第17話 命とはかくも無惨に奪われるものか

 1945年昭和20年3月。

 春がそこまで来ているというには早く、寒さの厳しい頃だった。

 カタカタと建付けの悪い窓がきしむ音がひっきりなしにきこえる。

 建物のすぐ近くを何度も何度も軍用車両が通り過ぎていく。

 いよいよをもってこの横須賀も戦禍の中にあった。

 海軍航空隊の威信をかけた343部隊が非難囂々の中で立ち上がり、尾上はその部隊再編に駆けずり回っていた。

 そんな中でも、横浜の喜代の宿も危険と判断し、喜代ともども燈子と理子を疎開させようと尾上はこっそりと調整をはじめていた。

「燈子、元気だな?」

 ベッドサイドにある椅子に腰を下ろすと、手袋をはいたままで尾上は燈子の前髪をかきあげるように触れる。

「それで熱があるかわかります?」

 燈子はおかしそうに笑う。蒼白い顔をしているのに、嬉しそうだ。

 そうだなと尾上は苦笑いをして手袋をはずした。

「また勲章ふえましたか?」

「勲章というか……迷惑代行の証だ、こんなもん。」

 尾上は燈子に指さされた徽章を面倒くさそうに指先ではじく。

「今日はいつもと違いますね。 すごく偉い人みたい。」

 尾上の軍服には参謀飾緒がついており、それだけでいかに大変な位置についているかがわかる。

「参謀であればこの紐は皆つけている。 俺だけじゃないさ。」

「では航空参謀様、勲章を一つください。 一つくらいなくなってもわからないでしょう?」

「なんでこんなものが欲しいんだ?」

「宝物にしたいから。」

「宝物になるか、こんなもん。 だいたい、これの意味もわからんくせに。」

「このご時世、そんなにキラキラしたものが他にありますか? ください。」

「今日はたまたま他からの着任があったからつけてるだけだ。 普段はつけん。 それから、これは絶対にやらんぞ?」

「たくさんあるくせに意地悪。」

「何とでも言え、絶対にやらん。」

「気が変わったらくださいね。 ……ねぇ、尾上中佐、少し起こして。」

「なんだ? いきなり尾上中佐だなんて。」

 尾上は起き上がろうとした燈子にそっと腕を貸す。

見慣れてきたものの、尾上が女性を愛おしそうに扱う姿はやはりどこか可笑しい。

「中佐ってすごい偉いのよね?」

「中佐程度じゃ、まだまだ上がいる。 たいしたことない。」

「そういうものなの? 今橋さんが結構偉いんだぞっておっしゃっていたけど?」

「そういうおっさんの方がえげつなく偉い人なんだぞ。 そうは見えんだろうが。」

 燈子に白湯をすすめながら尾上は会話の意図がつかめないらしく小さくため息だ。

 そんな尾上に気を止めるような様子もなく、燈子は何故だかニコニコと笑っていた。

「川村さんももう少ししたら大尉になられるみたいね。」

「なんだ? いきなり。」

「お祝いを準備しなくちゃね。」

「祝い!? 要らんわ、そんなもん。」

「いつもご迷惑をおかけしているのに、お祝いひとつできない上官ってどうなのかしら?」

 尾上は俺の方に目をやると困ったように眉を寄せている。

 俺は燈子に対して、祝いなどとんでもないと辞退すると、燈子もまた眉を寄せて困ってしまった。

「どうしましょう。 これ、私は裁縫が下手なので、理子が作ってくれたんですけれどお祝いにならないかしら。」

 小さな守り袋を燈子はそっと俺に差し出してきた。

そばに歩み寄り、丁寧なつくりの守り袋を手に取ってみる。手触りが懐かしく、和柄の生地は上物だとすぐにわかるものだった。

「これ、ひょっとして西陣ですか?」

「わかりますか? 母の形見の着物の端切れなんですけれど、良い着物だったからと思って。」

 燈子は嬉しそうに笑っていた。その横でやや不満げな尾上は首を傾げた。

「俺の守り袋より上等じゃないか?」

 尾上が胸元から取り出して、比べるように差し出す。

燈子が作ったらしい守り袋を理子が作ったらしい俺のものの横に並べ、わざと大溜息をついた。

 言われてみると確かに燈子が作ったらしいものは失礼ながらもどことなく不格好なのだ。

「ちょっと! これは私が作ったんだから仕方がないの! 比べないでください。」

「なるほどね、お前は才能がないわけだ。」

「理子が器用すぎるのよ! もう見せないで!」

「外れかけていたボタンをお前が縫ったら、通しにくくて仕方のない理由がよくわかった。」

「もう! ごめんなさいってば。」

 尾上は外套のボタンを指さして悪戯坊主のように燈子をからかっていた。

 使いにくければやり直しをすればよいのにそれをしないのだから、尾上は燈子がつけてくれたものを大切にしている証拠なのだが、どうにもそれを認めることはしないようだ。 

 尾上はこの病室を一歩出たら顔つきが恐ろしいほどに変わるのだが、燈子の前では優しい夫の顔に戻る。やや難はあるのだが、燈子にとっては大切な男の笑顔だ。

「ねぇ、今日、空にあがりましたか? ご機嫌がよさそう。」

「なんだ、わかるのか? 今日は松山まで飛んできた。」

「松山まで? 綺麗な空をいつも特等席でみてくるのはずるい。 いっそ飛んだなら空の一番きれいな部分を持って帰ってきてくれればいいのに。」

 尾上は燈子をそっと自分の体にもたれさせると破顔した。

