第13話 ワーカーホリック

「あぶないって!」


 まったく良い年の男がおおよそ上げそうにない声が離れから聞こえた。

 翌朝までぐっすりだった尾上が目を覚ましたようだった。

 俺たちは離れに一番近い部屋で朝飯を口にしていたのだが、どうにもすばらしく大変な状況のようなので、箸をおいて、部屋へ向かうこととした。

 喜代ときたら本当に容赦がない。

 勢いよく障子を開き、尾上に『おはようございます』とにっこりだ。

 こちらに苦笑いしかできない尾上は布団の上で、燈子の身体を抱きとめていた。

 状況がまったくわかっていない燈子はただただ挙動不審だ。

 どうやら立ち上がろうとして、足に力が入らず前のめりになったらしかった。

「いきなりは無理だ。」

 尾上が差し出した腕に受け止められたままで燈子はじっとしている。

 燈子はあがってしまった息を必死に整えようとしているがそれがなかなかうまくいかず、脂汗が額に浮かび上がっている。

「燈子さん、まだ無理はできないわよ? ご自分の状況はお仕事柄おわかりよね?」

 喜代が布団の傍に座ると静かに白湯を差し出す。

「すみません。」

 尾上に大丈夫だと言いながら座りなおすと、燈子は差し出された湯呑を手に取った。

 燈子の危なっかしさに尾上は始終はらはらしている、そんな様子だった。

この2人はどうしてこうも色気がないのだろうというくらいさわやかすぎて、全く男女のこうねっとりとした雰囲気が微塵もない。

 互いに布団の上、互いに浴衣姿。なんなら、思わずでも抱きしめているような格好なのに、目を覆うようなエロスがないのは奇跡とも言える。

 だから、2人のそんな場面に、多数、人が駆けつけてもさほどの騒ぎにもならないのだ。

 喜代に至っては我関せずで、ごく普通に会話をしはじめる始末だ。

「お医者様はかなり弱っているとおっしゃっていたわ。 体が弱っている時に、風邪をひくなんて。 この際、ここでしっかり治しなさいね。 馨さんが介抱しますから。」

 この一言に、馨こと尾上が目を丸くした。

 燈子も口にした白湯をなかなか飲み込めない様子でむせ始めた。

「おい! 大丈夫か?」

 尾上は燈子の背をさすりながら、喜代の後ろにいた俺と小泉に目をやった。

 小泉は満面の笑みで、療養通知をペラペラさせながら尾上に突き出すようにみせた。

 俺はその横で苦笑いだ。

「それ、ちゃんとみせろ!」

 尾上の傍に小泉が歩み寄り、通知書を手渡す。

「なんで俺が療養なんだ!?」

 素っ頓狂な声を上げる尾上にニコニコしたままの小泉が事の経緯を説明する。

 概要はこうだ。

㈠ 尾上を探しに来ていた今橋中将が小泉を捕獲。

㈡ 今橋中将に子細を詰問され、あますことなく報告。

㈢ 今橋中将より横須賀航空隊司令里見大佐に命令。

㈣ 尾上少佐の5日間の療養決定。

「……なんか手紙預かってきただろ?」

 尾上は盛大なため息の後で、小泉に向かって手を伸ばした。

「いいえ。 直接、どうぞ!」

 小泉は廊下に向かって一礼して見せた。その直後にひょっこりと顔を出した人物を見るや否や尾上の顔色がみるみる蒼ざめていき、今にもぶったおれそうだ。

 今橋ときたら、小泉同様に1点の曇りもない満面の笑みだ。

 その上、今橋はすぐそばに居る小泉にわざわざ伝言を託した。

「海軍航空隊の男ならばさっさと一人前になれ、だそうです。」

 小泉はにっこりと笑って燈子の前で堂々と報告する。

 尾上はもうだめだといわんばかりに、ばったりと布団に倒れこんだ。

「少佐?」

 燈子に上から見下ろされる形になり、尾上はまたあわてて身を起こした。

「何でもない。 ……何か口にした方がいいぞ。 ほら、ばあ様、こいつにも朝飯。」

 尾上はそそくさと立ち上がると逃げるように座敷をあとにする。

「あの……申し訳ありません、本当に何も覚えていなくて。」

 燈子は正坐をして、喜代に丁寧にお辞儀をした。

 喜代は良いのよと手を振った。

「馨さんが寒がっていたあなたを介抱したまま眠ってしまっていただけのことだから。」

