愚鈍な真実——亜櫻ユウの場合——
第9話『独白』
自分の手が重力に逆らったのを、亜櫻ユウは意味もなく悟った。
振り返れば、息を切らしながらも声を張る小さな背中が見える。
昼間会ったばかりの女教師が酷い剣幕でこちらを見つめた。
「こんなところでなにしてるの……!!」
険しい声に少年は応えない。言葉の意味がわからなかった。
何をしている? だなんて、おかしなことを聞く。
彼がそんな調子で首を傾げるものだから、女教師は再び「なんで……」と、泣きそうな目でこちらを見つめた。
どうして彼女がそんな顔をするのかわからなくて、少年は目を細めた。
乾きはじめの髪に夜の風がなびく。走った体を前にして、涼しさに息を整える。
女から目を外して、空を見あげる。
ビルの天井の向こう、隙間から覗いた空はうっすらと雲を滲ませていた。
雨が降るかもしれない。こんな薄着で濡れたら、きっと風邪をひくだろう。
だがいまはどうでもいい。
女の声も散ってしまった桜の花も、僕にとっては景色ですらない。
喧騒から一歩離れた路地裏で、背景たり得るのはただネオンの漏れ灯。
狭い夜はまるでほんとうの闇には程遠い。
だからどうでもいい。どうでもいいんだ。
どうでもいいと割り切り続けて、結果僕はここにいる。
でも……。そう思い始めたのはなんでだっけ。
◇ ◇ ◇
その
夏休みにおばあちゃんの家に遊びに行ったぼくは、絵画好きのおじいちゃんに連れられて隣町にある美術館の展示会を訪れた。
なんでも世界的に有名な10の画工の作品が見られるというのだから、おじいちゃんのはしゃぎ様はすごかった。
絵画の世界において、現役で名を残すというのは難しいらしい。図工の延長でしか筆をとったことがないぼくにとって、絵とはいかにうまく描くか、という認識のものでしかなかった。
実際、夏休みの宿題で描いたいわしの大群はそのまま賞に入賞したし、天狗になっていたこともある。
だからこそ、
静寂のなかに鳴り響く訴え。
ぼくには、はじめそれが絵だということにすら気づかなかった。
迫力とか、そういう表面じみたものじゃない。
圧倒的なまでの情報量。
塗りたくられた絵ノ具の感情、なぜその色なのか、なぜこの線なのか。
その前に立った途端、作品ができるまでの過程や執念なんかが一気に流れてきて、ぼくはその時はじめて他人の絵に感動を覚えた。
次元が違った。
自分というものがあまりにも小さな存在だということを知った。ぼくのこれまで描いていたお遊びの絵とは違う。上手いとかそういうのじゃない。
目の前には世界があった。
『残唱』作 矢墨レン
キャプションボードに添えられたその四文字を食い気味に見つめる。ぼくとそう歳の変わらない少年の描いた絵。
後に美術の世界で名を馳せる天才の作品のひとつだった。
顔も知らないけれど同年代の子がこんな絵を描くだなんて、尊敬より正直悔しさが勝った。
それが矢墨レンとの一方的な出会い。
その日からぼくは何かに取り憑かれたかのように絵を描き始めた。習い事のピアノをやめて、新しく美術教室に通いはじめた。
「あれぐらいだったら俺も」なんて、羨望めいたものじゃない。
自分との間に圧倒的な隔たりがあるのを理解しながら、けれどもがむしゃらに筆を振った。
彼の目にはぼくらに映る日常がいったいどんなふうに視えているのか、視てみたいと思った。
ぼくもあのひとと同じ場所で同じ景色を。
自分の世界を広げる、ぶちまける。それは思っている以上に力を使うもので、頭で考えていても全然彼のようにはなれなかった。
その人の名前が世界をまたいで、フランスのパリで個展を開くことを知っても、僕はまだほんのちょっとの成果しかでなくて、追いつくなんてまだまだの話だった。
それでも15の時、ようやく国内で彼と同じ賞もらえて少しだけ嬉しかった。
高校進学を機に東京に住むという偏屈なおじいちゃんに弟子入りをした。
それまで田舎だった地元を離れ、塗料臭い四乗半の部屋に住むことになった。
正直、たかだか三年の没頭では限界があったし、家に居づらかったということもある。安定を求める父は、ぼくが普通でなくなるのを恐れてたびたび癇癪を起こした。