 空はもうただ綺麗なだけで済まされないんだぞとは尾上は口にしなかった。

「そんなことより、今日は痛みはましなのか?」

「あなたが帰ってきたからもうおさまりました。」

 燈子はわざと肩をすくめて、おどけてみせた。

 それに尾上はまた困ったように眉を寄せている。

 ほんの少し前まで血を吐きながら必死に痛みをこらえていたことを尾上にはまったく告げようとはしなかった。

 俺はたまたま尾上より数時間先にここへ来ていたために、その燈子の状況を知っていたのだ。

だから、俺にそっと目配せをした燈子の想いに、小さく頷くことしかできなかった。

「あぁそうだ! 昨日の蜂蜜、おいしかった。」

 燈子は食欲などないのに、尾上が持ってきたものは何が何でも口にするのだと理子から聞いた。

尾上もそれを知っているから少しでも滋養があり、口にしやすいものを探すのだ。

「そうか。 また、どこぞからかっぱらってくる。 他に何か欲しいものはないか?」

「早く帰ってきてくれるだけでいいです。」

「……善処する。」

 尾上は燈子の細くなってしまった身体をそっと抱きしめて、ほんの少し目を伏せた。

 燈子の欲しいものは尾上との時間だ。

それがもっとも与えることが難しいものだとわかっているのは尾上だった。

 コンコンと時間がきたことを知らせるノックが聴こえ、尾上は苛立つように舌打ちした。

「もう呼び出しか。 すまん、燈子。」

「気にしないで。 いってらっしゃい。」 

燈子をそっと横たえさせると、尾上は面倒くさそうに手袋をはいた。 

「中佐、これを。」

 俺は尾上には似合わない花を突き出した。 

 先刻、これを渡すのかと最後まで悩んでいた花だったが、尾上はそれをうけとり、燈子の手に握らせた。相変わらずの仏頂面のままでだ。

「どうしたの? 熱でもあるの?」

 燈子はにっこりと笑って嬉しそうにしている。

「別に……。 燈子、元気にしておれよ。 じゃ、行ってくる。」

 尾上は燈子の額に優しく口づけると扉へ向かって歩き出す。

俺が居ようとおかまいなしに尾上は燈子に触れるようになった。

もしかしたら、これで最後になるかもしれないというように惜しむ。

燈子もそれをわかっているようで、尾上には絶対に苦しむ姿を見せようとはしない。

「いってらっしゃい。」

 燈子の笑顔と声に見送られて、尾上は静かに頷いて出ていく。

「何が言いたかったのやら……あの不器用何とかできないの?」

 燈子は言葉とは裏腹に、これでもかというくらいの笑顔がこぼれる。

 めいいっぱいの愛情表現だとわかっているようだった。

「理子、これをいけてもってきてくれない?」 

 尾上と入れ替わりに部屋へ戻ってきていた理子はそっと受け取った。

「菫じゃない? 綺麗ね。」

「そうね。 こんなことをする人じゃないのよ、あの人。 本当は何か言いたかったはず。」

「そうなの?」

「絶対にそう。 またとんでもないことを考えてるのよ。……中尉、白状して。」

 燈子は鋭い。尾上のことをよくわかっている。

「今回は本当に何も聞いてないんです。」

 内心、冷や汗だ。

思い当たる節が多すぎて、俺すら当該項目がわからない。

若干、しどろもどろになりそうだ。

「川村さん、このお花をいけることのできる入れ物を一緒に探してくれませんか?」

 理子が救いの神に見える。

俺は理子の救済にのっかった。

 部屋を出たところで、理子は俺の顔を見上げた。

「このお花、あなたが探してきたんでしょう?」

「……燈子さんには言わんでくれよ? 中佐は探したくとも時間がないんだから。」

「尾上さんは最前線へ行くの?」

 理子はほんの少しだけ目を潤ませて聞いてくる。

 この姉妹は本当に察しが良すぎる。

「俺も中佐も軍人だ。 仕方のない流れの中に生きてる。 今は言えん。」

「疎開の話、どうしても疎開しないといけないの? 姉さんは尾上さんの望むようにして欲しいって。 でも、姉さんはここで全うした方が幸せよ。」

「横須賀はもう安全とは言えんよ?」

「あなたは姉さんに時間があると本当に思ってるの?」

 理子の静かすぎる一言に、俺は言葉を失った。

「わずかばかりの時間なら、尾上さんの顔がみられる場所で逝かせてやりたいと思う。 あんなに幸せそうな顔をしているのに、引き離すなんて私にはできないよ? どこにいたって死ぬときは死ぬでしょう? あの笑顔を奪うの? ……あなたが惚れた高野燈子の最後の笑顔を取り上げるの?」

 動揺の限りを尽くす俺など気にすることもなく理子は手際よく花を生ける。

「あなたが惚れているなんてこと、尾上さんも知ってたりして?」

「はい!?」

 理子の言葉に俺は息をするのも忘れてしまった。

「冗談。 尾上さんはそのあたりに疎いようで何よりやったね。」

 燈子とは違った意味で、理子が怖い。

「驚かさんとってくれ。」

 袖口で額に浮かび上がっていた汗を拭きとる俺の様子を理子はじっとみつめて、盛大にため息を漏らした。

「きっとあの二人はお互いしか受け入れられない。 片翼を失えば、もう空を飛べない鳥のようになってしまう。 だから、全うさせてやるしかない。 あなたは、あなたなのよ。 みんな誰のかわりにもなれないんだから。」

