第10話『墜落』

 その日から、ぼくの絵は死んでいった。

 スランプってやつだ。目標を失ったんだ。当然といえば当然だろう。


 そもそも描く理由がない。何をかけばいい? 彼のいない世界で。


 血の通っていない、不細工な出来損ない。モノトーンなんて聞こえはいいだけの駄作が床を埋め尽くした。


 次第に師匠との関係も険悪になっていき、ついには僕が壊れた。

 完成間近の絵をかなぐり捨て、庭で画材ごと燃やした。


 一瞬にして、すべてがどうでもよくなった。

 あんなに焦がれた情熱は、とも容易く抜け去った。


「おろかものが」


 吐き捨てるように師匠にひっぱたかれ、そのままアトリエを追い出された。

 抵抗はなかった。一つの文句も絶句なく、するすると青天井を見つめる。


 さすがに、自分でもため息を吐くくらいの呆気なさ。


 だのに、打たれた左頬の熱さだけがやけに鮮明だった。

 幸い荷物なんてもともとなかったから師匠とはそれきりだ。

 もう二度と、帰ることはないだろう。


 一年間のアトリエ生活は、そうして幕を閉じた。



 アトリエを出たあと、なんとなく学校へ向かった。

 そのまま職員室へ出向き退学の手続きを行う。


 別に、もうここにいる理由はない。

 それならさっさとやめてしまおう。


 担任ははじめ、冗談を言っていると思ったのだろう。向けられた笑みはべつに面白くもないので、冷たくあしらった。

 しかし手続きには親の許可がないといけないらしく、門前払いを喰った。


 両親とは口を聞いていない。

 進学の一件で完全に袂をわかっている、いまさら連絡したところで取り合わなだろう。仕方ないからそのままにしておいた。


 廊下に出ると、陽が沈み始めた窓ガラスが鏡のように光を曲げていた。

 ふと力なく息がもれる。これからどうしようか。いく当てもない。


 どうせなら、今日は学校ここにでも泊まってしまおうか。

 だとしたら、夜になるまでどこで時間を潰そう…。

 なんてバカ正直に考えていると、こつ、と視界の先で足音が止まったような気がした。


「あら。誰かと思ったら、どこかの天才さんじゃない」


 見上げると、いかにも高飛車といった女がひとり、胸に腕を組んで立っていた。

 背後にはほかも短髪と長髪の女生徒がそれぞれ一人ずつ、にやついた笑みをこちらに向けている。


 首を傾ける。


「だれ……」


「クラスメイトの花向カレンよ! なんで覚えてないのよ!」


 当時、矢墨レン以外の他人に興味がなかったぼくに、そんなこと言われても。

 むっと口を尖らせるぼくに、背後に立つ短髪が慌てたように口を開けた。

 

