第8話『belly landing』
そこから会話はなんとなく収束していき、結局早めにお開きになってしまった。
路線の違う千代はそのまま先輩教師たちに手を振られながら居酒屋で別れ、夜の住宅街をとくとくと歩く。
ほんとうは養護教諭も千代と同じ方向のはすだが、まだしばらく居酒屋で飲むとのことらしい。
彼女たちには悪いことしたな、せっかく誘ってくれたのに。気をつかってくれた教師たちに今度は私から誘おうと胸内で決める。
まだ9時も回っていない街は存外に暗い。
頭のなかは妙に冴えている。
亜櫻ユウ。あの話以来ずっと彼のことを考えている。
「最年少記録更新」「過去最多の受賞歴」など、検索してみれば、ものすごい情報の山が連なっている。
外側から見た彼は誰しもが憧れる天才で、その才能をドブに捨てるように一年前からの記録がめっきりない。
極めつきは校門に立つ謎の男との関係。
考えることが多すぎる。
いったい、どれが本当の彼なんだろう。
千代の考えを照らすように、喧騒と灯りが視界の上を包んだ。
顔を上げると、いつのまにか繁華街まで出ていたようだ。電灯に頼っていたせいで気づかなかった。
そこかしこをネオンの灯りで色取った夜の街。仕事帰りの若い女性ひとりでは浮いてしまうような煌びやかさ。千代には馴染みのない景色だ。
「ねぇねぇ、おネェさんいまひま?」
のほほんとしていれば、唐突にかけられる猫撫で声。慣れていない千代はあたふたと振り返った。
いかにもといった服装の男を見て、思わずうわぁと反応。やんわりと断りを入れて小走りに離れるが、男は笑顔でついてくる。まるでハイエナだ。
それでも信号を頼りに振り切ってほっと息をつくと、思ったよりも道を外れてしまっていた。
半ば逃げるように走ってついた先は、これまた別のネオン街。さっきとは違う灯りの種類に困惑しながら、自分の方向音痴にため息を吐く。
しょうがないからスマホのナビを開いて、位置情報を確認することにしたのだが…
教師にあるまじき、ながらスマホなんて慣れないことをすると、路地からぬっと人影が出てくる。
出会い頭にごっちんこ。千代の体がよろめく。
「おっと」
躓きそうになった千代をすかさず、がっしりとした腕が支える。男のものだっだ。
「大丈夫ですか」
そう声かけてくれた男に「すみませんっ」と振り返った時、千代は危うく叫び声を上げるところだった。
「俺のほうこそすみません……」
見覚えのある
明るすぎる照明で照らされたその顔は、飲み会で話題の上がった校門の男もとい、亜櫻ユウの兄だった。
正確には兄(?)だが。
顔が固まる。
「あ、いえ——」
なんでこんなところに……なんて言葉を呑みこんで、いやいやとかぶりを振る。
昼間といい夜といい、1日にこうも顔を拝む機会があるとは。
「?」
千代の絶句に意を汲めない青年は首を傾ける。
彼の背中にはバブル期を彷彿とさせるネオンの灯りが広がってる。特に千代の目を引いたのはピンク色に照らされた『HOTEL』の文字。見渡せば、道の半分は同様の文字に溢れている。
途端、皆まで考えるまでもなく顔がかぁっと赤くなる。ようやく自分がいまどこにいるのか理解した。
「あの…大丈夫ですか?」
「へ?」
声をかけられて、意識を亜櫻兄(?)へと戻す。
千代の挙動を心配に思ったのか、彼は言いにくそうに苦く笑った。
首筋から乾きたての安っぽいボディーソープの主張のない香りがする。
そんな亜櫻兄(?)を見つめて、再び赤面。思えば、彼もこの通りから現れたのだった。
顔見知りとそういう場所で出くわすなんて経験のない
幸いなのは、向こうはこちらを知らないことだ。
はわわと落ち着かない千代を見て、青年は一度後方に視線を流した。連れでもいるのだろうか。すぐに目を戻したからその挙動に千代は気づいていない。
「すいません、そろそろいかないと……」
「はわわ、私のほうこそすいません! お時間とりました……」
申し訳なさそうに目を歪める青年に、千代はうわずった声で応える。
千代としても、早くここを離れたいという思いでいっぱいだ。心臓に悪いし、なにより学校関係者に見られでもしたらたまったもんじゃない。
なおも心配そうな面持ちを向ける青年と、千代が脈の上がった胸を押さえながら、同時に踵を返そうとしたその時だった。
「コウスケ」
ドスの聞く声が響いた。青年の足が止まる。
同時に千代も振り返っていた。
「———え?」
そして路地裏にひびく、千代の声。
疑心と驚愕。なぜそんな反応をしたのか、千代自身とっさにわからなかった。
振り返った先には人影。小柄で華奢なシルエット。しかしその全貌はネオンを背に影となっている。
亜櫻兄(?)の顔が歪む。反射的に彼は千代の視界を遮ろうとした。
けれど半歩遅い。
なぜなら「コウスケ」と呼ぶその声はとても聞き覚えのあるもので、そのことに気づいてからもう一度確かめるように「え?」と千代の口が漏れた。
情報の整理が追いつかない。
ネオンの灯りに紛れる純白のセーラー服。
不純異性交遊。頭によぎった単語と教師としてとるべき行動に数秒要した。
なぜって、
映り込んだ人影は昼間みたばかりの少年で、そのことに気づいた途端、頭のなかが真っ白になる。
目の前の現実に戸惑いが隠せなかった。
「亜櫻くん……?」
びくっと人影が揺れる。ばっちりと目が合った。
「あ。」
と少年は気づいたが最後、勢いよく駆け出していく。
「まって!」
見間違い、のはずだ。でもあの反応からしてうちの生徒であることに間違いない。
そう無理やりに答えを出して、そのまま追いかけた。
路地を出ると、思ったよりも人数は少ない。幸い少年も視認できる。
目を流すと、亜櫻兄(?)は二人同時の置いてけぼりを食らって呆然としていた。彼にも話を聞く必要はあるが、いまは少年を追うのが先決だった。
再び前を向くと思ったよりも少年との距離は離れていなかった。
千代は脚は遅いと自覚しているほうだが、少年はそれを上回っていた。あっけなく追いついたその手で彼の腕を掴む。
観念したように少年が足を止める。
振り返れば、ぜーはーと息を切らしながら千代がものすごい剣幕でこちらを見つめる。
「なんで……、こんなところでなにしてるの……!!」
夜の空気が冷たくふたりの間を割る。表から聞こえてくる喧騒と光が嫌にちらつく。
息も整わないままの問いに、少年はただ俯くばかりだった。
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