第12話 初恋の人と天敵


 喜代に案内された部屋で出された茶を片手に、俺はぼんやりと過ごしていた。

 畳の匂いが懐かしいなとか、そんな風に感じるほどに隊舎に入り浸っていたことに気が付いた。

 寝転がってみるとなるほど体が悲鳴を上げていたことにまで気がついてしまいそうだ。

 気を抜こうものなら眠気が簡単に襲ってくる。

 ぼんやりと寝ているような寝ていなかったような時間が心地よい。

 尾上といえば、喜代に連行されたまま姿が見えない。

 そうこうしていると気が付いたら5時間も眠りこけてしまっていた。

 こんなに長い時間ぐっすり眠ったのは久しぶりだった。 

 それに、誰かが俺に布団をかけてくれていたようで、なんともあたたかくて心地よい感覚にまだ眠れそうな感じすらする。

「目が覚めましたか?」

 ふいに喜代の声がして、俺は思わず、すみませんと飛び起きた。

「お食事にしましょうか? お客様もお待ちだし?」

「お客様……ですか?」

 嫌な予感しかしないが、逃げるわけにもいかなさそうなのでしっかりと体を起こした。

「あ、尾上少佐は?」

 俺は眠りこけていたせいで、尾上のその後を完璧に忘れ去っていた。

「まだ寝てますよ? 面白いったらありゃしない。」

「眠る!? あの、眠れない人がですか?」

 尾上の寝つきの悪さは折り紙付きだ。本当にいつ眠っているんだろうというくらいに、尾上の睡眠は浅く、部下として心配になるくらいなのだ。

「それはもうぐっすり。 そばで何をしたって起きやしない。」

 それは誰の話しなのだろうとあんぐりと口が開いてしまいそうだ。

 喜代は俺が眠りこけていた5時間の珍事について話してくれた。

 優柔不断な孫の尻を叩く意味を込めて、全て責任を取りなさいとうなされている燈子の介抱を尾上に押し付けることに成功していたようだった。

 寒いと言えば抱きしめて温めなさい。

 熱いと言えば濡れた手ぬぐいで汗をぬぐってやりなさい。

 咳き込めば背をさすりなさい。

 汗びっしょりだから着替えさせなさいにはさすがに全力で阻止されたそうだが、とにかく、そばで見張る喜代の指導の下、尾上は丁寧に介抱していたらしい。

 意識がもうろうとしている燈子がなかなか薬を飲むことができず、何度も何度も唇からこぼれ落ちてしまう難儀さにしびれを切らした尾上はついに覚悟を決めたらしかった。

 しまいには疲れ果てて、燈子に腕を貸したまま眠りこんでいるらしい。

 喜代はしてやったりと大笑いしている。

「やればできるんですね。」

 俺はそれをきいて、安堵と言うか、悲しいというか複雑な気持ちになった。

「ここまで追い詰めないとできないなんて、我が孫ながら情けないですわ。」

 喜代は恐ろしいほどに整った笑顔で着物の胸元をきゅっとしめなおした。

 俺は苦笑いをするのが精一杯だ。尾上がこの祖母殿に勝てるはずがないと痛感した。

 そんな喜代に連れられて離れにたどり着くと、そこには小泉が待っていた。

「中尉、戻りました!」

 小泉はやけに元気だ。これまた嫌な予感しかしない。

「お前、喜代さんからきいただろう?」

「ご名答! さっき、ちょっこらのぞいてきました。」

「やっぱりな。 頼むから、尾上さんに見ましたなんて、たわけたことぬかすなよ?」

 小泉は有能なのにどうにもこういう悪い癖がある。

 尾上さんを哀れに思いながらも、俺は小泉から替えの軍装と備品の一式を受け取った。

「どうだった?」

「珍しくも風邪をこじらせ、起き上がることもかなわず、ご実家の旅館にて祖母様に介抱されておりますと里見大佐に報告しました。 尾上少佐には緊急招集を除いて5日間の療養期間を与えていただいてきましたよ。 本日がダメでも5日間もあれば男ですからなんとかなりますでしょう?」

