然ここに来なくなった。何も言わず、何も告げず。制作途中の絵を全て放り投げて。


「まぁ、あっちは半分以上眼中になかったんだと思いますけど」


 と、生徒の一人はぼやいていたが特段トラブルといった類はなかったらしい。


 じゃあなんで、わざわざやめてしまったのだろう。


 それを彼女たちに聞くのはなんだか酷な気がして、ちょうどよくチャイムが鳴ってくれたおかげで片付けに戻った。


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