 理子はぽんと俺に一輪挿しを手渡した。

「戦時下にあって誰もが逢いたい人と引き離される。 でも、姉さんは幸運ともいえる環境にある。 この状況が、姉さんが人を助けてきたご褒美というのなら、私はその姉さんの想いを護ってやりたい。 あなたはどう思うかわからないけれど。」

 燈子と似ているが、理子の方が確実に冷静で芯が強い。

「恋は愛を超えられないのよ、川村中尉。 私は薬をいただいてきますので、後はよろしくお願いしますね。」

 5つも年下の癖に、わりとぐっさりとくる言葉でとどめをさしてくる。

「勝てん……。」

 本当に生まれて初めての感覚だ。

 出会ってからこの方、一度も理子に勝ったと思えたためしがない。

 敗北したままの俺は、理子の後ろ姿を見送ってからすごすごと病室へ戻る他なかった。 

「よかったですね、花。」

俺は手渡された花瓶を燈子の枕元へおいてやる。

 燈子は頬を赤らめにっこりと笑っている。

「でも、本当はあなたが探してくれたのでしょう? ありがとう。」

 ちょっと控えめに笑う燈子を思わず抱きしめたくなったのだが理子の言葉が俺の理性を完全に支えてくれた。

「尾上さんに頼まれたんです。 あなたに伝えたいことがあるから用意してくれって。」

 それは本当のことだった。尾上は今朝、確かにそう言ったのだ。

『何か花を探しておいてくれ。 あいつに伝えるべき言葉があるから。』

 だが、先刻戻った尾上は燈子の病室の扉の前で、何度も何度も首を横に振っていたのだ。

 一生懸命に言い聞かせるように、必死に振り払うようにして。

そして結局のところ尾上は燈子に何も言わなかった。

あの人は馬鹿すぎるからきっと言えなくなった事情ができたのだ。

その事情を俺にも明かさないということは、尾上はたった今、とんでもない状況にたって、上とやりあっている最中ということだ。

 待つしかないのが部下の定め。尾上を信じぬくしか今できることはない。

 夕日が落ち、室内が暗くなったこともあり、俺は蝋燭を探しにもう一度部屋を出た。

 蝋燭に火をともしながら、理子の言葉を反芻した。

 燈子には惚れたが、理子の言うように俺のたった一人じゃないことは実のところすぐにわかっていた。

では、俺の一人はどこにいるのだろうとかどうでも良い想いに振り回されそうになり苦笑いだ。




 燈子のもとへ尾上が帰れなくなって3日が過ぎた。

 尾上から燈子の様子を見に行って欲しいと頼まれ、任務を終えた直後の俺がかわりに燈子の病室へ足を運ぶことになった。

「どうしてもっと夢のある行いができないのかしら?」

 部屋を訪れると、燈子が枕元の薄ピンク色の菫をぼんやりと眺めながら、ぼやいていた。

 もう自分の力では体を起こすこともままならない。

それなのに、楽しそうに悪態をついて笑っているのだ。

「また、思い出されていたのですか? あの日のこととか?」

 俺はその様子があまりに可愛らしくこらえきれずに笑ってしまった。

「あら中尉。 うちの中佐殿はまだ軟禁状態かしら?」

「そのようですが、明日には解放されるはずですよ。」

「ねぇ、中尉。 何度考えてみてもあの時のあの抱え方だけは腑に落ちないの。」

「まさかあんな担ぎ方をなさるとは予想外でしたからね。 中佐のその話は皆の中でひとしきり騒がれましたから。」

「お恥ずかしい限りです。」

「しかしながら、本当のところは、ひどく焦っておられましたよ? 『貴様、コレに何かあったら覚悟しておくんだな!』ですから。 軍医殿もあっけにとられておりましたからね。」

 あの尾上が恥も外聞もなく慌てふためいてかけこんだのだから、噂にならない方がおかしい。

海軍中佐の職権を濫用して、彼は戦時中など無視して、強制的に入院させ、あろうことか軍医をどなりつける所業。おおよそ良い大人のすることではない。

「さすがの中佐も、雲の上の面々に呼びつけられてお叱りを受けておられましたけどね。」

 燈子は本当に心配そうに眉を寄せた。

 そんなに心配しなくても大丈夫ですよ、むしろ尾上の株が上がったのだから安心すれば良いと笑ってやる。

「ご心配なく。 大佐殿なんてあの中佐が嫁を連れてきたということに驚かれ、嫁がいたのなら早く言わんか! というお叱りです。 その上、大佐殿が助力した数々の縁談をことごとく破談にしてみせた問題児が連れてきたのはいかほどかと、興味津々というやつです。」

 これまた困ったような顔をする燈子がかわいすぎる。

「猛獣を手なずける女人とはどれほどの人かと。 私も大佐殿から詰問されましたので、中佐には勿体ない美女だとお答えしておきましたよ。」

 ついでに尾上が心底惚れきってどうにもならないほど、骨抜きになっているとも伝えておいたが、それは燈子には秘密だ。

「隊内で貴方はとても人気があるのですよ? 皆、尾上憎しです。 私も未だに何をまかり間違って中佐なのか理解できませんが、利点は一つだけありますよ。 有能であるのに女関係はからっきし。 女性問題で悩まれる必要は生涯ありませんのでご安心を。」