 嘘も方便と言うが、小泉の悪知恵はここまでくると悪意にしか思えない。

しかも、小泉は得意げに胸を張っている。

「土産です。」

 小泉はしてやったりの笑みで、療養休暇の通知を俺の目の前に広げて見せた。

「川村中尉と私には警護対象の回復までここで待機せよと。」

 小泉は己の欲望に対してはぬかりなさすぎる。

「お前、尾上さんの面白い状況を観察したかっただけだろう? 本当は何て言って待機命令を受けてきた?」

「守秘義務がありますので、申し上げられません。」

「何が守秘義務だ。 阿保か、お前は。」

 尾上にも男の意地があるだろう。

俺たちが居ては成るものも成らなくなりかねない。

「俺は帰るぞ?」

「そんなぁ! 詰将棋は最後までが肝心なんですよ?」

 小泉は心の底から残念な声をあげているが、俺はもう聞く耳をもってはいない。

「だいたい、今橋中将はこのことはご存知か?」

「はい、ご存知ですし、共に参りました。」

「うん!?」

 小泉は今、何と言ったのかと俺は眩暈がした。

「ですから、今橋中将と共にここへ参りました。 それに、先ほどは中将の許可があり、尾上さんの甘い空間を共に覗きみた次第です。」

 小泉の悪びれもしない、自信満々の態度の意味がようやくつかめた。

 尾上より上の許可があれば、怖いものはないということだったのか。

 お客様ときいて嫌な予感しかしなかった俺の勘は正しかった。

「中将にお逢いしたい。 このままじゃ、尾上さんがぶちぎれる。 お前、なんてもんを連れてくるんだ……。」

 小泉はけろりとした顔で、最高の土産ですだなんて軽口をたたいた。

 小泉の案内で中将がいるらしい座敷へ向かうと、部屋の中から若い女性の声がきこえ、障子をあけるのを一瞬躊躇してしまった。

 ものすごく聞き覚えのある声に、俺は踵を返したい気にかられた。

 一瞬で汗が噴き出してきそうだ。

「小泉、お前、今橋中将ともう一人連れてきたのか?」

「だって、燈子さんの荷物も必要でしょう?」

 これまたケロリと言ってのける小泉を怒る気にもなれず、俺はその場に崩れ落ちそうになった。

「……しばかれるよな。」

 俺が最大級の衝撃を受けているのに、小泉は臆することもなく、障子を勢いよく開けて入っていった。

 心の準備ができず、呆然と立ち尽くしていた俺の様子に不思議そうな顔をしていた喜代に一つ頼みごとをすることにした。

 そして、ため息ひとつ。

「いずれにせよ、逃げられはしない、か……。」

 覚悟を決めて、俺もしぶしぶその部屋へ足を踏み入れることにした。

 中将と何やら話していた理子のそれはそれは鋭い視線が俺に突き刺さった。

 わかっていたような、そうでしょうねというようなご機嫌斜めの表情で、こちらをじっと見つめている。

 緊張すると、人間は口が乾く。変な汗すら出てくる。

 グラマンに追っかけられている方が幾分、気が楽だなんて現実逃避してみるも、どうにもこの理子からは逃れられるわけがなく、めでたく対峙することとなった。

 俺と理子の間に流れる空気を読んだ今橋中将は苦笑い。

小泉は面白いといわんばかりの態度だ。

何故、俺だけがこうも標的にされねばならんのだと脱力せざるを得ない。

 理子と向かい合わせの席をすすめられ、着席した直後に、やけに静かな口調で理子は話し始めた。

「中将から詳細はお伺いしたところです。 姉は私の目を盗んででかけたので、今回はこちらも申し訳なく思います。」

「へ!?」

 向かいに目をやると拍子抜けするほどにあっさりと理子がお相子だと頷いている。

 なんだが余計に落ち着かない気がしてはいたがそれを何とかやり過ごすことに決めた。

「目を盗んだ?」

 燈子はこの理子の監視を潜り抜けてまで尾上に逢いたかったようだった。

 それほどまでに出るなと理子に制限をかけられていたのだから、燈子の体調はおそろしいまでに悪かったのだと痛感した。

「私がお産に呼ばれている間に抜け出したようで。 後ほど、姉をきつくしかるつもりですけれど、今は大目に見ることにしました。」

「……お産?」

 聞きなれない響きに声がほんの少しうわずってしまった。

 そういえば、理子は何やら仕事をしていたことを思い出した。

「助産婦ですが、何か問題でも?」

 気の短い理子の表情にいらだちがふっと湧いて出てくる。いかん、喧嘩をするつもりは毛頭ないのだと俺は待ってくれと片手を突き出した。

「あぁ、違う、違う! 周りにそんな人がいなかったから聞いているだけです。」

