第19話 海鷲は空にあり
涙でぼろぼろ、鼻水をすすりながらきいていた泰子の顔をみると、本当にこの子が燈子のように美しくなるのだろうかと首をかしげたくなる。
「聞いてみて、どうだ?」
とっくに外は夜のとばりが降りていた。
あまりに夢中になりすぎて、時間など全く気にしていなかったなぁとほんの少しだけ反省した。
「ひいおばあちゃんのお姉さんだったんだね。」
「そう。 すごく素敵な人だったよ。」
「ひいおばあちゃんより?」
「比べられんよ。 彼女は尾上さんの奥さんだし。 それに、理子の方が良いに決まってると言わなくちゃ殺されかねん。」
頬をぽりぽりと掻きながら、よく太ももあたりをつねられたものだと痛くもないのに、太ももあたりをさすってみる。
「ねぇ、尾上さんが最後に読んだ手紙ってなんて書いてあったの?」
泰子はまっすぐにただ純粋な目を向けて問うてくる。
いつだったか、終戦からしばらくして理子が読んでみたいと言って、尾上に宛てて書き綴られた最期のラブレターを包みから取り出したことがあった。
それを読んだ妻は目を真っ赤にして俺に抱き着いてきた。
静かに泣いて、泣いて、泣いて。その涙はしばらく止め方がわからないほどだった。
『愛情って何なのかな……。 わからない。 助けて、宗一郎さん。』
この手紙を読んだ後、あの理子が震えていたのだ。
助けてなんて仰々しい言葉を口にして、しばらく俺から離れなかったことを思い出した。
俺と理子の夫婦生活は決して冷めたものではなかったし、互いに必要としていたし、それなりの絆も育んでいた。
それなのに、理子は見えない敵に怯えているようなそんな落ち込み方だった。
「ひいじいちゃん?」
泰子に声を掛けられるまで、俺は考え込んでしまっていたようだ。
「あぁ、すまん。 これを読んだ理子は敵わないって言ってたなぁ。 自分の愛情が軽く思えるのが辛いって。 そんなことはないんだけどな。 でも、実のところ、なんて書いてあったかは……俺は知らないんだ。」
理子の様子から、これの内容が怖くて、読めなかったという本音は胸の奥底に沈めた。
だが、泰子なら違う反応をするのかもしれない。
これを手渡し、読んだとしたら泰子はどんな顔をするのだろう。
「読むか?」
そっと最後の手紙を泰子の手に握らせてみる。
「読む。」
迷いはないらしい泰子はゆっくりとその破れそうな便箋の文字を目で追っていく。
泰子はしばらく呆然としていた。そして、涙腺が崩壊したらしかった。
「この人は誰かを生かすことの大切さを本当の意味でわかってるんだね。」
「どういう意味だ?」
「本当に愛してなかったらこんな手紙残せないよ。 格好いい。 読めばわかるよ。」
【尾上馨様
貴方がこれを読んでいるということは、私はもう貴方の手を離れてしまったのでしょうね。
私には後悔など何一つないというのに貴方はきっと後悔ばかりでご自分を責めているのでしょうね。そんな姿にさせてしまうのは私の本望ではありません。
妻を持ったから尾上が駄目になった等という不名誉を私に押し付けないでください。
私が愛してやまなかった貴方はどんな時も上を向く貴方です。
命知らずは困りますが、貴方が為すべきこと、貴方しか護ることのできない愛しいものがたくさんあるのに、いつまでも下を向いたままの面白みのない貴方など願い下げです。
貴方は何のために、尾上馨としてそこにいるのですか。