 俺も尾上憎しという一人だったとは死んでも言えないが、これが最後の告白のようになった。

ひとしきり二人で尾上を話題に笑いあえるこの時間が俺へのご褒美というやつだ。

「嫁らしいことは何一つできませんけどね。」

 そんな残念そうな顔をしなくても大丈夫ですよと安心させてやりたくなった。

 尾上はあなた以外を妻にすることはもう絶対にない。

もう他の女性が燈子と同じ位置を獲得できるわけがない。

「あなた以外に誰があの中佐の世話をできるというのですか? 私はそろそろ世話係を辞退したいのですからよろしくお願いいたしますよ?」

「そう言っていただけると粘ったかいがあったというものです。」

「愛のある粘りでしたからね。 何せ、相手はあの中佐でしたしね。 難儀の極みですよ。」

尾上がどれだけ幸せそうな顔をしているのか、あなたは知らない。

 この病室を一歩出れば、尾上には地獄しかない。

あなたがいることで尾上は生き地獄を乗り越えようとしている。

「あなたのような人を好きになれば良かったですね。 奥方になられる方は幸せかと。」

 綺麗な笑顔でそんなことを言うな。泣きそうになる。

 俺はあなたに惚れていた男だぞ。

「それはどうでしょうね。 私は昔、中佐が手を焼いた問題児ですよ?」

 俺はあなたが想うより良い男ではないのですよ。

今、俺がみせている顔はあなたにただ嫌われたくなくて必死で取り繕っている顔なのだとは言えない。

ちゃんと笑えているのか、いよいよ不安になってきた。

「馨さんといい、川村さんといい……空の男は問題児ばかり。」

 燈子はくったくなく笑う。たったそれだけで俺は救われる。

 燈子のこの笑顔が好きで好きで仕方がなかった。

それが俺のものでなかったとしても好きだった。

「私の問題児ぶりは中佐譲りですから。 指導者に恵まれなかったのですよ、哀れに思っていただけたら幸いです。 是非に中佐を再教育していただけたらと切に願います。」

「それができればどれだけ幸せか。 結局はあなたにお任せしてばかりになりそうです。」

 急にこらえきれなくなった燈子は大きな瞳にいっぱいの涙を浮かべてうつむいてしまう。

「そんなことを言わないで……。」

 理子の言う通り、燈子はもうわかっているのだろう。

「たった一日でも良いので長生きしてください。 尾上さんが悲しみます。」

 燈子はしばらく目を閉じて、にっこりと笑いなおした。

「できる限り、そのようにします。」

「明日の晩には戻られますからね?」

 尾上は必ず戻るから頼むと言って俺をここへ送った。

だから約束は絶対に守るだろう。

「明日だけはもう少しだけ早く戻ってこられませんか?」

 初めてだった。

早く戻ってほしいなんて燈子がせがむことはこれまで一度もなかった。

俺はただそれだけのことに、心底怖くなった。

思わず、その場でかたまってしまうていたらくぶりだ。

「川村中尉?」

「あ、すみません! そんなことをこれまで一度もおっしゃられなかったものですから少々驚いてしまいました。 私が必ず引きずってでもお連れしますから、そろそろ休みましょう!」

「そうします。 あぁそうだ、一つ頼まれていただけませんか? その手紙を預かっていただきたいんです。 私はこのとおりですから、何かあれば馨さんに届けて欲しいのです。」

 燈子は床頭台の上にある封筒を指さす。

「何かあれば?」

「そう、何かあればです。」

 燈子は綺麗に微笑んでくれたのだが、その微笑みの下には何か大きな覚悟のようなものが見えた気がした。

「私に何かあればこれを馨さんに渡してください。 尾上馨を護るための私の最後の武器ですから、絶対に渡してください。 そして、あの人のやりたいようにさせてやって欲しいのです。」

「最後の武器だなんて……お願いですから、本当に少しでも長く生きてくださいよ? 尾上さんは貴方が想うより貴方に惚れていますし、何よりも大切にしていらっしゃるのですから。」