 どうして、こうも理子を相手にすると俺は焦るのだろう。ペースを簡単に乱されてしまう。

 本当に調子が狂う。たまったもんじゃない。

「他意はありません。 ごめんなさい。」

 どうして謝るのだと思いながらも口からついて出てくる言葉を止められない。

ならば問題ないというように、理子は俺の焦りなんてなんのその、出された膳の料理に箸をつけ始める。

「ま、皆、食べよう! ここは食べるしかないな。 あはっははははは。」

 中将は苦笑いのまま、俺と小泉にさっさと箸をつけろと顎で促してきた。

「理子さん、申し訳ないね。 海軍のいざござに巻き込んでしまったからね。 尾上はこれでも君のお姉さんを死ぬ気で護っているつもりなんだがね……。」

「護っているつもり、ですか? つもりならば、ないも同じですね。 あぁ、すみません。思っていることを口にしてしまう性質なのでお詫び申し上げます。」

 理子は綺麗に笑んだ。

 こうやって正面からまじまじとみると、燈子より美形な分、少し冷たく見えるが、目を思わずうるませているあたりに理子の実直さがよくわかる。

姉の体調を心配し過ぎて、感情の制御が実は効いていなさそうだ。

 直感で、理子は我慢している、そう思った。

「ひょっとして、我慢していますか?」

 俺は言ったは良いが、対処法を準備できていないことに気づき、しまったと口をつぐんだ。

 理子は俺を一瞬見たかと思うと、すぐに顔をそらした。

 その頬を大粒の涙がこぼれ落ちていく。どうにも正解を言い当ててしまったようだった。

「たった一人の姉ですから仕方ないでしょう?」

 理子の言葉はそこで閉ざされた。嗚咽交じりになり、もう何も言えなくなったのだ。

 俺は箸をおいて、理子の傍へ行き、その背をさすってみることにした。

 その様子に中将と小泉は、何やらぶつぶつと言いながら、すっと廊下へ出ていった。

 縁側に立ち、わざとらしいまでに庭が良いなとかどうでも良い感想を二人して述べてみているあたりに、俺にすべて任せるぞということなのだろう。

「心配でしたよね。」

 肩をふるわせて、本気で泣いている理子の姿は俺の当たってほしくない勘のようなものを突き動かしそうだった。

理子が急にどうして神戸から出てきたのかとか、どうしてここまで燈子を案じるのかを聞くのが怖くなった。

 幾度となく喧嘩はしているものの、今回のそれはどうにも違っている気がした。

 しばらくそばについていると、理子が持ってきた荷物にふいに目が行った。

 透けて見える風呂敷の中身は薬袋だとわかるものばかりだ。

「これ……。」

 俺の言葉の続きを制するように、理子がきつくにらみつけてきた。

 廊下に居る二人には悟られないように、俺だけにわかるように小さく首を振る。

 燈子が何かとんでもない問題を抱えていることを図らずも俺だけが知ってしまった。

 唇の色がかわるほどに理子はきつく噛んで耐えていた。

「言わないから。」

 だから、もうそんなに頑張らなくていいと俺は無意識に理子を抱きしめていた。

 不思議な感覚だった。

 腕の中に居るのは燈子ではなく、理子だ。

 それなのに、何故か俺が落ち着くのだ。

 すぐ近くには中将も小泉もいるのに、俺は理子に胸を貸すことがやぶさかではなかった自分に驚いた。

 小一時間だ。特に言葉を交わすことはなかった。

 理子は何かに怯えるように、何かをひどく恐れているように泣いて、泣いて、泣いた。

 俺はしばらくして理子が落ち着いた頃を見計らって、あるものを差し出すことにした。

 喜代に頼んでいたものが丁度出来上がっていた。

「さすがにこの情勢で材料がちゃんと手に入るとは思いませんでした。」

 喜代は自慢げに板前に作らせたとにっこりと笑ってくれた。

 皿の上には遠慮がちにのせられた1本のみたらし団子だ。

「ご機嫌が治ると良いわね。 しかし、誰かの好みなんてよく覚えていたわね。」

 さすがに老舗女将の状況把握能力はすごい。

「尾上さんのせいですよ。 主にその才能に欠けているから、どこの誰とも害なくやりとりするための知恵を俺がつけるしかなかった。 その能力の賜物ですよ。」

「理子さん、素敵な娘さんだから泣かせないようにね。」

「はい!? 誤解せんでくださいよ?」

 くすくすと笑う喜代に、俺はそのつもりはないと意思表示する。

「ぐっすり眠っていた貴方が風邪をひかずに済んだのは彼女のおかげよ? 軍人はいつもそんなものだからほおっておけばいいのよと言ったのに、少し寒そうだからかわいそうってね。」

