第6話『fermata』

「先生さよならー」


「はいさようなら」


 空になった部室をあとにして、生徒に挨拶をしながら千代は廊下を歩いていた。


 まだ残ってる生徒がいないか確認するのも新任の務めらしい。


 小走りの生徒に、廊下は走らないっとやんわり言ってみたかったセリフを言って、ちょっと懐かしさを感じる。


 閑散とした校内は絵の具が滲んでいくような速さで茜色あかねいろらされていく。


 開いた窓から喧騒けんそうとともに風がいて心地いい。


 近くでせみがないているのかもしれない。夏を告げるにおいだ。


 こんな時間まで学校に残ることは現役時代はなかったな。


 あの時はいつも近くの公園で部活が遅い幼馴染を待ってたっけ。演劇部の部長だった彼はよく通る声で毎日、遅くなったと一言添えて千代の名前を呼ぶのだ。


 卒業してからは夢である声優を叶えるために養成所に通い、その時も何度か顔を合わせたが最近はめっきり連絡をとっていない。


 まぁそれも今となってはいい思い出だ。


 からんころんっ。


 そんな感慨に浸っている千代の耳にかわいた音がとどいた。


 まだ生徒がいるのだろうか。音は隣の教室からのものだった。


 話し声らしきものは聞こえてこない。


 千代は不思議そうに首を傾げつつ扉を開ける。


 風がふわっと舞い込む。窓が開いているのか、カーテンがなびく。


 教室には静謐せいひつが広がっていた。


 転がっていたのはやはり鉛筆だった。それを手にとって、目線を一歩下げる。


 窓際のせき。カーテンとカーテンの間、その真ん中で規則的に寝息を立てる男子生徒がひとり。


 鉛筆は彼のものだろう。


 直前まで外を眺めていたのか、肘をついたまま窓に張り付いている様子はなんとなく幼さを感じる。


 ついさっきまで起きてたらしく、耳元のイヤフォンからはかすかにだが音楽が聞こえてくる。


「こら、下校時刻すぎてるよー」


 と、本来なら言うところなのだが、あまりに気持ちよさそうに寝ているものだから、千代はすぐさま彼を起こす気が起きなかった。


 傾いた首筋から指先ひとつとるまで、言葉にできない艶っぽさを千代は感じとった。


 なんとなく見てはいけないものを見てしまった気がしてあわてて目線を落とす。すかさず少年の手元にあったノートが目に入った。


 ひらかれたページを見て、瞬間いきんだ。


 と同時に、「むにゃ」と眠たげな声を上げて少年の目がひらいた。


 半開きの瞼がまっすぐこちらをとらえる。


 絶妙なタイミングで少年と目が合う。


「————」


「————」


 半開きの目が二、三度またたく。

 ついで、4度目のまたたきがぱちくりと周りを眺めて、ようやく少年の脳が起きた。


「…………だれ」


 状況を理解しかねると瞳が千代に訴える。


 千代はその瞳に映った自分を見て、なんとなく自分がいまものすごい距離で彼に肉薄していることに気づいた。


 それははたから見ればとってもマズいというか…誤解を招く状況にもとれるわけで。


「……だれ」


 と2度目の瞬き。なんとなく戸惑いが混じった目だ。

 一呼吸の沈黙のち、全力で後ろへ下がった。


「わわわ、ごめんなさいっ! ちがうんですわたしなにも」


「いやそれ絶対なにかしちゃってるひとが言うやつ!」


 ぶんぶんと手を振るう千代に冷静に少年はツッコミをいれる。

 一瞬にして耳まで顔が赤くなる。


「あやしいものじゃないです!」


「あやしいものはそういうこというよね」


「いやいやいやちがくて! はわわ……ほんとなにもしてなくて……えっと」


 見当違いの言葉しか出ない千代は完全に頭が真っ白だ。


 そんな彼女を前に少年のほうがさきに眠気を覚ましたようだ。


 目をこすると、机に覆いかぶさっていた身体を起こして、あくび代わりに小さく肩を落とすと、こんこんこんと自分の机をたたく。


「とりあえず落ち着きなよ」


「あっ……すみません」


 はっとした千代に「で、おねぇさんだれ?」と少年が伸びとともに三度みたび顔を覗いた。


 猫みたいな子だな、と千代は思った。ようやく頭が冷えてまともな言葉が出てくる。


「申し遅れました。わたし2年7組の副担の浅川千代っていいます! 担当は美術です」


 それでいまは美術部の顧問もやってます。

 やけに大きな声でそこまで言い終えて、ようやく息を落ち着かせる。

 若干、少年の眉が動いた気がするが、直視するのが恥ずかしかったので視線をすこし上にずらした。