 喜代の一言に、燈子は眩暈を感じ布団に倒れこみそうになる。

 燈子は真っ赤になって、浴衣の胸元をしっかりと閉じなおす。

 乱れたままの髪も必死に整えようとしたところで、喜代にその手をつかまれてしまった。

「何も焦る必要はないのよ。 熱はようやく引いたみたいだし、お粥でも口にしてから少し汗を流しにいきましょうか?」

「あの……私は……その……。」

「自信がないのはよくないわね。 『私なんか』だけは口にするのはやめなさいね。」

 喜代に先に言われて、燈子は目を丸くする。

「その『私なんか』を必死でここまで運んできた孫が哀れになる。 そうでしょう?」

「はい。 申し訳ありません。」

 燈子は一つうなずいてから、再度、顔をあげた。

 もう弱音も負い目も捨て去って、しっかりと前を向いた顔だ。

 この様子に喜代は大きくうなずいた。

「川村中尉、あなたのおっしゃることがよくわかりました。」

 半身だけ振り返り、喜代は俺に微笑んだ。

 喜代に燈子のことを尋ねられ、ふんだんに恋するひいき目をつめこんだ情報提供をしていた。

 でも、実際の燈子を見て、その良いところが伝わったようで、俺はどこか満足だった。

 その後、燈子は何とかお椀半分程度の粥を口にして、理子とともに湯殿へ向かっていた。

「あいつ、本当に食わんな……。」

 尾上は喜代の申しつけ通り、燈子のために用意された粥の残りを完食していた。

「米が貴重なのがわかってんのか?」

 尾上よ、そこではないだろうと今橋に突っ込まれる様子をみながら、俺は苦笑いするしかない。

 尾上は燈子の椀の残りを平然と口にしたのだ。そこに違和感はないのかと目をやるが尾上は至って通常運転の様子だ。

 肩が凝っただの、腕がつっただのと、色気のない情報ばかりが尾上の口からこぼれ落ちる。

「人間湯たんぽしてみていかがでしたか?」

 小泉の一言に尾上の顔色が一瞬でかわる。そうだ、いっそ自覚すればよい。

「覚えてない。」

 やや赤面するもすぐにポーカーフェイスを取り戻す。

 尾上は素直すぎる。

それだけ穏やかな顔で答えた段階で、ひどく安心できたものだったに違いないだろうが。

「少佐、いつも寝つきが悪いのにずいぶんと調子よさそうですが?」

 俺もわずかな悪意のもとで口をはさむことにした。 

「たしかにな。 良くねたわ。」

 さらに、尾上はあっけらかんとして言う。

 この馬鹿たれがと俺のすぐ隣で無言の今橋に怒りの情が浮かびあがった。

 燈子も理子も、喜代もいなくなった頃を見計らって、今橋がわざとらしく咳払いをした。

「そうだ、皆に言っておくことがある。 例の件、猶予がなくなった。」

 今橋が急に真顔に戻った。

もう和やかな雰囲気は微塵もない。

「ことは急ぐ。 今すぐに全国の搭乗員で腕の良い奴を選抜する。」

 尾上も一変して少佐の顔になっていた。

「それはどのような機体にでも順応できる搭乗員という指標なのか、実戦でとにかく功のある者という指標なのでしょうか?」

 尾上の問いに、俺もその明確性だけは問わせてほしかったのでじっと答えを待った。

 今橋は少しだけ苦い顔をした。

「少数精鋭、機体は選ばんが、新機体もありうる。 場になれているのは好ましいが、あくまでも召集目的は国内防衛が第一。 捨て身の奴はいらんということだ。 何度でも国を護る機会をもてる奴が欲しい。 最後の最後に抵抗できるように。」

 小泉も厳しい顔をしたまま押し黙ってきいている。

「わかりました。 急ぎましょう。」

 尾上はわずかばかりの沈黙の後、大きくうなずいた。

「……それって、もっともはやく着隊できる者がもういるのでは?」

 小泉は鋭い。俺もそれに思い至っていた。

 今橋はきっと次にこう言う。

『横須賀航空隊で臨時新設し、訓練。 後に隊を別働として他基地へ移管する。』

「予定を大幅に繰り上げるが、貴様ら横須賀航空隊で臨時新設、訓練実施。 少し遅れはするが整い次第、別基地へ搭乗員と機体を移管。 搭乗要因は兎に角、一本釣りせねばならん。」