 曰く、花向カレンはうちのクラスのカースト上位、花向グループの一人娘だぞ! なんて聞いてもない説明をしてくれる。

 そして後ろの二人はその取り巻きらしい。


「はぁ、…」


 そんなお嬢様が僕になんのようなの。

 なんて、気の利いたこと一つ言えない僕は、あっそ、とそっけなく答えて、取り巻きの話が終わるのと同時にさっさとその場を離れる。


「それじゃ」


「え、ちょ……!?」


 潔く手を振って間を抜けると、慌てたように花向が追いかけてきた。


「待ちなさいよ!」


 ムキになったように声を荒げながら、後ろから肩を掴まれる。


「何」


 うるさいな。あんまりキンキンした声だったから、思わず振り返った。

 ぎろり、と鋭い目が少女を捉える。その表情はすこしばかり苛立ちがまじっていた。


 たった今、美術を捨て、積み上げてきたものすべてを失くした少年は例になく不機嫌だ。


 彼の神経を逆撫でしたことに気づいた少女は本能的に恐怖を覚える。


「あ……っ」


 一瞬、花向がたじろぐように後ろに下がった。

 しかし、花向とて引けなかった。

 きっと唇を引き結び、こちらを睨みつける。


 花向カレンには、亜櫻ユウに固執する理由がある。


 裕福な家庭に生まれ、両親からの愛を一心に受けていた彼女だが、何かの手違い的理由で進学校でもない、一般の高校に通うことになってやや半年。

 本来なら時代錯誤も甚だしい女学校にでも通い、傷ひとつない淑女としての訓練に勤しんでいただろう。


 しかし、一般校に通えば彼女も一般人。


 ちやほやされて育ったお嬢様気質が抜けず、周囲からの孤立やからかいを高圧的な態度で沈めてきたまではいいものの、唯一許せない点がひとつ。


 それが目の前の少年かれ


 何が天才だ。四月からずっとそうだ。花向が興味本位で声をかければ、平然と無視を決め込むし、周りから称賛の声が上がっても気にもとめない。


 まるで、世界には自分しかおらず他の人間は目に映る背景と変わらない。

 そんな瞳をしている。


 それが花向は気に食わなかった。


 自分にはない才能。できないモノの見方。

 自分のような親が裕福というだけのオプション持ちと、純粋な能力値をもつ彼との明確な違い。

 それを本能的に感じとっていた。そして嫌悪していた。


 だからいじめてやることにした。


 しかし、それこそが花向の誤算だった。

 まず、亜櫻ユウはほとんど学校に来ない。故に、嫌がらせがヒットすることはほとんどなかった。仮に幸よく行えたとしても、当人はまったく気がついていない。


 それは亜櫻ユウが単に鈍感ということもあるだろうが、何より彼女の嫌がらせが小学生もかくやというほどの規模だったからだろう。


 それゆえ花向の少年に対するフラストレーションは日に日に増していった。

 そんな彼にここぞとばかりに鬱憤をぶつけてやると思ったのが、今日この頃。

 取り巻きもいる手前、恥を晒すわけにはいかない。


 それに今日はとびっきりのネタも得ている。

 ひとつ息を吸って、再び余裕を含んだ笑みを浮かべる。


「アンタ美術部やめたんだって? それに家も追い出されたらしいじゃない?」


「え〜、天才くんもついに落ちぶれちゃったんですかぁ〜?」


 花向の言葉に取り巻きも呼応する。調子を良くした花向の声色がさらに皮肉めいた。


「お絵描きしか取り柄のないアンタがこの先どうやっていきていくのよ〜」


「ほんとそれな〜」


「てか、学校来る意味ねーじゃんもうっ」


 あははは、と、取り巻きを含め3人が絵に描いたような悪意を放った。

 決まった……っ! と、花向は内心確信ガッツポーズした。


 これにはさすがの少年も顔を曇らせる。それほどの名演技だった!

 にやり、と目尻が歪むのを花向は抑えられない。

 そのまま少年の反応を窺う。


「それもそうだな」


 と、花向が少年の顔を拝むよりも前に、ユウが小さくぼやいた。

 彼女としては、これで少年が憤慨でもしてくれれば儲けもの、といった程度のものだったのだろう。


 しかし、ユウの反応は違った。


 悪徳めいた彼女たちの笑いを亜櫻ユウははじめ呆然と眺めていた。

 そして、しばらく考えるように顎に手をつけると、思い出したかのように先程の声を漏らしたのだ。


「そういえばボク、普通の生活ってのを送ったことがないんだった」


 ふらっと不意にユウが3人に近づく。

 不規則な軌道を描いた少年の動きは、夕日に当てられて影を帯びた顔も相まって不気味だ。

 無意識に警戒心を高める少女たち。


「……な、なによ? やる気——」


 強がりを込めて、花向が後ずさる。

 ドンッ、と鈍い音が響いたのはその瞬間だった。


「え」


 呆けたような花向の声が、頭上の瞳を捉える。

 いつのまにか壁際に寄せられている身体に、じっとりと影ができる。小さいはずの背中は、このときばかりはひどく大きな存在に感じられた。


「な、壁ド……っ」


 置いてかれた取り巻き達が、遅れて花向と少年を捉える。

 そこでようやくびくりっ、と花向も肩を震わせた。


「はぁッ!? えぇ!」


 わなわなと口を震わせて、少年から引き剥がれる。

 けれど壁際に追い込まれた体は、それ以上の後退はなかった。


 逃げ場はない、とでもいうように花向の顔横には白い腕が伸びている。

 ただの吐息すら肩に触れる絶対的距離に、花向の体温は一気に高まる。

 経験のない密着は彼女の冷静さを欠いた。


 ばらついた視点の先は、気づけば少年の四肢を観察していた。シャツ一枚の学生服。外れたボタンから窺える首筋や腕の血管、視界に入る彼の姿は病的なまでに白く、艶かしい。


 それが花向には畏怖となり、火を吹きそうな体温とは裏腹に底知れぬ寒気を感じた。


 対して少年はというと、花向の挙動には目もくれず、じっと彼女の目を追っていた。

 淡々と、感情の見えない瞳が陰のなかで鈍く光る。


「ねぇ」


 首筋を掴まれたかのような、低い声だった。

 びくびくと花向の目が少年に向き合う。


「ねぇ、君教えてよ。普通ってのを」 


 レンの目は笑っていない。冗談を言っているわけでないのを、少女は本能で理解した。


「アンタ……ッ! 変よ!」


 それでも泣けなしの理性が、少年を拒んだ。それは人間にとって正しい解答だった。

 それを冷めた表情で亜櫻ユウは見つめる。

 少女の腕を掴む。花向の顔が歪んだ。目にはうっすらと涙まで浮かべている。

だがそんなことは、ユウには関係なかった。

 ぐいっと花向の体を引き寄せて、さらに顔を近づける。


「ボクに教えて? 普通ってやつを」


 そう女に言いながら、胸のなかで亜櫻ユウは頷いた。

 そうだ、もう自分には何もない。

 今までの亜櫻ユウはいまを持って死んだ。

 しかし、それではつまらない。

 だからこの女の言っていたように、普通の高校生ってやつをやってみよう。

 少年はそこまで考え至って、唐突に表情を和らげた。

 うって変わって人懐っこい笑顔で、花向を見つめる。


「ボク、君のぜんぶが知りたいんだ」


 純朴な笑顔と、の瞳を覗き込んで、花向カレンは戦慄した。

 それは真っ黒な闇だ。どこまでも深いうつろ。元来人間の持つべきではない、持ち得ない獣の目。

 これは関わってはいけない生き物だ。

 けれど、彼女の後悔ももう遅い。

 獣は至ってしまった。

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