「え!? まったく、わからなかった……。」

「それに、起こすのは忍びないから、起きるまで下で待ちますとおっしゃってましたよ?」

「彼女が!?」

「そう、彼女が。 馨も疎いけれど、貴方も相当だから気をつけなさいね。」

 喜代はわざとらしく、俺の胸を小突いた。

「いやいやいや……ないないない。」

「まぁ、主人も素直じゃないなら、部下も部下ね。 まぁいいわ。 早く持って行ってあげて頂戴。 苦心の作なんだからね。」

「一部承服しかねますが……、とにかく感謝します。」

 俺は喜代から皿を受け取ると、部屋へ戻ることにした。

「さてと……。」

泣き腫らした目をして、ぼんやりとしたままの喧嘩相手のすぐそばに腰を下ろした。

理子はどうしてそばに座るんだというように俺を見た。

まったく素直じゃない。

「食べれば?」

 すっと理子に皿を差し出す。

「どうやってこんなものを手に入れることができたの?」

 理子の声はまだ鼻声だ。あの鬼のごとき恐ろしさもどこへやらだ。

「企業秘密。 喧嘩相手を懐柔するには手段がなくちゃならないからね。」

「なにそれ。」

 理子が無意識に微笑むと、急に幼く見えてくるのが不思議だ。

「ずっとそれくらいの微笑みができると男がぐらっとくるのに、残念だ。」

「悪かったわね!」

 顔を真っ赤にしながら、理子はそっぽを向いた。

「食べるの? やめとく? もうなかなか食べられないと思うけど?」

 俺は意地悪をしたくなった。

 わざととりあげるそぶりをみせると、理子は素直にも手を伸ばして口に入れてくれた。

「よし、これで手打ちだ。」

「わかった。」

 1本の串に団子が3つ。

砂糖は貴重品だ。それを惜しげもなく使ってくれているみたらし団子。

理子は2つまで自分で食べた後で、残りのひとつを俺に差し出してきた。

「分け前や。」

「言い方あるやろ!」

 俺はため息を漏らすと、それを受け取り口に含んだ。

「ありがとうって言うてみい。」

「何で俺が言わなあかんねん。 阿呆ちゃうか?」

「誰が阿呆やねん。 私の好物だったおかげで、この団子あんねんから。 感謝しい。」

「俺が準備したんやろが、何で感謝せんとあかんねん。 ほんまに阿呆やな。」

「阿呆言うな。 阿呆。」

「そんな可愛げなかったら売れ残るで?」

「あんたに心配されたくないわ。」

「へいへい。」 

ようやくいつもの調子を取り戻した理子を残して俺は自分に与えられた部屋へ戻ることにした。

燈子と俺の出身が同じということは、当然のことながら理子も同じということになる。

 阿呆はどちらかというと好意的なやりとりであることを知らない関東出身の小泉からしたら、関西弁での俺たちの会話はどうにも喧嘩しているように聞こえるようでハラハラして聞いていたらしいと後にきいた。

 理子を元気づけるだけ元気づけてはみたのだが、それから俺は眠れたような眠れなかったよう一夜を明かした。

 燈子は尾上のそばにいる。

俺の傍にはいないなんて女々しい気持ちと向き合い、眠れなかったのだ。

 そんな俺の葛藤をあざ笑うように、尾上ときたらなんの発展もないまま、あっさりと夜を明かしたのだ。

それも、ぐっすりと寝入っていたのだから面白くない。

 夜更かしをしてまでも見張っていたらしい小泉ときたら目の下にクマを作って早朝から舌打ちだ。

俺と小泉は面白くもない一夜だったなあと言葉はないが互いに共感を得ていた。



If you want the rainbow, you gotta put up with the rain.

                     Dolly Parton (ドリー・パートン)

【虹を見たければ、ちょっとやそっとの雨は我慢しなくちゃ。】



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