貴方の信念に従って、堂々とやりたいことをやりたいように貫くためではないですか。
厄介事、傍迷惑、難題収集は貴方の十八番でしょう。
もとより貴方が普通の男性のように生きられるはずがないのですから、いっそ私が愛してやまない変わり者のままで、空に上がってしまえば良い。
貴方の信念が軟弱ではないこと、貴方の階級がお飾りではないこと、貴方の操縦技術が張りぼてでないことを今すぐ証明してください。
貴方の迷いも戸惑いも、痛みも苦しみも今の貴方に必要のないものは全て私が先にもって逝きますから、憂いなく任務についてください。
でも、本当は後世に名をのこすような英霊に等ならなくて良いから、どうか生きて欲しい。
どんなに無様とあざけられようと、生きていなくてはいけないのです。
貴方はやるべきことをたった一人で決断し、責任をどんと背負って生きていけることが強みであり、身軽な方法だとすぐに割り切ってしまう。
それは本当の意味で強いとは言えないのです。
たかだか人一人の覚悟や責任などしれている。
自分を生かしきれない人間が本当の意味で周りを生かせるはずがない。
貴方の価値は貴方の周りを自分同様に如何にして生かしたかで決まるのです。
護るべきものがあるというのは武器なのです。
その護るべきものために簡単に死ぬわけにいかないからこそ、窮地に立った時、最も命の重さを吟味して、選択肢を広げ、最善策をひねり出させる強みになる。
伝わるかしら。何度でも言います。
貴方の命の価値は、明日の貴方が護れる物の大きさです。
貴方がやりたいようにやりきって潔く散れるその日まで、せいぜいその頑固さと不遜さのまま悪あがきして尾上馨の矜持を貫いてください。
馨さん、誰の目から見ても、きっと私は変わり者で、その変わり者を上回る変わり者が貴方でした。
でも、貴方が変わり者であるにはいつも理由があった。
誰よりも強くなろうとして、貴方はいつも自分の本当の心をしまい込んだ。
貴方のやりたいこと、貴方が護りたいもの、貴方が求められるもの。
その全てが貴方を頑固にして、貴方を変わり者にした。
愛なんて、心なんてと二の次にして、そのくせ、貴方は誰よりも寂しがり屋だった。
私は貴方の強さがいつも誰かを護ろうとして必死に身に着けたものだと知っています。
貴方ほど底抜けに優しくて情の深い男はいない。
だから、私は泣きたいくらいに貴方の心を護りたいと生き恥をさらしてそばに居ました。
本当はこんな弱っていく姿、みすぼらしくなっていく姿などみせたくはなかった。
貴方の中で良い思い出になりたかったのに、貴方は勝手に私を妻にしてしまった。
どれだけ嬉しかったか、貴方にわかるでしょうか。
子どもは今世で駄目なら来世で良いなんて殺し文句、前代未聞です。
この言葉だけで私は死の恐怖が無くなりました。
途轍もなく不器用で、途方もない大きさの愛を持っている貴方が来世も待っていてくれるのなら怖くない。
だから、もう泣かないで。
お願いです、馨さん、私のためにもう一度立ち上がって。
忘れないでください。これは別れではありません。
今生で果たせないものは来世でと言ったのは貴方ですからね。
次の時代で待っています。
次もきっと貴方のお尻をたたいて、貴方が降参するまで、私は貴方がもう嫌だと呆れるほどに愛しぬいてみせるから。
でも、もう一度逢えたなら、今よりももっと早めの降参を希望します。
馨さん、貴方のいるべき場所はどこですか?