 俺の読みはやはりはずれなかった。

 もっともはやく着隊できるのは間違いなく俺たちだ。

 そして、これからの全搭乗員の命運を握るのは今橋ということだ。

「どうやって釣るかは任せる。」

 今橋はどんな手を使っても構わないから優秀な搭乗員を外地に出すな、もしくは内地に呼び戻せと言っているのだ。

「運用機体は現時点では問題ありの紫電を使う他ない。」

 これにはさすがの尾上も声が出なかった。

 俺達は紫電を良く知っている。

 今橋の言う優秀な搭乗員とは、紫電を主軸に運用する以上、想定以上の技術を持つ者を一本釣りしなければならいということを指す。

あくまで運用する機体は紫電の改良版でなければならないはずだった。

 ここで初めて尾上の言葉を思い出していた。

 あの時の、『もう間に合わん』はこれを予想していたのだ。

「只今の紫電では皆を殺すだけなのはよくわかっている。 だから、紫電を使い物になるように何とかせんといかん。 それの方が重要事項だがな。」

 尾上は今橋の言葉に『まいった』と小さくつぶやいた。

「そう、かなり参っているところだ。」

 いつものことだが、あっけらかんととんでもないことを口にしながら、難題を持ち込んでくる今橋なのだが、今回ばかりは苦渋の決断というところだろう。

「まいったで済むことですか!?」

 俺の問いに、今橋はそういわれてもなぁと気のない返事をした。

 今橋はめずらしくも力なく笑っていた。

 この中将、潔いほどに冷酷になり切れば楽だろうに、そこに情を挟み込んでくるから厄介なのだ。

「選ばれて乗せられた者はもっとも過酷な隊で、もっとも過酷な状況で、貴様が死んでも機体だけは戻せと言われる。 うまく生き残っても、こう言われるんだ。 『まだ機体があるぞ』……よほどの想いと士気を維持できる猛者でなければすぐにあの世行きだ。」

 今橋は自分の両掌に目を落として、乾いた笑いを浮かべる。

「何事も面倒ごとは横須賀航空隊からだ。」

横須賀航空隊を母体にするといった段階でもう命運は決まっているじゃないか。

俺は苦笑いするしかなかった。

「すまんな、死神の役割を与えてしまう。」

 今橋はゆっくりと目を閉じる。

「死神だなんて、日本を最後まで護れるんですから守護神としませんか?」

 尾上の言葉に俺も泉も静かにうなずくことしかできない。

 すっとぼけた中将だが、決してこの男は暗愚ではない。

 そして、俺たちはその傍にいることが嫌いではない。

「だいたい護りたい想いのない海軍の搭乗員なんていますかね? 機体があるなら何度でも行ってやるさって男ばかりですよ。 我が航空隊は特に士気が高いと思っていますけどね。 母体となるのにこれほど適した部隊はない。 そうでしょう?」

 尾上は腕を組んで、にかっと笑って見せる。

選ぶ方の苦悩も選ばれた方の苦悩もすべては愛する人たちを護りたい一心からうまれているものだ。

「最初の数人の選抜は簡単です。 徹底的に還ってくることの本当の意味を知っているのは、まずは尾上組の連中でしょうから。」

 俺は指を折って数えてみせると、小泉もそばで同じようにはじめている。

「なんだ、尾上組って?」

 今橋は、俺と小泉の顔を交互に見て首を傾げた。

「少佐に飛ばせてもらえなかった問題児連中のことですよ。」

 俺たちは笑う。

 尾上のしごきに耐えられた段階で十分に猛者だ。

 いちいち徹底して基礎を叩き込まれた後に、ぶっ飛んだ操縦技術を身につけさせられた搭乗員は皆、何故か尾上のことを大好きな変わり者ばかりだ。

 尾上は面倒くさそうに笑ったが、ほんの少しだけ辛そうに表情を歪ませた。

 それだけで俺たちがこの人に大切に思われているのがわかって、それだけでなんだってできてしまう。

主人に悲しい顔をさせたい飼い犬はいない。

 俺のちょっとしたセンチメンタルな気持ちをよそに、そばに居る小泉は小さく深呼吸をしたかと思うと、爆弾発言をした。

「ところで、少佐、いつ、祝言します?」

 小泉は尾上に爆弾を投下した結果、見事に拳骨をいただいていたが、場の空気は一変していた。

今橋がすぐに許可を出すと便乗し、尾上が盛大なるお断りを表明していたのがおかしかった。それでも、誰もが心の底から笑える状況にないことはよくわかっていた。




 まがりなりにも休んでよいぞと言われた手前、休みたいのだが何をしたら良いのかわからないのが悲しい性だと気が付いた俺たち3人は、今橋と理子が去った後も座卓を囲んで書類に目を通す。