「それで? せんせいがボクになんのよう?」


 退屈そうにあくびをしながら、男子生徒が千代を見上げる。

 それで千代もようやっと当初の目的を思い出した。


「あ、チャイム! もう下校時刻なので、校内に残ってる生徒は帰路についてください。最近不審者も増えてきたので………」


 千代がつらつらと覚えたての伝達事項を話してる間に、少年は自分で聞いておきながら話は右から左に窓のほうを向いてしまう。


「って、ちょっと聞いてるんですか!?」


 なんて後ろからの声も無視して、そのまま門のほうへ目線を伸ばしていく。

 部活終わりの固まった人影を超え、並ぶ自転車の間をぬっていくと人影を捉える。

 ぴくっと少年の肩が動いた。わずかにだが瞳が綻んでいる。


「あいつ…またきてるし」


 ぼそっと表情とはべつの言葉をこぼして、少年はうつむく。なんとなく体温が上がっている気がした。

 一連の彼の動きに「?」と千代は小首を傾げてから、つられるように窓の外を覗いた。


「誰かいるの?」


 ぐいっと少年の肩に身を乗り出して、視線を追う。


「ちょっ」


 不本意に密着された彼が小言をいうよりも前に千代が叫んだ。


「あ! あのひと、さっき部員の子たちがいってたひとかな?」


「!」


 びくっ少年の眉が動いた。幸い、千代は気づいていない。


「あいつ……、目立つなっていったのに…」


 聞こえない程度に吐いた少年の言葉は、近すぎるせいで千代の耳にも入っていた。何のことかわからず首を傾げるしかない千代は少年の横顔をじっとみつめる。


「もしかして、あなたが亜櫻あざくらくん?」


「そうだけどなんで?」


「あ、いや。部員が君の話をしていたので……もしかしたらなって」


「………」


 不意に少年の顔が雲った。千代から目をそらしたかと思うと、「っ」とわずかに舌をうつ。


「あっそ、じゃあぼくはいくよ」


 そのまま席を立つと、強引に鞄をひったくって扉を開ける。


「え、ちょ。まってください。あのひと、亞櫻くんのお兄さんなんですよね? だったら他のひとの目もあるのでちょっと……」


 基本的には保護者とはいえ、理由なく学校の敷地に入ることは好ましくない。融通がきかないと言われればそうだが、一応規則は知っておいてもらわなければ。事情があるならあるでそっちも聞いておきたい。


 千代の思惑に少年はどう思ったのか、少し考えたよう顎に手を当てると、くすっと笑うといたずらっぽい目で、


「あれ、彼氏」


 なんて、とんでもないことをぬかした。


「へ?」


 三度の沈黙。千代の思考が止まる。

 口をぽかんとあけたまま、数秒フリーズを起こした。

 いまなにかとんでもないことを耳にした気がするが、少年を見つめても返ってくるのは柔らかい笑みだけだ。


「……いまなんて?」


 声が変な方向にうわずりながら、もう一度リピート。口がうごいただけ誉めてやりたい。


「だから、彼氏」


「え」


 ほんとうに驚くと人間というものは声を上げないものらしい。


 彼氏。つまり、あの青年は今目の前にたっているこの少年の恋人というわけで……えと、あのつまり………どゆこと???


 完全に頭がパンクする。しまいには頭を抱えてヘッドバンキングするしまつだ。


 戸惑ってるを超えて取り乱している千代を見て、少年はにたぁと意地の悪い笑顔を浮かべる。


「うっそー。冗談ですよ、千代ちゃん先生。ウケる」


 けたけたと腹を抱えて笑う少年に千代は「へ?」と再び呆けた声で反応。


 ついで笑い転げる少年をながめて、かあ〜っと耳まで真っ赤になる。そこでようやく自分がからかわれたことに気づいた。


 とっさに自分の考えてしまったことと、いたずらに羞恥心で溶けそうになった。


 いまの彼女を側から見るものがいれば、きっと沸騰した薬缶やかんを思い浮かべるだろう。


「じゃあね、浅川センセ、ぼく帰るよ」


 雷が落ちないうちに少年のほうはささっと退散を図る。


「それじゃ夜道に気をつけなよ? 最近不審者増えてるらしいし」


 少年はそのままひらひらと手を振って扉をしめてしまった。

 最後まで後手に回った千代はなすすべなく顔を赤らめて悶絶した。


「むぅ〜〜、大人をからかうんじゃありません!!」


 めずらしくそんな大きな声を出して反論するがどこ吹く風。亜櫻ユウは風のように去っていた。













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