第13話『deux』

「今日は何食べる?」


 それで何回目かの行為のあと、シャワーを浴び、着替えてホテルを出た。

 あのあと3回もシたっていうのにユウは飄々としていた。どこで調達してきたのか、女物の制服を纏って、いたくご機嫌な様子だ。

 安物だといっていたが、たしかに作りの割に素材の薄さが目立つような気がする。


「どうせ俺の奢りだろ」


「あったりまえじゃん」


 夜の下北沢は思ったよりもじめじめしている。せっかくさっぱりしたというのに、首筋にはもう汗が滲んでいた。

 ぼくらの会話なんていつもこんなもん。

 どこへ行くとか、何をするかなんて、大して意味はない。

 そもそも、そんなことをいちいち考えるのが面倒くさいから、ぼくも康介も何もしないのかもしれないね。

 乾き切っていない髪が湿り気を帯び、鬱陶しさを纏う。

 バラついた路地をふたり並んで歩く。

 嬉しい誤算は、時折吹いてくる風が服の下に入り込んでくることだ。

 こんな時間でも灯りというものは眠らないもので、景色の端々にちらついてくる。

 季節は夏の終わり。残暑が続くなか、夜はまだまだ蒸し暑い。

 湿気に蓋をされたこの街の空気は澱んでいる。

 けれどそんな茹だるさとは裏腹に、喧騒は空まで響いていた。

 居酒屋のキャッチ、終電を逃したリーマン、飲み会帰りの学生。売れない舞台俳優はあぐらをかいて缶チューハイを開け、人試合終えた中年は満足そうに闊歩する。

 馬鹿みたいに明るい声と、馬鹿みたいに明るいネオン字。 雑多な喧騒が、ぼくらの周りを埋め尽くす。

 害虫みたいに蠢いて朝と共に散っていく。

 ひどいくらいに滑稽だ。

 けれどいつしか、この雑音がいとおしくさえなっていた。

 だから自然と笑けてくる。足取りが軽くなって、羽が生えたように前に出る。

 自分が正常に狂っていると認識できて、それがとても可笑しい。


「おいちょ、急になんだよ」


 ひらひらと舞うような足取りで、恍惚とした笑みをユウは浮かべる。

 あまりにもその姿が美しかったものだから、康介は自然足を止めた。

 薄白い月光の上に舞うその姿は、光にももがく蛾というよりも、むしろ¬¬。

 少年も同様に青年を見つめた。


「ふふん、早くこっちまでおいで」

 表へ出れば、やはりネオンの灯が煌々としている。

 喧騒と光を背に、薄暗さで見えなくなる康介をみつめる。

 きょとんと意識をこちらに向けるその目、その画、その表情。すべてがいとおしい。

 外の世界に想いを馳せる眠り子のように、愛玩無垢な彼のことを少年は愛していた。

 やっぱり康介はかわいい顔をしている。あいつは僕のものだ。

 思い立ったような気軽さで、そう結論づける。昂った感情が堪えきれない笑いとなって、つい口を開いた。


「コウスケ」


 その目は笑いというよりも、むしろ。


「だいすき」


 獲物を見つけて涎を垂らすような、歪なものだった。

 けれど、そんな少年を裏切るように康介の歩みは止まってしまった。

 出会い頭、ひとにぶつかったようだ。見れば、よろめいた女の背を康介はとっさに抱えている。

 むっとユウの眉間に力が篭る。

 それまでご機嫌だったことを忘れ、苛立ちが込み上げてきた。


「大丈夫ですか?」


 見ず知らずの女相手に、康介は心配そうな顔を浮かべる。

 女は慌てた様子で離れるが、康介はなおも手を差し伸べ続けた。

 あいつのあーいうお人よしなところに時々反吐が出そうになる。


「いえ、あの……だ……だだだだだ、ダイジョウブです!」


 女のあたふたとした声に、なおも心配そうな面持ちを向ける青年。優しいを通り越して愚鈍だ。

 むすっと、我慢しきれず踵を返す。


「コウスケ」


 自分でも驚くほどドスの効いた声で、青年を呼んだ。康介の体がびくっと強張る。

 けれど、二人の間に走った緊張とは別に、もう一人驚愕に目を見張る者がいた。

 さきほどの女である。 

 彼女はいままでの様子とは一転、ユウの瞳をじっと見据えている。


「……?」


 遠目にユウが首を傾げる。

 女の顔がみるみると青ざめていく。

 それはどこか見覚えのあるもので。ユウの記憶の端に居座っている。

 あれは確か。


「———え?」


 路地裏にひびく、女の声。

 ネオンを背にした、まばら道。

 康介が反射的に女の視界を遮ろうとした。

 けれど半歩遅い。

 もう一度確かめるように「え?」と女の口が漏れる。


「亜櫻くん……?」


 ネオンの灯りに紛れる純白のセーラー服。

 自分の名前を呼ばれてはじめて、その女の顔が見える。


「……あ」


 完全に目が合う。瞬間に駆け出していた。


「まって!」


 呼び止める声を無視して、夜の街を走る。

 昼間の女教師、あんなのがなんでこんなところに。一瞬だけ見えた彼女の顔は、ひどく焦燥していた。

 まずいことになったな、だなんて案外冷静に考えつつ、心臓の鼓動がどんどんと加速していく。背後から足音が聞こえる。

 必死で逃げ出したので忘れていたが、そういえば、自分の足が絶望的に遅いことをユウは考慮していなかった。

 気づいたときには遅く、がしっと腕が慣性を逆らった。

 女も決して足が速いというわけではなかったが、ユウはそれを上回っていた。あっけなく追いつかれ、観念したように足を止める。

 振り返れば、ぜーはーと息を切らしながら女教師がものすごい剣幕でこちらを見つめる。


「なんで……、こんなところでなにしてるの……!!」


 女は泣きそうだった。

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『獣たちよ。』 名▓し @nezumico

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