「がんばります。」

「燈子さん、一つだけお願いしても?」

「何でしょうか?」

「別れが避けられないのなら、尾上さんのいない時だけはやめてくださいね。 あなたは一人で逝くべきじゃない。 尾上さんのためにもこれだけは絶対に約束です。」

 燈子の言葉を奪ってしまうようなことだとわかっているのに俺は一体何を言っているんだろう。

 俺と燈子の間に初めてともいえる静かすぎる沈黙が訪れた。

 これまでこんな張りつめるような空気感になったことなどなかった。

 俺は燈子に恋しているのに、発言はどうにも尾上のためにとしか思えないものだ。

 恋焦がれた女性から、尾上の妻へと俺の中の認識が初めてきりかわった瞬間だった。

 俺は燈子の死が尾上の心を壊すことを予感していた。

だから、燈子にきっちりと尾上との別れをして欲しいと要求したのだ。

 燈子は俺の願いの根底にある物などとっくに理解できているようだった。

 恋焦がれた燈子に、病身の燈子に、死ぬのなら、残される尾上のためにけりをつけてくれなんて残酷なことを俺はよく言えたものだと我ながら呆れた。

「その時が来たらあの人が来るのを絶対に待ちますから。 だから、中尉はあの人を引きずってでも連れてきてくださいね?」

「お約束します。」

 俺は封筒をしっかりと胸ポケットにしまうと、大きくうなずいた。

「では、もうおやすみくださいね。」

 燈子に背を向け、逃げるように部屋を出た。

 すると、すぐそこには理子が立って待っていた。

 とっさに目をそらした俺の腕は理子につかまれ、足を止めさせられた。

「ありがとう。」

 理子の予想外の言葉に俺は驚いてその顔をみた。

「あんな風に言われなかったら、姉さんは迷惑をかけないように一人で逝っていたと思う。」

 罪悪感しかなかった俺の胸の中に理子の言葉が溶け込んでいった。

「俺は尾上さんのことしか考えてなかったんだ……。 ひどいことを言った。」

「違うわよ。 二人のことを考えて、言い難いことを口にしただけよ。」

「俺が?」

「あなたは二人が好きすぎるのよ。 自分の恋心より、二人が大好きなだけ。 残して行く者、残される者の両方を無意識に助けたかっただけよ。 馬鹿みたいに自分を責める必要なんてない。 そんな簡単な自分の気持ちもわからなくなったの?」