私はもう身軽だから、どこへなりとも一緒に行けます。
だから、貴方がここに居る必要はありません。
やりたいことを、やりたいようにすれば良い。
尾上馨中佐、貴方の矜持をみせつけてきてください。
貴方のその貫いてなんぼの信念で、護り抜くべき愛しいすべてのもののために行ってらっしゃい。
尾上燈子 】
読むつもりなどなかったのに、泰子が押し付けてくるから俺は読む羽目になってしまった。そして、泰子に同じくどうしようもないほどの涙がこぼれた。
あの時、燈子が絶対に尾上に読ませろと俺に託してきた意味がわかった。
俺が言うまでもなく、あの時すでに燈子は死に方準備をしていた。
どうあっても尾上を奮い立たせて、しっかりと歩かせようとしていてくれたのだ。
「すごいな……。 本当に尾上さんのことをわかっていて、これを書いていたんだな。 そしてあの時、尾上さんはこれを読んだんだな。 なるほど、それであんな顔を……。」
理子が読んだ後に俺に抱き着いてきた気持ちが今頃よくわかった。
「なるほど勝てるわけがない……と思うわけだ。」
自分たちの愛情が負けた気がして、理子は助けてくれと俺に言ったのか。
理子は馬鹿だ。比べる必要なんかありゃしないのに。
「言ってやればよかったな……。 俺達だって負けやしないって。」
俺は今頃ようやくそんな甘い言葉を口にできた。尾上に大笑いされそうだ。
「厄介事、傍迷惑、難題収集が十八番。 だから、貴方は……。」
尾上馨は、あの時、これを読んで自分が何をなすべきで、何を護るべきかを考えた。
俺や小泉を切り離した尾上の想いをわかっていたつもりだったが、今更ながらに尾上の真の想いが痛いほどに伝わってくる。
俺達が生き残って成したことが尾上の命の価値そのものだったってことだ。
少なくとも尾上はそれを信じて、自分の命を最大限に活用したのだから。
「理子がな、護ってくれた者の価値は俺次第だとあの時に俺に何度も言った意味がよくわかった。 尾上さんの価値を俺は上げることができただろうか……。」
ひ孫を前にしておいおいと泣くだなんて、情けない。
だが、もう止めることができなかった。
「航空自衛隊の矜持、心意気はじいちゃんたちの貴重な遺産でしょう? 尾上さんもきっと十分だって笑ってくれる気がするよ?」
泰子は全てを受け止めた時に人が見せるような、どことなく達観したような笑顔を浮かべていた。それはまるで燈子が褒めてくれたようで、心が救われる気がした。
「これがじいちゃんの終戦だよ。 じいちゃんの戦後は今、終わったんだと思う。 バトンタッチできるってことで。」
泰子の腹には何もない。
純粋にそう思った言葉を口にしているだけだろう。
「バトンタッチか。 そうなのかもな。」
本当に泰子といい、燈子といい、すごい言葉を持っているものだ。
俺が勝手に生まれ変わりだと思い込んでいるだけかもしれないが、それを信じてあの世に召されるのも悪くないとさえ思えた。
喉が渇き切って、湯呑に手を伸ばすと、流石に中身は空っぽだ。
「話しすぎたな。」
「8月15日に聞けて良かったよ。」
「そうか。 終戦記念日だったものなぁ。」
現代の戦闘機パイロット達が俺達と同じ運命に立った時、どうするのだろうか。
ふと自衛官の服務の宣誓を思い出した。
【私は、我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身を鍛え、技能を磨き、政治的活動に関与せず、強い責任感をもつて専心職務の遂行に当たり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います。】
【私は、幹部自衛官に任命されたことを光栄とし、重責を自覚し、幹部自衛官たるの徳操のかん養と技能の修練に努め、率先垂範職務の遂行にあたり、もつて部隊団結の核心となることを誓います。】
「事に臨んでは危険を顧みず、身をもつて責務の完遂に務め、もつて国民の負託にこたえることを誓います……。」
言葉に出してみると、いつの世も同じだと痛感する。
国防を仕事にするというのはそういうことだ。
誰から頼まれて護っているのではなく、自らの意志で護る。
嫌われても、なじられても、国が護れるのならそれで良いだなんて、心意気一つで食っているみたいなものだ。
尾上さんがこの時代に居れば喜んで働いていそうだと思ってしまう。
今日は感傷的になりすぎたなと小さく息を漏らす。