「結局、仕事してますけど……。 後に大変だから、この5日間は何もせんで良いって中将言ってませんでした?」

 小泉のため息に俺も尾上も便乗した。

「休みって、どうするんだっけか?」

 尾上はねころがりながら、大きく伸びをして見せ、俺たちに答えを要求する。

 俺たちに答えはない。

正直なところ、わからないのだ。

 3人してさらにため息をつくしかない、悲しすぎるワーカーホリック3名。

「霞ヶ浦、筑波、土浦、三沢、大村、鹿児島、鹿屋、佐世保。」

 尾上が基地名を読み上げていく。俺と尾上、小泉の所縁のある基地だ。

 それぞれにすぐに思い浮かぶ顔があったのだろう。

 尾上は束となっている搭乗員名簿を手に取ると大ため息だ。

 国内にある航空隊基地の情報だけでもすでにかなりの量になっていたからだ。

「外地にいる者も考慮するとなると相当かかるな。」

 尾上は髪をかきむしると、面倒くさそうに寝返りを打った。

「何をそこまでお悩みで? 名前が挙がってくる搭乗員がこれだけいるのは素晴らしいことですが?」

 小泉が湯呑に手を伸ばしながら暢気につぶやいた。

「生きて居たらの話だろうが。」

 尾上の言葉はなるほど重い。

 俺たちはまだ彼らのことを基地に照会していない。

 俺たちは優秀なことを知っているだけなのだ。

 尾上は先のミッドウェー、ガダルカナル、ラバウルで同期の半数以上を失っていただけでなく、飛行班長として送り出した10名の教え子をすでに失っていた。

 それは俺や小泉も例外ではなく、同期の誰が生き残っているのかもわからなくなっていた。逃れようのない現実がそこには横たわっていた。

「しっかし、各部隊からベテランを一本釣りするなんてはた迷惑な限りですが……どうやって中将は押し通すつもりでしょうか?」

 俺は搭乗員名簿に目を通しながら尾上に尋ねる。

 尾上は寝転がったままで、『そりゃ、政治家に任せとけばいい。』と暢気に聞き流した。

「なんと暢気な……。」

俺もなんとか笑ってみたものの、実のところ、全員がある同じ想いを抱いていた。

『俺たちは死ぬ。』

この時、1943年昭和18年晩秋。

 民間の人間より早く、死の足音がはっきりと耳に届き始めていたのだ。

 国民総動員のもと、鬼畜米兵に負けてなるものかと一種のマインドコントロールにも似た情報統制がしかれていた。

 心ある軍人であれば、この冷静ならざる状況がいかに常軌を逸しているかわかっていた。

 それでも、軍属ゆえに、身をやつす選択肢しかなかったのだ。

そして、大日本帝国海軍は大きな転換点を迎え、『神風特攻隊』という後の世までも語り継がれる悲しみへ一気に駆け抜けていくこととなる。

 この1年半後、横須賀基地にて第343海軍航空隊が正式に編成。

戦闘機隊は局地戦闘機紫電と紫電を大幅に改良した紫電改を集中配備し、偵察機隊は艦上偵察機彩雲を装備した海軍航空隊の総力を挙げたものとなった。

 海軍航空隊史上最強と謳われ、日本本土の防空を終戦まで護りぬくと死力を尽くした戦闘機乗り達を要した2代目343部隊、通称『剣部隊』が時代に一矢報いるために登場することになるのである。

 ぎりぎりまで新設部隊のことは伏せられたまま、一本釣りが速やかに開始された。

『内地へ機体を取りに戻れ。』

『新機体を取りに行け。』

 苦肉の策だった。

 誰が要員として選ばれているのかが内にも外にもわからないよう選抜された人員が横須賀に呼び戻されたのだ。

 横須賀に集められた人員は、その場で転属させられる。

 海軍の王道たる艦艇に資材も人材も欲しい寺脇一派とは当然ながらやりあっている今橋だったが、殊の外、今橋の狙い通りに派閥が機能していた。

 こうして作られた部隊が後の世にも英雄のように語られることとなるのだが、部隊新設があきらかにされた当時は機材も人材も圧倒的な独占状態であったため、予想以上に海軍内部でも非難轟々だった。