 理子はしっかりしなさいよと俺の背をたたいてくれた。

「……ごめん。」

「今世で駄目なら来世でやり遂げるが信条の尾上夫婦なんだから、きっと大丈夫よ。 次だってまたドタバタやるわよ。 そうでしょう?」 

 まるで魔法にかけられたように俺の心は救われた。

「来世か……、また巻き込まれるのかな?」

「御免こうむるわと言いたいけれど、見てみたい気もするわ。」

「そうだな。」

 俺はようやく笑うことができた。

 そして、理子がさっさと仕事へ戻れと俺の背を押してくれた。

 どうにも払拭しきれない不安を抱え、俺は階段を駆け下りた。

 病院前で待たせていた車に飛び乗ると、俺はそのままの足で尾上の元へ戻ることにした。

 尾上に伝えなければならない。この不安は不安で済まないかもしれない。

 俺のこのはやった気持ちをあざ笑うように尾上の姿はどこにもなかった。

 航空参謀となった尾上をとらえるのは直下の部下の俺でさえ至難の業だったのだ。

 幾度となく、出てくることを願い司令部のロビーで待ってみるも、あっさりと夜が明けてしまう。一旦、仕事へ戻り、再度出直してみても、尾上は出てこない。

それは再々度、出向こうとした午後3時となろうとしていた頃に訪れた。

「川村さん! ……もう。」

 理子が全身びっしょり汗をかいて、ロビーにいた俺を訪ねてきた。

 その表情で何もかもがもうわかってしまった。

「引きずってでも連れていく! 君は戻れ。」

 俺は意を決した。

 司令部内に居ながら、姿を探せないなら、尾上がいるところは一か所しかない。

 俺の階級で易々とノックすることなど許されない扉だが、もう背に腹は代えられない。

 俺を心配した小泉が同行すると言ってくれたが、小泉に尾上を乗せていける車を手配するように命じて、俺は最高司令部の会議室をノックする。

 何事かと開かれた扉から、俺は問答無用と飛び込む。

すぐに肩をつかまれ、足を止められてしまったが、至急の案件だと言い放って、その手を振り払った。

 格上の相手に対して無礼の極みだったが、尾上中佐に至急の案件だという一言で、何故かすんなりと許されてしまった。 

だが、こんな時に限って尾上の姿がみつからない。

 だだっ広い会議室がこんなに腹が立つものだとは思わなかった。

「どこにいるんです? 尾上中佐は!」

 大勢いる上級士官の間をすりぬけていく。

 最奥の小部屋から書類の山を片手に姿を現した尾上をようやくみつけた。

「尾上中佐!」

尾上はびっくりした顔で、駆け寄ると場所を考えろと俺を𠮟責した。

今橋中将、寺脇少将、里見大佐がほんの少し離れたところにいて、こちらを見たが、もう今はそれどころではない、無視だ。

「尾上さん、急いでください!」

「何事だ。 晩には戻ると言ったはずだ。 今は動けん。」

 尾上は俺の背を押して、部屋の外へ出るように促すと、書類に目を戻した。

 俺はその書類にいらだちを覚えて、本能のままにたたき落とした。

「阿呆、何をする!」

「今、行かなかったら、貴方は本当に大ばか者です!」

 会議室中に響き渡るほどの大声だった。

 俺は、今、この人を連れて行かねばならんのだ。 

頼む、この人の時間を燈子に譲ってくれという心の叫びだった。

「お願いします。 お願いしますから! 俺は約束したんだ! 何があってもあなたを連れて行くって!」

頬を伝い落ちる物が何なのかもう知らなかった。

 どうか、燈子を一人で逝かせないでくれ。

 あなたを必死に待っているのだから、お願いですと、俺の声はかすれていた。

 ようやく尾上の顔色がかわった。

「すみません、中座します。 川村、行くぞ。」

 今橋中将が静かにうなずいたのを確認すると、尾上は俺の肩をつかみ部屋を出ていく。

 航空参謀として駆け回る尾上をようやく捕まえることができたのは、結局のところ午後15時半をまわっていた。

 小泉の準備した車に尾上を押し込んで、燈子のもとへ。

病院のエントランスに横付けすると尾上は勢いよく飛びだして行った。

その後を追って、息が上がりそうになりながら階段をかけあがった。

燈子の病室には軍医と同僚の看護婦達であふれていた。

 尾上はそれをかきわけて、燈子のもとへたどり着く。

「燈子!」

 尾上は震える声で、彼女の体を抱き起した。

浴衣の襟口は真っ赤な血で染まり切っており、息も絶え絶えの燈子の右手にはあの菫が握られている。

「わかるか? 俺だ。」

 もう軍医も看護婦もいらないと、尾上は静かに目配せをした。

 ひどく汗をかいて、荒い呼吸のまま、燈子はゆっくりと尾上を見上げた。

「燈子、わかるか?」

 燈子は小さく笑った。

ほっとしたように菫を手放し、燈子は尾上の頬へ手を伸ばした。

尾上はその手をそっと自分の頬にあてると、静かにうなずいた。

「俺が来れば痛みがひくのだろう?」

 尾上ももうだめなことはわかっているのだろう、涙声だ。

 燈子は小さく息をして、もう片方の手で、尾上の胸の勲章に触れた。

「これが欲しいのか? いくらでもやるから、死ぬな。」

 燈子は嬉しそうに笑うと、今度はじっと尾上の目を見た。

「なんだ? 何が言いたい?」

 尾上は燈子の想いを必死に読み取ろうとする。少しして、尾上は一つだけ頷いた。

「やりきる。 それでいいか?」

 尾上と燈子にしかわからないやりとりだ。そして、燈子も一つだけ頷いた。

「燈子、目を開けろ。」

 尾上の声に、必死に瞼を持ち上げる燈子が何か伝えたくて手を伸ばす。

 その口元に耳を寄せた尾上がわずかに瞠目した。

「……わかった。」

 尾上が大きくうなずいてみせると、燈子は安堵したように微笑した。

「燈子、もうすぐ桜がみられるんだぞ!」

「……桜?」

 必死に意識をつなぎとめようとしている燈子の声はもはやききとることが困難に思えるほどだ。

「そう桜だ。 好きだろう?」

 激しくせき込んだ燈子をしっかりと抱きしめていた尾上は、何度も『大丈夫だ、おさまる。 お前は大丈夫だ。』と繰り返し呟いていた。

「馨さん、大好きよ。」

 燈子は最後の力を振り絞って綺麗な微笑みをつくった。

「言わんでもわかってる。」

 尾上はゆっくりと燈子の唇に触れた。それに嬉しそうに応えた燈子の瞼は閉じていく。

燈子を必死に引き留めようとした尾上だったが、その願いはついに届かなかった。

「燈子……逝くなよ。」

 尾上の声は胸を裂かれるような悲鳴だ。

 何度も何度も燈子の名を呼ぶが、燈子はもう二度と息を吹き返すことはなかった。

 その最期の表情は綺麗で、燈子はとても幸せそうだったと理子が俺の腕の中で崩れ落ちて泣いた。

理子もまた本当は燈子の傍に駆け付けたかったが、最後の最期でそのそばに居る役割を夫である尾上に譲ってくれていた。

「二人きりにしてあげよう。」

「うん、そうだね。」

 俺はそっと理子を連れて、病室の外へ出ることにした。

 半時ほどして、俺は燈子から預かっていた手紙を尾上に届けることにした。

 魂を抜かれたように、うなだれたままで燈子を抱きしめている尾上の背になかなか声をかけられず、俺は躊躇していた。

「……なんだ?」

 尾上が力なく笑いながら振り返った。

「これを預かっていました。 読んで差し上げてください。」