「みたらし団子、買いに行かなくちゃね。 じいちゃんがいつもお供えしている意味がわかっちゃった!」
泰子はけらけらと笑っている。
「そうだな、供えておくくらいせんと、化けて出るかもな。」
理子が困った顔で化けて出そうだ。
いつまで、初恋ひきずっているんだと。
何度もお前が一番だと言って聞かせても、信じるかと尻を叩かれ続けたものだ。
来世でも結婚を申し込むのはきっと理子だろうに。
まったく信用のないことだ。
それでも、写真の中の我が嫁がにっこりと笑ってくれた気がした。
「ねぇ、川村大尉?」
「なんだ、突然!?」
燈子が話し出したみたいで、一瞬、心臓が止まるかと思った。
「すごく不思議な夢を見ることがあるの。 もう何年になるかな。」
俺の不整脈など完全無視の泰子が真面目な顔をして夢の話を口にし始めた。
「春先と夏になると数日なんだけど、毎年見るのよ。 変でしょう?」
その突拍子もない泰子の夢の内容は自分が死ぬのだそうだ。
どうみても海軍の御偉いさんとしか思えない服装をしたとても愛しい男がいて、死んでいる自分に一生懸命に声をかけながら抱きしめてくれるそうだ。
『お前はこれから日本に起こる悲惨な光景を見ないで済んだんだよ。 ちょっと先に行っておいてくれ。 次に会った時も俺はきっと変われないからまた粘ってくれ。 だから、今は行ってくるからな。 許してくれ。』
彼は何度も何度も大切そうに抱きしめてくれるそうだ。
死に急ぎそうな彼に何とか声かけたくて、『中佐、死んではだめ』と必死に手を伸ばすけれど届かない。お願いだから私はここにいるからと叫んでも届かない。
そして、涙いっぱいになって目が覚めるのだというのだ。
「さっきの話をききながら悩んでいたんだよね。 大尉、どうしよう……。」
泰子が真剣に悩んでいるらしく、顔色が蒼ざめてくる。
「さて、尾上馨中佐でも探さねばならんのでは?」
泰子の真剣具合がおかしすぎて悪いとは思いながらもふきだしてしまう。
「もう! これ、やばいやつだよ!」
泰子は目を白黒させてどうしようと必死だ。
「逃げられんのじゃないか? お前、燈子さんと同じ事を言っている自覚あるだろう?」
「ある、ある! 聞きながら正直、脇に汗びっしょりだったよ。」
ますます泰子の血の気が引いていくのがわかる。
燈子の若い頃はこんなに落ち着きがなかったのだろうかとか思うと余計に色々とおかしくなってくる。
「裁縫は?」
「苦手ですけど?」
「飛行機は?」
「好きすぎておかしいですけど?」
「ご病気のお名前は?」
「悪性リンパ腫ですけど?」
「ところてんはお好き?」
「好きですけど!」
「はい、決定!」
「でもさ、好きな男いないよ? どうしよう。 私、そんなに誰かを好きになれるような気がしない!」
「出会うまでわからんだけだろうよ。 それか尾上さんの呪いだな。 自分以外の男に惚れない魔法でもかかっているんじゃないのか?」
「そんなぁ!」
めいいっぱい困り果てている泰子が可愛くて仕方がない。
素直なのは理子譲りのようだ。
だが、俺の本音は冗談で言っているつもりはない。
戦闘機はあの人の目印だ。
空を見上げて、空が好きな人間にしかあの人はきっと見つけられない。
徹底的な飛行機馬鹿、それが尾上馨だ。
「来月、小松の航空祭に招待されてる。 行くか?」
「行く! イーグルランドに行く!」
さっきまで悩んでいたのはどこへやら、ディズニーランドへ行く勢いでイーグルランドに行きたいひ孫はにっこりと笑っている。
「体調整えないと連れて行かんからな。」
「がんばる!」
「で、次こそは幸せになるんですよ、あんたたちは!」
「何それ! じゃあ、連れてきてよ、尾上馨を!」
「勘弁してくれ。」
両手をあげて降参して見せたところで、夕ご飯だという集合がかかった。
泰子が先に部屋を出ていったところで、俺は理子の写真を指先でつついてみた。
「なぁ、理子。 もういいだろう?」
慣れ親しんだ畳の上で俺は目を閉じたい。
俺は十分生きて、伝えるべきは伝えた。
そろそろ眠りたいんだけど、お迎えよろしく。
尾上さんのスピカは燈子さんで、俺のスピカはたぶん理子だな。
There is always light behind the clouds.
Louisa May Alcott (ルイーザ・メイ・オルコット) 【雲の向こうは、いつも青空。】
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