祖父母の家に転がろうとしたが、祖父は既に他界しており、祖母にいらぬ世話をかけるのは気が引けた。
幸いにも学費ぐらいは稼げるほどに名がしれるようになっていたので、師匠の勧もあって一般の高校に通うことにした。
僕がなりたいのはイラストレーターでもアニメーターでもない。だから専門学校にはいかなかった。
それも矢墨レンが普通科だということを知って決めた。
部活動が強制の学校だったので、美術部に入った。
特段やることは変わらない。矢墨レンに追いつく。それがぼくの全てだった。
たぶん友達なんてできなかったと思う。でも別によかった。
あの世界を自分の手で創り出したい。そして彼に追いつきたい。
それだけでぼくは十分だった。
十分だったんだ。
だのに。
なんで死んでんだよ。
『世界的画工の矢墨レン自殺』
『人気イラストレーターRen氏飛び降りか』
夕焼けの濃くなる夏の終わり、彼は15階建てのビルから飛び降りた。
SNSに流れる無機質な訃報。煩雑な改札口前で不意に足が止まる。
意味がわからなかった。
困惑よりも先に立つ
画面越しにはじめてみる彼の
沈痛な面持ちでコメンテーターが根も葉もない持論を繰り広げる家電量販店のテレビ。火がついたように騒ぐTwitter。若者の取り巻く社会問題云々と水を得た
ぼくだけが突っ立ったまま、トレンドに埋もれていく彼の死を眺めていた。
そうして一方的な出会いはあまりにも呆気なく終わりを告げた。
アトリエに帰ると、門の方では人だかりができている。ぼくに気づいた取材陣が待ちかまえていたと言わんばかりに囲い込んだ。
その頃、ぼくはようやく国外でも評価を得られるようになっていた。
矢墨レンに次ぐ才能。気づけばそう呼ばれていた。
「矢墨レンの訃報をどう思いますか!」
口火を切った女性記者の薄化粧がフラッシュにたかれる。
意外と喧騒に囲まれてもあまりうるさいとは思わなかった。
がやがやがやがやとカメラに負けないようそれぞれが声を張り上げている。
冷静にそれを眺めた。
散歩帰り師匠が駆けつけて、その日はみんなを追い払ったが、後3日は同様のありさまだった。
連日テレビの報道でも同様の特集が組み上がっている。
でも、それらは決して彼の死を悼むものではなかった。
1日経てば、世の社会問題に焦点がいき、SNSではアイドルの出産、俳優の不倫など次のトレンドに目が映る。
矢墨レンの死に便乗して、命の尊さを語る有象無象。それに反応するその他大勢。
彼の死なんてものはあくまできっかけ、潤滑油で、ほんとうのほんとうに彼の死を悼むものなんてほんとどいない。
ぼくはというと、今日もアトリエで筆を片手に彼の背中を追い続けている。
そこでようやく、怒りが込み上げてきた。指先に力がこもる。
なんで勝手に、死んでるんだよ。気づけば乾き切った筆に絵の具はほとんど染みていなかった。
ぼくの知らないところで、勝手に死んで。勝手にひとを巻き込んで。色の途切れたカンバスにずぶっと亀裂が入る。
その瞬間ぼくは腕をふり投げた。カンバスがバランスを崩して倒れる。パレットを放り投げ、筆を上から叩きつける。
叫んでいた。泣いていたかもしれない。吠えた。吠えて吠えて。
アンタの世界を知りたかった。アンタと同じ景色をぼくも眺めてみたいと、そう願った。
絵の具だらけの黒ずんだ両手を見つめる。
才能も努力も、足りないのはわかっていた。
どこまでいっても、ぼくは天才にはなれない。君には追いつけない。
そんなことははなから知ってるんだ。
あの時、あの絵を見た時からずっと。
でも、それでも君に夢を見た。
なのに君は、なんの責任も取らずに逝くのかよ。
そんなの、あんまりだ。
君に追いつくために、追い越すために。僕はここまできたというのに。
君は死んで。ぼくはそれを引き立たせる飾りかよ。
ふざけやがって。
アンタが
なら、こんな世界は壊れてしまえ。
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