 俺は燈子から預かっていた手紙を差し出した。

 尾上はそっと燈子を横たえさせると、その手紙を奪い取った。

 そして、食い入るようにその文字を読んでいく。

「だから、お前は嫌だったんだよ……。」

 尾上の声が静かに震える。

 表情は静かで、おおよそ感情を読み取ることはできないが、唇だけが震えている。

 読み終えると、尾上の拳の中で音を立てて手紙が折り曲がっていく。

「わかっていたんだ……だから俺は! 畜生!」

 夕日が窓の端から病室へと手を伸ばす。

 それすら煩わしく感じたのか尾上が荒々しくカーテンを閉めた。

 体の中からすべての空気を吐き出すようなため息の後、尾上は唇を色が変わるほどにかんだ。

 いらだちが爆発した尾上は軍帽を床にたたきつけるように投げ捨てた。

 丁寧に止められていた詰襟のホックを力任せにはずし、ベッドわきの椅子に荒々しく座り、髪をかきむしっている。

尾上は目を伏せた時、はじめて自分が泣いていることに気が付いたらしかった。

「頑張ったな、お前……。 なぁ、幸せだったか?」

 ゆっくりと手袋を外し、そっと指先で、燈子の汗ばんだ前髪に触れた。

「すまん。 燈子、もっと早く来てやればよかったな。」

 尾上はもう一度しっかりと燈子の身体を抱きしめた。

「……すまん。 俺がお前の調子の悪さをもっと早く気づいてやれていたら。」

 尾上は自嘲気味に口の端を歪ませた。

 燈子の頬にそっと自分の頬を寄せて尾上は肩を震わせた。

 周囲の目をはばかることもなく、あの尾上が声をあげて泣いた。

「俺をこんな風に残してどうするんだ、お前は……。」

 理子の言うように、片翼を失った鳥がもう羽ばたけなくなったかのように生気がない。

 俺は燈子を亡くしたよりも尾上の心が心配な自分に嫌気がさした。

 確かに燈子が亡くなった事実は辛い、でも残された尾上を想うともうたまらなかった。

「川村、お前が泣かんでも良いだろうが。」

 俺を見る尾上の表情があまりに優しくて、俺は迷ったが胸のポケットから手紙を取り出してみせることにした。

「これ、中佐の傍にいる者全員にくださったんです。 ご自分はずっとそばにいることができないから、そばにいる皆で護ってほしいと。 こんな身体で……24通も書かれていました。 最後まであきらめることなく、命全部で生き抜いて、時代に負けずに愛することや愛されることから逃げないでほしいと書いてありました……。」

 貴方を燈子がいかに愛していたのかをどうしても伝えたかった。

本当に人たらしだとつぶやき、尾上は燈子の額にそっと口づけた。

「とっとと! もっと早く嫁にされておられたらよかったんです!」

 俺は燈子の気持ちを代弁することにした。

「まったくだな。 あの世で詫びるとするかな……。」

 そっと燈子を寝かせると、色の失せてしまった唇を尾上は愛おしそうに指先でそっと撫でた。

 窓の外が騒がしくなってくる。

サイレンと物騒な響きも耳に届く。

 軍人の本能が立ち上がれと俺たちをたきつけてくる。

「すぐに車を。」

「承知しました。」

 俺は勢いよく駆け出していく。

 こう言われることはもうわかっていたので、手配はできている。

 しばらくは二人だけで別れをさせてやりたくて、俺はほんの少しだけ病室へたどり着く足を遅らせた。

 尾上は自分で立てなおしてでてくるはず。だから、扉の外で待つことにした。

「滞りはないか?」

 静かな表情をたたえた尾上が病室の外へ姿を現した。

 航空参謀たる男の顔に戻っている。

「万事滞りはありません。」

「そうか、行くぞ。」

 建付けの悪い階段を駆け下りていく。

 外へ出ると尾上はゆっくりと空を見上げた。

戦時下であっても茜色の空が堂々と視界を占有してくる。

「なんて空だ。 胸糞悪い。」

 これにはさすがに苦笑いだ。

「胸糞悪いは撤回願いますよ。 夕の空は、彼女が好きな色の空なんですから。 中佐がお戻りになる時間の空だからだそうですが。」

 尾上は一つため息をついて、車へ乗り込んだ。

 俺もまたその横へ乗り込む。

「来世でも逢えると思うか?」

 尾上があまりに素直に言葉を口にするので、俺は唖然とした。

 この人は本当になんて愛すべき大ばか者なんだと。

「もう御免だわと思っていなければ大丈夫では? おそらくですが、来世もきっと中佐がもう御免だとおもうくらい愛されますよ。」

「それはそれで……面倒だな。」

「まったく! その性根、なんとかしてもらえませんか? 私は来世でもあちらを援護しますよ? 今世で駄目なら来世でと啖呵を切っているんですから覚悟を決めてください。」

「お前、あいつの味方だったのか?」

「今頃ですか? まったく! どれだけ疎いんですか……仕事はおできになるのに!」

「うるさい!」

「だいたいね、あんなに素敵な方にこうまでも落ちもしない男なんているんですかね? 良い年してなかなか嫁にもできず!」

 尾上はむすっとしたまま腕を組み、さらに軍帽を目深にかぶる。

「そうだな。」

 あの尾上が、涙をどうしてもこらえきれないでいる。

 だからこそ、俺は見ないふりをしてやらないといけない。

「あいつに愛想つかされても、逢いたいんだ。 来世でも逢いたい……。」

 小さな子供がうずくまったまま泣いているようだった。

 繰り返し呟かれる尾上の言葉は俺の心をえぐりとっていくには十分だった。

「今度こそ、何があっても躊躇しなければいいんですよ。」

 どうにも死を急いでしまいそうで、俺は何とか嘘でもいいから立て直せるようにと必死に鼓舞し続ける。

「今度はなるべく早く降参するとしよう。」

 涙で尾上の声が一部聞き取りにくいほどに震えていた。

「川村、礼を言う。 俺を引きずり出してくれたことに感謝する。 それに昨日も俺じゃあんな花なんて探せなかった。 このご時世によくあったもんだ。」

 ほんの少しだけ声にはりが戻った気がしたが、尾上の唇は色を失ったままだ。

「せっかく探してきた花も、突き出されただけでは役目果たせずですよ。 一言、愛してるが言えんもんですかね?」

「……だまれ。」

 尾上の声色がさらに弱まる。でも、尾上は一生懸命、何かを飲み込もうと努力しているような顔つきだった。

 きっと燈子があの時、何かを尾上に仕掛けたのだ。

 痛みを取り去ることは出来なくても、痛みをこらえる方法のようなものを。

 尾上が素直に従えるのは後にも先にも燈子の言葉だけだろうから、静かに立て直しをはかる尾上を待つことにした。

「もう一度があるなら、今度は間違わんよ。」

 尾上はほうと息を吐くと、目深にかぶった帽子をすっと上へあげた。

 そこにはもういつもの軍人の尾上の目しかなかった。

 見事なまでにスイッチを切り替えた尾上に俺はぞくぞくした。

 これが本当に強い男の姿なんだろうなと、そんな気がした。

「こんなに痛い想いせにゃならんのは因果なもんだ。 川村、胸糞悪いついでに言っておく。 完膚なきまでに日本は負けるぞ。」

 停車した車の扉が開かれると同時に尾上が静かに告げた。

 俺は嫌な予感しかしなかった。

「この俺に実戦部隊に来いと通達が来るぐらいだからな。 一旦は松山、その後は早々に鹿屋か沖縄かだな。 あいつにそれをどうしても言えなかった。 今となれば……それでよかったんだがな。」