 今橋は里見大佐とともに飛行機乗りの意地をかけて、暴論と言われようと突き進んだ。

 この時にうまれた343の大活躍が先にあるなんてことはこの時の俺も小泉も尾上さえもが想像できなかった。

 当時、耳にし、目にする情報に心を踏みつぶされ、俺たちは未来を想像することすらできないほどに追い詰められていた。

 多くの人間が国の未来をいまだ信じていた頃、俺たちは日本が国として存続できるかどうかの末期状態にいる現実と向き合っていた。

 今橋が『こけ方を考える』と表現したとおり、どこで折り合いをつけるかが日本の未来を変えることとなるのかと戦々恐々していた。

 世界の歴史から学ぶというのなら、敗戦国は民族の自由を奪われ、占領される。

 老人、女や子どものたどる道など考えたくもない。

 だからこそ、どうあっても国を護りぬかねばならんのだと頭を悩ませる。

 護りようがなくなった時、どうするのかまで悩むのだ。

 しかも、海軍内ですら統率のとれない状況で、どうして陸軍と海軍が理念をすりあわせることができるというのか。組織同士の致命的な軋轢が立ちはだかっていた。

「俺達しかおらんのだ。」

 尾上の言葉に俺たちはうなずく。

 俺たち海軍の軍人が最後の最後まで盾になってやるんだという気概だけで俺たちは前を向くしかないのだから。

「特攻がやむを得ないのなら、最後まで粘り切って……例え死んでも盾になるのは俺たちがせねばならん。 特攻が回ってくるのならば甘んじて受ける。 それまでは粘る。」

 尾上は静かに目を伏せた。

戦時下にある軍人の宿命なんてそんなもんだとあきらめにも似た表情だった。

 その時だった。

 ガタンと廊下で物が落ちたような音がして、尾上が慌てて障子を開けると、そこには燈子と喜代がいた。

 喜代が蒼ざめた顔をして呆然と立っており、燈子が盆から落ちてしまった湯呑を拾い上げている。

「聞いていましたか?」

 尾上は喜代の肩をつかんだ。

「ばあ様、盗み聞きしていたのかと聞いている!」

 あからさまに苛立っている口調に、燈子がすっと立ち上がり、尾上の腕をつかんで、喜代の肩から外させる。

「少佐のお身内ですよ?」

 燈子はあなたの身内なのだから、他言するはずがないでしょうというように尾上を諭した。

「ただ案じて何が悪いのですか? 案じてくれる者さえもたない男にどれほどの仕事ができますか? 国の大事をなすと言うのなら、当たり前にあるものにも胡坐をかかずに目を配ってください! ……当たり前のものがいつもそこにあるとは限らないのですからね。 あなたはもっと愛してくれる方のありがたさに気づくべきです。 謝ってください。」

「何故、俺が謝らねばならんのだ! 盗み聞きしたのはそっちだろうが!」

 尾上は胸の前で腕を組み、燈子を睨みつけた。

「聞かれるような場所で重要な話をする方が間抜けというものです! 海軍将校であるなら、もっと用心なさった上で、場を選んでお話しください! さぁ、謝ってください!」

 燈子は珍しく怒っていた。

そして、正論だった。

 だから、尾上ももう燈子に反論することはなかった。

 海千山千の海軍少佐が母親に怒られた子供のように口先を尖らせるだけだ。

「喜代さん、お茶を入れなおしに行きませんか? そのうちに謝り方を思い出されるかと。」

 燈子はまだ立ち直れていないままの喜代の手を引き戻っていく。

 尾上は廊下に座り込み、腕を組んでそっぽを向いた。

 いちいち面白いやりとりに俺と小泉は顔を見合わせた。

 燈子の完全勝利だ。

さすがに理子の姉だ。やる時はやる。その恐ろしさはかわらない。

「俺だって、ばあ様にあんな顔させたいわけじゃない!」

 尾上は良い年をした男だったが、意外にも素直なところがあった。

「俺は俺の意志で謝りに行くんだ。 あいつに言われたからじゃないからな。」

 俺は子どもかとつっこみをいれたくなったが、尾上のそんなところが嫌いではなかった。

 階級があがると、ごめんなさいがなかなか言えなくなるが、尾上はそうではない。

 うちの大将は実にかわいげのある人間だと声を大にして言いたくなる俺達だった。



The sole meaning of life is to serve humanity.

                  Leo Tolstoy(トルストイ)

【人生の唯一の意義は、人のために生きることである。】




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