 尾上はゆっくりと車を降りると、もう一度、空を見上げた。

「敗戦、占領されるであろう日本を燈子は見ずに済んだ。 これで良かったのかもしれんと……内心、思っている。」 

夜が訪れる前の何とも言えない空の色がより悲しさをあおる。

「何が正しくて、何が間違っていたのかもわからないままに、その日はくるんだろうよ。 だから、お前はできる限り粘れ。」

 俺はとっさに上下関係を忘れて、尾上の腕をつかんでしまった。

 尾上は今からとんでもないことを口にするのだろう。

それだけは絶対に承服できない。

「尾上さん、それだけは勘弁してください!」

ニヤリと笑う尾上は俺宛の通達書を目の前で破り捨てた。

「お前宛の343着任の通達はこうしてくれる。 いっそ、爽快だな。」

「そんなことをしたら!」

「どうとでもなるし、どうとでもする。 俺はお前を残す! もう決めたんだ。」

 にっこりと笑うと尾上は俺の肩に手をおいた。

「中佐! 俺はそばでお護りすると彼女に約束したんです!」

 あなたを一人になどしたくはない。

俺はあなたと戦い抜くためにここにいるんだからと全力で否定する。

「そんなもん、知るか!」

「承服できません!」

「これは命令だ!」

「中佐! 俺はいやだ!」

 あなたと歩んできたというのに、ここで俺だけが道をたがえるなんて御免だと首を横に振り続けた。

「頼むから! ……頼むから、もう言うな。 小泉にも伝えろ、同様の命令だ! 俺が生きている限りはお前たちを乗せはしない! その意味が分かるな?」

「俺はあなたとありたいんです!」

「川村、何がどうあっても生き延びろ。これが最後の命令だ!」 

 尾上はもうやりとりはここまでだというように静かに言い放つ。

 俺はもう何も言えなかった。

 悔しい。

 どうして、この人は一緒に行かせてくれないというのか。

 尾上は俺の親鳥で、師匠で、日本のために誰よりも護るに値する人材だ。

 早々に鹿屋という一言で俺は尾上が何を思い描いて生きていたのかをようやく思い知った。

 尾上は松山で紫電改を乗りこなすには十分な技量をもっているが、古傷のために長期にわたってそれをするには適性を欠く。

 だから、自分より優れた健全な肉体を持った搭乗員が配置されてこれば、自分は特攻組だとはなからわかっていたということだ。

 尾上が燈子になかなか結婚しようと言えなかった最大の理由はこれだ。

 いつ何時、命を捨てざるを得ない人員の一端に自分がいると考えていたのだ。

 この男を殺してなるものかと俺は叫びたかった。

「お前との腐れ縁はもう勘弁だ。 お前を育て上げたのだから、いっそ役に立ちやがれ。 俺が生きている限りは時間を稼ぐが、それでもお前たちが実戦部隊に導入された時は頭の中に叩き込んでおけ。 『戦況に関係なく戻れ』、それだけだ。 いいな? ……教えたはずだ。 お前が堕ちたら誰が先の日本を護る? 色んなものがぶっ壊れた後を何とかせにゃならん役割は、お前みたいな奴がやるべきだ。 ……それから、厄介ついでにこれを預かっておいてくれ。」

 燈子からの手紙の入った袋を一つ、俺の手にそっと握らせる。

「想像以上に重すぎて捨てようがなかった。 ……だが、焼くのは忍びない。」

同じ道にいればこれを護ることはできないだろうという尾上の思考過程。

それは危険な道に自分一人で進むという意味であり、俺にこの宝物を護らせることでとどめを刺すという宣言だ。

「絶対に焼かせはしませんと俺に言わせたいんですか!?」

 こうやって尾上は徹底して退路を断つのだ。

攻めるなら甘さなどなく、徹底的にする。これが尾上のやり方だ。

「川村、頼んだぞ。」

 静かすぎる声だ。すべてを超越した覚悟のにじむ恐ろしいほどに静かな響きだった。

 尾上はもう死を恐れたりはしないだろう。

 そして、俺に重すぎる未来を託すのだ。

 脳裏にふいに燈子の声が蘇った。


『あの人のやりたいようにさせてやって欲しいのです。』


 尾上さんが好きにやるとしたらそれは空を飛ぶことの他にない。

 燈子さん、尾上さんはそういう男なんだ。


 昭和20年3月3日。

 太平洋戦争末期、俺の戦争はまだまだ続いていく。

 


Absence sharpens love, presence strengthens it.

                    Thomas Fuller (トーマス・フラー)

【あなたがいないときに愛は研ぎ澄まされ、あなたといるときに愛は強くなる。】



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